ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 61.水の都の狂想曲(1) |
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薄暗く質素な部屋の隅で、少女はずっと膝を抱えて体を丸めていた。 猛威を振るう吹雪は心に爪を立てるかのように、恐ろしい咆哮を上げながら荒れ狂っている。外気は氷点下であろう。どんなに気密性が考慮されていたとしても、冷気はじわじわと建物の内部に侵入してくるのだ。 「寒い……」 体を揺すって、ぽつりとつぶやいた少女。 かじかむ小さな両手の指先は赤くなっている。表情を隠している長い黒髪、乾いた唇、震える細い両肩は少女の心の内をあらわしていた。 『君の名は、パンドラだ……』 紫水晶の瞳を少女に向けた青年は、自分をそう呼んでくれた。名前を与えてくれた事はとても嬉しい、しかし少女の心にぽっかりと空いている穴は塞がることはない。 氷の華。 そんな雰囲気を持つ青年は少女の姿を視界の端に捉えても、優しく手を差し伸べてくれることはない。どんなに求めても体を暖めてくれるはずの感情は得られず、その空虚な穴を塞ぐ手だてを見つける事が出来ない。翠色の瞳でただ虚空を睨み据え、少女は一生懸命に考えを巡らせる。 いや、見つけるのは簡単な事なのだろう。 そうだ、自分自身の存在理由を示せばいいだけだ。 彼女は知っている。紅い翼を意のままに操る事こそが、己の存在の証なのだと。 『ライオネット』 そう名付けられた、猛り狂う紅い翼を。 ☆★☆ 古い街並みを見渡せば大小様々、多数の運河が目に入る。水資源に恵まれた街、リヴァーナ。街中を縦横無尽に走る運河は移動手段や流通に利用されており、人々の生活になくてはならないものだ。 街を巡る水路が珍しい風景に映るのか、シルフィは水の都を飛び回っていた。 方々を飛び回り遊び疲れてしまったのか、今はフリードの頭の上にとまって羽を休めている。不思議な白い小鳥は、シルフィードの貨物室にでも住み着いているのだろうか。姿を見せているときは、ヴァンデミエールの肩かフリードの頭の上にいる。 シルフィはたまにぱたぱたと羽ばたいて羽根繕いを始める、頭の上は居心地がいいのだろうか。 小鳥を頭に乗せている姿など、端から見ると間抜けに見えてしまう。フリードは遠慮して欲しいと思うのだが、小鳥にそんな希望が通じるはずもない。 先ほど大通りで車と馬車が接触する事故があった。 怪我人など出なかったのは不幸中の幸い、今はその騒ぎも収まり、街は落ち着きを取り戻していた。 「フリード……」 「トール……」 煉瓦造りの建物の壁に二人並んで背を預け、しまらないにやけ顔を晒していたフリードとトールは、ふと互いに顔を見合わせて突き出した拳と拳をぶつけた。 「やったね、フリード!」 「ああ!」 胸を打ち震わせる高揚感に酔いしれる、空に向かって大声で叫びたい気分だ。 シルフィードは、ついに上位へと浮上した。 優秀な機体性能に頼っている部分があるものの、幾多の競り合いを勝ち抜き、ゲート通過タイムを縮めてきたのだ。わずかな積み重ねを続けてきた結果でもあろう。その喜びを三人で喜び合いたい。リヴァーナの街では魚料理が有名だと聞いた。ヴァンデミエールが機体を預ける手続きから戻れば、ささやかなお祝いでもしよう。 銀色の瞳を持つ青年からの挑発を苦労して腹の中に飲み込んだフリードは、そんな事を考えながらぼんやりと街の様子を眺めていた。 目の前を行き過ぎる人々の群。 一人一人が考えていることが分かる訳ではないが、街には様々な人の心が溢れ、意識や思考が奔流となっている事を感じる。 「ぴい! ぴい!」 「どうしたんだ? シルフィ」 突然、フリードの頭にとまっているシルフィが小さな翼をばたばたと羽ばたかせ始めた。くちばしでフリードの髪をくわえ、ぐいぐいと激しく引っ張る。 「ぴい! ぴい! ぴいっ!」 「シルフィ、痛い、痛いよ!」 どうしたのだろう、シルフィは頭の上で大騒ぎだ。 髪の毛を引っ張られて、あまりの痛さに目に涙を浮かべたフリードの視界に、ふと何かが引っかかった。 意識がそちらへと向き、琥珀色の瞳が捉えた映像から何が起こっているのか認識をしようとして、瞳孔が大きく動く。視覚から脳へと情報が伝わる。