ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


9.姫巫女(前編)

 目次
 辺りは湿気を含む、ひんやりとした空気で満たされている。霧でも出てくればやっかいだが、未だにそんな気配はない。 
 木々が覆い被さるような薄暗い森の中、静けさを打ち消す木々のざわめきに、恐ろしさを掻き立てられる。それは人が暗闇を恐れるから、森に住まう何か得体の知れない存在の恐怖を、本能が感じるからなのだろうか。
「子供の足だから、そんなに遠くには行けないはずだ」
 子供達の事を思うと気持ちがはやる、フリードは森を包む闇の中を歩き続けていた。
 森まで向かう途中で親達に様子を聞いたのだが、子供達の姿が見えなくなってから、そんなに時間が経っていない。
 道に迷ったのか、怪我でもしたのか、あるいは……。
「駄目だ、しっかりしろっ!」
 フリードは激しく首を振り、思い浮かぶ最悪の事態を振り払った。
 元より人が寄りつかない森は、様子がはっきりと分からない。古来からの言い伝えには、それ相応の意味があるのかもしれない、しかし本当なら大勢で探す方が良いに決まっている。
 フリードが掲げたランプは闇を切り裂く、目の高さに掲げたり下げたりを繰り返しながら進む。右に左にランプを掲げても、照らし出されるのは闇の中でランプの光に脅える木々ばかり。
 もしやとの期待はするりと胸からこぼれ落ち、暗闇が不安に拍車を掛ける。
 この不安が現実の物となり、絶望に変わらない事をひたすら祈りながら先を急ぐ。
 森を閉ざす重く艶めかしい暗闇は、じわりと心に染み込み時間の感覚を狂わせる。どのくらい歩いたのだろう……フリードが緊張に耐え難い苦痛を覚えた頃。
 不意に、フリードの意識がぐらりと揺らいだ。
「……なんだ?」
 思わず立ち止まり、額へと手を当てる。
 森に巣くう妖魔の邪気にでもあてられたのか、酷く気分が悪い。
 ゆっくりと回り始めた視界は万華鏡のように、くるりくるりと映像を映し変える。平衡感覚が失われ、目眩が我慢出来ずに立っていられなくなった。
 その場にがくりと膝を付き、ランプを地面に置いてうずくまる。
 こみ上げる激しい吐き気を堪えるフリードは、腹を抱えて体を丸める。息苦しさと意識の混乱に、湿った土の上をごろごろと転げ回った。
 立木に背を打ち付け、草まみれになりながら歯を食い縛って顔を上げる。
「あ……」喉の奥から掠れた声が漏れ出た。
 酷い目眩は不意に治まり、目は正常に辺りの様子を映している。
 木々の間に見え隠れしているのは、静かに明滅する幾つもの温かな光だ。その光に照らされていると、乱れていた呼吸が次第に楽になってきた。息苦しさから解放されたフリードがのろのろと起き上がると、森の雰囲気は一変していた。
 地面に置いたランプの火が消えている。
 しかし、ランプの明かりなど必要無いくらいに森の中が明るい。まるで漆黒の闇は何処かへ去ってしまったかのようだ。
 きらきらと輝いている木々の葉に目を奪われる、森に溢れる緑色はこんなにもみずみずしく、温かい色だったのだろうか?
