The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 18.〜約束、星降る夜に〜 (後) |
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朝から窓の外を何度も見ている私は、曇り空を眺めながら深い溜息をつきます。 美樹さんは、彼と二人で流星群を見ようと約束していらしたのに。時間ごとにテレビから流れる天気予報を見ているのですが、どうにも天候は回復しそうにありません。 窓の外を見ながら憂鬱そうな顔をしていると、無言で立ち上がった慎吾さんがドアベルの隣に、可愛らしい“てるてる坊主”をぶらさげて下さいました。 私がずっと天気の話ばかりしている事を、気に掛けて下さっていたのでしょう。 「ありがとうございます!」 てるてる坊主を人差し指でちょんとつついて慎吾さんにお礼を言うと、大きな後ろ姿はちょっと照れくさそうです。 でも、次第に強くなって来る風。 とても残念です、少しくらい晴れてくれたっていいのに。 慎吾さんが作って下さった“てるてる坊主”の力も届かず。 お昼過ぎから降り出した雨は止む事が無く、そのまま日が暮れてしまいました。 美樹さんは、彼を迎えに行かれるのでしょうか。 そんな事を考えているとドアベルが鳴り、お店の扉を開いた美樹さんの姿が。 淡いお化粧が、清楚な美樹さんのイメージを引き立たせています。綺麗に着飾って、長い髪をふわりとさせる緩やかなウェーブ。 「こんばんは、美樹さん。とても綺麗ですよ」 美樹さんは私に答えることなく、硬い表情のままで外の様子を眺めています。 「……冷たい雨」 美樹さんの表情は曇ったまま。 残念な気持ちはよく分かりますが、この空模様では星を見るのはとても無理です。 「私は今から、高台に行きます」 「えっ! 今からって……彼はもう帰ってらしたんですか?」 思い詰めた表情。美樹さんの様子が少しおかしいです。 私は強く言ってでも、彼女を引きとめなければならないと思いました。 「美樹さん、どうしたんですか、何があったんです?!」 「大切な約束なのよ」 小さくかぶりをふった美樹さんはそう言って、身を翻すと茶館を飛び出してしまいました。 「美樹さん、待って下さい!」 私は慌ててカウンターを出ると、美樹さんの後を追いました。 強い風と雨に手をかざし、美樹さんの姿を探しましたがどこにも見あたりません。 「急いで追いかけないと……」 この風では、とても傘など使えません。 私はすぐに髪を留めているバレッタを外してカウンターの上へ置くと、長い黒髪が邪魔にならないようにひとつにまとめます。 「すみません、慎吾さん。お客様をお願いします!」 「ちょっと待て、瞳子っ!」 慎吾さんの叫び声を置いて、私はレインコートを身に纏うと茶館を飛び出しました。 「美樹さーん!」 強い風雨の中を、私は美樹さんの名を呼びながら走ります。 夕刻の上にこの天候です、商店街にほとんど人の姿はありません。商店会の皆さんに尋ねようにも、どのお店も早じまいをしているのです。 中央通りの真ん中で立ち止まった私は、胸に手を当てて荒い息を鎮めます。暗くなり風雨が吹き荒れる様は、いつもの商店街ではないように感じます。 「早く、展望台に行かないと」 私は坂上の高台を目指して、再び走り出しました。 緩やかな坂道。右手には雨にけむり、ぼんやりと見えている高校の校舎。激しい風雨は一向に弱まる様子がなく、木々を揺らし私の体を叩き続けます。 坂上には公園と共に、街を一望出来る広い展望台。 私は力を振り絞り、走り続けます。 長い坂を登り切ると、展望台で空を見上げる美樹さんの姿を見つけました。風邪でもひいたら大変です、早く美樹さんを連れて茶館に戻らなければなりません。 「美樹さん、良かった!」 しばらく両膝へ手を当てて呼吸を整え、美樹さんの側へ寄ろうとした私は、突然強風に煽られました。一瞬体が宙に浮き、声を上げる事も出来ずに思わず固く目を閉じます。 私はそのまま強く地面に叩き付けられ、激しい痛みに一瞬息が止まりました。 やっとの思いで、痛みに震える体を起こします。 「美樹さん」 美樹さんは、どうしてしまったのでしょうか。 悲しげな瞳の美樹さんが、ゆっくりとした足どりで私へと歩み寄ってきます。 『ごめんなさい、瞳子さん。でも、あなたが必要なの。二人の約束を裂いてしまう、この暗い雲を吹き払うためには……』 何が起こっているのか、私には分かりません。 