ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


63.水の都の狂想曲(3)

 目次
 夢中でお菓子を食べ続けていた外套の子は、最後の一欠片を丁寧に口の中に入れると、名残惜しそうに指をぺろりと嘗めた。
「おいしかった……」
 お菓子を食べ終えて、満足そうに長い吐息をついた外套の子は、隣に座っているトールを見るように首を傾げた後、くるりと体の向きを変えた。
 少し体を屈めてトールの顔を覗き見るように顔を近づけてくる。
「な、なんだよ……」
 トールの鼻腔をくすぐる、ほのかな香りはほんのりと甘く柔らかい。外套の子は女の子なのだろうか。形が良い小さな唇を意識すれば顔中の血管が破裂しそうだ、トールはぎくしゃくとした動きでそっぽを向く。
 そうして避けるトールの顔を、追うようにしていた外套の子が不意に手を伸ばした。トールの鼻の頭に付いていたクリームを指先で掬い取ると、そのままぱくっと口にくわえる。
 赤面したトールの頭の中で、ぐるぐると思考が回る。訳も分からず、熱に浮かされたようにくらくらしていると。
「ありがと」
 小さな声で言った外套の子が、ぴょんと跳ねるようにベンチから立ち上がった。顔を背けたままで、トールは目だけ動かして外套の子の背中を見る。こんなに落ち着かないのはどうしてなのだろう。
 不意に夕暮れ時の急いた風が吹き付けて、外套の子の顔を隠していたフードが煽られる。隠されていた長い黒髪が露わになり、ふわりと宙に広がるように舞った。
 やはり女の子だ。
 トールの目に映る少し吊り気味の瞳は、深い翠色をしている。
「お、お前は……」
 その見知った顔の造作を目の当たりにして、トールはあんぐりと口を開けたまま、ついでに大きく目を見開いた。
「あん。もう、髪がくしゃくしゃ」
 長い黒髪を苦労して外套の中へ押し込んだ少女は、小さな指を頬に当てて茜色の空を見上げた。その横顔は間違いなくヴァンデミエールと瓜二つだ。だが、トールが共にレースに臨んでいる少女の髪は、これほどに長くはない。
「……もう帰らなきゃ」
 残念そうに、ぽつりとつぶやいた外套の少女は、両手を後ろに回して可愛らしく小首を傾げた。
「私の名前はね、パンドラっていうのよ。あなたは?」
 まるで大切な宝物を見せびらかすかのように、得意げに名乗る少女。
 ぽかんと口を開けたままのトールを見つめる、翠色の瞳の中で揺れるのは純粋な興味だ。少女の顔から視線を逸らす事が出来ない、トールはぎこちない動きで口を開いた。
「お、俺は……。トール」
「ふうん」
 トールが告げた名を反芻したパンドラが、ぱっと身を翻した。
「おいしかったよ。じゃあね、トール!」
 茜色の空へと伸ばした右手を大きく振った後、外套を風に踊らせて駆け出した少女の姿は、夕刻で賑わう人波へとすぐに紛れてしまった。
 驚きで体が麻痺してしまったのか、指一本動かすことが出来ない。
「ヴァンデミエールじゃないのかよ……なんで」
 どうやら今日は、ひとりぼっちで取り残される日らしい。トールはベンチに座ったままで、ぽつりとつぶやいた。

