ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 72.魔物の群れ |
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薄暗がりの中にある儚げな青年の姿。室内に満ちた冷気は、まるでいばらのように体を刺す。華奢な身体が纏う軍服は、無理矢理に虚勢を張っているように感じられる。 彼が座っている椅子は豪奢な造りではないが、背負う役に見合う無骨な造りの大きな椅子だ。肘掛けに体を預け、白い手袋を嵌めた手を額にあてて僅かに俯いている青年の表情を、はらりと垂れた銀色の前髪が隠す。 極寒の北部山脈には凄まじい吹雪が荒れ狂う、堅牢な装甲に覆われた巨大な戦艦の懐であっても、その恐ろしさは鋭い牙のように意識へと喰らいつく。胎動を続ける四隻の巨大な戦艦達。旗艦の司令塔である艦橋で、皇太子キルウェイドはひとり思索に耽っていた。 彼の手にあるのは、ヴィゼンディア大陸の歴史を綴った大陸史だ。時の流れに刻まれている数々の戦い。渦巻く炎が天を焦がし、進軍の地響きは大地の慟哭となり大陸を激しく揺さぶった。 身も竦む恐ろしい戦乱の記憶。しかし、歴史は決して痛みと悲しみだけに染められた道程だった訳ではない。人の心へ、ふと芽吹く温かな幸せも確かにあったのだ。 「……だが。それはあまりにも脆く、儚い」 ぽつりぽつりと言葉が漏れ出る。淡い光を湛える紫水晶の瞳は固く閉じられたまま、闇の中で彼は悠久の時の流れへと想いを馳せているのだろうか。 願いがある、強い想いがある。彼がその意志を体現させるために率いようとしている、神を擬えた巨大な武器がもたらすのは、平穏な大陸を砕く破壊だけなのか。 それとも彼の理想である、新たなる秩序と理をあたかも風のように吹き込み、未来を生み出すのか。キルウェイドが進むのは穏やかな道でなどあろうはずもない。己を支え歩んでいくためには、胸の内に確固たる信念を築き上げるより他はない。 自らの意識を深く深く思考に埋没させたとしても、未来を見通すほどの力など持たぬ人の身でしかない青年に、この世界へと訪れるであろう未来の姿を推し量ることなど出来はしないのだ。 「かの翼は、やはり天空の彼方にある哀しみの大地へと導かれるのか」 力強く羽ばたき、大陸の空を駆けるシルフィードと名付けられた蒼き翼の姿を想い描く。その命の源となっているのは、彼の理想を実現させる為の力、その可能性を秘めた動力炉『SYLPHEED』だ。 「ウェンリー・ホーク、幻影の冒険者よ。お前はそのような幻を纏ってまで、手を差し伸べるのか?」 紫水晶を思わせる瞳が、僅かに揺れる。 「忌み嫌われてまでも、人を思い遣る心だと? だが、哀しいかなその想いは、人という愚かな生き物へ伝わらなかったではないか」 呟くキルウェイドの眉間に皺が刻まれる、表情を歪めた青年は悔しげに唇を噛んだ。 「だからこそ私は……」 ふと、そこで言葉が途切れる。どのくらいの時間が経ったのだろうか、微動だにせぬ青年がその胸中に何を想い描くのか、やはり分からないが。 遠からず答えは出る。そうだ、彼が抱く理想を実現させる為のピースは揃いつつあるのだから。 「私はここに居ます。姉上、あなたは何処に居るのです?」 己の存在を強く示す、キルウェイドの形良い唇が僅かに動く。姉である皇女エクスレーゼへと挑むような言葉は、冷気を伴う闇に吸い込まれて消えていった。 ☆★☆ 濃い闇色に染め上げられた翼を広げ、澄み渡る空を汚す魔物の群れ。 轟音と共に、幾つも描かれる紅の航跡。それは大きな災いをもたらす、凶兆を予感させるような禍々しい色だ。その正体は、ボーウェン社製の新型機ヴェスペローパの編隊である。その姿は見るものを不安にさせ、人の意識の奥底にある恐怖を呼び起こす。 一糸乱れぬ編隊飛行は、間違いなく訓練されたものだ。グランウェーバー国の北方、険しい山脈の麓から飛び立った編隊なのだが、機体の何処にも彼らの所属国を示す印は見られない。 