The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 17.〜約束、星降る夜に〜(前) |
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夕暮れ時に窓から射し込む、強い光に照らされる店内。 秋の陽は、とても短くて。 その暗くなっていく静かな一時は、心の奥底でゆらゆらと揺れる想いを呼び起こす、ひとひらの寂しさを私に感じさせます。 コーヒーカップを洗いながら、私は忘れられないひとつの出来事を思い出していました。 冷たさを感じ始めた風、不安定な空模様の日が続いていました。 午後から崩れるという天気予報で心配していましたが、雨が降り出す前に買い物を済ませる事が出来ました。 よいしょっと紙袋を抱え直して、茶館の古いドアを開けると店内に遙さんの姿が。 「遙さん、いらしてたんですか」 遙さんに、そう声を掛けたのですが返事がありません。 いつもと違ってどこか沈んだ遙さんの表情に、私は紙袋をカウンターへと置いてしばらく立ち尽くし、次の言葉を飲み込みました。 壁に空いている、ちょうど絵の額一枚分のスペース。 たくさんの絵が飾られている茶館の壁の中で、不自然な一画があります。ぽっかりと空いている何もない空間、そこにも以前は絵が飾られていたのでしょう。 遙さんはそこへ手のひらを当てて眉根を寄せ、じっと何かを考えているようです。 「あ、瞳子ちゃん。お帰りなさい」 私に気付いた遙さんは、少し驚いた様子でした。 「遙さん、どうしたんです?」 「何でもないわ。うん、何でもないの」 弱々しい笑顔を浮かべる遙さんに、その時私はそれ以上尋ねることが出来ませんでした。 ……休日の昼下がり、全ての席にはお客様の姿。 仲睦まじいカップル、文庫本を広げて読みふける学生さん、壁に飾ってある絵を眺めながらコーヒーの香りを楽しむのは、お年を召した男性。 その時です。 不意に大きな音で、短く軽やかなメロディが響きました。 店内に流れる静かな音楽とはあまりに違った音に、お客様達は不思議そうな顔で周囲を見回していらっしゃいます。 そのお客様の中で、真っ赤に頬を染めて小さくなっているひとりの若い女性。 タートルネックのセーターにプリーツスカート。足にはスエード調のブーツ、季節に相応しい姿です。 間違いありません。先程聞こえた大きな音は彼女が持っている、携帯電話の着信音だったのでしょう。 綺麗な長い髪。優しそうな印象の瞳が、今は困ったように周囲を気にしています。ここのところ、よく姿をお見かけする女性だと気が付きました。 他のお客様にとって些細な音など、取るに足りないことでしょう。 店内のざわついた雰囲気が収まると、彼女は遠慮がちに携帯電話を取り出して画面を開きました。 そしてしばらく画面を見つめていた彼女の表情が、ぱっと明るくなります。私は携帯電話を使わないのでよく分かりませんが、電子メールというのでしょうか。 ちょっと首を傾げた彼女の優しく微笑んだ瞳が、じっと画面に表示されているはずの文字を追っています。その様子がとても幸せそうで、私はついつい彼女の方へ視線を向けてしまいます。 ところが幾度目かに彼女を見ていた時に、彼女と視線がばったり合ってしまいました。 すると彼女は、手にした携帯電話と私の顔を見比べて一度『ひきっ!』と固まった後、機械仕掛けの人形のようにぎこちなくテーブルの上の伝票を掴みました。 ジャケットを手に取り、そのまま席を立ってずんずんと私の方へ歩いてきた彼女は、まるで熟れたトマトのように真っ赤な顔をしています。 「す、すみません。お・お・お・おいくらですかっ!」 「は、はい。え、ええと、よ、480円になりますっ!」 伝票を差し出す迫力に気圧されたのと、気まずいのとでしどろもどろで答えると。