ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


33.新たな婚約者

 目次
 柔らかな唇が紡ぐ、優しい風の恋歌は。
 未知なる空へと羽ばたく、蒼き翼を奮い立たせる。
 両腕を広げて、翼を護るように抱く少女。
 絡み合う運命の糸に導かれる、それぞれの想い。
 その行く末は……
 神秘の存在たる、姫巫女の紅い瞳でも見透す事は出来ない。

 虹の翼のシルフィード 第三部

「お待ち下さいな、ニーナ様。お客人は貴族様のようですから、ここにいらした方がいいですよ。カリナとミレーヌが、おもてなしに行きましたから」
「え? でもカリナさんに、そんなお仕事をさせては……」
 客人の世話をするために広間へ行こうとしたニーナは、ハンナに止められて困惑したように立ち竦んだ。いつもいつも、みんなに庇ってもらってばかりいる。これではいけないと思うのだが……。そのニーナの逡巡を見て取ったのか、ハンナが大きな体を揺すり、からからと笑った。
「そのカリナが決めた事です。ニーナ様は、フリード様のお相手をしてあげて下さいませね」
「……ハンナさん」
 みんなの心遣いが、とても嬉しい。
 頬を染めたニーナは両手を胸に当てて、輝く青玉石の瞳を閉じた。祈りの言葉を繰り返す、その囁きは美しい旋律のように聞こえる……。
 柔らかな光が、室内に差し込んでいる。ブロウニング邸は質素だが、落ち着いた雰囲気に包まれている。
 客人の世話をするために壁際に控えているのは、執事のカリナとミレーヌの二人だ。
「すまないね、ブレンディア。いきなり尋ねて来て、唐突な話をしてしまった」
「いや、そのようなことは……うむ」
 歯切れの悪い答えを返すブレンディア、話をしている客人の男性の名はアルバート、ブロウニング家の遠縁にあたるセディア家の当主だ。がっちりとした体 格のブレンディアとは違い、対照的な痩せ型。緩やかなウェーブが掛かった髪が、きちんと撫で付けられている。柔和な笑顔は、まぁ日々の暮らしに苦労が少な い、貴族らしい表情だ。
「私もフランネルとは、多少の付き合いがあったんだ。娘はニーナという名だったね、気の毒な事だったと思っているが……」
 沈痛な表情を浮かべたアルバートは、首を左右に振った。
「私は以前から、フリードをとても気に入っているんだ。うちの娘とどうかなぁなんて、ずっと考えていたんだよ」
「うむ」
「私のアレリアーネはフリードよりも二つ年上だ、最近では日増しに美しくなる。匂い立つ可憐な花のようだと、喩えられるかなぁ? それに本好きで頭も良い。将来はカーネリアの領主となる彼を、しっかりと支えられると思うんだ」
「うむ」
「おっと! いやいや、すまない。これは親馬鹿な発言だったね」
 大層に娘自慢をしてしまったことに気付き、ぽんぽんと頭を叩いたアルバートは照れくさそうに笑った。ミレーヌは、その屈託のない客人の笑顔が気に入らないようだ。
『……まったく、そのとおりですぅ』
『ミレーヌ、おしゃべりをしてはいけません……』
 壁際でかしこまっているミレーヌが、不機嫌そうに頬を膨らませた。客人に聞こえないようにと、さりげなく咳払いをした執事のカリナは、小声でミレーヌをたしなめる。
「ブロウニング家とセディア家、双方の為に一番良い縁談だと私は思うんだが、どうかな?」
「うむ」
 身を乗り出すアルバートに、ずっと同じ答えを返し続けるブレンディアの額には、じわりと汗が浮かぶ。いつものように、威厳がある落ち着いた様子ではない。大きな手でカップを包み込むように持ち、困ったように視線をさまよわせている。
「まぁ、急いても始まらないんだがね。しかし、フリードを気に入っているのは、私だけではないんだ。だから何というのかな。はは、そう、そうだ! 機先を制するというところかな」
 ブレンディアが困惑している様子など、全く気にならないらしい。早口でそうまくし立てたアルバートは、喉が渇いたのかカップを持ち上げ、ぐいーっと冷えた紅茶を飲み干した。