「各機に告ぐ。どうだ、機体に不具合は見られないか? 些細な事でもいい、気付いたことがあれば直ちに報告をしろ」 編隊飛行を続けるすべての機体へと伝わった通信は、先頭を飛ぶ機体から発信されたものである。編隊を率いる隊長機であろう。 『機体の調子は抜群ですぜ! ところで大尉。声の様子から察するに、昨夜はちょいと飲み過ぎたようですなぁ?』 少しの間を置いて、そんな軽口が返ってきた。 ヴェスペローパの編隊をまとめるリジッド大尉は、不真面目な部下の態度を正すこともなく、唇の端を僅かに上げて酷薄な笑みを浮かべる。命の遣取を生業とする者が身に纏う影、鋭い刃を感じさせる男だ。 『ふざけるな、イゼリド軍曹。我々は任務中だぞ!』 『うへ。おお、副官様はおっかねぇ』 『茶化すな! 我々の任務には、この機体のデータ収集も含まれている。貴様は我々に課せられた重要な役目をなんと心得ている、この愚か者が! 貴様は心構えがなっていないのだ。享楽ばかりに目が眩み、浮かれて任務の最中に軽口などとは言語道断だ!』 リジッドが口を開く前に、お調子者を諌める通信が入る。激高しているのは副官であるディブダル少尉の声だ。 「イゼリド、少尉の言う通りだ」 『た、大尉、そりゃありませんぜ! 夕べは遅くまで、一緒に呑んだじゃないですか……』 リジッドは自分の事を高い高い棚に上げ、少々脅かしてやった。情けない声を出すイゼリドが首を竦めている姿を容易に想像することが出来る。まぁ、ここは生真面目な副官であるディブダルの肩を持たねば、彼の立つ瀬があるまい。 ふと、真新しい操縦桿を手の平へと馴染ませるように握り直した。 ボーウェン社の技師からは、機体の状態を詳しく知りたいと念を押されている。それは、幾度もブロウニングカンパニー製のウインドシップを、『蒼い翼』と呼ばれる機体を取り逃がしているからだろう。己の体面もある、技師達も相当に焦っているようだ。 どういうつもりで、彼等がかの機体に執着するのかは分からぬが、難儀な事ではある。だが直接、『蒼い翼』を捕らえよとこちらに命令もない以上は、余計な口を出す気などさらさら無い。 だがリジッド自身も、『蒼い翼』と呼ばれるシルフィードという機体に少なからずの興味もある。 以前、彼の愛機は『蒼い翼』と同じ、ブロウニングカンパニー製であったからだ。その機体は堅実な造りがなされており、不具合も無く長年の使用に耐え得る造りではあった。しかし、大陸の情勢が安定している時期に建造された事により、やや大人しいという印象が強かったのだ。 それまでウインドシップ市場の牽引役であったブロウニングカンパニーが、軍需産業からの撤退を表明した影響は大きい。 リジッドが愛機を大切に扱ったとしても、経年劣化による老朽化というものはどうしても避けられぬ。時が経てば時代遅れにもなる、故障する事だってあるだろう。機体が第一線で働く限り、主要な保守部品の製造は今後も続けられるというものの、機体の改良等は期待できない。 軍上層部は先細りになるであろうブロウニングカンパニーとの関係に見切りをつけ、新興勢力であるボーウェン社との契約を新たに取り交わしたのだ。 市場の独占的地位の獲得を目論むボーウェン社は、様々な用途の新型機を次々と投入している。やや供給過多ではないかとの見方もあるが、新型機がお目見えするとなれば、ウインドシップの乗り手は誰しも心が踊るものだ。 恐ろしい風体をしたヴェスペローパ。だが、その機体性能に不安はないと、リジッドは確信を持っている。 『大尉。こうまでして、あの男を追わねばならぬのでしょうか? たかが冒険者の一人など、捨て置いてもよさそうなものですが』 ディブダルの思案深げな声が届く。副官として有能であり慎重な男だ、これまでに得た情報から、様々な事態を予測をしているのだろう。 他の隊員と同じように、会話に参加せずに沈黙しているイゼリドは、操舵室で頭を抱えて唸っているに違いない。リジッドは、やや右斜め後方を飛ぶディブダルの機体を、後方視認用のミラーで確認する。 