彼女は慌てた様子で千円札を財布から取り出し、お釣りを受け取るのももどかしく茶館を飛び出してしまいました。 困りました。私は深い溜息をついて、胸の前で両手をきつく握りしめます。決して盗み見ていたわけではないのですが、彼女に不快感を与えてしまったようです。 楽しそうな彼女の様子が、微笑ましかったからなのですが……。 お客様に対しての心遣いが充分ではありませんでした。 もう一度、彼女に会う機会はないでしょうか、私は後悔をすると共にそう心に思っていたのです。 そんなある日。 「いらっしゃいませ!」 ドアベルの音に振り返ると、そこにはあの日の彼女が立っていました。 とても気まずい思いに、私は声が裏返らないように注意しながら彼女を迎えます。 「こちらへどうぞ」 どうしても意識をしてしまいます。 私がぎこちなくテーブル席を勧めると、彼女は首を横に振りました。 「あの、すみません。カウンター席でもいいですか?」 「あ、はい! もちろんです」 彼女がカウンター席へ落ち着いたところで、私はあらためて深々と頭を下げました。 「この間は私のせいで、ご不快にならたみたいですね。申し訳ありませんでした」 「え、えええ? そんな、あのっ!」 彼女はうろたえた様子で、両手を顔の前でぶんぶんと振っています。 「ええと、違うんです……」 彼女は身体を縮こまらせたまま、遠慮がちに笑いました。 「お待たせしました」 カフェ・オレのカップを彼女……美樹さんの前にそっと置き、私は銀のトレイを胸に抱きます。 「この間は私の方こそ、ごめんなさい。ちょっと、恥ずかしくなっただけですから」 身を縮こまらせた美樹さんは、カフェ・オレのカップを包み込むように両手で持って、そっとひとくち。 「……美味しいです」 「ありがとうございます」 とても嬉しいです、遙さんに太鼓判を貰っていますから。 他にお客様もいらっしゃいませんし、私は手作りのクッキーをお皿に載せて置きました。 「わぁ、可愛いクッキー! 手作りなんですか? 水無月さん、お上手なんですね」 「味の保証は出来ませんけど。お気に召したら、たくさんどうぞ!」 私は根が単純なのかも知れません。でも、ほんとうに嬉しいです。 心の中で密かに、ぎゅっ! と手を握りしめました。 「あの、今日はお茶にいらしたのですか?」 クッキーをひとつ摘む美樹さん。 何か話したそうな様子に気が付いた私は、さりげなく水を向けてみます。 すると。 「あ、あの……もしよければ、少しお話を聞いて頂いてもいいですか?」 「お話ですか? ええ、もちろんですわ」 お客様からお話を聞くのが好きな私は、すぐに返事をしました。 私は注文をお伺いする際にお客様から話しかけられると、ついついお話に聞き入ってしまう癖があるのです。 私の返事に少し逡巡した様子の美樹さんでしたが、バッグから大事そうに小さな巾着袋を取り出しました。 淡い水色に模様が散りばめられた、可愛い巾着袋の中から取り出した携帯電話を手に、彼女はぽつり、ぽつりと話し始めました。 彼女の話では今、想いを寄せている彼がいるそうなのです。 その彼は絵描きさんで、単身渡欧して一生懸命に絵の勉強を続けているのだとか。 お話をする美樹さんを見ていると、その気持ちがよく分かります。美樹さんは心から彼を応援しているのでしょう。 外国で絵画の勉強をするために、まとまった資金を貯めなければならず。 彼は働き詰めで、なかなか会う時間も取れなかった二人。お互いに想いが通じているのは分かっていても、実際に言葉を交わし触れ合う事が出来ないというのは、不安が募るに違いありません。 「彼は月に何度か、電話かメールをくれるんです。それがたまたまお店でお茶を飲んでいる時で、私ったら嬉しくて舞い上がってしまって」 携帯電話をきゅっと握り、美樹さんはうつむきました。