ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


35.木漏れ日の思い出

 目次
 のどかな風景が広がるカーネリアの田舎道。ガタガタと揺れる車にあわせて、ハンドルを握っているクウェルのつるりとした禿頭が揺れる。
 気分が悪くなる不快な振動に辟易しているアレリアーネは、ちらりと隣に座っている父を見た。朝から上機嫌の父は、鼻歌でも歌い出しそうだ。もちろんそんなはしたない真似をしたならば、アレリアーネは遠慮なく父の腕でも足でも抓りあげるつもりでいる。
 次第に見えてきたのは、アレリアーネの記憶にあるブロウニング家の屋敷だ。その建物の姿に、幼い頃の色褪せない思い出の数々が重なる。
 執事のクウェルは車の運転がそれほど上手くない。ブロウニング家の控えめなエントランス前で、車はがっくんと急停車した。前につんのめりそうになるが、アルバートもアレリアーネも慣れているので今更驚いたりはしない。
「お疲れ様です、到着いたしました」
 頭の汗を、つるりとハンカチで拭いながら言ったクウェル。緊張していたのか、一番疲れているようだ。アレリアーネがほっと息をつくと、ガチャリと車のドアが開く。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
 黒髪の青年執事、カリナが微笑んだ。
「アルバート様、アレリアーネ様。お疲れになられたでしょう。さあ、こちらへ。カナック、ミレーヌ、お願いします」
「ああ。カリナ、すまないね」
 車から降りたアルバートが、衣服の襟を整えて軽く手を挙げた。カリナの指示で、カナックが車から大きな荷物を降ろして両手に下げた。
 カリナにきっちりと言い含められ、今日は大人しいミレーヌが深々とお辞儀をしてアルバートに付き従う。
 アレリアーネが車を降りる際、さりげなく手を取るカリナ。その自然で、流れるような身のこなしに感心する。若いカリナとクウェルを比べるのは、酷な話なのだろうが。
「カリナ。元気そうですわね」
「はい、ありがとうございます。お美しくなられましたね、アレリアーネ様」
「ふふ。ありがとう、カリナ」
 眼鏡の奥の真摯な瞳、黒髪の青年執事の賛辞を素直に受け取る。カリナがたとえ世辞を言っていたとしても、少しも嫌みに感じない。それはカリナの人柄なのだろうか? それにしてもと、アレリアーネはずけずけと嫌みを放つクウェルを、ちらりと睨んだ。
 いや、執事の質を比べている場合ではない。
 アレリアーネは高揚してくる気持ちを抑えて、自らが演じる大役を頭に想い描く。
(さぁ……。しっかりしなさい、アレリアーネ)
 心を奮い立たせて表情を改めたアレリアーネは、自らが演じる舞台となる屋敷を振り仰いで目を細めた。

