The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 

2. 白いキャンバス
目次
 見上げれば、いまにも泣き出しそうな空。私は行くあてもなく、独りでぼんやりと通りを歩いていました。自分の存在など、既に此処に無いのでは……そんな錯覚に囚われながら。
 まるで、手のひらからこぼれる水のように、流れ落ちてしまった大切な想い。
 私の涙は、枯れ果ててしまったのでしょうか。心は締め付けられるようなのに、瞳に溢れる熱い滴を感じることは出来ません。
 吐息をつくことすら出来ず、視線を彷徨わせる私の頬に、突然落ちてきた雨粒。
 とうとう降り始めた雨に傘も無く、私が雨を避けて身を寄せた先は……。
 大通りからひとつ逸れた道の、古い商店街が立ち並ぶ通りに面した、小さな建物の軒下でした。
「あらあら、たいへん!」
 その時、不意に私の耳に届いた声。
「お待たせしちゃったかしら?」
 ぼんやりしていた私はぽんぽんと肩を叩かれてはじめて、自分が声をかけられているのだと気が付きました。
 驚いて振り返った私へにっこりと微笑んだのは、大きく膨らんだ紙袋を抱えた女の人です。黒いジャケット姿は凛々しく、大きなエメラルドを模した石が付けられたリボンタイが、ふわりと襟元を飾っています。
「ごめんなさいね。切らしていた品があったから、ちょっと買い物に行っていた
の」
 女の人はそう言って、鮮やかな色の傘を畳んで傘立てに入れ、古めかしい木製のドアを開けました。
 私は辺りを見回して、自分が喫茶店の入り口の前で雨宿りしていた事に気が付いたのです。お客と間違われてしまったのでしょう。
「い、いえ、違います。あの……お、お邪魔しました、すみません!」
「あ、ちょっと、待ちなさい!」
 慌てて雨の中へ走り出ようとした時、声を上げた女の人に、ぎゅっと腕を掴まれました。
「あなた、濡れているじゃない。風邪をひいてしまうわ、早く店へ入りなさい」
「い、いえ。私は大丈夫ですから」
「ほらほら、ごちゃごちゃ言ってないで!」
「あのっ、でも……」
 私は無理に抗うことも出来ず、手を引かれるままに、おとなしく店内へと入るしかありませんでした。
「そこに座っててね、タオルを持ってくるわ」
「……はい」
 店内に灯された淡く暖かい光。でも、何故か少し寂しさを感じます。
 それは梅雨寒の、ひんやりとした空気のせいなのでしょうか。
 私はカウンターの席へ座り所在の無さにうつむいて縮こまっていたのですが、少し雨に濡れたせいなのでしょう。
 小刻みに身体が震え、思わず両の肩を抱きしめました。
「はい、タオル。女の子でしょ、体を冷やしたりしちゃ駄目よ。梅雨の小雨でも体に毒なんだから」
 私をたしなめるその口調は、とても心地好く。
 差し出された、大振りで柔らかな白いタオルの肌触りと優しい香り。
「ちょっと待ってね。すぐに暖かい飲み物を淹れるから」
 女の人はエプロンを手に取り、さっと身支度を調えます。
「そうそう。私はね、遙っていうの は・る・か よろしくね!」
 火にかけた、小さなポットの具合を見ながらそう名乗った彼女は、片目をつむって見せました。
「あ、あの、私は……」
「ん、なぁに? ちょっと待ってね」
 生返事の遙さんは、あれこれとカップを手に取って、真剣に見比べています。
「準備が出来たわ。はい、どうしたの?」
「あ、あの……。私は、瞳子といいいます」 
 遙さんは、完全にタイミングを逸した私が小さな声で名乗るのを、耳を澄ませた様子で聞いていましたが、興味深げに私の顔を覗き込んで、にっこりと微笑みました。
「とうこちゃんね。ひょっとして、瞳の子って書くの?」
「はい」
「当たり? とても良い響きの名前ね」
 頬に指を当てて歌でも口ずさむように、私の名を反芻する形の良い唇。