水溜まりに弾ける雨。 体の痛みに立ち上がる事も出来ずに、私は顔を上げて美樹さんを見つめます。 『あなたの、瞳の力を貸してちょうだい』 美樹さんが私へと手を伸ばした瞬間、私の目の前に鮮やかなエメラルド色の光が吹き上がりました。 「もう、おやめなさい」 鋭い声が響き、黒いジャケットを身に纏った……それは遙さんの姿。 強い風になぶられるリボンタイに輝いている飾り石。 私を見つめる優しい栗色の瞳と、栗色の濡れ髪。 「は、遙さん!」 「やっと、やっとあなたの側へ来る事が出来た」 遙さんは、私の手を引いて立ち上がらせて下さいました。 随分と長い間、遙さんの顔を見ていなかったような気がします。 「あ、ありがとうございます」 膝が震えて、その場に座り込んでしまいそうでしたが、私は遙さんにすがりつくようにして体を支えます。 「美樹さん」 私へと顔を向けた美樹さんの悲しそうな、そして何かを訴え掛けるような表情。 美樹さんの姿を見ているだけで、胸が苦しくなってきます。 そんな私を押しとどめ、遙さんが前に進み出ました。 一段と強く吹き付ける風が髪を乱し、まるで壁のように遙さんの前へと立ちはだかっているようです。 「この嵐が止んだって、彼がこの場所を訪れる事なんて出来ない。それはあなたが一番よく分かっているはずよ」 遙さんを見つめ、美樹さんが震える肩を抱いて首を振ります。 「遙さん、何を言ってるんですか!」 雨と風を真っ向から受け、私を手で制した厳しい表情の遙さんが静かに口を開きました。 「瞳子ちゃん。いいの、もういいのよ……」 「でもっ!」 私は力を込めて、懸命に遙さんの袖を引きます。 「あなたがどんなに瞳子ちゃんにすがっても、過去は変えられない。失った命を取り戻すなんて事は、絶対に出来ない」 怒りと悲しみを含んだ遙さんの口調。 私は遙さんの袖にしがみ付き、呆然とその横顔を見つめます。 「瞳子ちゃん。茶館の中に、美樹さんの彼が描いたという絵は無かったでしょう?」 「は、はい……」 私は頷きました。 遙さんがおっしゃるように、彼が描いたというセーヌ川の絵は茶館の壁に飾られてはいません。 「瞳子ちゃん、あれは美樹さんじゃないわ。彼女の姿を借りた、彼の絵の想いよ」 淡々とした遙さんの口調は、溢れ出す感情を抑えつけているように感じられます。 「そう、彼が描いた絵が抱いている思い出なの」 「思い出……」 私は、それ以上の言葉を継ぐ事が出来ません。 「そう。美樹さんは茶館に飾られた彼の絵を見つめて、異国の地で暮らす彼へ想いを寄せ続けていた。一途にね……それは、まだ私が茶館に居た頃の話。すべて私が生前に経験した事よ、私はあなたのようにずっと、美樹さんのお話を聞いていたから」 話を続ける遙さんは、悔しそうにきゅっと唇を噛み締めます。 信じられません。私が繰り返された過去の時間にいたのだと、遙さんはおっしゃいます。 「夢を叶える為とはいえ、美樹さんの彼は随分と無理を続けてね。フランスでの滞在中に体を悪くして、そのまま……」 私は絶句しました。 『二人にとって、とても大切な約束だったの……』 溢れ出る涙をそのままに、遙さんの言葉を拒絶するように両肩をきつく抱きしめるその姿。 切なく、とても深い悲しみを湛えたその瞳。 彼の絵は茶館で遙さんに彼の事を話す、楽しそうな美樹さんの姿を今でも憶えているのかもしれません。 そして、彼が美樹さんに寄せていた想いも。 遙さんは、両手をぎゅっと握りしめています。 「彼が亡くなった後。茶館に飾られていた絵は、彼のお父様が形見にしたいからと引き取りにいらした。あのままずっと茶館に飾られていたのなら、私が強い想いを包み込んでいてあげられたのに」 遙さんは大切な息子さんを失った、彼のお父様の気持ちを尊重したのでしょう。 『二人が微笑み合うのを……ずっと、ずっと夢見ていた』 美樹さんを見守り続けた絵にとって、心残りは叶うことなく消えた二人の約束。 深く焼き付いている悲嘆に暮れる美樹さんの姿と、切ないその言葉。 交わされた約束が叶わない限り残された二人の想いはひとつにならないと、今でも悔やんでいるのです。 でも、そうではありません。 私は握っていた遙さんの袖を放し、しっかりと自分の足で立ちました。 「あなたは、お店で二人の事を私にたくさん聞かせてくれたじゃないですか、あなたは二人が感じていた幸せをたくさん知っています、そうでしょう!?」 