ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


49.闇の鎖

 目次
 そして夕刻――。
 祭りの熱気はまだまだ鎮まる事なく、深夜に向けて人々の盛り上がりは絶頂を迎えている。
 レースの運営委員会により用意された宿泊施設の質素な部屋も、野宿が多いフリード達にはなによりの贅沢だ。
 大食い大会は散々な結末だった。胃の中へ詰め込んだホットドッグが消化されるまで身動きが出来ないフリードは、この姿をニーナが見たらどう思うだろうなどと考え、暗澹たる気持ちで横になっていた。 
「大丈夫ですか?」
 どうやら過熱していた頭も冷えたらしい。
 心配そうな顔のヴァンデミエールが、ベッドの上で唸っているフリードの傍らに寄り添っている。
「……ヴァンデミエール、トールが部屋に居ないみたいだけど、どこに行ったのか知らないか?」
 部屋の中に少年の気配を感じない。首を少し動かしたフリードは、傍らで椅子に腰掛けているヴァンデミエールに、しゃがれた声で訊ねた。
「はい、先ほど一人で出ていきました」
「こんな時間に? 行き先は?」
「どの質問にも答えられません、私はあの少年の保護者ではありませんから」
 急に不機嫌そうになったヴァンデミエール、フリードに向けられたのは剣呑な翠の瞳だ。
「見知らぬ土地だけど、大丈夫かな」
 つぶやいたフリードは頬をひくつかせ、取り敢えず矢の様な視線を放つ少女から目を逸らす。
 少し喋るだけで、ホットドッグが喉の奥からから出てきそうだ。こみ上げる気持ち悪さに顔をしかめたフリードが手で口を塞ぐ。それでも歯を食いしばって起きあがろうとするフリードを、ヴァンデミエールがそっと押しとどめた。
「私が様子を見に行きます。あなたは休んでいて下さい」
 そう言って椅子に掛けてあったフライトジャケットを羽織ると、爪先をとんとんと床に打ち付けてブーツの履き心地を確かめる。
「ヴァンデミエール、もう女の子が外を出歩く時間じゃない」
「私なら大丈夫です」
 扉に手を掛けたヴァンデミエールが振り返り事も無げに言う。部屋を出る少女の横顔は、やはり不機嫌そうだった。

 陽が落ちて宵闇が訪れると、星空に近い駐機場の最上階は薄暗い。
 大通りからはまだ祭りの喧噪が遠くに聞こえていて、その賑やかさは雑音のようで心を苛立たせる。しかしこの空間、愛機の側にいればそんな気分も少しは和らぐ。
 静かに翼を休めている相棒の傍らで、じっと踞るイルメリアが大きな溜息をついた。
 床に伸びている影はみすぼらしく、如実にイルメリアの心情を映す。身動ぎなどしなくとも、不思議とゆらゆら揺れる頼りない自分の影を睨み付けていたイルメリアが顔をしかめた。
「まったく。あたしもなまくらになったもんだね、気分が悪いったらないよ」
 未だに胃袋が苦しい。以前はあんなホットドッグの山くらい、あっという間に平らげる事が出来たというのに。
 新型機を駆り、いい気になっている貴族のお坊ちゃんを少々からかってやるつもりだったのだが、そうはいかなかった。観衆の前に晒した己の醜態を思い出し、愛機の装甲に後ろ頭をぶつけたイルメリアが小さく舌打ちする。
 自慢の金髪は色褪せてばさばさだ。手足の関節が滑らかに動かない、まるでオイル切れでも起こしているようだ。以前はこんな焦燥感に囚われた事など一度もなかったというのに。目を閉じたとて微睡むことも出来ず、妙に冴えた頭、その脳裏に甦るのは嫌な記憶ばかりだ。
 胸に去来する様々な感情を持て余していたイルメリアは、微かな空間の揺らぎを感じた。疲れ果ててはいても、冒険者としての鋭敏な感覚は生きているらしい。 
「……嫌な奴が来たようだね」と、短く吐き捨てた。
 駐機場の隅でぐるりととぐろを巻く闇から染み出してくる、薄気味悪いその気配は次第に膨張し、じわりじわりと存在感を増してゆく。
「おいおい、ご挨拶だな」
 上品な身なりをした長身の男が靴音を響かせ、暗がりからゆらりと姿を現した。
「邪魔するぜ、イルメリア」
「邪魔をするなら帰りな」