「何しろ、二つ名を持つ冒険者が駆るミスティ・ミラージュが相手だからな。従来の機体には、やや荷が重かろうという判断だ」 『だから俺達の出番って訳でさぁ、戦争の何たるかを知らねぇ王都のエリート兵共にゃあ手に負えねぇ!』 都合の悪い事はさっぱりと忘れたようだ、調子の良いイゼリドの声が通信に割り込んでくる。 彼等が追う男の名はウェンリー・ホークだ。 『幻影』の異名をとり、冒険者の神だなんだと大袈裟に持ち上げられていい気になっている男を炙り出す事が、彼等に与えられた主たる任務なのである。 ウェンリー・ホークは、密かにグランウェーバー軍の動向を探っているのだという。計画は慎重に進められているはずだ、何を嗅ぎ付けたというのだろうか。 たかが冒険者ごときだと侮れない。数々の困難な冒険を成功させ、この世界の謎を解き明かしてきた男。ウェンリーの言動は、無視できぬほど大きな影響を持っている。 そして『幻影』と呼ばれる異名の所以だろうか、ウェンリー・ホークの動向を掴む事がどうしても出来ないのだ。情報部がどんなに慎重に行動しても彼の動き、その姿を捉えることは不可能だという。 それほどの能力を有しているのか、それとも何かの大きな支援組織に支えられているとでもいうのか。だからこそ、見過ごすわけにはいかないのだ。 「油断は禁物であるのだろうな」 新たなる世界を目指す、道標たる皇太子殿下の腹心。フランシェスカ・シャンティーヌ少佐が警戒しているのだ。 「それにしても、殿下のお考えは……」 そう漏らしたリジッドは、自分の声が部下に伝わらぬように配慮した後、溜息を吐き出す。氷の華と喩えるに相応しい青年、皇太子キルウェイドの姿が脳裏に浮かぶ。ふと、記憶に刻まれた皇太子の瞳を思い出して身震いをした。いつも危険の矢面に立つ、リジッドのような軍人ですら感じてしまう戦慄、その真剣な紫水晶の瞳に映る危うい光。 闇の女神の理想は甘い蜜なのか。 創世戦争と呼ばれる大陸史に残された醜い傷痕、大きな戦いを引き起こしたその理想に傾倒して気でも触れ、狂気とも言うべき支配欲に駆られたか。新たなる世界の創出であるなどと……。リジッドは、それがとんだ妄言だと思わぬでもない。 だが北部山脈の北壁、吹雪の中で目醒めの時を待つ四神は夢や幻ではない、キルウェイドの思想を実現させるための圧倒的な力を懐へと蓄え、確かに『在る』のだ。 『た、大尉っ! 上空を見て下さい! あの航跡の色は!』 突然届いた、ディブダルの震える声を耳にしたリジッドが視線を上げる。 「むう、あれは?」 遥かな上空……。彼の瞳に映った航跡の色は、鮮やかな青色をしている。そして、それだけではない。尾を引いて空へと放たれる光は、刻々とその色を変えていく。 じっと目を凝らす、酒に濁った目に見えるのは幻覚ではないかと疑った。 「まさか、ウェンリー・ホークなのか?」 信じられぬ光景から目が離せず、呻くように呟いた自分自身の声はリジッドの意識を現実へと引き戻す。物思いを中断すると、副官からの報告を確認してほくそ笑む。舌を出して、べろりと乾いた唇を舐めた。 まあいい、新たなる世界か。それがどんなものであるのか、目の前に現れてから考えればいい。 そうだ。戦うことのみがリジッドの存在理由なのである。彼等が駆るヴェスペローパの機体には、グランウェーバーの国籍を示す印はない。思うがままに欲望を、そして破壊衝動を満たすことが出来るのだ。 ウェンリー・ホークは、空に浮かぶ大地、『天上宮シャングリラ』に深い関わりがあるという。この大陸に度々登場する、創世戦争以降の言い伝えであるが、空に浮かぶ大地など信じ難い話である。 シャングリラを夢に見る数多の冒険者は愛機を駆り、言い伝えられる幻の都市を目指す。だが、まだ誰もその都へと辿り着いた者はいないのだ。 「面映いことだな。今更、天上宮だなどと、夢物語を信じるつもりもないが」 若かりし日々、胸に抱いていた夢などとうに朽ち果てた。夢を追うことと、日々の糧を得て生きていくこと。