The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

55.風の予感
 目次
 力強く沸き上がる入道雲が姿を消し、日差しも柔らかになりつつある秋。
 見上げれば高い高い空――。
 ひらひらと舞い降りる色鮮やかな落ち葉の数を数えていると、ふと寂しくなってしまいます。
 洗い物をする手を止めて、こうして茶館の窓から季節の移り変わり眺めていると、流れゆく時を感じるのです。心弾む春、開放的になる夏、物悲しく人恋しい秋、雪解けをじっと待つ冬……。
 季節の感じ方は、人それぞれなのでしょう。
 春、夏を駆け抜け、立ち止まって深呼吸。秋はその軌跡を振り返る季節なのかもしれません。
 きっと……色々とある季節なんです。洗い物を終えて、水に濡れた手のひらを見つめていると、テーブルでぼんやりしている麗香さんが気になりました。
 頬杖を突いて思案深げな表情、キーボードを打つ手が動いていません。誰もが詩人になる季節です、頭の片隅に思い浮かんだ物語を追っているのかも。 
 考え事の邪魔をしてしまうでしょうか。でも、麗香さんとお話がしたくなりました。
 カウンターから出ると、麗香さんを驚かせないように少し遠くから声を掛けます。
「麗香さん?」
「……」
「あの、麗香さーん」
「なによ」
 気が抜けた返事を返した麗香さん、その物憂げなその表情にどきりとしました。
「最近、なにかこう……胸の辺りがもやもやするのよね」
「ええと。それはお酒の飲み過ぎではないでしょうか」
 遠慮がちにそう言うと、麗香さんの琥珀色の瞳がすうっと細くなりました。
「あらぁ、瞳子。何か言った?」
 余計な一言だったのかもしれません。
 ぎゅぎゅっと眉間に縦皺が浮かび、鮮やかに染められた唇、その端が上向きになり笑みを型どります。それはもう壮絶な笑顔です、私には麗香さんのこめかみの辺りを見る勇気がありません。
「あ、あのあの。お、お疲れなんですよ、きっと。麗香さんは、が、頑張り屋さんですから」
「あら、褒めてくれるの? 嬉しいわ……」
 慌ててフォローしましたが、微妙に抑揚をつけられた言葉にはとげとげがびっしりと植え付けられています。麗香さんはぜんぜん嬉しそうではありません。
「そこに座りなさい、瞳子」
「は、はい」
 有無を言わせぬ迫力に早々と両手を挙げて降参です。
 聞こえぬように吐息をついた私は仕方なく、麗香さんの向かい側に腰を下ろしました。お説教される子供のように、肩をすぼめて神妙な顔で縮こまります。そんな私を見ていた麗香さんはますます眉を吊り上げて剣呑な視線を放ちます。
「どうして脅えているのよ」
「ええと、はい、ごめんなさい」
 どうしてと尋ねられても答えに困ってしまいます、ここはもう素直に謝るしかありません。
 麗香さんは「ふん」と鼻をならした後、空気が抜けてしおしおになった風船のように、ぐったりと椅子の背もたれに寄り掛かります。
「ねえ、聞いてくれる?」
「……はい」
 今度は天井を見上げて「はぁ」と、ため息をひとつ。
 体を起こして一呼吸。何やら躊躇いを見せた麗香さんは、椅子に腰掛け直して綺麗な足を組み替えました。
「私の上司なんだけど……。前に話したことがあったかしらね」
「ええと、女狐さんだとおっしゃっていましたね」
「そうそう。私を支社に飛ばした女狐よ、名前を言っていなかったかな葉山由香里っていうの。そこいらのおばちゃんですわって顔をして猫を被ってる。あの女の正体は、狐より豹の方が似合っているのかもしれないわね」
 麗香さんは腹立たしそうな表情で、カップの取っ手を人差し指で弾きます。突っつかれたカップが抗議とばかりに堅い音を響かせました。