その瞬間、フリードの表情が険しくなった。 「ヴァンデミエールっ!」 思わず口をついて出たのは少女の名前だ、叫んだフリードの全身に衝撃が走り、驚きは憤激へと変わる。 ヴァンデミエールを抱きかかえ、連れ去ろうといている人影。 「待てっ!」 とっさに叫んだフリードの声が届いたのだろう。振り返った人影は、痩躯に黒い燕尾服を纏う長身……その体格は男に違いない。 黒髪が揺れ、引き締められた口元がわずかに笑みをかたどる。フリードは息をのんだ、男の顔に張り付いているのは、表情の半分を隠す白い仮面だ。 見る者の感情によって、仮面はその表情を変える。艶やかな白磁製の仮面に開けられた双眸にあたる部分は闇であり、視線を捉えることが出来ない。手にはめた白い手袋、人差し指で仮面を撫でた男が、ヴァンデミエールを抱えたまま身を翻した。 「トール、君はここで待っているんだ!」 「うぇ、フ、フリード!?」 訳が分からず混乱するトールにそう言い残し、全身の筋肉に蓄えた力を解放すると、フリードは弾かれたように駆け出した。 仮面の男に抱えられたヴァンデミエールはぐったりとしている。今までに襲い掛かってきた襲撃者の機体、その姿がフリードの脳裏をよぎる。シルフィードはこれまでに全ての妨害を切り抜けてきた。 機体を狙ったのでは歯が立たぬと考え、今度は手段を変えてきたというのか。しかしヴァンデミエールに反撃を許さないなどと、フリードにはとても想像することが出来ない、男はどんな手を使ったのだろう。 シルフィードの機体性能を熟知、管理しているのはヴァンデミエールだ。彼女の存在が無くては、この先レースでトップ争いを繰り広げるのは難しい。 いや、フリードの怒りはそこではない。 大切なパートナーであるヴァンデミエールは、まだ年端もいかぬ少女である。 未だに語ることのない想いを抱く少女を、いつも気にかけていたというのに。上位に浮上したことで浮かれていた、油断していた自分に腹が立つ。 「どういうつもりだっ!」 自分自身を責めるのは後回しだ、なんとしてでもヴァンデミエールを救わなければならない。 行き交う人の波を掻き分けながら走る。ぶつかり、弾かれ、罵声を浴びせられながらも、フリードは懸命に少女を連れ去ろうとする仮面の男を追う。 それにしても、ヴァンデミエールの不意をついたのだろうか。だとすれば、仮面の男は街のゴロツキなどではあるまい。だが臆するものかと、フリードは歯を食いしばって走り続ける。 運河に沿って真っ直ぐに走る仮面の男が進路を変え、石段を駆け降りると桟橋に駆け込んだ。 そこに並ぶのは数機のウインドシップだ。仮面の男は居並ぶウインドシップの中から、青色に塗られた軽量機の風防を開けると少女を抱えたままで軽々と飛び乗った。 あらかじめ準備をしてあったのだろう。稼働していた動力炉が唸りを上げ、仮面の男が操るウインドシップが水上でゆっくりと滑走を始めた。 「まずい!」 青い軽量機は、小波を起こしながらすぐに離水体勢へと入る。 立ち止まったフリードは慌てて視線を巡らせる、しかしどちらを向いても凡庸なウインドシップが運河に係留されているだけだ。観光用の軽量機など何の役にも立たないだろう。 シルフィードであれば間違っても遅れをとる事など無い、決して逃がしはせぬ。しかし、シルフィードを受け取りに戻ってなどいられない。愛機は競技の運営委員会に預けられているのだ。 「ぴぴいっ!」 その時、頭にしがみついていたシルフィが一際大きな鳴き声を上げた。焦るフリードの意識に触れた感覚。それは懐かしい何か。 桟橋の向こうで、陽光を弾く目映い銀色の機体がフリードを呼んだ。 「ウインディ……」 フリードは目を見開き、懐かしいその名をつぶやくと爪先の向きを変えて、再び駆け出した。 『ウインディ』は、ブロウニングカンパニー製の小型軽量機だ。高い旋回性能と瞬発力を持ち、名機と謳われるものの。小柄な機体に搭載された動力炉はあまりにも強力で、機体制御を行う際に操舵手へと高い技術を要求する気難しい機体だ。 市場に出回っている機体は安全を考慮して大幅なダウンスペックを施されているが、搭乗者を選ぶ機体であることには間違いない。 水路に駐機されているウインディの風防は開いている、そして機体の傍らでは、一人の老人がせっせと丸っこい体を動かしながら銀色の機体を磨いている最中だ。 