The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 43.キャンバスを訪ねた風(1) |
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吐く息が微かに白い――。 心と体を包み込む清浄なる空気。うっすらと視界を覆う霧の中で、身にまとわりつく冷気に震えることもなく、慎吾は霊峰の沢に立っている。 大地から湧き出た水滴が集まり清らかな水脈となる。その流れは下流に行くに従って大きな河となり、広い海へと通じている。慎吾が立つのは水脈の源 だ……。高い位置から流れ落ちる、美しい滝の姿に魅了される。滝に覆い被さるように繁る緑葉を揺らし、大きな岩に弾かれて飛沫となる透明な水。力強く流れ 出る奔流。巨大な岩が水の力に削られ、砕かれるのも信じられる。 滝の音を心に響かせながら、無心で切るシャッターの機械音だけが聞こえている。カメラを両手に構え、まるで射貫くように真剣な黒い瞳。ファインダーを覗く慎吾は、己の意識よりも深いところにある心に映した風景を、次々とフイルムに焼き付けていく。 そうして、幾度シャッターを切ったのだろう……。 瞳を閉じて、しばし瞑目した慎吾はゆっくりと、そして大きく息をついた。 緊張を解くと、頑丈なトレッキング・シューズを履いていてもなお、氷のように冷たい水に体温を奪われた足が痺れているのを感じる。慎吾は大きな石をとんとんと伝って、荷物を置いた場所へと移動した。 大きな望遠レンズにカバーを掛けて、慎重にカメラから取り外した。無造作に地面へ置いてあったアルミケースの蓋を開くと、たくさんの撮影補助器具やレンズが並ぶ隙間へ役目を終えたレンズを丁寧に収める。 丁寧に手帳へと記された依頼事項を目で追っていた慎吾は、防寒着のポケットから手のひらへと収まる大きさのデジタルカメラを取り出した。 視線を巡らせて撮影した風景の遠景を数枚、撮影場所の覚えとして残しておいた。ひと仕事を終えた慎吾は煙草を取り出そうとして、持って来なかった事に気付いて苦笑する。 目を閉じて肩の力を抜き、大きく深呼吸をした。緊張がすうっと和らぎ、周囲の音が耳に届く。 水の音、風の音、鳥の声にふと、心細さを覚え自分の頼りなさを感じてその場に立ち竦んだ。慎吾の大柄な体も、この自然の中では小さな小さな存在でしかないのだ。 大きな手のひらを、じっと見つめながら思う。 この頃、弟の存在を感じられない。彩人は、どうしているのだろうか。紫織さんにも叔父の幸司にも、まったく連絡が無いらしい。 「……まさか、何かあったのか?」 そう思うと、途端に心がざわめき出す。つぶやいた慎吾は太い腕で、重いアルミケースを軽々と持ち上げて逞しい肩へと担いだ。 一度振り返り、美しい霊峰の自然へと黙礼する。 静けさを乱した侘びをして、慎吾はゆっくりと歩き出した。 ☆★☆ 「あのなぁ、慎吾」 オイル染みが付いている、くたびれたつなぎを着た叔父の幸司が呆れたような声を出す。 「どうしたんです?」 「どうしたも、こうしたもない。見てみろよ、漫画じゃあるまいし。ボンネットの中に蜘蛛の巣が張っているぞ」 幸司が、ぽん! と車のルーフを叩いた。 叔父の会社「沢渡オートアドバイザー」へと慎吾が持ち込んだ車は、楔のようなスタイルをした黒いスポーツクーペだ。 「お前、ほとんど乗っていないよなぁ」 「ええ、以前ほどには」 苦笑する慎吾。久しぶりにガレージから引っ張り出した愛車は、叔父の工場まで動いてくれるかどうかも不安だったのだ。 「でも、急にどうしたんだよ。こいつを引っ張り出すなんて……お、ははぁん」 幸司は帽子のつばを後ろに回し、にやにやと笑いながら慎吾の背中を、どん! と叩いた。 「へへ、彼女とデートか?」 「……違います、残念ながら」 即答する慎吾に、幸司は口をへの時に結んだ。安全靴のつま先で、工場の床をこつこつと踏み鳴らす。軍手をはめた手で、何やら指折り数えていた幸司は片方の眉を上げた。 「はぁ、お前、幾つになるんだっけ。うちの一美と六つ違いか? 