 その様子を見ていたカリナが目で合図すると、ミレーヌは「図々しいヤツですぅ」と、小声でぶつぶつ言いながら、お茶を注ぐためにワゴンに近づく。
 仕事そっちのけで沸々と怒りをたぎらせるミレーヌに、カリナはもはや諦めたとばかりに額へ手をあてて首を振った。
「おお、もうこんな時間だ!」
 懐中時計を取り出して、時刻を確認したアルバートは目を丸くした。お茶を注ごうとしているミレーヌに、丁寧に礼を言って断ると椅子を立った。
「ではブレンディア、私はそろそろ失礼するよ。さっきの話だが、今度はアレリアーネと共に挨拶に寄るからよろしく。諸候を集めて、盛大な夜会を開こうではないか!」
「お、おいアルバート!」
「ん、何だい?」
「い、いや、何でもない」
 アルバートを呼び止めたはいいのだが、ブレンディアは何も言うことが出来ずに、伸ばした大きな手をにぎにぎとさせた。
「では、楽しみにしているよ」
 満面の笑みを浮かべたアルバートは、カリナから帽子とステッキを受け取り、上機嫌で帰っていった。
「まったく、信じられないですぅ!」
 小さな手で掴んだクッキーを口に放り込み、バリバリと噛み砕きながら、ミレーヌが不満を爆発させた。先ほどからソファに座ったままの姿で、ブレンディアは肩を落として、背中を丸めている。
「やめなさい、ミレーヌ!」
「でもでもぉ……」
 アルバートを見送り、部屋に戻ったカリナは客人の姿もないので、少しきつい口調でミレーヌを注意した。
「お館様、どうなさるんですかっ?」
「うむ」
「さっきから、うむうむばかりですっ」
「うむ」
 同じ答えを繰り返すブレンディアに、ミレーヌの瞳が半眼になった。
 なおも何か言おうと口を開きかけたミレーヌの口を、カリナが慌てて塞ぐ。
「ミレーヌ! いいかげんにしなさい」
「あうう……」
 カリナに叱られて、ミレーヌは頭を押さえしょげてしまった。
 ブレンディアは自分の息子は力任せに殴っても、使用人には決して手をあげたりしない。ブロウニング家は爵位を持つ他の家と多少事情が違うのだ。
 顔を上げたブレンディアは、大きな手をミレーヌの頭にぽんと置いた。 
「ミレーヌ、仕方がないのだ。セディア家をむげにあしらう事も出来ぬ、アルバートは当家の大事な理解者だからな」
 ブレンディアは、きょとんと見上げているミレーヌの髪を、そっと撫でる。
「領主だからといって、好き放題に己の意見を通すわけにもいかない。時には諸侯に不利益な決め事もしなければならん、アルバートはそれをきちんと理解してくれる」
 カーネリアの領主はブロウニング家なのだが、実際に領地を治めるには有力な貴族諸侯との連携が必須なのだ。
 そこには、アルバートのように近い立場で理解を示してくれる者と、考え方が異なり違う意見を持つ者の二通りの存在がある。領主であるブレンディアは双方の意見を聞きながら、意見の擦り合わせを行い、より良い方策を取らなければならない。
「だってぇ。フリード様には、ニーナ様が……」
 ミレーヌはニーナの信奉者だ、フリードとニーナが結婚すると信じているのだろう。握った拳をぶんぶんと振りながら、一生懸命に訴える。
「うむ」
 ブレンディアは、それを否定も肯定もするではなく、ただ大きな溜息を付いた。白磁のカップを見つめてはいるが、どこに想いを巡らせているのか分からない。
「お館様」
「何だ?」
「フリード様を、お呼びいたしましょうか?」
 カリナの申し出に、ブレンディアは顎に手を当ててしばらく思案していたようだったが、大きく肯いた。
「そうだな」
「かしこまりました」
 黒髪の執事が胸に手を当て、丁寧な仕草で答えた。ブレンディアとカリナの様子をミレーヌは不安そうな顔で見比べる。軽い足取りで扉へと向かったカリナは、ふと立ち止まり、くるりと振り返った。
「ミレーヌ。おしゃべりは、いけませんよ」
「は、はいぃ……」
 カリナの黒い瞳が、眼鏡の奥できらりと光る。
 ソファから飛び上がるほどに驚いたミレーヌは、身を縮こまらせ掠れる声で返事をした。