「絶対に負けないんだから、今に見ていなさいって思っているわ。でも、どうあがいたって私はあの人の手のひらで踊っているだけなのかもね」
 小さな声でぽつりとひとこと、弱気が僅かに顔を見せています。
 『麗香さんらしくない』と、そう感じてしまうのですが、言ってはいけない一言なのでしょうね。
 私は唇に人差し指を当てて、失礼な一言を飲み込みました。
「もちろん感謝もしているけれど。悔しいわね、試されているようで」
 どうしたのでしょう、今日の麗香さんはいつになく弱気です。いつもの「かかってきなさいオーラ」を感じることが出来ません。
 まっすぐに背筋を伸ばして、颯爽としている麗香さん。仕事も出来ていつも堂々としていて。私はそんな麗香さんに憧れています。
 でも、完璧な人間などいないのでしょう。麗香さんだってそうです、ちょっぴり疲れているのかも。
「期待されている証拠だと思います。そうでなかったら、女狐さんも構ったりしないはず、知らんぷりしていますよ。ですから……」
 その後に続く「頑張って」は、胸にそっとしまっておきます。一生懸命に頑張っている人をいたわり、励ます言葉は他にあるはずです。
 麗香さんは琥珀色の瞳を数回、瞬かせて私の顔を凝視します。そのとても優しい表情に、私は少し驚きました。
「あのね、瞳子」
「はい」
「えっと……。ううん、何でもないわ」
 そう言った麗香さんは首を横に振った後、ふと私から視線を外して窓越しに通りを眺めやります。
 その端正な横顔はどこか思い悩んでいるようで、私はそれ以上声を掛けることが出来ませんでした。

☆★☆

 暗闇が迫り始めた湾岸線沿いのレストラン、カルーソ。
 微かな潮風を感じる、その駐車場に並んでいるのはシャインレッドのBMWと漆黒のシルビア。
 店内に入れば、開店直後のなので客の姿もまばらだ。厨房は慌ただしい雰囲気で予約席も空いたまま、テーブル席の準備が整いつつある。柔らかなオレンジ色の光の中で静かに佇んでいる、ウエイターの彼はやはり無口で無愛想なままだ。
 そして椅子の背もたれに大きな体を預けた慎吾は、手にした書類を真剣な表情で読んでいた。
「どうかしら、良いチャンスだと思うのだけれど」
 慎吾をじっと観察している女性が、紅く染められた唇を笑みの形に変えた。細められた瞳、微笑を浮かべる女性からは余裕が感じられる。対して眉間に皺を寄せている慎吾には、いつものような冷静さが見られない。
「確かに、やってみたい。だが」
「麗香と組まないと、気が進まない?」
「そんな事は言っていない!」
 声を荒げた慎吾、全くもって珍しい。
 自分の声に気づいた慎吾は首を二、三度振ると、書類をテーブルの上に戻した。大きな手でグラスを掴み、水を喉の奥に流し込む。少し興奮気味の体も頭も冷やそうと思ったのだ。
 慎吾の向かい側に座る女性……。葉山由香里は、長距離のドライブにもまるで疲れた様子など見せず、艶然としている。そうでなければ、激務である編集部を総括する事など出来ないのだろう。
 葉山が持ちかけた仕事の内容に不満など無い、慎吾が戸惑う理由はその人員編成にある。
 通常ならば、麗香と組んでの取材となるのだが。今回は、まったく見知らぬライターとの長期に渡る取材であった。
「葉山さん、何を考えているんです」
「言わないでおこうと思ったていたのだけどね」
 葉山は自然な仕草で脚を組み替えると、テーブルに肘をついた。
「貴方と麗香で仕事をさせていれば問題は無い、それは私もよく理解しているつもりよ。気心は知れているだろうし、お互いの感性に相乗効果が出る、なかなかの相性ね」
 褒め言葉を並べていた葉山は笑みをおさめると、組んだ足の爪先へとわずかに視線を滑らせる。少しばかり言い澱む仕草を見せたものの、息を吸い込んで真っ直ぐに慎吾を見つめた。