 整った顔立ちに冷笑を浮かべる男が気安げに話し掛ける、敵意を剥き出しにしたイルメリアが牙を剥くように低く唸った。
「それがボスに対する態度か?」
 上質な仕立ての背広、その胸ポケットから櫛を取り出して髪を撫で付ける。彼の名はホロウリック・ボーウェン……ボーウェン社の専務だ。
「はん、専務が自らお出ましかい? お偉いさんの尻が軽いようじゃ、新興勢力のボーウェン社も大したことないね」
「俺は現場主義なんでな、薄暗い部屋で悪巧みしている親父とは違う。飼い犬がちゃんと仕事をしてるのか監督が必要だ」
 嫌味を吐くために口元を歪めたホロウリックは、櫛をポケットにしまうとその場にしゃがみ込んだ。切れ長の瞳でイルメリアを睨め付ける、その瞳から放たれる眼光は石化の魔力でも持っていそうだ。
 ホロウリックは、ボーウェン社の取締役であるエディック・ボーウェンの一人息子だ。
 まだ若輩者ではあるが、辣腕にして商才があると業界でも噂されている。
 しかし、その内面、彼の本性を知る者は少ない……。
「昼間は面白いモノを見せてくれたな、お前はいつから芸人なんぞになったんだ?」
「冗談じゃない。あれはただの余興、お坊ちゃんの動きを封じるのが目的だったのさ」
「それにしては無様だった。自分の動きまで封じてしまうなんてな、とんだ間抜けだ」
 くっくっと、肩を震わせて笑ったホロウリック。
 その笑い声から明確に感じる侮蔑。拳を固く握りしめたイルメリアだったが、瞬時に自制すると気持ちを落ち着けるように深く息を吸い込む。
「話があるんだろう? さっさと喋って、とっとと帰りな」
「ああ、俺も飼い犬とじゃれ合うために来たわけじゃない」
「ふん。それにしちゃ饒舌だね」
 イルメリアの皮肉を黙殺し、冷徹な表情のホロウリックが立ち上がった。革靴が駐機場の床を踏む足音を響かせて、ふと立ち止まる。
「奴等と余計な接触をしやがって、こっちの予定が狂うだろうが」
 ホロウリックは冷ややかな声で、イルメリアの行動に対しての抗議を前置いた。
「本題だ。ドレープアレナの街を出発すれば、特別なステージが設定されている。承知しているな?」
 そうだ。トップとのタイムを縮めるため、次の区間は通過確認のゲートを目掛けてスピードの競い合いとなる。ゲートを通過するまでの時間が短ければ、その差分だけ先頭との時間差を縮める調整がなされる。レースの経過を盛り上げる為の仕掛けだ。
「シルフィードとお前が同じ最終組とは好都合だ。運河に沿ってパーガトリー国の海岸線へ出た頃に仕掛ける、奴等の注意を引いておけ。今回は特別な機体を用意している、こちらにも抜かりはない」
 ドレープ・アレナの街が誇る、整備された広い運河は産業を支える重要な水路であり、貨物船など今でもたくさんの船舶が往来する。蕩々としたその流れはニーベルン湾へと続いている。
「背後からの不意打ちか、まったくゲスな男だよ」
 ホロウリックが意図する、その策を理解したイルメリアの瞳が鋭さを増した。
「黙れ、その片棒を担ぐのはお前だ」
 ホロウリックは無遠慮にイルメリアを指差す。その全身から放出される悪意は、目に見えぬ鎖となってイルメリアに絡み付く。
「お前は俺に頼るしかないんだ、もう冒険者とは呼べないんだからな」
「……この畜生が」
 イルメリアが弱々しい口調で漏らしたのは、精一杯の悪態だ。
 ホロウリックの嘲笑は両手で耳を塞いでも心に染み込んでくる、熱を感じられなくなった魂をバラバラに砕き、ねじ伏せて意のままに従わせようとする。
「失った仲間の魂を慰めなきゃならんのだろう? ご苦労なことだな」
 イルメリアが噛みしめた唇の端から一筋の血が流れる。どんなに悔やんでも、どんなに渇望しても、時の流れの中で失ったものは戻らない。

 それは、もう何年も前の話だ――。
 イルメリアは大陸の歴史、その最深部の闇を目の当たりにした。
 大陸五大国に存在する「砦」と呼ばれる五つの巨大な遺跡は、大陸を焦土と化した大戦、創世戦争期の最中に建造されたと伝えられている。太古の遺跡にも関わらず、砦の再深部には今でも尚、巨大な力が眠っているらしい。