 栗色の髪と大きな瞳、可愛らしい笑顔。とても魅力的な人です。
「梅雨時期だから、忘れないように傘を持って出掛けなきゃね」
 時折、お店の窓へと目を向ける遙さんの明るい声。
 店内で古い時計が刻む時間の流れは緩やかで、忙しなく人が行き交う表の通りとは違うように感じられます。
「静かな長雨は風情があるけど、やっぱり梅雨は嫌だわ。どう頑張っても湿気で髪はぺったんこになるし。なによりじめじめして、気分が滅入っちゃうもの」
 遙さんのとりとめのない話は耳に優しく、私は話を聞きながら相づちをうつことも無く黙って湿った髪にタオルを当てていました。
「そろそろ、いいわね」
 タオルと一緒に用意していたのかドライヤーを取り出した遙さんは、私の後ろへ回るとスイッチを入れました。不意に感じた暖かい風に、思わず首を縮めます。
「あなたは綺麗な黒髪ね、羨ましいわ」
「いいえ、そんな……」
「ほらほら、背筋伸ばして」
 遙さんは、恥ずかしさにますます縮こまる私の髪に、やさしくドライヤーの風を当てながら、丁寧に髪を梳いて下さいます。
 その間に、しゅんしゅんと音を立てて湯気を上げる始めるポット。
「今日は寝る前に、念入りに髪の手入れをなさいね」
 私の髪が乾いたところでドライヤーを止め、遙さんは急いでカウンターの中へと入りました。よどみない手つきでコーヒーの粉を量り、綺麗な指がさっとフィルターを取り出します。
 とても楽しそうな遙さんの表情、やがて鼻腔をくすぐるのは香ばしい薫り。
「はい、お待たせ。暖まるわよ……。たっぷりミルクを入れておいたから」
 カウンターへと置かれた大振りのカップに注がれているのは、湯気が立ち上るカフェ・オレでした。
「冷めないうちに、おあがりなさい」
「はい、いただきます」
 おずおずとカップへ手を伸ばして少し口に含むと、ミルクと砂糖の柔らかな甘さにふわりと包まれ、体の中に暖かさが染み込んでいくようです。
「いかが?」
「とても、美味しいです」
「そう、良かった!」
 私の小さな声に、遙さんは嬉しそうに頷きました。
 雨に濡れ、ぼんやりと佇んでいた私に理由を問うわけでなく。そんな遙さんの優しさと自然な接し方が、今の私にはとてもありがたく思えました。
 でもこれ以上、遙さんの好意に甘えて、お店にご迷惑を掛けてしまうわけにはいきません。
「ほんとうに有り難うございました。あの、カフェ・オレのお代は……」
 早く立ち去らなければと思い、私が椅子から腰を上げると。
「あらあら」
 遙さんは頬に手を当てて首を傾げ、眉をひそめました。
「おかしいわね……。私のカフェ・オレ、結構自慢の一品なのよ? どんなに冷えた心も包み込んで暖めて、ほかほかにするの」
 得意げな表情で人差し指をたて、まるで魔法を使うように、くるくると回します。
「げんきになーれ、げんきになーれっ! てね」
 そして不意に、遙さんはとても優しい笑顔で私を見つめました。
「あなた、まだ濡れたままよ。もう少し、雨宿りして行きなさい」
 私は遙さんのその言葉に左手の薬指で光る指輪を見つめ、そっと指輪を外しました。手の平で輝いているのは互いの幸せを誓い合った証。
 エンゲージリング――。
「気に障ったら、ごめんなさい。でもその指輪は、随分と冷たい光を弾くのね」
 遙さんが感じるとおり。
 この指輪は雨に打たれ心まで冷え切っている私の心を温めてくれる力など、もう宿ってはいないのです。
 誰かに心の内を聞いてもらいたかったのでしょう。
 私は遙さんに、ぽつりぽつりと指輪のことを話しました。

「もう、貴女と会うことは出来ないと、先方はそうおっしゃっています」

 弁護士を名乗る男性から伝えられた、彼からの最後の言葉。