☆★☆

 ウインディの風防を開き、機体に足を掛けて飛び降りたフリードは視線を仮面の男へと向けたままで歩く。力を込めて石畳を踏みしめ、駆け出したいのを懸命に堪える。焦る心を見透かされる訳にはいかないからだ。
 運河の両岸は、整備された遊歩道が伸びる公園となっている。日が高ければのんびりと散策する人の姿もあるのだろうが、日暮れ時ではすでに人影もない。
 フリードはついに仮面の男と真正面から相対した。仮面の男の肩越しに見えるのは、石畳の上に寝かされたヴァンデミエールだ。閉じられた翠色の瞳、乱れた黒髪が表情を隠し、少女はぐったりとしている。
 両の拳をきつく握りしめるフリードが全身から放出する怒りの感情で、夕暮れの風が熱せられている。
「なぜヴァンデミエールを狙った!」
 フリードの厳しい声は、男が被る白磁の仮面に当たって足下に転がった。
「答えろっ!」
 フリードから激しい怒気を浴びせられても、仮面の男は微動だにしない。言葉を発することなくただ静かに佇んでいる、その手に握られているのは一振りの片手剣だ。
 決着を付ける為に、一騎打ちで雌雄を決しようというのか。
 フリードは剣など持ってはいない。
 だが仮面の男を睨むフリードは、ゆっくりと左腕を上げた。真横に伸ばした腕、手のひらを大きく開く。
 その時だった。
 フリードの手のひらへと生まれた淡い虹色の光。次第に強くなるその光の中から現れたのは若草色の鞘に収められた片手剣、それは姫巫女トゥーリアが扱う剣だ。
 フリードは虹色の光から現れた鞘を当然のようにしっかりと掴むと、右手で剣の柄を握り勢いよく引き抜いた。
 その様子に驚いたのか、わずかに身を引いた仮面の男だったが、自らも手慣れた動作で剣を鞘から抜き放つ。
 フリードと仮面の男、双方が剣を構えた。真っ直ぐに立てた剣を顔の高さまで掲げて睨み合う。
 運河を渡る風が奏でる音が止んだ……。
 いや、仮面の男に集中するフリードの意識が雑音を遮断したのだろう。そのかわりに胸の奥で脈打つ心臓の鼓動、流れる血潮のうねりが耳の奥へと響く。双方の剣が揺らぎ、ほのかな月明かりを反射した瞬間に、フリードと仮面の男は同時に石畳を蹴った。
 突き出された互いの剣の切っ先は、どちらの体を捉えることもなく擦れ違う。
 身を翻したフリードは、仮面の男を牽制するように剣の切っ先を向ける。対して仮面の男は剣を下げたまま、優雅な仕草で黒髪を掻き上げた。
 露わになっている口元が、仮面の下に隠された表情を想像させる。
(笑った!? 駄目だ、乗せられるな)
 剣を構えたフリードは深呼吸をした。
 フリードとてまったくの素人ではない、護身術のひとつとして、執事のカリナから剣術の手ほどき受けている。
 迂闊に間合いへと飛び込む事は出来ぬ。仮面の男が秘めた力量を推察したフリードは、堅いブーツの靴底で石畳を擦り僅かに体を引く。
 仮面の男はだらりと下げていた腕を持ち上げた。安定していた体幹のバランスが崩れ静から動へ重心の移動が起きた、仮面の男が石畳を踏み付け間合いを詰めてくる。その勢いに迷いなどない。
 優雅で、それでいて一陣の風を纏う激しさを伴う仮面の男。その素早い動きを追うフリードは琥珀色の瞳を瞬かせ、一呼吸の間どう動いてよいのかと判断に迷った。
 わずかな間だが、仮面の男は既に剣を突き出す体勢にある。
 躊躇いは隙となり、風の唸りを引きずりながら伸ばされた剣の切っ先がフリードの頬を浅く裂く。よくも避けられたものだ、背筋にじわりと汗が浮かんだ。
 片手剣の細い刃は脆く、刃を合わせて打ち合うことなど出来ない。相手の僅かな隙を突いて勝機を得るよりほか方法がない。
 だがフリードは仮面の男の動きを捉えきれない、一呼吸の間隙を突かれ、繰り出された刃が襟元を貫いた。
「くっ!」
 襟元を切り裂かれたフライトジャケットを脱ぎ捨てると、その場を飛び退く。数歩分を後退したフリードは、剣の柄を握り直して軽く一振りした後に再び剣を構えた。左手の親指で頬を擦ると痛みが走る。
 夜の運河に反射するのは、きらびやかな街の明かりだ。様々な色合いの光が明滅し、二人の姿は幻想の世界で戦いを演じる舞台劇のようだ。
 だが観客など一人もおらぬ、演じられるのは芝居ではなく真剣な命のやりとりだ。
 暗闇を灼く激しい火花を散らす二人の動きが、不意にぴたりと止まった。
 水を打ったような静寂の最中でも尚、戦いは続いている。緊張が途切れれば、あっさりと胸を貫かれてしまうだろう。ざわざわと揺れる始めた心、その弱さは死へと直結している。
 仮面の男が上体を揺すれば、間隙を置かず激しい攻撃が繰り出される。紙一重で迫る刃を躱すものの、片手剣の柄で力任せに殴られた。
 幾度も石畳に転がるフリードはその度に砂を噛み、両腕で体を支えて起き上がる。