 「砦」についての仔細に関する文献は、長い年月と繰り返される戦火によって大半が亡失してしまい、詳細を知るものはいない。多方面の学者が研究意欲を掻き立てられ現在でも調査が進められているものの、その作業は戦禍と時の流れに阻まれて難航している。
 ルミニウス国に存在する古の砦、ヴォドルザーク。
 以前、イルメリアは冒険者仲間と共に、研究者達の護衛を務めるという依頼を受けた。
 仕事の邪魔をするのはせいぜい盗賊くらいのもの、簡単な仕事だ。誰もがそう思っていた。しかし、創世戦争期に蓄えられた憎悪という魔物は死に絶えてなどいなかった。闇の中でその強さを増し、鋭利な牙を磨き続けていたのだ。
 凄惨な光景を思い出しただけで、恐怖で体が凍り付くようだ。
 仲間達は皆、死んでしまった。命からがら逃げ出して、生き残ったのはイルメリアただ一人。相棒のレイピアを残してすべてを失った……。
 冷たい石造りの砦から仲間の遺品をどうしても持ち帰らなければならないと、イルメリアはこれまでに何度も砦の内部に侵入しようと考えたのだが、装備も整える金もない。そして老齢の愛機では砦に近付く事さえ叶わぬ。
 だから、考えあぐねたイルメリアは――。
「あの動力炉が手に入れば、お前の望みに叶う機体をくれてやる。新型のヴェスペローパか? それとも建造中のアストレディアか? 砦内部を捜索する為の人員確保、物資の提供、その件も忘れちゃいないぜ」
 顎を突き出したホロウリックが、イルメリアの足を蹴り飛ばし、じわりと力を込めて踏み付ける。
 イルメリアは両手で頭を抱えたままで体を丸めた。脳裏に甦るのは仲間達の顔だ……。皆の責めるような瞳は、イルメリアに何かを訴え続けている。
 仲間と誓い合ったのは冒険者としての、いや、人としての正しい心だ。その誓いに背く事をしているのは分かっている。しかし、今のイルメリアに力は残されていない。まただ、また身を切り裂くような痛み、葛藤に苛まれるのか……。
「ちっ、誰か来たようだな」
 首を動かし、駐機場の闇を見据えたホロウリックが鋭く舌打ちした。
「飼い犬は従順であるべきだ。じゃあな、自分の立場を忘れるなよ」
 イルメリアを嘲笑い、存分にいたぶった男は固い靴音を響かせて足早に闇へと消えた。
 萎えてしまった四肢へと無理矢理に力を込めて、イルメリアが立ち上がる。背を丸めて歯を食いしばり、過去を体の中へと強引に押し込んだ。
 そうして胸を張れば、どんな絶望を背負っているかなど誰にも分からない。
「そこに居る奴、出てきな!」
 口元の血を拭ったイルメリアは虚勢を張り、気配を感じた暗闇を視線で射貫く。おぼろな光を受けて立つのは、少年の姿だった。
「姉ちゃん……」
「はっ、お坊ちゃんの連れか。あたしに用でもあるのかい?」
 傷だらけの重そうな革靴を履いた足でゆっくりと歩み出たトールは、イルメリアの前で立ち止まると爪先に視線を落とす。迷い子のようにそのまま視線を泳がせていたが、少年はぐっと唇を噛みしめて顔を上げた。
「姉ちゃんのウインドシップは、もう飛べないよ」
「ああ? いきなり何を訳の分からない事を」
 先程のやりとりを聞かれていないかと危惧したが、どうやらホロウリックと一緒に居るところは見られていないらしい。安堵したイルメリアだったが、少年からの思い掛けない指摘に息をのんだ、背筋にじわりと汗が浮かぶ。
「くだらない言い掛かりだね、馬鹿な事を言うと承知しないよ」
 腰に手を当て、少年を怖がらせようとして凄んでみせるが、口を真一文字に引き結んだトールは怯んだりしなかった。強い光を帯びた黒い瞳で、じっとイルメリアを見つめる。
「その機体はレイピアだよね? ウインドシップが世界的に活躍の場を広げた、その黎明期に開発された有名な機体だ」
 トールの言葉に、僅かながら驚いたイルメリアが青い瞳を見開く。
 しかし微かな感情の揺らぎなど表に出す事もない、憎まれ口を絞り出すために赤い唇をわざと大きく歪めてみせる。
「あんたのオムツが取れるよりも、ずうっと前の話さ。よく知っているじゃないか、お勉強熱心なんだねぇ、えらいえらい」