 ☆★☆

「約束通りやって来たよ、ブレンディア!」
「う、うむ」
 大股で歩み寄ったアルバートは、ブレンディアの手を取り固く握手を交わす。アルバートが相手だと、相変わらず困ったような表情のブレンディアは歯切れが悪い。
「お久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか、アルバート様。この間はご挨拶もしなくて……申し訳ありませんでした」
 フリードが丁寧に挨拶をするとアルバートは目を見開き、大きく手を広げていきなりフリードに抱き付いた。
「いやぁ、フリード! 会いたかったよ!」
「ア、アルバート様!」
 大はしゃぎしているアルバートは、フリードをますます強く抱きしめて振り回す。どうしたものかとフリードが困惑していると「お父様、いい加減になさいませ!」厳しい声が室内に響いた。
 顔色を変えたアルバートは、ばっとフリードを放して取り繕うように、こほんと咳払いをする。
 アルバートの熱烈な抱擁から解放され、安堵したフリードが声の主を探すと「久しぶりね、フリード……」柔らかに微笑むアレリアーネが立っていた。
 父のアルバートをひと睨みした後、ブレンディアの前に進み出たアレリアーネは、ふわりとした赤いスカートをそっと摘んで持ち上げた。アレリアーネには、赤い色がとてもよく似合う。
「お久しぶりです、おじさま」
 軽やかに微笑んで、僅かに膝を折る。優雅な挨拶に呆然としていたブレンディアは、はっと我に返り「んん」と、声の調子を整えた。
「お、おお、美しくなったなアレリアーネ……」
「いやですわ、おじさまったら」
 微笑みと、答えを返す響きの良い声。 
 フリードは目を瞬かせて、目の前の美女を見つめる。記憶の中のアレリアーネの姿と重ねて見るものの、二つの像は全く一致しない。くるくると良く動く、悪 戯好きの瞳は優しい眼差しに。弾けるように笑う口は、上品な笑みを浮かべている。たった数年で、女の子はこれほどに印象が変わるのだろうか。
「どうしたの? 私の顔に、何か付いていて?」
「い、いや。そんな事はないよ」
「ふーん?」
 アレリアーネが、不意にフリードの顔を覗き込む。
「あ、アレリアーネ……」
 アレリアーネの瞳が湛える光を受け止められず、フリードはつい、と視線を逸らせた。
「さあさあ! フリード、アレリアーネ。さっそくだが、私はブレンディアと話があるのでね。何年ぶりになるのかな? とにかく久しぶりなんだ、二人でゆっくりとすればいい。娘を頼むよ、フリード」
 二人の様子をうずうずとした様子で見ていたアルバートが、堪えきれずに声を出す。
「は、はい」
「それじゃ、行きましょう」
 戸惑い気味にアルバートへ返事をしたフリードの腕に、すっと細腕を絡めるアレリアーネ。
 嬉しそうなアルバートに見送られ、二人は並んで応接間を出た。
「アレリアーネ?」
「ううん、何でもないわ」
 フリードは歩きながら、じっと横顔を見つめてくるアレリアーネに問い掛けた。しかし澄ました顔で小さくかぶりを振るアレリアーネは何も答えてくれない。
 フリードは幼い頃のように、不用意にアレリアーネの心に近づいてはけない……そんな気がした。二つ年上の彼女が、女性として眩しく見えるからなのだろうか。
 フリードはふと思う、ニーナはどうなのだろうか……彼女の側にいると心には小波が立つ、しかし同時に感じる安らぎという相反する感情。フリードは心の中で静かに考えを巡らせるが、答えは出そうにもない。
 二人はゆっくりと広い庭へと足を運ぶ。トムやカナックが精魂込めて丁寧に手入れした花壇に、色とりどりの花が溢れるように咲いている。
「あら?」
 アレリアーネが、花壇の前でしゃがみ込んでいる女の子の姿を見て、小さな声を上げた。
「あっ!」
 フリードとアレリアーネの姿に、気が付いた女の子が慌てて立ち上がる。
 花壇にいるのはフローラだ。花が大好きなフローラは以前、美しい花が咲いているカーネリアの森に入ってしまい大きな騒動になった。姫巫女が守る聖域カー ネリアの森には、決して足を踏み入れることは許されぬ。だからフリードは、いつでも屋敷の花壇を見に来て良いとフローラに教えていた。
「ああ、アレリアーネ。あの子はね……」
「ふふっ!」
 フリードが説明するよりも早く、絡めていた腕をぱっと解いたアレリアーネは、柔らかな笑みを浮かべて足早にフローラに近づくと、側にしゃがみ込んで視線を合わせる。
「こんにちは」
「あ、あの、こ、こんにちは……」
 困惑しているフローラはちらりとフリードを見た後、アレリアーネへおずおずと挨拶を返した。
「みんな綺麗なお花ね。ねぇ、どのお花が好きなの?」
「え?」
 アレリアーネに見とれていたフローラは、一瞬きょとんとしていたが、ぱっと顔をほころばせるとアレリアーネの隣に並んでしゃがんだ。
「ん〜とね、この黄色いお花なの! とっても可愛いから!」
「そうね、とっても可愛いお花ね……私も好き。ねぇ、私はアレリアーネっていうの。お名前を教えてくれないかなぁ?」
「えっと、わたしは、フローラ!」
「ありがとう。よろしくね、フローラ」
 風に揺れる小さな花。その鮮やかな黄色の花びらに、綺麗な指先で触れていたアレリアーネが優しく微笑むと、フローラは嬉しそうに身を寄せて、二人は一緒に花を見つめている。