風防が開いているのなら起動キーは機体にある、そう確信したフリードは桟橋を走る速度を上げた、踏み切る地点を計算し大きく息を吸い込む。 「おじさんっ!」 背後から聞こえたフリードの大きな声に、額に汗を浮かべる老人が何事かと背筋を伸ばした瞬間、フリードは力強く桟橋を蹴った。 軽く老人の肩に手を置き、体を宙に浮かせるとそのままウインディの繰舵室に滑り込む。 「お借りします!」 理由など述べている暇はない。何が起こったのか理解できていない老人だったが、一度大きなしゃっくりをした後、顔中の皺を震わせ目を剥いて怒鳴った。 「こ、この盗人野郎が、何をぬかすかっ!」 瞬時に顔を真っ赤にして、両手でフリードの襟を掴む。がくがくと老人に体を揺さぶられながらも、フリードはパネルに挿されている起動キーを捻った。 動力炉が目を覚ましたことを確認すると、襟を絞る老人の皺が多い手を掴み琥珀色の瞳で真っ直ぐに見つめる。 「今は訳をお話する時間が惜しいんです。お願いします、どうしてもこの機体が必要なんです」 「な、なに!? ば、馬鹿を言うな、こいつはオリジナル・ウインディなんだ! お前みたいな若造に飛ばせるわけがないっ!」 盗人への説教にはほど遠い。フリードの真剣な表情に思わず手を緩めた老人だったが、唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。 「本物のウインディならば、望むところです!」 フリードは手を止めることなく機器の操作を続けていく。その経緯は分からないが、このウインディはオリジナル機であるらしい。 そうだ、カーネリアの湾でヴァンデミエールを救った際に失ったウインディ……。フリードがアルフレッドから譲り受けたのはこの機体と同じく、機体性能への制限を掛けられていないオリジナルの機体であった。 フリードの体は、かつての相棒であるウインディの操作をしっかりと覚えている。 起動した動力炉の出力が上昇を始め機体が震え出した。フリードの真剣な表情と、しっかりした機器操作の手並みを見た老人はを歯ぎしりをしていたが、丸っこい体を機体から離した。 「えいくそ、この畜生がっ! 何だか知らないが仕方がねぇ! おいコラ坊主! そいつは価値ある貴重品だ。絶対に傷を付けるんじゃあねぇぞ、いいなっ!」 「ありがとうございます。必ず、無傷でお返しします!」 言葉に約束という力を込めてフリードは頷いた。 風防が閉じると、じわりとウインディが前進を始める。機首の下部が水面を割り、細波が左右に広がっていく。風防を流れる景色、銀色の機体は次第に速度を増していく。 『久しぶりですね、フリード』 わずかに緊張するフリードに、ウインディが語り掛けてくるような気がした。 「ああ、行くぞっ!」 ウインディにそう答えてスロットルレバーを捻ると、臨界に達した動力炉が唸りを上げる。搭乗者への快適性など微塵も感じさせぬ、その凄まじい加速。シートに押しつけられる体が痺れる、フリードにとっては懐かしい感覚だ。水上でいきなり滑走を始めたウインディが起こす激しい波に、驚いた周囲の人々が何事かとざわめいている。 運河を滑り、あっという間に最高速度に達したウインディは、見事な離水を見せると大空へと舞い上がった。 「ヴァンデミエール。何処だ、何処にいるんだ?」 ウインディを急上昇させ、上空から首を巡らせるフリードは眼下に目を凝らす。遠くに見える雑多な街の景色は薄い青色に霞み、視点が定まらない。 男が乗っているのは青い軽量機だったはずだ、しかしなかなかその姿を見つけられぬ。 「ぴいっ! ぴいっ!」 「シルフィ?」 フリード髪の毛から顔を出したシルフィが鋭い鳴き声を上げると、ばたばたと小さな羽を羽ばたかせた。 「あ、あそこかっ!」 不思議な小鳥は、ヴァンデミエールの存在を感じられるとでもいうのだろうか。 逃走する青い機体の姿を視界に捉えたフリードは、操縦桿を倒すとスロットルレバーを力任せに捻る。翼を傾けたウインディが、ヴァンデミエールを連れ去ろうとする青い小型機を追って急降下を始めた。 「無事でいてくれ、ヴァンデミエール……」 操縦桿を握りしめるフリードは、ただそれだけを念じていた。 |
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