彩人がうちの一美と同い年だから……」 「二十七ですよ」 「……もうそんなになるのか。いや、俺も年を取るわけだな」 腕を組んだ幸司は腰を伸ばし、軍手を外してぽりぽりと頬を掻いた。 「なぁ慎吾よ。いつまでも、夢を追いかけていられないぞ?」 夢を形にするために、努力はしているつもりだが。現実を見つめろと、先達からのありがたい忠告が耳に痛い。しかしその叔父も、若い頃は相当のやんちゃだったと慎吾は聞いている。 「ところで……お前、瞳子ちゃんをどう思う?」 「瞳子を……ですか?」 「なぁんだ、もう呼び捨てかよ」 意味ありげな表情で、ニヤリと笑う幸司。 「へへ、まぁ、外野からの裁量は無しだな。何がどうなるか、楽しみにしておくよ。ところで……こいつで、何処か行くのか?」 「彩人の様子を見に行きます」 「何だって!? お前、正気か?」 「正気かって、何かおかしいですか?」 しれっと言った慎吾は、首を傾げてみせる。 「お前……よりによって、こんなポンコツで。高速道路だって、走らなきゃならないんだぞ?」 ポンコツとは随分と失礼な評価だが、幸司はどんよりとした表情で慎吾の黒い愛車を眺める。ガレージの中で保管されていたのでボディの状態は悪くないが、製造されてから十数年を経た車だ。しかも、以前からよく故障していたのだ。 「叔父さんの腕を、信用しています」 「あ……ああ、まぁ俺に任せとけ。大丈夫だ、多分な」 おだてるつもりなどさらさら無いのだが、慎吾の言葉に幸司は乾いた笑いを漏らしながら、やや控えめに胸を叩いてみせた。 「今晩、発ちます。作業が終わるまで、事務所で寝ていてもいいですか?」 「お前って奴は、本当に唐突だな」 慎吾にとって何でもなくても、腕時計で時間を確認した幸司は大袈裟に身を仰け反らせた。気が急いている訳ではないが、慎吾は車の整備が終わればすぐにでも出発するつもりだった。 ひとつ仕事を終えたばかりで予定が入っていない、今なら体の自由が利くからだ。思い付いたならば、すぐ行動に移さなければならない。 「う〜ん、今からかよ……。行くのはいいが、彩人に連絡してあるのか?」 「いいえ、していません」 「……おいおい。俺はともかく、紫織さんにも連絡が無いくらいだから、忙しいんだと思うぞ?」 「だから、様子を見に行くんですよ。それに……」 「それに?」 「その方が、面白いじゃないですか」 ニヤリと笑った慎吾の顔を見た幸司が、何とも言えない表情で溜息をついた。 「はぁ、彩人の驚いた顔が目に浮かぶよ。あいつ、腰を抜かすだろうなぁ」 幸司は笑いながらまた、ぽんぽんと車のルーフを叩く。 「よし、分かった。しっかりと整備してやる。まぁ、車検も通してあるんだし、特別な交換部品が必要ないなら、すぐに終わるさ。奥でゆっくりと寝てろ」 叔父の顔はもう、仕事に厳しい整備屋の表情だ。 しかし、ふっと口元を緩めて幸司は、慎吾を真っ直ぐに見た。 「なぁ、慎吾」 「はい?」 「茶館の事やら何やら色々あるけどさ、兄貴の顔を立ててやってくれよな」 叔父は兄の……父のことが気になるらしい。 積極的ではないが、それでも関わりを持とうとしてくれている父の気持ちを、慎吾はよく分かっているつもりだ。役所からの帰り道、大回りをして茶館の前を通って帰る父。瞳子は「黄昏時の紳士さん」と言っていたが、話を聞いた慎吾は後で大笑いをしてしまった。 あれが父の精一杯なのだろう。そして、どうやら瞳子を気に入ったらしい。 「はい……」 少々気恥ずかしいので表情には出さない。慎吾は叔父に、素っ気ない答えを返した。 ☆★☆ 体がだるくて重いのは、気分が悪いからなのだろう。 肩に掛けたショルダーバッグへ鉛でも入っているように感じる彩人は、ちらりと前を歩くグレーのスーツを身に纏った貴子の背中を見た。 自信に満ちた表情、真っ直ぐに伸ばした背筋、貴子は胸を張り大きな歩幅で颯爽と街を歩く。そんな貴子の姿に反して背を丸めた彩人は、げんなりとした表情で肩を落として足を引きずるように後ろをついて歩く。 美咲が立ち上げた会社アーティスト・ブランド。 彩人のような学生のメンバーには、仕事の際に営業社員が同行する事になっている。