 悠然と佇んでいる仮面の男を睨む、その琥珀色の瞳は輝きを失ってはいない。正体も知れぬ仮面の男などに負けるわけにはいかない、倒れる訳にはいかない。必ずヴァンデミエールを救うのだ。
 王より賜りし土地を治める領主は、そこで暮らす民達を守らねばならぬ。貴族であるならば大儀に死する覚悟を持ち、力なき者達を守るため命を賭けて戦わねばならぬ。
 そうだ、領主たる者は強くあらねばならない。
 ……仮面の男に自分の剣技は通用しない、ならばどうすればいいのか。剣を眼前に立てて構え、考えを巡らせるフリードはゆっくりと姿勢を低くする。
 圧倒的な技量の差を見せつけた仮面の男は、弧を描くように片手剣を一振りすると再び動いた。軽やかに体を翻し、勢いでしなる刃を一閃させる。
 刃の軌跡を読ませぬ幻惑の一撃。
 体を沈めてようようにやり過ごしたフリードは次に繰り出されるであろう攻撃の前に、低くした姿勢のままで仮面の男が踏み出した軸足を狙い足払いを仕掛けた。
 その攻撃は仮面の男の予測の範疇を超えていたのだろう。踏み出した足を蹴られた仮面の男がバランスを崩した、体を回転させたその反動を使って身を起こしたフリードは、片手剣を引くと鋭い突きを放つ。とっさに体を投げ出した仮面の男は、石畳へとついた左腕の力で跳ね起きた。
 フリードは、この期を逃すものかとさらに畳み掛ける。仮面の男はわずかに後退し、無防備に攻撃を仕掛けるフリードを迎え撃つ。
 互いの剣同士が、絡み付くような残像を生む。
 逆手に持ち変えた剣を背に預けたフリードは体を回転させた、振り出した左拳が仮面の男の脇腹を強く打つ。その一撃ではダメージを与えられなかったのか、仮面の男に怯んだ様子はない。ふわりと体を翻し再び攻撃を仕掛けてくる。
 フリードは長い足を思い切り振り上げ、ブーツの靴底で迫る刃を蹴りつけるようにして逸らした。
 それはとても剣技とは呼べない、まるで姫巫女トゥーリアのように奔放な戦い方だ。
 仮面の男の攻撃をいなしながら間合いを広げ、片手剣の切っ先を下げたフリードは左の拳を突き出して胸を張った。ふと脇腹へ手を当てた仮面の男は警戒をしているのだろうか、フリードを追い詰める剣の切っ先がやや鈍っている。
 フリードと仮面の男。相対する二人に伝わる緊張が最高潮に達した。
 どうやら舞台は終幕へと差し掛かっているらしい。
 仮面の男が左手でそっと仮面の表面を撫でた途端、その体が揺らめいた。 
「必ず勝つんだっ!」
 少女を守るために全力で立ち向かうのだ。
 体に力を溜め、突進してくる仮面の男を誘い込むように後方へと跳躍したフリードは、石畳を力任せに蹴りつけた。体を回転させるように前方へと思い切り投げ出す、体の中心を支点にした大きな遠心力により、振り上げられた足が鋭い浴びせ蹴りとなった。
 落下する踵はフリードの狙い通り、仮面の男が剣を握る右腕へと打ち付けられた。
 仮面の男が剣を取り落とし、無茶な足技を繰り出したフリードはバランスを崩した、二人はもんどり打って石畳へと転がる。仮面の男は焦ったのだろう、落とした剣を拾おうと手を伸ばした。その隙に素早く立ち上がったフリードが突き出した剣の切っ先が、艶やかな白磁の仮面を捉えた。
 硬質な音が響くと同時に仮面の破片が宙に舞った。仮面を砕かれた男が膝を折り、慌てたように顔を片手で覆う。
 砕けた仮面に動揺したのか、仮面の男はその場から跳びすさり、掴み上げていた剣を無造作にフリードへと投げつけた。
「往生際が悪いぞ!」
 仮面の男が投じた剣を、振り上げた片手剣で弾いたフリードが叫ぶ。
 大きく欠けた仮面の奥に居座る闇から、フリードへ視線を投げる男は白い手袋をはめた手を上げた。その手の動きに合わせて光が走り、空間にばっくりと亀裂が現れる。
「待てっ!」
 フリードは、空間に生まれた裂け目へと体を滑り込ませる仮面の男を追うが、一足及ばずその姿は空間の裂け目に飲み込まれるように消えた。
「……逃がした」
 悔しげに漏らした言葉には安堵も感じられる。
 仮面の男が消えた空間をひと睨みしたフリードは、石畳で横になるヴァンデミエールへと駆け寄った。少女の側にひざまずいて体をそっと抱き起こす。
 幸い体に傷など見あたらない。首筋へと指を当てると、しっかりとした少女の脈を感じることが出来た。
 ヴァンデミエールの無事を確かめたフリードは、放心したように少女を抱いたままその場にへたりこむ。頬に感じる痛みは、仮面の男が繰り出す鋭い剣の切っ先を思い起こさせる。大きく息を吐き出すと額の汗を拭った。
 謎は謎のまま、しこりのように残ってしまった。ふと気が付けば姫巫女の片手剣は姿を消している。
 華やかな水の都は静けさを取り戻し、夜空を振り仰げばフリードとヴァンデミエールを見つめる星々が天空で静かに瞬いていた。

