The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

 48.マドンナがいない茶館
 目次
 茶館の裏手にある一戸建ての古い離れでは、慎吾が寝泊まりしている。
 祖父の幸太郎が建てたもので、小さいながらも純和風の佇まい。縁側からは庭が見えるものの、慎吾は草刈りくらいしかしないので、見るべきところはまったくない。彩りといえば風がタネを運んできたのか、地面にたんぽぽが咲いているくらいか。
 午前六時。
 鳴り響く目覚まし時計を大きな手で殴りつけるようにして止め、慎吾はのそりと体を起こした。僅かな微睡みの時間を楽しむ事もなく、すぐに布団を畳んで押し入れに詰め込み、大きなあくびをしながら障子を開ける。射し込んでくる陽の光に目を細め、しばし雀の鳴き声を聞く。
 首を二、三度捻った慎吾が寝間着代わりのTシャツを無造作に脱ぎ捨てると、分厚い胸板と太い腕が露わになる。部屋の中に重く居座る冷気などものともせずに、ゆっくりと体の筋を伸ばしていく。
 少し体がほぐれたところで、慎吾はいきなり畳に片手を付いて腕立て伏せを始めた。
 軽々と体を上下させる太い腕の筋肉が張り、慎吾は短く息を吐きながらリズム良く腕立て伏せを繰り返す。
 右腕の次は左腕。
 腕立て伏せを終えると、休む間もなく腹筋を鍛え始める。まるで眠気が残る体を叩き起こすように、慎吾は無言で体を動かし続ける。
 午前七時三十分。
 風呂場に向かい、シャワーで汗を流した慎吾はそこで初めて大きく息をつい
た。
 いつものように、Tシャツとジーンズ姿で柱に背を当てて煙草の箱を手に取り、一本取り出そうとして……手を止めるのが癖になっている。
 午前八時三十分。
 茶館の店内。湯を沸かして適当に淹れたインスタントコーヒーを、一切れのパン、一切れのチーズと共に胃の中へと流し込んだ。瞳子が心を込めて作ってくれる朝食とは比べるべくもない。
 テーブル席の長椅子へ座り、ぼんやりと新聞を読んでいた慎吾は、ちらりと時計を見て立ち上がる。
 いつもなら、瞳子がそろそろ開店の準備にかかる頃だ。箒とちりとりを持って外へ出ると、店の前に散らばった枯れ葉やゴミを手際よく集めていく。
 毎朝、瞳子が掃除をする姿を見ているのだろう。道ゆく人々がみな驚いたような表情で、慎吾に視線を送ってくる。そんな視線を受け流しゴミを集めてゴミ箱 に放り込んだ慎吾は、次にポリバケツに水を汲んで雑巾を浸す。大きな手で濡れた雑巾を固く絞ると、窓ガラスを拭き始めた。瞳子がこれを毎日しているのかと 思うと、頭が下がる思いだ。手が荒れないように上等な保湿クリームを用意してやろう、そんな事を考えながら窓を拭く。
 すべての窓ガラスを拭き終えると腕を組んで茶館を見渡す、慎吾は満足したようにひとつ頷くとまた離れへと向かった。
 鏡を見ながら丁寧に髭を剃る。さっぱりしたところで、箪笥を開けて白いワイシャツ、クローゼットに仕舞ってある黒いベストとスラックスを取り出す。
 慣れぬ衣装は少し窮屈だが、この際仕方がない。慎吾は器用にネクタイを締め、整髪料を手に取り櫛とドライヤーで髪を整えると、鏡に映っている自分の姿を見て吹き出しかけた。
 まあ、こんなものだろう。まるで似合っていないが、今日一日の辛抱だ。
 胸の内でいくつかの妥協を繰り返して茶館に向かう。ドアノブに掛かっているプレートを外し、持ち出したイーゼルにメニューを書いた黒板を乗せた。
 午前九時三十分。
「あれぇ? 瞳子さんは、お休みなんですか?」
 茶館を訪れたのは、隣町の洋菓子店「パティスリー・ミキ」の主人である三木だ。