クリエイターと呼ばれていても、仕事上の重要なやりとりを学生風情がき ちんとこなせる訳がない。アーティスト・ブランドのメンバーは、営業社員と共に依頼主の元を訪れる格好だ。そんな理由で、本城グループの営業部に在籍する 社員が数人アーティスト・ブランドへ出向する形になっているのだ。 彩人は、客先での貴子が発揮する会話術に驚くばかりだ。 しかし優秀な社員を、ままごとのような会社で働かせるとは何事だと。『お嬢様の会社ごっこ』と囁く古参の社員もいるらしい。 本城社長には何か思惑があるのだろうか? それでなければ、単に愛娘を甘やかしているだけでしかない。 そして、なぜか彩人のパートナーにはいつも貴子が選ばれるのだが、彩人と貴子の相性は最悪だ。貴子から彩人に向けられるのは、隠すこともない厳しい視線。 他のメンバーは、ことさら仕事に厳しい貴子と組まなくてすむのを心から喜んでいる。 「……そうそう、沢渡君」 喧噪に目眩すら覚えるスクランブル交差点の真ん中で、前を歩いている貴子が不意に立ち止まった。 「なんですか?」 人波の中で立ち止まるのだ、迷惑この上ないのだが貴子は全く気にならないらしい。水の流れを分ける石ような彩人と貴子へと、抗議の視線をぶつけて過ぎ行く人々。 貴子はくるりと振り向くと、冷たい眼差しを彩人へと向けた。 「依頼主の要望は、よく分かったわね? 締め切りは厳守。何度も言うけど、遊びじゃないのよ」 「分かってます」 視線を合わせたら氷漬けになりそうだ、彩人は視線を逸らせたまま短く答えた。 「ならいいけど。いいこと? あなたが失態でも犯さないように、私が側にいるの。美咲様の歩む道に、汚点なんて残す訳にはいかないから」 はぁ、汚点ですか……。 また、お説教が始まった。彩人は首を竦めて、貴子の言葉が頭上を過ぎて行くのをじっと堪える。 「まったく。いくら美咲様の意向でも私には理解出来ない。あなたみたいな素人、しかも学生なんて……」 貴子は憤懣やるかたないといった表情で、彩人を睨んだ。素人も学生も本当の事なので、それはあまり気にならない。貴子が示す美咲への忠誠心は、何があっても揺らぐ事など無いようだ。 「まぁ、いいわ。今言ったことを忘れないで」 何処までも棘がある声、貴子は腕時計をちらりと見た。今しも、信号が赤に変わりそうだ。 「私にはまだ仕事があるから、ここで別れましょう。あなたは直帰で構わないわ、それじゃあ」 貴子はそれだけ言うと、彩人の答えを待たずにさっさと踵を返した。貴子の背中を見送った彩人は、全身を使って溜息を吐き出す。 「……もう昼か。そう言えば、会社に忘れ物があったな」 あっという間に人混みに紛れ、貴子の姿は見えなくなっている。 信号が赤に変わる、ぼんやりしてはいられない。交差点を渡り終えた彩人は、ポケットの中で微かに震えた会社名義の携帯電話に気が付いた。 「美咲?」 届いたばかりのメールを開く、美咲はヨーロッパに居るはずだ。 「海外にばかり出掛けていると、卒業出来なくなるぞ」 「そんなみっともないコト、しないわ」 空港のロビーでわずかばかりの言葉を交わした。見送りの彩人が言うと、花がほころぶような笑顔で美咲はそう答えた。 几帳面な性格をしている美咲、留守中の指示を細かく書き連ねられた丁寧なメールの文面を読む。この瞬間にも海外を飛び回っている美咲は、間違いなく実業家としての才能があるようだ。 ――しかし。 「美咲、君は俺を買い被っているよ……」 携帯を閉じてポケットに放り込み、うねるような人波から弾き出された彩人は空を振り仰いで、ぽつりとつぶやいた。 忘れ物を取りに社屋へと戻った彩人だが、長居をするつもりはない。社員達から社長令嬢の遊び相手……そんな好奇の視線で見られるのだ。 フロアを足早に進むと、彩人の前から歩いてくる人影。 お互いに無言ですれ違った後、 「おい、沢渡」 彩人を呼び止めたのは、敵愾心に満ちた声。 正直に言うと面倒臭いのだが、彩人は仕方なくゆっくりと振り返った。 |
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