 その葉山の視線を受けた慎吾は、我知らず姿勢を正す。
「麗香の事はよく知っているつもり。ここまで私が育てたんだからね。仕事に対する姿勢だって……ん、問題も少々あるけれど。彼女が持っている才能に比べれば、些細なことだと思っているわ。でも」
 葉山は整えられた指先、紅い爪でグラスを弾いた。緊張感を伴う硬質な音が響く。その音はどこか危うく、双方の信頼、その関係を暗示しているようでもある。
「安定し過ぎていると、刺激が生まれることがないのよ」
「それは」
「そう、貴方も分かっているはず」
 決めつけるような葉山の厳しい口調に、慎吾はテーブルの上に視線を落として口を引き結んだ。馴れ合いで仕事に向かっているつもりなど決して無い、無いのだが。
 気持ちがぐらりと傾いた。まったくもって、今日は精彩を欠いている。
「この仕事は、麗香と組ませる訳にはいかないの。貴方も麗香も、それぞれに歩んできた道を振り返る頃なのよ。それがこの先の道筋を決めてくれるわ」
 断言する葉山の言葉に耳を傾けていた慎吾は、親指で顎を擦ると肺に溜めていた息を言葉と共に吐き出した。
「少し、時間が欲しい」
「OK」
 椅子から立ち上がり、テーブルの上から伝票を取ろうとした慎吾の手を、葉山がそっと押さえた。
「……お気遣いは無用。その先のホテルに部屋も取ってあるし、テラスに出て夜景でも眺めながらお酒を楽しむわ。たまには羽を伸ばすつもり」
 そう言って、くすりと笑う。
「私はひとときの休暇。貴方はお仕事よ、きちんと考えなさい」
 仕事を持ちかけておいて、自分は休暇とはのんきなものだ。何より葉山の手のひらの上で思うがままに転がされているようで、どうにも気分が良くない。
 ひらひらと手を振って寄越す、葉山の悪戯っぽい笑みを横目で眺めた慎吾だったが、ひとつ思い出した。
 これだけは、言っておかなければならない。
「この間は、お騒がせしました」
「あら、何の事?」
「おかげで、恵子も落ち着いたようです」
 頭を下げた慎吾に、とぼけていた葉山は肩をすくめた。
「おやすいご用。佐倉様には少々苦言を呈したまでのこと、気にすることはなくてよ」
 恵子の息子である翼を巡って瞳子と麗香、商店会の面々が、茶館で大立ち回りをしでかした。その後、佐倉家に掛け合い恵子と翼の面会を認めさせたのは、ほかならぬ葉山だったのだ。
 大きな借りをを作ってしまったが、恵子のためならば納得も出来る。
 もう一度、葉山に頭を下げた慎吾が踵を返すと、テーブルへ近付いてきた無口なウエイターとすれ違う。そのまま静かな足取りでカルーソを出た。
 シルビアのルーフに寄りかかり、一度ため息をついて海辺のレストランを眺めた後、慎吾は愛車に乗り込んだ。
 エンジンの音に耳を澄ませ、心臓の鼓動を重ねれば自然にその状態が伝わってくる。
「そんなに苛つくなよ」
 それが相棒への言い掛かりであることは分かっている。
 つぶやきをサイドシートに転がし、国道を流れる車列に乗るとアクセルを踏む右足へと力を込めた。そのとたんに、タコメーターの針が弾かれたようにレッドゾーンを目指して振れる。
 クラッチを強く踏み付けた慎吾は相棒の目を覚ますように、二度ほどアクセルを強く踏んだ後、ギアをセカンドに落とした。
 シルビアは国道をひた走る。ふとライトに照らされた案内標識を見遣ると、慎吾の右手は無意識にウインカーを操作していた。記された矢印の方向へとハンド ルを切り、明るい国道から闇に包まれた観光道路へと向かい次第に勾配を帯びてくる山道を駆け上がる。両脇に見える木々のざわめきは、静寂を脅かす漆黒のシ ルビアに驚いているようだ。