 茶館の定番メニューである「本日のケーキセット」その二種類のうち、片方のケーキを配達してくれる。もう一方のケーキは、瞳子が丁寧に作ったチーズスフレがケースの中に並ぶ。瞳子が作るしっとりしたチーズスフレは人気があるのだ。
 慎吾は大きなコンテナを抱えた阿部のために、扉を大きく開いた。
「働き者の瞳子に甘えてばかりいるので、臨時休暇ってことで」
「そりゃ良い考えでしたね。私は風邪でもひかれたのかと、心配しましたよ……」
 ほっとしたような表情でそう言った阿部は、美味しそうなガトーショコラを詰めたコンテナを抱えてバックヤードへと運び込む。「ありがとうございます」慎吾は笑いながら、差し出された伝票にサインをする。 
 午前十一時。
 いつもより少し遅れて、瞳子が居ない画廊茶館が開店した。
「しかし、暇だな」
 カウンターに立っている慎吾が、ぽつりと漏らす。
 昼時だというのに客の姿はない。お客をひとりも迎えることがなく午前中が過ぎてしまった。いつもならこの時間は、瞳子が一人で飛び回っているというのに。カウンター内でただぼんやりと突っ立っていただけの慎吾は、ちらりと時計を見て溜息をつく。
 仕事をしたわけでもないので腹も減っていない、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ、昼食はこれで充分だ。
 牛乳を流し込んだ後。カウンターの奥に置かれている椅子、自分の定位置にどっかりと腰を下ろした。煙草を探してポケットの中をまさぐり、苦笑を漏らした慎吾はポケットから手を出した。
 昼下がりの緩やかな時間の流れは眠気を誘う。いっそこのまま眠ってもいいかもしれない、どうせ客など来ないだろう。一瞬、この世界から人間が消えたのではないかと馬鹿な考えが頭をよぎっていく。
 それでも寝てなどいられない、慎吾はあくびを噛み殺して椅子から立ち上がる。振り子が時を刻む古い時計を見れば、もう午後二時を過ぎていた。
 さて、これからどうしたものかと慎吾が考えていると、ドアベルが涼やかな音を響かせる。
(おや、お客か?)
 慌てることもなく入り口へと目をやると、ドアにもたれ掛かった恵子が軽く手を挙げた。
「あら、瞳子ちゃんはお休みなの?」
 恵子はきょろきょろと店内を見回す、慎吾になどまったく興味がないといった様子だ。いつものようにオレンジ色のシャツに、クリーム色のエプロン姿。
「……恵子、何か用か?」
「ちょっと、随分なご挨拶ね」
 恵子が歩く度に髪の毛先が跳ねる。すたすたと店内に入って来た恵子は、カウンター近くのテーブル席へと座った。
「ねえ、瞳子ちゃんは?」
「昨日、瞳子がこの店へ来る前に世話になっていた家の娘さんが訪ねて来たんだ。積もる話があったんだろう、ずっと話し込んでいた。遅くなったから瞳子が家まで送っていったんだ。ついでに休暇を取らせたから、代わりに俺が店番をしている」
「あ、あんたが店番? あはは、なるほどね。だから珍しく閑古鳥が鳴いてるんだ。お客も瞳子ちゃんが居ないって分かるのかしら。まぁ、あんたにコーヒー淹れて貰ってもねぇ」
 恵子は再び店内を見回して、くっと笑う。
「でも、ま、さすがあんたね。気が利いているじゃない」
「うるさい」
 慎吾はメニューを手に取ると、軽く振って見せた。
「何か飲むか?」
「もちろんよ。今日の恵子さんは、閑古鳥が鳴いている茶館を救う大切なお客様よ! 勢い込んでお店を開けたのに、このまま一人もお客が来なかったら、あんたも瞳子ちゃんに合わせる顔がないでしょう?」
 慎吾はそれでも特に困らないが、恵子が客だと言うならば。グラスに冷たい水を注ぎ、おしぼりを用意して恵子が座るテーブルへ近づいた。