心なしか頬が桜色に染まっています。 あの時の、美樹さんの優しい笑顔の理由が分かりました。 また様々な不安や周囲からの言葉も、彼女の心を揺さぶるようです。 「絵描きなんて仕事のうちに入らないって、彼とのお付き合いは周りからも慎重になさいと言われていて……」 「そうなんですか……」 絵描きというお仕事がとても大変な職業だというのは、私にもよく分かります。 でも、夢を持つのは素晴らしいことではないでしょうか。 胸に抱いた夢を、ずっと持ち続けるだけになってしまう人も多いはず。 それは経済的な問題、自身の心の問題など、様々な事情によるのですが、それらを跳ね除けて自らの夢へと羽ばたき、歩む道をしっかりと見つめている彼。 私は純粋に、美樹さんの応援をしたくなりました。 「美樹さん! 私、応援していますから。ひとりで不安を抱えきれない時には、ここへいらして下さいね、私で良ければいつでもお話を聞きますから!」 「好き」という、その熱くてとてもあやふやな人の気持ち。 その気持ちだけで、時に信じられないほどの大きな力の源になる事もあるのです。 「ありがとうございます、水無月さん! 私、頑張りますね!」 硬さがほぐれ、心からほっとした様な美樹さんの表情。彼女はずっと、誰かに相談したかったのかもしれません。 美樹さんの笑顔を見ていた私は、左手の薬指に微かな痛みを感じたのです。 その痛みが少し気になって、そっと左手の薬指に触れました。 ☆★☆ それから週に幾度か、美樹さんは茶館を訪れて下さるようになりました。 彼との温かいメールのやり取りを聞かせて貰う度に、私は心から美樹さんのお話を楽しみにするようになっていました。 ちょっと年上の彼、星を眺めるのが好きな事、セロリが苦手な事、チョコレートが好きな事、少しずつ美樹さんと彼の事が分かって来ました。 そして、瞬く間にまた数日が過ぎていったのです。 「痛っ!」 あまりの痛みに、びくっと身をすくめた私の手からカップがこぼれ、床に落ちて嫌な音を立てて割れました。 左手の薬指の痛みが酷くなっているようです、でも激しい痛みなのに傷も腫れもありません。慌てて床にしゃがみ込み、散らばったカップの破片を拾い集めます。 小さな破片を集めるため箒を取ろうとすると、慎吾さんが椅子から立ち上がるのが見えました。 「瞳子、ちょっといいか?」 「はい」 私にそう断った慎吾さんは、大きな両手で私の顔を挟んでじっと瞳を覗き込みます。 強い光を湛える瞳に見つめられ、吸い込まれそうになると同時に心臓の鼓動が早くなってきます。 「し、慎吾さん。あ、あのっ!」 心臓の鼓動が聞こえてしまうようで、うろたえている私の顔を放した慎吾さんは眉をひそめました。 上気している頬と心臓の鼓動を鎮めるために、胸に手を当てて深呼吸します。 「瞳子……お前、目が痛くないのか?」 「え?」 慎吾さんに問われた意味が分からず、私は思わず聞き返しました。 でも、慎吾さんはとても心配そうな表情なのです。 「目だよ、何か心当たりはないか?」 「いいえ、痛めたりしていませんわ」 「そうか? いや、それならいい」 どうなさったのでしょう? 慎吾さんは小さく頷いて私の手から箒を取り、床を掃き始めます。 私はふと、身だしなみを整えるために掛けてある鏡に自分の顔を映してみます。 じっと鏡を覗き込んでみても、私の黒い瞳は特に変わったところはありませんでした。 翌日、早い時間に茶館にいらした美樹さんは、いつにもまして嬉しそうでした。 弾けるような彼女の笑顔に、私も自然に顔がほころんできます。 「あのね、瞳子さん。このお店に彼の絵が飾られているんですって! 恥ずかしがって教えてくれなかったんですけど、昨夜のメールでどんな絵か教えてくれました!」 私は驚いて、茶館の中を見回します。 美樹さんの彼が描いた絵とは、どの絵なのでしょう? 