「何が起こったんだろう」
 首を捻り、頭上を振り仰いだフリ−ドは絶句した。
「そ、空が……」
 フリードの目に飛び込んで来たのは、淡いエメラルドグリーン。
 頭上に広がるのは闇夜ではない、瞬きながら地上を見下ろす星々の姿はなく、細密で美しいレースをその高い空間へと一杯に広げたように、姿を変える光のヴェールが不思議な空を彩っている。
「何処なんだ、ここは……」
 フリードが、再び歩き出そうとした瞬間だった。
「そこまでだ、歩みを止めよ!」
 鋭い声が、フリードをその場に縫い付ける。
 声が聞こえた方向へ目を向けたフリードは、信じられないものを見た。
 高い木の枝に立っている少女が、険しい表情でフリードを睨み付けている。幼さを感じさせる整った顔立ち、しかしその表情は固く厳しい。細い指が掻き上げた色素が薄い茶色の髪は、毛先に行くに従って薄桃色に変化している。その髪が揺れる度に、ふわりと淡い光が生まれ出た。革のブーツに護られている、短衣の裾から伸びるしなやかな足。短衣の腰に回した剣帯に吊っているのは、美しい装飾を施された草色の鞘に収められた細剣。
 娘の燃えるような紅い瞳が投げ掛けて来る、突き刺すような視線にフリ−ドは射貫かれた。
「君はいったい誰だ? ここで何を……」
「貴様! 今、何と申したっ!」
 叫んだ娘の髪が逆立ち、身を屈めて枝を蹴って大きく跳んだ。右手が腰に吊っている細剣の柄に伸びるのが見えた瞬間、フリードは娘の姿を見失う。
 少女の怒りの理由を考える暇もない。
 フリードの目前に突然、少女の紅い瞳が現れた。
「お坊ちゃんに、礼儀を教えてやるよ」
 獲物を狙うように、見開かれた紅い瞳が煌めく。
 驚くフリ−ドに向けて少女が抜き放った細剣、鋭く突き出された切っ先が頬を掠める。頬に浮かんだ紅い筋、微かな痛みはフリードの意識を鋭敏にした。
 突き出した細剣を、少女はそのまま真横に薙ぎ払う。
 ぼんやりしていれば首筋を切り裂かれるところだが、フリードは大きく仰け反ってその斬撃を躱した。そのまま地面に倒れ込み、転がって少女との間合いを広げる。両腕で支えた体、振り上げた足をくるりと回転させた勢いを使って立ち上がると、素早く身構えた。
「いきなり何をするんだ。剣はおもちゃじゃない、危ないだろう!」
 護身術として、カリナから剣術の手解きを受けているフリードは、ある程度の攻撃ならば防ぐ自信がある。
「分かっておるわ、当たり前の事を言うなっ!」
 せせら笑う少女が、体の重心を落とした。
 しなやかな足を強く踏み出すと少女の姿は掻き消えて、瞬時にフリードとの間合いを詰めてくる。細剣の刃が空を切る風鳴りが聞こえる、それほどの鋭い突き。
 少女の剣技は、フリ−ドの想像をはるかに越えていた。繰り出される鋭い細剣の一撃を躱しきれず上着が大きく裂けた。
「いきなり襲いかかっておいて、それが礼儀の規範といえるのかっ!」
「やかましい、この無礼者が!」
 フリードは、少女の細腕から繰り出される苛烈な攻撃にさらされる。
 びっ! びっ! と、上着が剣の切っ先で、細かく裂かれる音が聞こえる。
「くっ!」
 鋭い攻撃を躱しきれず、今度は左肩に痛みが走った。体を見れば既にボロボロかもしれないが、フリードにそんな余裕はない。 
 少女が繰り出す斬撃は、いよいよもって鋭さを増していく。
 それに反し、次第に攻撃を躱しきれなくなるフリ−ドは、激しい動きを続けるうちに体が重くなってくる。
「いい加減にしろ! 僕は森に迷い込んだ子供達を探している。こんな事をしている暇は無いんだ!」
「ほほう……」
 苛立つフリードが少女を見据える、一度剣を引いた少女が薄い笑みを浮かべた。
「我が、姫巫女だと名乗ってもか?」
「姫巫女!?」
 叫んだ少女が放つ剣撃、その光の軌跡。
「我の名はトゥーリア。この森を抱き、護る者だ!」
 激しく舞う、少女の髪から立ち上る燐光。まるで舞い踊るように攻め来る、変則的なトゥーリアの剣術に翻弄される。