 ☆★☆

「フリード様、無理をなさらないで下さいよ」
 足下から、カナックの声が聞こえている。
「心配する事ないよ、カナック」
 金槌を手に屋根に登っているフリードは、心配そうなカナックの声に気楽な調子で答えた。屋敷の雨漏りを修繕しなければならないのだが、生憎トムがぎっくり腰を患い床に伏せっている。
 かといって雨漏りを放って置くわけにもいかず、何事も勉強だとフリードが修理をする事にしたのだ。
 傷んだ板を打ち付けている釘をバールで抜き、新しい板に取り替えて釘を打つ。下ではカナックがはらはらしているようだが、このくらいの修理なら何でもない。
「ふう……」
 一仕事を終えて顔を上げた。満足げに肯くと額の汗を拭い、立ち上がったフリードは屋根の上からの景色をぐるりと見回した。目の前に広がる景色は希望に満ちている。遠方に見える畑は、黄金色に色付きつつある。幸せを感じられる風景だ。
 そう言えば、ここ最近カーネリアが騒がしい。ウインドシップレースのスタート地点に選ばれたからだ。
 東側の海に面した湾岸では、着々と準備が進められている。もうしばらくすれば、もっと賑やかになるだろう。
 ウインドシップか――。
 フリードは失ってしまった銀色の機体、ウインディを思い出して小さな吐息をついた。
(そうだ、あの子はどうしているのだろう……?)
 フリードとアルフレッドが助けた女の子、武装した盗賊に襲われた輸送機を操縦していた少女の事を訪ねようにも、あれから叔父のアルフレッドが屋敷を訪れる事は一度も無い。
 会社を訪れても外出中で会えないのだ。アルフレッドは多忙で、スケジュールに空きが無いと秘書のサラが教えてくれた。
「ご苦労様です、フリード様!」
 フリードはカリナの声に気付き、ひょいと顔を出すと下を覗いた。
 額に手をかざし、黒髪の執事が見上げている。
「カリナ、どうしたんだ?」
「お館様がお呼びです」
「父上が?」
 首を引っ込めたフリードは、腰に手を当てて小首を傾げる。確か先ほど、遠縁であるセディア卿の車が帰って行ったばかりだ。なにやら面倒な事がありそうだが、知らん顔を決め込む訳にもいかないだろう。
「屋根の修理が終わったから、今降りるよ」
 フリードはそう答えると、袋へ入れた工具と取り外した板切れをまとめてロープで括ると、するすると下に降ろす。下にいるカナックが、両手を広げて受け取った。
「さぁ、行くか」
 屋根の端に立ったフリードは、息を整えて足下を確認すると、いきなり宙へとその身を投げ出した。
「フ、フリード様っ!」
 驚いたカリナが声を上げる。フリードは軽業師のように空中で体を捻ると、綺麗に着地をしてみせる。
「あ、あ、あ、危のうございますっ! なんという事をなさるのですかっ!」
「え? ああ、大丈夫だよ、カリナ」
 フリードは微笑んだ、さすがに肝を冷やしたような表情のカリナが、ずり落ちた黒縁眼鏡を掛け直した。
 叔父のアルフレッドと戦争まがいの事をやらかしてから、フリードは何故か不思議と体の軽さを感じる。以前は試そうとも思わなかった事が、難なく出来てしまうのだ。
「アルバート様の車が見えたけど、何があったんだ?」
「……何かがあったと言うよりは、これからあるのだと思います」
「カリナ?」
 いつもと違って、歯切れの悪い答えを返す黒髪の執事を、フリードは訝しげな表情で見つめる。
「お館様がお待ちです」
「ああ」
 困った表情のカリナに連れられて、フリードは屋敷に入った。少し足早に歩くカリナの背を追う。
「フリード様。お館様がどんなお話をされても、取り乱したりなさいませぬよう。微力ではありますが、私も出来る限りお助けいたしますから」
 振り返ることもなく、カリナが固い声でそう言った。
「だから、どうしたんだ……カリナ」
「フリード様」
 カリナの様子がいつもと違う。フリードが歩みを止めるとそれを察したのだろう、カリナも足を止めてゆっくりと振り返った。
 少しの距離を置いて、二人は正面から向き合う。
「ニーナ様へのお気持ちに、変わりはありませんね?」
「ああ、変わらないよ」
 何を言うのかと思えば。
 カリナの真剣な表情にただならぬものを感じたフリードだが、表情を改めると大きく肯いた。どんなことがあっても、たとえ世界が滅びの危機を迎えたとしても、ニーナへの気持ちは揺らぐことなどない。