私は店内の絵について遙さんに教えて貰っているので、だいたいの事は分かるのですが。 「ほら、あそこ! フランスのセーヌ川ですって!」 私は驚きました。 美樹さんが指さした先には絵など飾られておらず……。そこだけぽっかりと、壁が覗いているのです。 その場所は確か、表情を曇らせた遙さんが手を触れていたはずです。 「あの、美樹さん?」 「綺麗な景色ですよね、彼と一緒に眺めたいなぁ……」 私の怪訝な表情にも気付かぬ風で、美樹さんはうっとりとしています。その時また感じた左手の薬指の疼き、眉根を寄せた私はそっと冷たい左手をさすりました。 ☆★☆ どうしても、美樹さんの様子が頭から離れません。 食欲も無くて、いい加減なお昼ご飯を済ませます。お水が入ったグラスを片手に、美樹さんが指さした壁をぼんやりと見つめながら考え事をしていると。 店内に、控えめなドアベルの音が響きました。 「こんにちは、瞳子ちゃん」 「あ、恵子さん、こんにちは!」 どうしたのでしょう、いつもは軽ろやかな足どりで茶館へ入ってこられるのですが。 少し深刻な表情は、いつもの明るい恵子さんと様子が違います。 「ねぇ、ここ最近気になっていたんだけど。瞳子ちゃん、少し痩せたんじゃないの?」 恵子さんは、カウンターの席に落ち着くなりそう言われました。 お水を注いだグラスとおしぼりを置いた私は、小首を傾げます。 スマートになったと言われればそれは嬉しいです。でも恵子さんの心配そうな表情に、私が喜んでいいものかと困っていると。 「ちょっと顔色も悪いし。痩せたと言うよりは、やつれた感じよ?」 「そ、そうですか?」 私は自分の頬を撫でてみます。 特に違いは感じないのですが、恵子さんにはそう見えないのでしょう。 そう言えば、慎吾さんも私の目を心配して下さっていました。 「疲れかも知れないわね。環境が変わって、まだまだお店にも慣れていないだろうし。無理しちゃ駄目よ、人間は体が第一なんだから」 「ありがとうございます、ご心配をお掛けしてすみません」 私は恵子さんに、深くお辞儀しました。 心配して、わざわざ様子を見に来て下さる恵子さんに私は深く感謝しています。思えば毎日商店会の皆さんと言葉を交わす事が、私の楽しみでもあるのです。 「気にしなくっていいのよ。それより私のお店で働いてくれる前に、倒れたりしないで ね」 今日はいつもの冗談にも迫力がありません。 心配そうな表情で微笑む恵子さんに、私は頷きました。 ☆★☆ 「瞳子さんっ!聞いて下さい、彼が帰ってくるんですっ!」 お会いする度に、輝きが増してくるように感じられる美樹さん。今日は、ちょっとお洒落をしていらっしゃいます。 「あした日本に帰るからって、彼からメールが!」 お昼過ぎにお店へ駆け込んできた美樹さん。携帯電話を胸に抱いて、彼女は涙ぐんでいるようです。 「良かったですね、美樹さん!」 私はハンカチを彼女に差し出します。美樹さんはハンカチをそっと目に当てて涙を拭うと、泣き笑いの表情に。私は他のお客様の事も忘れ、美樹さんと手を取り合ってしばし大喜びしました。 「ちょうど獅子座の流星雨が見られる時期だから、暖かくして坂上の高台に行こうって!」 後から後から溢れ出る大粒の涙に、美樹さんは困惑しているようです。 無理もありません。 遠い遠い地で暮らす彼を想い続け、電話メールだけの触れ合いなのですから。 とても強い二人の絆を感じる私も、そっと目尻に浮かんだ涙を拭います。 「今日は美容院に行くんです。だから髪型に似合うようにちょっと着飾って、可笑しいですよね」 とても楽しそうな様子の美樹さん。でも、どうしてなのか分かりません。 私は何故か、彼女の笑顔に強い不安を感じていました。 |
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