その両方を手にすることなど安易と叶うはずもない。 第一、夢など語るには汚れ過ぎた。 「いや、くだらんな」 感傷に浸るなど自分には似合わぬ、そうつぶやいたリジッドの目が底光りをする。幻想よりも重きは目の前の現実である。これは僥倖だといえよう。この好期に力を見せつければ、自らの地位と名誉の糧となる筈だ。 「血の滾りがおさまらぬわ。忌々しいリヴル・スティンゲートよ、覚悟しておけ。ヴェスペローパは貴様が飼っている年老いた竜に取って代わるだろう」 生意気な竜騎士共めがと、短く吐き捨てる。 リヴル・スティンゲートが率いる竜騎士隊は、グランウェーバー国の表舞台で光を浴びる存在だ。国を守護する精鋭などと持ち上げられてはいるが。隊を統括する皇女エクスレーゼは行方不明、その生死も分からないのだ。主の居らぬ部隊に何の意味があろうか。 「各機。急上昇に移るぞ、ついて来い! トリガーの安全装置を解除しておけ、我々は上空に見える航跡を追う!」 鋭い犬歯を剥き出しにしたリジッドは獰猛な戦意を滾らせ、力任せにスロットルレバーを捻った。 この大陸へと大いなる変化をもたらすというのだ、綺麗事ばかり言ってはいられまい。眩い光があれば、色濃い影が出来るもの……。必ず暗い闇が存在するのだ。 ならば自らが、汚れ役を喜んで引き受けようではないか。そうだ。彼等はまさに、闇から這い出した魔物の群れなのだ。 ☆★☆ 女王クレアに励まされ、聖王国アリアレーテルを出発した後のこと。シルフィードの操舵室内には、焦りと高揚感が綯い交ぜとなった空気が滞留している。 レースのゴールであり故郷であるグランウェーバー国、カーネリア領が近づいてくる。何としても首位に立たねばならない、操縦桿を握るフリードの手の平が汗ばむのは、その重圧を感じて緊張しているからに違いない。 ヴァンデミエールが調べたところによると。現在、シルフィードは首位であるゼルウィーダを捉える事が可能な位置に居るようだ。レースも終盤、ここまで来るとリタイアした機体の数は半数以上にものぼる。手が届かぬゴール。悔しさに唇を噛む者、また次のレースへ参加する為に闘志を漲らせる者と様々であろう。 シルフィードも良い順位に付けているだけに、気を抜く訳にはいかない。後は、これ以上の邪魔が入らなければの話なのだが。 真剣な表情をしたフリードが前面のパネルに表示されている航路を確認していた時、不意に背後へと生まれた強烈な威圧感に驚き、思わず背後を映す後方視認用のミラーを、ちらりと見遣った。 「これは……?」 全神経を背後に生まれた気配に集中させた。フリードの意識の中に、ふと浮かんだひとつの可能性がある。 『いーやっほう!』 突然、シルフィードの操舵室内へと高らかに響いた声。 通信機のスピーカーから飛び出した音は、大きすぎて割れている。「わああ、何だよっ!」脳を揺さぶるほどの大きな声に、トールが慌てて耳を塞いだ。 『捉えたぜ、フリード!』 「ウェンリー・ホークっ!」 フリードが圧倒的な存在を示す声の主の名を叫ぶと同時に、後方から姿を現した一機のウインドシップが煌めく排出光を残しながら、あっという間にシルフィードを追い抜いた。直近を過ぎたミスティ・ミラージュの機体が巻起こす激しい烈風に煽られる。 『ブチ抜くから気を付けろよって言ったよな? ぼやぼやしていると置いていくぜ!』 その流麗な姿を、長く瞳に映してはいられない。光点となるミスティ・ミラージュは、幻影と呼ばれるウェンリー・ホークの愛機だ。彼は今の今までどうしていたのだろうか。 このまま突き放されてしまう訳にはいかない、フリードはその挑発を受けて立とうと、琥珀色の瞳に闘志を漲らせて大声で叫ぶ。 「皆、いいか? 加速するぞ!」 その叫び声と共に、翼を閉じたシルフィードの動力炉が唸りを上げる。一度機体を大きく揺すり、蒼い翼を煌めかせ最大加速に移った。 |
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