「それで、あんたはどうするのよ?」
「何のことだ?」
 何の脈絡もなく恵子から決断を迫られ、慎吾は眉を顰めた。
 そんな慎吾を下から睨みつけるようにしていた恵子が、呆れたように二、三度首を振って長い吐息をつく。
「とぼけないで、瞳子ちゃんの事よ」
「瞳子の……?」
「そう、瞳子ちゃんの気持ち。あんた、このまま知らん顔しているつもり?」
 訝しげな顔の慎吾に、恵子は苛立っているようだ。人差し指で、とんとんと強く膝を叩いている。
「……木曜日」
 思案深げな表情の恵子は、足を組んで体を深く椅子へと預けた。
「毎週木曜日に、この店には麗香って子が来るわ、そして決まってあんたはお店にいない。あの子との間に、何かあるからなの?」
「よく観察しているな、探偵になれるぞ」
「ふざけないで、げんこつで殴るわよ」
 静かな怒りを含んだ声で恵子が言った。
「分かっているわ、余計なお世話よね。でも、瞳子ちゃんがこの店に来た理由を考えてみなさいよ」
 それは、慎吾もよく分かっているつもりだ。
 瞳子は大切に育んできた想い……愛情を失っている。
 それも一方的で、理不尽な理由で。
「俺は……」
 言葉を選んでいる事に気付いた慎吾は、わずかな間、躊躇した。
「俺は瞳子を不幸にしない。だが、幸せにもしてやれない」
 そして慎吾の口からその言葉がこぼれ出るまで、時間が掛かった。
「それはどういう意味?」
 突然、声を荒げた恵子が力任せにテーブルを叩く。
「瞳子ちゃんの気持ちが、分からないほどの唐変木じゃないでしょうが、あんたは!」
 恵子はテーブルに叩き付けた手を、ぎゅっと握った。
「じゃあなに? このまま、ずっとこうしているの? あんたがこのまま曖昧な態度を取り続けて、瞳子ちゃんを泣かせるような事をしたら、私が絶対に許さないから!」
 射抜くような恵子の視線を、慎吾は正面から受け止めた。
 棒立ちのままで恵子になじられるが、言い訳をするつもりは毛頭無い。 
「あんたを見ていると腹が立つ、どうしていつもそうなの! ほんとは世話焼きのくせに、いつだってみんなの心配をしているくせに! なのにいつも無関心を装って、自分の心をひたすらに隠して!」
 握った拳を震わせる恵子。
「あんたが、あんたがそんな態度だとっ……」
 その時、異変が起こった。
 恵子の喉の奥から、ひきつったような声が漏れた瞬間だった。
 きつく両肩を抱き、痙攣するように体を小刻みに震わせ始めた恵子が突然、床へとくずおれた。
「……恵子、どうした? おい、しっかりしろ! 恵子っ!」
 慎吾は慌てて恵子を抱き起こす。
「いや……いやああっ!」
 恵子が鋭い悲鳴を上げた。
「恵子っ!」
 慎吾は水を飲ませて落ち着かせようとしたが、恵子は差し出したグラスを手で振り払った。床に叩きつけられたグラスが派手な音をたてて粉々に割れ、中の水が床へ広がる。
 喚きながらでたらめに振り回される恵子の両腕。慎吾の顔や腕に爪が食い込み、皮膚が裂けて血が滲む。
「しっかりしろ、恵子っ!」
 恵子の名を呼びながら、慎吾はふと思い当たった。
 恵子が首からいつも下げているピルケースを探るが、何処にも見あたらない。
「……これは、まずいな」
 焦る慎吾は、床に転がっている携帯電話に気が付いた。恵子のポケットからこぼれた物だろう、慎吾は暴れる恵子を太い腕で抱くようにして、とっさに携帯電話を拾う。
 携帯電話にロックは掛けられていない、履歴を追って……名前はすぐに見つかった。
 慎吾は迷わずボタンを押す。
(頼む、繋がってくれ)
 祈るような気持ちで待つ時間はとても長く感じられる。数回の呼び出し音の後、耳に聞こえた明るい声。