 私との絆を断ち切ったそのナイフのような言葉は、今も心の奥底に沈んでいるのです。私の痛みを感じるように小さく頷きながら目を閉じていた遙さんが、そっと息を吸うのが分かりました。
「指輪と共にあなたの心の中にある大切な想いは私にも分かるわ。でも、行き先を失った想いに縛られてしまう事はないのよ」
 私は、救いを求めていたのかもしれません。きゅっと唇を噛んで、冷たい指輪を見つめたまま、じっと遙さんの話を聞いていました。
「瞳子ちゃん。ほら、見てご覧なさい」
 突然芝居がかった仕草で、大きく手を広げ、遙さんが指し示す先。
 お店に入ったときに、どうして気が付かなかったのでしょう。
 顔を上げた私の目に、店内の壁という壁に掛けられた、たくさんの絵が飛び込んで来ました。
 街角、山々の遠景、広がる海、清らかな川の流れ、みずみずしい草花、何気ない日常の品々、そして女性の笑顔。
 激しく、優しく、濃く、淡く……様々な筆の跡。
 そして繊細な、大胆な色使い。
「モチーフの一瞬の輝きを、キャンバスに描き留めるの。私が何よりも絵から感じるのは、描き手の愛情ね」
 遙さんは愛おしそうに、飾られている絵の額縁を指で撫でました。
「人はね、誰もが絵描きなの。心を震わせる、全ての感情を絵筆に乗せて、心のキャンバスに次々と喜びや悲しみ、笑顔や泣き顔を描き続けるのよ……」
 遙さんが紡ぐ、ひとつひとつの丁寧な言葉が私の胸に届きます。
「あなたが胸に抱えているその想いは、あなたの心を強くそして優しくしてくれるわ。あなたは今までよりも、もっともっと心に素敵な絵を描けるようになる。だからもう、心を縛る枷になってしまった指輪なんか、涙の海に流してしまいなさい」
 どうしても断ち切れなかった彼への想いと共に、心の奥底に残る深い深い傷跡。
 寂しさ、悲しみ、憤り、そんなわだかまりが遙さんの言葉で少しずつほぐれていくと同時に。
 気が付くと、私の瞳には涙が溢れていました。その頬を伝う涙はとても温かく、私は思わず震える指先で、そっと涙に触れてみます。
「もう、大丈夫よね?」
 ほっとしたような、遙さんの穏やかな声に、私はそっと頷きました。
「お店の壁に飾ってあるのはね、この茶館の亡くなられたマスターの友人の方達が描いた絵よ。自称芸術家を名乗る、風変わりで愉快な人達でね。あの頃、マスターが試しに壁に一枚飾ったら、みんなが我も我もと絵を持ちかけて、こんなになってしまったの」
 懐かしむような眼差しで店内を見回し、遙さんは「可笑しいわよね」と言って、くすくすと笑いました。
「私は絵の批評なんて出来なくて。でも、どの絵も魅力的ですね」
「そうね、有名な画家の絵なんか一枚もないけど、お店の自慢よ!」
 遙さんと顔を見合わせた私は、溢れた涙のおかげでしょうか、ほんの少しだけ笑うことが出来ました。
「そうだわ、瞳子ちゃん。ちょっと……いい?」
 遙さんは自分の襟元を飾っている、大きなエメラルド色の飾り石が付いているリボンタイを外すと、私の襟元へと当てて、う〜んと小首を傾げていましたが、
「やっぱり、とってもよく似合うわ!」
 そう言って嬉しそうに、ぽん!と、ひとつ手を打ちました。
「どうかしら、この店で働いてみない? ちょうどウェイトレスさんをひとり、お願いしようと思っていたところなの」
 あまりにも急な誘いに、私は驚きました。
 遙さんは私の返事を待たずに、紙を一枚取り出すと、さらさらと何かを書き始めます。書き終えた紙を丁寧に三つ折りにして、封筒へ入れて封をすると、封筒の裏へまた軽やかにペンを走らせます。
「返事は今でなくても良いの。よく考えて、もしあなたが思いついたらこの封筒を持って、お店へ来て頂戴ね」
 あっけにとられている私に封筒を手渡し、遙さんはにっこり笑ってそう言いました。


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