 フリードがカリナに教わった剣術は、斬撃の間に放たれる打撃などの体術を想定していない。
 自在に軌跡を変える幻惑の剣、そして小柄な少女が繰り出すとはとても思えぬ打撃技。フリードが細剣の刃を避けると低い回し蹴りに足を払われ、体を掠め過ぎ去った刃の後に、繰り出される肘が脇腹に突き刺さる。
 剣の柄で首筋を打たれ、体中を容赦なく殴り蹴り付けられる度に、フリードは息が止まり空気を求めて喘ぐ。
「姫巫女、なら、子供達が何処に、いるのか……」
「無駄口を叩く余裕があるのかっ!」
 話し合う余地もないというのか。切れ切れに訴えかけるが、トゥーリアは取り合おうとしない。 
 細剣を握り舞い続けるトゥーリアの恍惚とした表情、その頬が上気している。 
 休みない攻撃に、後退を余儀なくされているフリードの背に木が当たった、これ以上は退路が無い。
「しまった!」
 一瞬、目の前の姫巫女から意識が逸れた。
「これで終わりだっ!」
 トゥーリアの叫びに、フリードは死を覚悟した。
 ぐんっ! と、トゥーリアの腕が伸び、鋭い必殺の突きが繰り出される。
 しかしトゥーリアの細剣は、フリードが着ている上着の襟を木の幹に縫い付けただけだった。
 そのままの姿勢でフリ−ドを睨み付けていた姫巫女が、先に紅い瞳に漲らせていた緊張を解いた。
「ふん。よく頑張ったな、フリード・ブロウニング……領主の息子よ。泣いて許しを請うておれば、もう少し手を緩めてやったものを」
「僕の事を……知っているのか」
「ああ、よく知っている。空ばかり見上げている、どうしようもないお坊ちゃんだと思っていたが。幾分はマシになったようではないか」
 尊大な態度で答えたトゥーリアは紅い瞳を和らげ、フリードの上着をめくった。
「銃は持っておらぬようだな……誉めてやろう」
 トゥーリアは木の幹から刃を抜いてフリ−ドを解放し、細剣を一振りすると美しい鞘に収めた。
 どうやら、命拾いしたらしい。 
 ほんの僅かな間で、ボロ布を纏うみすぼらしい姿になったフリードは木にすがり、ずるずるとその場にへたり込んだ。
「貴様、先ほど我を『君』などとぬかしおっただろう。年長者に対しての口のきき方がなっておらぬようだな、どういう教育をされている!」
「ね、年長者だって!?」
「何を驚く事がある?」
 トゥーリアが、驚いて目を見開くフリードをじろりと睨んだ。
 彼女はどう見ても、フリードよりも随分と年下に見える。容姿を見れば間違えても仕方ないとフリードは思うのだが、また激高して剣を抜かれてはかなわない。
「……すみませんでした」フリードは慌てて降参した。
「分かればよい」
 トゥーリアが満足そうに頷く。
 あれだけの大立ち回りを演じたにもかかわらず、息は少しも乱れていない。
 ぴんと伸びた背筋、神秘的で凜とした雰囲気を纏う姫巫女……トゥーリア。彼女がカーネリアの森を護る存在だと、そして眼前に広がる光景が信じられず、フリ−ドはトゥーリアに付けられた頬の傷へ触れた。
 ぴりっと走る痛み、どうやら夢を見ている訳では無いらしい。
「いつまでへたり込んでいるのだ、さっさと立て! 子供達を探しておるのだろう? くたびれている暇などあるまい、我に付いて来るがいい」
「子供達の居場所が、分かるのか!?」
「我が預かっている、いいから黙って付いて来い!」
 トゥーリアが踵を返す、フリードはよろめきながらも慌てて立ち上がった。
「まったく愚かな者達だ、子供とは大切な存在であろうに」
 すうっと細められる紅い瞳、輝く髪をなびかせ、姫巫女が歩きながら憤慨している。
「……まぁよいわ。たかが人間相手に、いくら憤っても栓がない」
 『たかが人間』そう言う姫巫女は、人ではないのだろうか?
 そんな疑問が浮かんだフリードはふと立ち止まったが、子供達の無事を確かめるのが先だ。あれこれと詮索しようとする気持ちを抑えて、すたすたと歩くトゥーリアの小さな背を追った。
 
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