 フローラのちょっと恥ずかしそうな様子に、フリードも口元をほころばせた。
「変わっていないよな、アレリアーネは」
 木陰のベンチに腰掛け、フリードは空を見上げた。微風が木々を撫で行き、葉擦れの音がする度に降り注ぐ日の光が揺れる。その眩しさに目を細めた、フリードの胸に甦る思い出がある。
 幼い頃、アレリアーネは度々ブロウニング家を訪れていたのだ。ニーナもアレリアーネが大好きで、彼女が来ている事を告げると、両親に駄々をこねてまで遊びに来たがった。
 本好きなアレリアーネは、フリードとニーナにたくさんの絵本を読み聞かせてくれた。フリードが覚えているカーネリアの森の話も、アレリアーネに繰り返し読んで貰った。そうしてアレリアーネが滞在している間は、いつも三人で過ごしていたのだ。
 そう、こんな爽やかな風が頬を撫でて行った。
 あの日、ニーナと交わした大切な約束。
「わたし、フリードのお嫁さんになりたい」
 何の話からだったのだろうか、ニーナが頬を真っ赤に染めて言ったとき、フリードとアレリアーネはきょとんとして顔を見合わせた。
 ニーナの言葉の意味が幼いフリードにはまだよく分からなかったが、ニーナとずっと一緒に居たいと思っていたフリードは、何だかそわそわとした気持ちになった。
 そしてアレリアーネはといえば満面の笑顔を浮かべたかと思うと、両手をいっぱいに広げてフリードとニーナを抱き締めた。
「ニーナ、いま言ったこと、ホント?」
 頬を染めたまま、こくりと肯くニーナ。
「フリードは、ずうっとニーナと一緒がいいのね?」
 神妙な顔で肯くフリード。
「じゃあ、ゆびきり! 約束しなさい、私が見届けてあげるっ!」
 フリードとニーナはおずおずと手を差し出し、照れながら小さな指を絡めて、しっかりと約束したのだ。
「ふたりの約束は、わたしがちゃんと見届けたからねっ!」
 二人を見守るアレリアーネは嬉しげに、そして誇らしげに胸を張ってそう宣言したのだ。
「どうしたの、フリード?」
 フリードの隣に腰を下ろしたアレリアーネは、手を振るフローラへと、微笑みながら手を振り返している。
「ニーナは元気? 今すぐにでも会いたいのだけど、気を使われているようね。まったく、立場が逆でしょうに」
「アレリアーネ……」
 フリードがふと視線を落とすと、アレリアーネは「ふう」と、小さくため息を漏らした。
「懐かしいわね、私は忘れないわ。頬に感じる木漏れ日の暖かさ……。あの日を思い出すの。私は貴方とニーナ、二人が交わした約束の見届け役なのよ」
「忘れる事はないよ、ニーナの小さな指が震えていた。アレリアーネはまるで聖女様みたいだった」
「当然よ、私はそのつもりだったもの」
 アレリアーネは口元に手を当てて、くすくすと笑った。
「安心したわ。あの日の約束を、忘れてしまった訳ではないようね」
 待ちくたびれたという表情のアレリアーネが、きゅっとまなじりを上げて手を伸ばし、フリードの頬をぎゅっと抓った。
「い、痛いよ、アレリアーネ!」
「痛くて当たり前よ、私にどれだけ心配をさせるの!」
 不機嫌そうに言い捨てて、つん! とそっぽを向いたアレリアーネは、澄んだ瞳を真っ直ぐに青い空へと向けた。
「木漏れ日、優しい歌声、大切な約束……」
 歌うように、一言一言を噛みしめるように、アレリアーネの唇が思い出を確かにする言葉を紡ぐ。口を噤んでじっと聞いていたフリードは、溢れ出すニーナへの想いに溺れそうになる。早鐘を打つ心臓の鼓動に喘ぐ。
 感情に翻弄されるフリードは右手で襟元をぎゅっと掴み、深く大きく深呼吸を繰り返して気持ちと心を落ち着けようとする。
「あなたも分かっているのでしょう? 私はあなたとお見合いをするために、ここへ来たわけではないの」
「ああ、そう言うと思っていた」
「それなら話が早いわ」
 そう言って表情を改め、ベンチからすくっと立ち上がったアレリアーネは、強い光を放つ瞳でフリードを見据えた。
「あなたは、ニーナが大切なのでしょう?」
 フリードが顔を上げると、アレリアーネの碧い瞳と視線が交錯する。二人ともその視線を逸らす事はない。まるで互いに剣を取り、命を懸けて対峙するような緊張が漲る。先に剣を振り上げたのはアレリアーネだ。
「約束を忘れていないのなら、ぼんやりしていないで行動を起こしなさい!」
 鮮やかな赤い唇が発するのは、何も出来ずにただ悪戯に時間を過ごしてきた、これまでのフリードを責める言葉だ。
「フリード。ニーナのために、命を懸ける覚悟は出来ていて?」
 そして微かな怒りを含む声は、その質を変えてフリードの魂へと問い掛ける。アレリアーネは文字通り己の魂で、フリードへと語り掛けているのだ。
「ああ、覚悟はある」
 真剣な琥珀色の瞳。拳を握りしめて決意とともに語るフリードの口調は静かだが、静かに燃え盛る青い炎のような熱を帯びている。
「そう……。私はね、あなたの気持ちを確かめたかったの。私に考えがあるわ、だから……」
 アレリアーネは、幼い頃に見たままの笑顔を見せると、勢い良く振り上げた右手の人差し指を、フリードへと突き付ける。
「フリード・ブロウニング、今こそ約束を果たしなさいっ!」
 アレリアーネの言葉と共に強い風が葉擦れの音を大きく響かせ、フリードの柔らかな髪を揺らした。
 
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