「からかわないでくれよ!」
 子供扱いされて怒ったトールが、頬を紅潮させて声を荒げた。
 大人びた事言う少年を子供扱いする事で、自らの動揺を煙に巻こうとしたのだが。
「レイピアは、もう骨董品の機体だよ。機能保持のための保有部品だって、何処を探しても見付からない。とっくに製造が終了しているんだ」
 トールは、翼を休める老齢の機体へと目を向ける。
 だが、その表情からは憐れみや同情など少しも感じない、少年の真剣な瞳に湛えられているのは純粋な憧憬だ。
「あの時……」
 イルメリアを見据えたトールは、思い出すようにゆっくりと言葉を続ける。
 ドレープ・アレナの街に設置されたゲートを通過する際、シルフィードとレイピアは接触事故を起こしかけた。その瞬間、トールはイルメリアが駆るレイピアの機体挙動を不審に思った。
「避けなかった、じゃないよね。避けられなかったんだ」
「へえ、どうしてそう思うんだい?」
 そっぽを向いて、小馬鹿にしたように鼻で笑ってみせるイルメリア。
「繊細な機体制御が出来るレイピアは、重大な事故が圧倒的に少ないんだ。高いコントロール性能を持つレイピアはウインドシップの安全性を示した、空路の拡大に貢献した機体なんだよ!」
 少年から視線を外し、顔を背けていたイルメリアがそっと青い瞳を伏せる。噛みしめた唇と僅かに震える握りしめた拳が、トールの推測を肯定していた。
「機体各部に緩みがあると思う。動力炉もスロットルレバーに対する鋭敏な応答を返せないんだ、だから……」
 イルメリアの横を過ぎ、トールはレイピアへと歩み寄る。
「シルフィードと衝突しなかったのは、間違いなく姉ちゃんの腕前だよ」
「待ちな、あたしのレイピアに近付くんじゃないよ!」
 夜気を震わせるようなイルメリアの怒鳴り声。ぴたりと歩みを止めたトールは、ぴんと背筋を伸ばすと勢いよく振り返った、丈夫な革靴を履いた足に力を込めて踏ん張る。
「こいつは、姉ちゃんの大切な相棒なんだろう? このままにしておく気なのかよっ!」
「知ったふうな口をきくなっ! このクソガキがっ!」
 イルメリアが金髪を振り乱してトールに歩み寄ると、荒々しく胸ぐらを掴んで吊り上げる。頭に血が上った、相手がまだ子供だという事が分かっているはずなのに。
「姉ちゃんは、姉ちゃんはこいつと一緒に飛びたいんだろう? レイピアだって、同じ事を思っているはずだよ!」
 長身のイルメリアに吊られて喘ぎながらも、トールは襟首を締め上げるイルメリアの手を握り、精一杯の大声で叫ぶ。 
「フリードやヴァンデミエールだって、あんなにシルフィードを大切に思っているんだ。ウインドシップ乗りにとって、愛機はかけがえのない相棒なんだろ? 違うのかよっ!」
 気が付けば、少年の力を帯びた声に気圧されていた。
「ちっ」
 奥歯を砕いてしまいそうなほどに噛みしめる、真っ直ぐに自分を見つめる少年に何も言い返せなかった。
「俺が、俺がレイピアを整備してやるよ」
 肌を炙るような、少年の決意を込めたその言葉。
「ふざけるな、尻の青いガキが。黙って聞いていれば」
「こう見えても俺は整備士なんだ。くたびれた機体が目の前にあるのに、放っておけない」
 トールは使い込んだ大きなレンチを腰の工具袋から抜き、まるで剣のように眼前へと掲げてみせる。
 その真剣な瞳に、イルメリアは少年にぶつけようとしていた辛辣な言葉をすべて飲み込む。いつの間にか、それほどに胃袋の中は空っぽになっていた。
 強ばっていた全身から力が抜け落ちる。少年の胸ぐらを掴んでいた手を緩め、小さな体を放り出すとその場にどさりと座り込んだ。
 自分は助けを求めているのだろうか、少年のお節介を拒む言葉がどうしても出てこない。
「……好きにするがいいさ。お前のお節介なんだ、礼は言わないよ」
 胸の奥底で渦巻く自分自身への嫌悪、少年と正面から向き合う事が出来ない。掠れる声で吐き捨てたイルメリアは床にへたり込むと、背中を丸めて膝を抱いた。
 
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