Monochromatic〜The Story of Art Gallery Coffee shop〜
「光と影の色調」
/ 3.瑠璃子
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 螢が師事する「瑠璃子先生」は、少し変わった女性だ。
 いつも何処か遠くを眺めている物憂げな表情。思い詰めているようでも、ふと眼差しを和らげる一瞬の表情に心を奪われる。長くて艶がある黒髪に、光を溜めたように深い輝きの瞳。その整った顔立ちは間違いなく美人だ。どんなに暑い日も涼しい顔をして黒い外套を羽織っている。それなのまったく汗を掻いたりしない。
 旅が好きで愛用している革製のトランクに、たくさんの絵の具詰め込んで持ち歩いている。
 留守かと思えばいきなり姿を見せる神出鬼没。教え子に無理難題を吹っ掛けては、あたふたする姿を楽しげに見ている。束縛される事のない気ままな風を纏っているように自由な振る舞い、螢はそんな瑠璃子の奔放さが羨ましくてしようがなかった。
 強い意志は、形の良い唇が紡ぎ出す言葉の中にある。灰色の世界で嘆き悲しんでいた螢は、瑠璃子の教えに救われたのだ――。
 コーヒーメーカーにセットしたステンレスのポットに、抽出された褐色の液体が少しずつ溜まり始めた。店の主人ご自慢のブレンドらしい、螢は嬉しそうに目を細める。
「先生はいつも、行き先を教えてくれませんから」 
 螢が大学を卒業すると同時に、瑠璃子はこの街から姿を消してしまった。螢の記憶以外、煙みたいに何にも残さずに。螢は随分と探したのだが、瑠璃子の行方についてほんの僅かな手掛かりさえも掴めなかった。
 社会に出て働くようになると、周囲の環境もがらりと変わった。螢も自分自身の忙しさに追い立てられて、すっかり瑠璃子の事を頭の隅に追いやっていたのだ。
「螢、夕日が眩しいだろう。そろそろ、カーテンを引いて明かりを点けろよ」
「あ、そうですね」
 螢は頷いて、宵闇が忍び寄る窓際へ歩み寄るとカーテンを引く。光が遮られた部屋で壁のスイッチを押すと、天井の小さなシャンデリアがほんのりと輝き出した。
 恭一は、螢の体を心配してくれている。今すぐ命に関わる病というわけではないのだが。色覚異常……。螢は子供の頃から、色を感じる事が出来ないのだ。
 視覚から色という情報を得られない……。螢が暮らす世界はモノトーンであり、微かにその色合いが認められるだけだ。色から得られる情報はとても重要だ、危険の回避など社会生活に不自由がつきまとう。
 だが螢を苦しめている症状は、先天性、後天性の視覚障害とは少し違う。そして螢は、目に外傷を受けた事も何かの病を患った事もない。
 何とか治療しようと幾つもの病院で検査を受けたのだが、螢の症状は身体的な理由からではなく、心因的な原因であると結論付けられた。
 そう、あの日の出来事が原因なのだ――。
 螢自身も、自分が色彩感覚を失った理由を理解したものの……。
 その原因に近付くと胸を抉られるような苦痛に苛まれる、周囲の人間も不用意にその原因に触れる事が出来ないでいた。自由にならぬ体と感覚に、苛立ちとやるせなさを抱えて苦悶していた螢の前に現れたのは瑠璃子だった。
「あなた、光と影を魅せる方法を知ってる?」
 カクテルを満たしたグラスを人差し指で弾き、そう囁いた瑠璃子の悪戯っぽい微笑みを螢は忘れない。
 画家である瑠璃子は、螢の才能を見い出して絵の手ほどきをした。
 豊かな色彩を扱えぬ螢に、緻密な線とグラデーションで光と影の世界を描き出す手法を教え込んだのだ。そのおかげで、絵描きとしては致命的なハンデを抱えている螢ではあるが、木炭やコンテを使用する事で創作を続けている。
 絵を描く事だけではない、瑠璃子は螢のために様々なアドバイスをしていたのだ。
 もっとも、それは瑠璃子が居なくなってから気が付いた事だ。呑気なものだ、子供だったなと思うと螢は悔しくて仕方がない。
 いつだってそうだ、後悔は先に立ってくれない。
 黒衣の画家――。
 そう呼ばれる瑠璃子の絵には、人の心へと訴えかける何かがある。
 心を捕らえ引き寄せて抱き込み、色彩が織りなすキャンバスの中へと同化させてしまうような……何か。
 油彩による濃厚な色の重なり合いを生む筆遣い。荒々しく、また優しく。冷たく突き放されるも、柔らかに抱かれる温かな感覚を絵と向き合った者へともたらす。表現された色彩の素晴らしさは分からない。だが相反する印象に、螢の心はざわめいた。
 淡い濃淡だけの視界に広がる抽象の世界、彩度の差異が表す色……その温度の違いは感じられる。
 それは色が無い世界の住人である螢にも激しい衝撃を与えたのだ。
 瑠璃子は、自分が描いた絵を展覧会などに出品した事はない。画廊や絵画の収集家が見れば、絶対に放っておかないだろうと螢は思っている。
 画家ともなれば、絵画に関わる機会が多いのだろう。この洋館には、瑠璃子が何処からともなく預かって来た絵がたくさん保管されている。
 傷など付かぬようにきちんと木枠で保護され、丁寧に梱包された絵は洋館の一室に集められる。そこで梱包を解かれて自由になるのだ。
 どんな絵なのか、誰が描いた絵なのか……瑠璃子は何も語らない。
 洋館の一室に保管された絵は瑠璃子に管理されているのだが、螢はその絵が管理されている部屋への立ち入りを許されていない。それは、瑠璃子の留守を任された今でも変わらない。
 だが螢は、瑠璃子によって厳重に管理されている絵を見たいとは思わない。
「螢、この部屋に入っては駄目よ。あなたは無垢な存在、彼等にとってあなたは真白きキャンバスと同じだから」
 師の謎めいた言葉を、当時の螢は理解する事が出来なかった。
 絵が保管された部屋の前を通ると、螢は決まって不思議な感覚に囚われる。
 そしてある日。
 瑠璃子の言いつけを破った螢は、たくさんの絵が保管されている部屋の扉を開いたのだ。

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