『やっほー、姉さん? どうしたの?』
「幸穂か? 俺だ、慎吾だ!」
 いきなり聞こえた慎吾の叫び声に、電話の向こうで恵子の妹、幸穂が慌てた。
『え? 慎兄なの? なんで? どうしたの?』
「恵子が大変なんだ、鎮静剤を持っていない!」
『え? えっ! わ、分かった。さ、茶館だよね、い、今すぐ行くからっ!』
 慎吾がそれだけ言うと幸穂は事態を察したのだろう、すぐに電話を切った。慎吾は用済みの携帯電話を放り出し、両腕で恵子を抱きしめる。
 恵子の口から漏れ出るのは、自分自身を責める呪いの言葉だ。
「恵子、聞こえるか? すぐに幸穂が来る。大丈夫だ、お前は何も悪くないからな!」
 恵子の背を撫でながら、慎吾は懸命に話しかける。自分自身を傷つける刃の向きを、逸らしてやらなければならない。
「私が悪いの、何にも出来ない私が。もう嫌、もう悲しいのは嫌よ、泣き顔なんて見たくないの!」
 慎吾は以前にも、錯乱した恵子の姿を見たことがある。心から溢れ出る不安に押し流される事を怖れ、恵子はただただ泣き叫ぶ。
「私にはもう何にもないの、誰も守ってあげられないのよ!」
 恵子が耐えられないというように、震える両手で頭を抱えた。
「翼だって、私が弱かったから握った手を離してしまった、あの子を育てる力が私に無かったから!」
「翼……だって?」
 髪を振り乱し、恵子はひたすらに自分を責め続ける。
「恵子。お前、まさか翼に会ったのか?」
 慎吾は恵子の肩を揺さぶる。翼は、恵子の実の息子だ。
 うなだれた恵子の頬を、大粒の涙が伝い落ちる。
「隣町に用事があったの。小学校の近くを通り掛かったら、川の向こうを歩いてた。大きなランドセルを背負って、友達と歩いてた……。駆け寄れば抱きしめられるのに、すぐ側に翼がいたのに。私にはもう、あの子の母親だっていう資格が無いのよ」
 弱々しい声で恵子が嘆く、慎吾は血が滲むほどに唇を噛んだ。
「いいか? 恵子。お前にはわずかな非も無い!」
 恵子が抱えている暗い闇が、傷付いた心を彼方に連れ去らぬように。慎吾は懸命に恵子へ光を投げ掛ける。もしも、このまま心を閉ざしてしまうようなことになれば、大変な事になってしまう。
 その時、店の表で大きな物音がして茶館の扉が勢いよく開いた。飛び込んで来たのは幸穂だ、乗って来たスクーターを放り出したのだろう。
「姉さん!」
 ヘルメットを被ったままの幸穂が、恵子の傍らにしゃがみ込んだ。
 恵子の様子を確かめた幸穂は、ポケットから小さな白い錠剤を取り出した。
「すまない、幸穂」
「慎兄、水をちょうだい、早くっ!」
「あ、ああ!」
 幸穂に言われて、慎吾は恵子の体を任せると慌てて立ち上がった。
 水を汲んだ慎吾がグラスを渡すと、幸穂は姉を宥めながら丁寧に薬を飲ませる。妹の声に気付いたのか恵子はしっかりと幸穂の腕を掴み、目を閉じて荒い息を繰り返す。幸穂は姉の体のこわばりをほぐすように呼び掛けながら、その背を優しく撫で続ける。
 どのくらいそうしていたのだろう。薬が効いて来たのか、やがて恵子の呼吸が落ち着いてきた。その様子に緊張が途切れ、慎吾はやっと体の力を抜いた。全身が疲労している、めったな事で筋肉痛になったりしない両の腕が、ぱんぱんに張っていた。
「落ち着いたみたい……よかった」
「助かった、幸穂。お前の方がしっかりしているな、店の準備に入っていたらどうしようかと思った」
 幸穂は居酒屋で働いている。仕込みの手伝いでもしていれば、電話が繋がらなかったかもしれない。
「大丈夫だよ、親方も姉さんの様子を分かってくれてるし。それに慎兄が助けを呼ぶなんて大変だって、すぐに出してくれたはずだよ」