☆★☆

 静かな夜は、人々の眠りを優しく受け入れる。
 夜半を過ぎたブロウニング邸、その屋敷の影にほのかな明かりが瞬いた。数回明滅した光の中から現れたのは黒髪を揺らす執事の姿だ。乱れた髪、憔悴したその表情。頬を伝う玉のような汗を拭おうともせずに、ふらふらとした足取りで闇へ姿を隠すように進む。屋敷の裏、通用口である扉の取っ手をひねると、するりと体を滑り込ませた。
 この時刻だ、もう起きている使用人はいないだろう。皆一日の仕事を終えて眠りにつき、また明日のためにゆっくりと休んでいるはずだ。
 重い足取りで暗い廊下の壁を伝い歩いたカリナは、やっとの事で自室へと辿り着いた。物音を立てないように注意しながら部屋へ入ると、後ろ手に扉を閉める。
 そのまま扉へと背を預けたカリナは、汗で湿った白い手袋を床へと投げ捨てて、大きく息をついた。
「転移魔術など、とても人の身で扱える術式ではありません」
 深呼吸を繰り返すも、乱れた息は治まってくれない。熱を帯びた体が小刻みに震えている、両肩を抱く手に力を込めるカリナの喉からうめき声が漏れ出た。
「……私が、この私が」
 顎を上げる。
 歯の根が合わず、がちがちと鳴った。
「フリード様に剣を向ける、などと」
 整った顔を歪めて涙を流すカリナは、がくりと床へ膝をついた。そのままうずくまるように体を丸め、背を震わせて咽び泣く。
「フリード様、申し訳ありません。私は、あなたに……」
 頭を抱えて身を屈め、苦しむカリナを嘲笑うかのように、部屋の中へ滞留する闇が渦を巻く。
 そんなカリナの懺悔を聞き、千々に乱れる心情を汲んでくれる者など居はしない。
「プロバンスの名で、この世に生を受けたりしなければ……」
 どう足掻いたところで、血脈から逃れる術はない。
 闇に押し潰される心、苦しむカリナの嗚咽が静かな部屋へと染み込んでいった。
 
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