「分かりました」
 黒い瞳を伏せて肯いたカリナは、再び歩き始める。フリードは屋敷内に重苦しく沈殿している違和感を理解出来ないまま、父が待つ部屋の前まで来た。すっと手をあげたカリナが、丁寧に扉をノックする。
「フリード様を、お連れしました」
「うむ」
「失礼します」
 扉の向こうから聞こえる重々しい声、カリナがゆっくりと扉を押し開いた。そのまま壁際に下がるカリナ、その隣には何やら不機嫌そうな表情のミレーヌが立っている。
 カリナにミレーヌまでも様子がおかしい、首を傾げたフリードは父の前に進み出た。
「お呼びですか?」
「うむ」
 ついっと視線を逸らしながらブレンディアが肯く。フリードは眉を顰めて父を見た。まったくもって父らしくない、いつも感じる威厳はどこかに落としてしまったのだろうか。
「父上、体の具合でも悪いのですか?」
「い、いや、そのような事はない」
「……そう、ですか」
 何が起こっているのか分からない。それ以上父に掛ける言葉が見つからず、腑に落ちない表情でフリードが困っていると、ブレンディアが重々しく口を開いた。
「実は、アルバートが訪ねて来てな」
「そうみたいですね。雨漏りの修理で、屋根の上に居ましたから。先ほど、お帰りになる車が見えました」
「そ、そうか」
 ブレンディアは大きな手を組み合わせて、ぎゅっと握りしめる、そわそわとする大きな体を、懸命に鎮めようとする仕草だ。
「お前は、アレリアーネを知っているな」
「当たり前です」
 アレリアーネ……。どうして今、彼女の名前が出るのかフリードには分からない。遠縁にあたるアレリアーネは、幼い頃に何度もブロウニング家を訪れているのだ。
 ニーナとも仲が良い、ただ少々変わり者ではあるのだが。
「実はアルバートが、アレリアーネとお前の縁談を持ちかけて来たのだ」
 がたん!
 壁際で大きな音がした。何事かとフリードが目を向けると、カリナとミレーヌが驚愕の表情で固まっている。
「お館さま、ダメダメですっ……」
 ミレーヌがワゴンにしがみつき、カリナは苦悩の表情を浮かべてこめかみに指を当てている。
「僕とアレリアーネを?」
「そうだ。後日、共に挨拶に来ると言っていた。両家の関係も良好であらねばならん。その意味、分かっておるな」
 やや鈍りがちな眼光でフリードを見据えたブレンディアは、だが有無を言わせぬ強い口調で言った。
 鋭く息を飲んだフリードは奥歯を噛みしめ、両の拳を強く握りしめる。一度視線を泳がせ、心に浮かんだ言葉を父へとぶつけようとして思い留まると、肺にためた空気をゆっくりと吐き出した。
「分かりました。カリナ、日程がきちんと決まれば、教えてくれ」
 少しの逡巡を見せたが、フリードは平然とした表情で黒髪の執事にそう言うと、父に一礼した。
「これから領内の見回りに出ます、お話はそれだけですか?」
「う、うむ」
「フリード様、駄目ですっ!」
 踵を返して部屋を出ようとしたフリードの背に、ミレーヌが叫んだ。
「やめなさい、ミレーヌっ!」
 驚いたカリナが、慌ててミレーヌの腕を掴む。ミレーヌはカリナの手を振り解くと、フリードに駆け寄った。上着の袖をぎゅっと掴んで、激しく揺さぶる。
「どうしちゃったんですか、フリード様っ! ニーナ様と一緒にいられなくなってもいいんですかっ! 変です、おかしいです、わたし、フリード様がなにを考えていらっしゃるのか分かりませんっ!」
 泣き出しそうな顔で、激しく訴えるミレーヌを落ち着かせようと、フリードはそっと彼女の両肩に手を置く。
「いいかい、ミレーヌ。お話を断ったりしたら、先方に失礼になるんだ。セディア家は、ブロウニング家にとって大切だから」
「でも、フリード様ぁ……。ニーナ様が、ニーナ様がっ!」
 潤んだ青い瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出す。フリードの上着の袖を放したミレーヌは、カリナにしがみついて、わっと泣き出した。
「すまない……カリナ、後は頼んだよ」
「はい」
 フリードは泣きじゃくるミレーヌの髪を優しく撫でると、黙り込んでいる父の姿を見た後、部屋の扉をゆっくりと開いた。