私は自分の心に沸き上がった想いの全てを、美樹さんの姿を借りた彼の絵に伝えなければなりません。 美樹さんが感じていた嬉しさや、心を揺さぶる不安……遠く離れていたって、二人の心は、しっかりと繋がっていたはず。 二人はお互いを想い、その気持ちをそっと伝え合っていたのです。 私は大きく大きく吸い込んだ息を、精一杯に胸へと溜めます。 吹き付ける強い雨と風を吹き払うように、私は全身を使って声の限りに叫びました。 「二人の想いは、ちゃんとひとつになっていたんです!」 はっとしたように私を見つめる、それは美樹さんの瞳に見えました。 私の体の中から、何かが湧き上がってきます。 突然、体を駆け抜けた激しく力強い衝撃。 瞳から溢れ出る、大粒の涙。 自分自身に何が起こったのか理解出来ない私は、そっと頬を流れる涙に手を触れます。 それは、とても温かで。 それは、とても力強くて。 それは、とても優しくて。 ……その時。 それまで吹き荒れていた強い風が止み、冷たい雨が上がったのです。 上空に渦巻いていた暗雲は次第に霞んで消え去り、晴れ渡る星空がいっぱいに広がりました。 高台に突然訪れた、夜の静寂。 輝く無数の星を散りばめた夜空。 暗い天空から尾を引いて流れる、美しい流れ星。 美樹さんと彼が心待ちにしていた、そのあまりにも美しい光景。 たくさんの星が、地上へと降り注いでいます。 しばらくの間、流れ星をじっと見つめていた彼が遺していった絵の想いは。 私にたくさんお話を聞かせてくれた美樹さんの姿で、柔らかな笑顔を向けました。 微かな夜風が彼女の長い髪をなびかせ、ほのかな燐光が彼女の姿を優しく包み込んでいきます。 そして。 『……ごめんなさい。それから、ありがとう』 その言葉と共に、彼女の足下から勢い良く沸き上がる目映い金色の光。吹き上がる光の渦に美樹さんの姿はゆっくりと溶け込み、夜空へと上っていきました。 星は止むことなく降り続けます。 まるで流れ星として降り注ぐのは、夜空の彼方に消えた絵の想い。 体から急に力が抜けていきます。 遙さんは私を支えて、左手をそっと握って下さいました。 「ごめんなさい。薬指、痛かったでしょう? いけないって思った時には、私はもう茶館に近づくことすら出来なくなっていた。こんな方法でしか、あなたに知らせてあげる事が出来なかった」 遙さんの声が震えています。 「茶館に遺された絵の想いに、遙さんは気付いてらしたんですね」 小さく頷いた遙さんが浮かべた寂しげな微笑み。 私がどんなに言葉を尽くしても消えない遙さんの後悔。 遙さんは私を、そっと抱きしめて下さいました。 「あなたが無事で良かった。でも、やっぱりあなたは、あなたの瞳は……」 「え?」 「ううん、何でもない。本当に良かった」 私の瞳をじっと見つめながらそうつぶやいた遙さんは、小さくかぶりを振りました。 「そろそろ慎吾があなたを探しに来る頃ね。あの子は鋭いから、私は姿を消さなきゃいけない。ひとりで立っていられる?」 「はい……」 「ごめんね」 憂いを帯びた栗色の瞳を伏せて、小さく息をつきます。 微笑んだ遙さんの姿は、宵闇に掻き消えるように消えてしまいました。 「大丈夫か、瞳子っ!」 「慎吾さん……」 私を呼ぶ大きな声。 遙さんのおっしゃるとおり、ずぶ濡れの慎吾さんが駆けてきます。 意識が薄れて倒れゆく私を、慎吾さんはその力強い腕でしっかりと支えて下さったようでした。 ☆★☆ 洗いかけのコーヒーカップを手にしたまま、私は物思いに耽っていたようです。気が付けばもう、辺りは暗くなっていました。 丁寧にカップを置いて、私は暗闇がもたらす静寂の中に身を置きます。 彼が描いた一枚の絵が秘めていたのは、あまりにも強く二人の幸せを願った一途な想いでした。 叶う事なく消えた、二人の儚い恋。 美樹さんはこの街を離れ、遠い街で暮らしていると遙さんが教えて下さいました。 でも美樹さんと彼が交わした温かい心を、彼の絵は宝物のようにずっと抱き続けていくのでしょう。 静かな夜――。 茶館に飾られている絵達は今夜、私に何も答えてくれそうにはありません。 でも、私には強く感じる事が出来ます。 描かれた絵が、ずっと大切にしているそれぞれの想い。 お店の片付けを済ませ、明かりを消してふと振り返った私の目には。 壁に掛けられた美しいセーヌ川の絵が、確かに映っていました。 |
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