 恵子が落ち着いたので安堵したのだろう、ヘルメットを脱いだ幸穂が小さく笑った。幸穂の顔は恵子によく似ているが、恵子よりも少し大きな瞳。黒い髪は自分に似合わないと、いつも明るい色を入れている。そのせいか、幸穂は活動的なイメージを持っていた。
「幸穂、お前は翼に会う事があるのか?」
「……翼?」
 翼という名前を聞いて、幸穂の表情が僅かに曇る。
「無いよ、可愛い甥っ子なのに。でも、私はあの家の人を絶対に許さないんだ。翼を姉さんから奪い取って、姉さんを家から追い出したんだ」
 憤りを隠さない幸穂。
 恵子が愛した男、翼の父親は実母が大きな権力を持つ名家、佐倉家の跡取り息子だった。恵子はその佐倉家に嫁いだのだが……。
 やがて翼が産まれると、姑は要無しだとばかりに恵子へ難癖を付けはじめた。周囲に味方などいる筈もなく、日増しに激しくなる姑の悪意に曝され、恵子はもう佐倉家を出るしかなかった。
 そして翼と引き離されて傷付いた恵子の心は、深い深い闇を抱える事になってしまった。
 沸々と湧き上がる怒りを思い出し、慎吾は唇をきつく噛みしめる。
「姉さんは、いつも元気なふりをしてるけどね……」
 目を細めた幸穂は「大丈夫だよ」と、恵子の耳元でそっと囁く。
「すまない幸穂、今日は俺が悪いんだ」
「え? うん……」
 幸穂は曖昧に返事をする。何があったのか、みんな分かっているのだろう。
「姉さんはね、瞳子さんの事をずっと心配していたから。いつか慎兄とぶつかっちゃうんじゃないかなって、私はちょっと心配してたんだ」
 幸穂は、恵子の乱れた前髪をそっと撫でた。
「幸穂、俺は……」
「いいよ。聞かない聞かない、私は姉さんが心配なだけだから」
 そして幸穂は、視線を床へ落としながら言った。
「あのね、慎兄。姉さんの事、瞳子さんに黙っていてくれない?」
「……ああ。約束する」
「ありがとう、慎兄」
 慎吾が肯くと、幸穂は安心したように小さく微笑んだ。
 幸穂が恵子の掛かり付け、久里医院に連絡をした。これから往診してくれるらしいので、恵子を抱いてメモルへ行く。
 ぐったりとして眠り続ける恵子、しばらくすると慌てた様子の久里先生がやって来た。
 今夜は幸穂が店を休んで、一晩様子を見るからと言った。先生と幸穂に恵子を任せ、何かあったらすぐに呼んでくれと伝えると、慎吾は足を引きずるようにして茶館に戻った。
 もう、すでに日が暮れていた。
 外したネクタイを肩に掛けて、暗闇に包まれる慎吾は茶館の二階を見上げた。当たり前だが、瞳子の部屋に灯りは付いていない。
 それが、どうにも不安に感じられてしまう。
 慎吾はポケットから煙草を取り出した。一本咥えると、ゆっくりと火を付ける。煙草など随分と久しぶりだ。湿気ってしまったのだろう、これではただのくさい煙だ。
 恵子が取り乱したのは、間違いなく自分が原因だ。もう少しマシな言い方もあっただろうと慎吾は後悔している。
 しかし慎吾は恵子に、そして自分自身に嘘をつく事など出来なかった。
 瞳子を愛しているか否か……。いや、そうではない。
 未だに慎吾を誘う強い風は吹いて来ない。このままでは、いつまでたっても宙ぶらりんだ、恵子に咎められるのも当たり前か。
 慎吾は自虐的な想いに、乾いた笑いを漏らした。
「俺も、いつまでも瞳子の側にはいてやれない。お袋もそうだろう? だから……」
 深い闇を見据えて亡き母、遙へとつぶやく。
「瞳子を可愛がり過ぎるなよ、お袋……」
 頼りない夜風の中に身を置く慎吾は、蒼く輝き始めた月をいつまでも眺めていた。
 
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