 ☆★☆

 アルフレッドは、街の一角にあるを古物商を訪れていた。本は知識を得るためにも必要な物であり、印刷の技術も年々進歩している。古書については、度重なる戦乱で焼失した物も多い。その古書の中でも、世界の動乱期をくぐり抜けた本は、高値で取引されているのだ。
「旦那、買っていただいてありがたい事なんですが。希少価値が高い本ですからね。価格についてはどうにも。いや、申し訳ありません」
「ああ、分かってるよ、よく手に入れられたなって、感心してるさ。俺も値段がどうこうなんて言っていられないんだ、お家の一大事だからな」
 恐縮している人の良い古物商の店主に、ひらひらと手を振ったアルフレッドは苦笑しながらそう答えた。店主が一冊一冊を紙に包み、丁寧に梱包しているの は、ある貴族が蔵書していたという古書だ。何故売りに出されたのかはおおよその見当がつくももの、なかなか手に入れられる物ではない。
 豪華でしっかりとした装丁、かなりの年月を経ているように見えるが、特殊な樹脂を含ませてある紙は傷みが少なく状態が良い。
 古書の梱包作業を、退屈そうに眺めていたアルフレッドは本の山に肩を竦めた。あまり読書になど縁がない、大量の本に囲まれていると、どうにも眠くなってくる。
「お家の危機とは、そりゃ大事ですね。しかし旦那……この本が、そのお家の危機とやらを救ってくれるんですか?」
「ん? ああ、それがなぁ……」
 せっせと手を動かしながら、店主が不思議そうな顔をする。アルフレッドは梱包される前の本を手に取り、ぱらぱらとページを繰った。その古書に描かれているのは、貴族の青年と、町娘の悲恋を綴った有名な物語。
 アルフレッドはその本の表紙を見て、片方の眉を上げた。
「なぁ、身分違いの恋ってのは、成就すると思うかい?」
「はぁ、この本の話ですか? 私にゃ貴族社会の実際は分かりませんがね。たいていの物語や戯曲じゃあ悲恋、それもお互いが命を落とすような、痛々しい結末になるんじゃあないですか?」
「ああ、そうだよな。それが心を打つんだろうよ」
 つぶやいたアルフレッドは、埃の匂いがする本をぱたんと閉じた。丁寧に本の山へと戻し、懐から財布を取り出す。
「だがな、それじゃあ困るんだよ。感動させている場合じゃねぇ、なんと言っても世界の危機だからな」
「はぁ」
 アルフレッドの話が理解出来ない店主は、首を傾げながら愛想笑いで応じた。渡された金貨を、ほくほく顔で数え始める。
 会社は容易に消すことが出来ないほどの火の車だが、金に執着する性格ではない。アルフレッドは、すっかり空になった財布を懐へとしまった。
 金が無くなれば身を粉にして働けばいい、生きるためなら何だって出来るはずだ。
 金を貯め込んだだけでは何も起こらない、その使い方が重要なのだ。
「縁談が本格的に進み始める前に、何とかしなきゃあな。機体についてはひとまず一件落着だが、のんびりしていられねぇ。さぁて、これから忙しくなるぞ」
 買い込んだたくさんの本を車のトランクへと積み込んだアルフレッドは、ぱんぱんと大きな手を叩いてニヤリと笑った。
 
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