The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 3. 雨上がりの出会いは |
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雨は今日も、静かに降り続いています――。 遙さんと出会ってから、数日が経っていました。 外した指輪への想いの分だけ、軽くなった心。 そして白い小さなテーブルの上には、遙さんに渡された封筒。膝を抱えたままその封筒を見つめ、思うことはただひとつだけ。 そうです、私はあのお店での出来事が、忘れられなくなっていたのです。 雨上がり、路上に出来た水たまりに映るのは、ようやく顔を覗かせた青空。 そして私の足は、迷わず遙さんの喫茶店へと向いていました。 大通りから一本外れた道に建っている、緑色の屋根の小さなお店……間違いありません。 入り口のドア横に掛けられた、古い木製のプレートに記されている、お店の名前へ目を向けます。 「画廊茶館」 このお店らしいその名前に、自然と笑みがこぼれました。 私は封筒をきゅっと握りしめて、大きく息を吸い込み。 「この間は、有り難うございました。私を、お店で働かせてください!」 思いきってお店のドアを開け、緊張している私はそのままの勢いで叫ぶように言うと、深々とお辞儀しました。 ところが、しばらくしても返事がないので、不安になって恐る恐る顔を上げる と。 目の前には遙さんとは似ても似つかぬ、大柄な若い男性の姿がありました。 洗いざらしのTシャツに、ジーンズ。あまり身だしなみなど気にしないのでしょうか、ぼさぼさの髪や無精髭に、少し粗野な印象を受けました。 「すまない。君と話をするのは、初めてなんだが」 「あ、あの……すみません、私は水無月と申します。は、遙さんは、いらっしゃいますか?」 遙さんはまた、買い物に出かけられているのでしょうか。あまりの恥ずかしさに顔が火照り出します。 赤面した私は、慌ててそう訪ねました。 「遙? 君は、いったい誰の事を言っているんだ?」 「え?」 いぶかしげな表情で聞き返され、返答に困ります。 でも、決して訪ねるお店を間違えているわけではありません。 「それに、この店は休業中だからな」 男の人は苦笑しました。 「休業なさっているのですか? でも私はこの間、こちらのお店で遙さんというお名前の女性に、お世話になったのですが」 私は遙さんから渡された封筒を差し出し、一生懸命にあの雨の日の出来事を話したのです。 「その封筒を、俺に見せて貰えないか?」 頷いた私は、黙って話を聞いていた男の人に遙さんから貰ったままの封筒を渡しました。 男の人は封筒を受け取って裏面を見るなり、眉根を寄せた難しい表情になるとそのまま封を開け、中に入れられていた手紙を広げます。 何度も手紙を読み直した様子の男の人は、思案深げな顔で顔を上げました。 「君がここで会った女性は、どんな姿をしていたんだ?」 私は記憶の中に鮮明に残っている、遙さんの姿を思い浮かべます。 「背丈は私くらいで、栗色の髪と大きな瞳をしたとても綺麗な人です。黒いジャケットに、同じ黒い色のエプロン……。そうです! 襟元にはエメラルド色の飾り石が付いた、リボンタイを付けていらっしゃいました」 男の人は腕を組んだまま、私の話に何かを確認するように頷いていました。 「君が会った遙という名の女性は、俺のお袋だ」 「お袋って、お、お母さんですか!?」 「ああ」 私は、心臓が止まるくらいに驚きました。 遙さんがどんなに早婚だったとしても、目の前の男性のような歳のお子さんがいらっしゃるような年齢にはとても見えなかったからです。 「間違いない。封筒の裏に小さなシロツメ草の絵とサインがあるだろう?それはお袋が、よく手紙を出すときに添えていたんだ」 手渡された封筒を裏返すと、そこには確かに名前と共に描かれている小さな四つ葉のクローバーの絵。 遙さんは、どうしてこの手紙を私に持たせたのでしょう。 私は話を聞きながら、封筒から中に入れられていた手紙を出して開きました。 手紙の上には、遙さんの軽やかで綺麗な字が踊っています。 「君の話では、これを書いたのは俺のお袋って事になるが……お袋はもう、十数年ほど前に他界しているんだ」 「そ、そんな、そんな事って!」 驚いて声を上げた私は、しばらく言葉を失いました。 とても信じられません、そんな事があり得るのでしょうか。 私はあの雨の日の事を、遙さんの優しい言葉と笑顔もご自慢の暖かいカフェ・オレの味も、こんなにも鮮明に覚えているのです。 