 ヘッドライトが刺し貫く視界にうねりながら沸き上がってくる道。タイヤが路面に激しく喰らいつく、高揚する気持ちを押さえつけながらステアリングを握り込み、車体の挙動をコントロールする。
 そこにあるのは相棒への深い信頼だ。
「ん?」
 不意に後方から浴びせられる光が眩しい、ヘッドライトのパッシングだ。どうやら血の気が多い輩が居るようだ。しかし慎吾は、すぐさまハザードランプを点灯させてアクセルを緩め、シルビアを車道脇へと寄せていく。
 当てが外れたのだろう。後方から迫る車のヘッドライトが数回ほど揺れたが、慎吾にはその気がまったく無い。
 しばらくの間、光は挑発するように瞬いていたが。誘いに乗らぬ慎吾に痺れを切らせたのか、後方から迫る車がシルビアを抜きにかかった。隣をすり抜ける車種は分からなかったが、オートマチック車の緩慢な加速、あまり上品とはいえないマフラーの音に慎吾は眉根を寄せた。
「派手な音だけか……」
 視界に滲むテールランプが闇に溶け込むのに随分と時間が掛かった、不戦敗なのでどうとも言えぬがそう評してみる。
 スピードを緩めたままのシルビアが、ゆっくりと展望台へと入ってゆく。駐車スペースで慎吾はエンジンを止めた。静かに耳をすませれば、焼けたエンジンから硬質な金属音が聞こえてくる。一度シートに背を預け、緊張をほぐした後でドアを開いた。
 暗闇を見渡せば煌々と明かりを放つのは自動販売機だ。人待ち顔の販売機を一瞥すると、その脇から開ける視界に広がる光の帯に目を向ける。
 展望台から見渡せば、眼下には慎吾が暮らす街が広がっていた。
 たくさんの小さな光が明滅している、そのひとつひとつに重なる人の想いは、多すぎて想像すらする事が出来ない。
 あの光の中に茶館があり、瞳子が居る。
 今日も忙しく働いていたはずだ、もう眠っているのだろうか。そんなことを考えながら、手摺りに体を預けポケットをまさぐった。くしゃくしゃになった煙草を取り出して口にくわえる、火をつけるのにちょっとしたコツが必要なライターが煙草の先端を焼いてくれた。
 大きく煙を吸い込む。むせることはないが、もうあまりうまいとは感じない。
 これではまるで、いつまでも禁煙が出来ないでいるようだ。それが煮え切らぬ今の自分に重なり、慎吾は自虐的な笑みを浮かべた。
 吐き出した紫煙が夜風にさらわれて霧散していく。
 慎吾は胸の中で繰り返される葉山の言葉を掴もうと試みるも、自分の気持ちが定まらねば叶うものではないのだろう。気が付けば、瞳子のことを考えている。瞳子を案じる恵子にぶつけられた激しい感情、言われずとも分かってはいる。
 傷ついて茶館に身を寄せ、うずくまっていた小鳥はその癒えた翼に力を取り戻し、自由に羽ばたく事を思い出した。
 ふとした時に見せる思い詰めた表情が気になるが、瞳子は自分の心と向き合う努力をしているのだろう。今では、瞳子の明るい笑顔を見るために茶館を訪れる客も多い。
 強い娘だと……思う。慎吾は黒い瞳を瞼で隠し、しばし揺れる思考の波に身を任せる。
「どうやら過保護は俺の方だったらしいな、恵子に咎められるのも無理はないか」
 溜息と共に片手で短くなった煙草を揉み消し、再び静かな夜景を眺める。
 あれほど身軽であったはずなのに、少しばかり荷物を背負いすぎたようだ。身に絡み付くしがらみは触れ合う人々の数だけ広がっていく、それを煩わしいとは思わないが。
 ゆっくりと顎を上げ、星空を見上げて静かに息を吐く。
 ――自分の背は自分で押さねばならぬものらしい。
 凪いでいた風が再び体にまとわりつく、慎吾は相棒のシルビアへ向かって歩き出した。
 
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