でも、男の人の表情は私をからかう様子もなくいたって真面目なものでした。 「俺も驚いてるよ。まさか死んだお袋から、手紙を貰うなんてな」 言葉とは裏腹に落ち着いた様子の男の人は、ジーンズのポケットから取り出した煙草をしばらく手でもてあそび、 「この店を、大切にしていたからな」 思い出すように言ったあと、一本取り出したタバコをくわえライターで火を点けました。 「お袋が逝ってから、この店はずっと閉店したままだ。店舗も設備も、手入れをしながら何とかここまで残してきたんだが、営業再開の見込みも立たないし。梅雨明けを待って取り壊すことになっている」 火を点けただけの煙草を灰皿へ置いて、そうつぶやいた口元に浮かぶのは微かな苦い笑み。 「俺は幽霊なんてものは信じないが。確かにお袋は、君が話したとおりの人だ。それに、ここは少し変わった店だからな、そんなこともあるんだろう」 話を聞きながら、お店の中を見回した私は、お店の空気の違い気が付きました。 あの日、遙さんに手を引かれてお店に入った時に一瞬感じた、かすかな寂しさを思い出したのです。 目に映っていた絵の華やかな色彩は、今はまるでくすんでしまったかのようで、あの日のように暖かさを感じません。 遙さんと一緒に、私を慰め励ましてくれた、たくさんの絵は色褪せたまま、今はひっそりと壁に飾られているだけのようです。 何か大切なものを無くしたような不安に、私は遙さんの手紙を持ったままその場に立ちつくしました。 「お袋……か」 肩をすくめてそうつぶやいた後、しばらくカウンターへ背を預け、じっと天井を見つめていた男の人でしたが。 「いや、待てよ。そうか、そういうことか!」 何か思いついたように声を上げ、私の顔へ視線を移しました。 急に活き活きとしてくる、私を見つめる黒い瞳とその表情。 そう、たとえるなら。いたずらっ子が何か思いついたときのような、そんな目の輝きです。 「ちょっと、待っててくれ」 男の人はそう言うなり、太い腕で淡いピンク色の大きな電話を軽々と引き寄せ、ダイヤルを回し始めます。電話機をせわしなく人差し指で叩きながら、しばらく待っていましたが、どうやら繋がったらしく何やら話し始めました。 会話の内容はよく分かりませんが、その真剣な話しぶりから深刻な内容のようです。 そして、男の人が急に受話器を耳から離した次の瞬間。 『勝手にしろ、この馬鹿者が!私は知らないからなっ!』 突然、受話器から飛び出したのは、私にもはっきりと聞き取れるほどの大きな怒声。 「話がまとまった。これから忙しくなるぞ」 あれだけ大きな怒声を浴びても何処吹く風といった様子で、無造作に受話器を置いた男の人は首をすくめたままの私に向かってそう言うと、にっと白い歯を見せて笑いました。 「話がまとまったって……あの、何の話がですか?」 「決まっている。この店をもう一度、開店させるのさ」 「えっ!」 「驚かないでくれ。君は、ここで働くつもりで来たんだろう?」 男の人は、驚きと戸惑いで目を丸くするしかない私の手からひょいと封筒を取り上げて笑いました。 「君の事を、よろしくと伝えたかったらしいが、どうにも要領を得ていない手紙 だ」 男の人は手紙をひらひらさせながら「このあたりがお袋らしい」と、苦笑を漏らしています。 「どうやら君は、お袋のお墨付きのようだ。これからよろしく頼む。ああ……そう言えば、まだ名乗っていなかったな。俺は慎吾、沢渡 慎吾だ」 椅子に腰掛けて煙草をくわえ、気怠そうにカウンターへ背を預けていた人とは、まるで別人です。野性的な印象の人ですが、少年のように屈託のない笑顔は、嫌な感じではありません。 「私は水無月 瞳子と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」 私は丁寧にお辞儀した後、もう一度店内を見渡しました。 気のせいではなく……その瞬間に、身体を駆け抜けた様々な感情の揺らぎ を、はっきりと感じます。 それは、ささやかな歓迎と戸惑い。 さざめく絵達に、私は遙さんの優しい微笑みを思い出していました。 コーヒーカップを洗う手を止めて、私はふとお店の窓へと目を向けます。 窓ガラスを濡らすのは、空から降り注ぐ霧のような雨の飛沫。 店内に響く、古い時計が時を刻む振り子の音。 静かな雨音は、決まってあの日の記憶を甦らせます。 今はお客様の姿もなく洗い物を済ませた私は、布巾で手を拭いてリボンタイを整えると、カウンターの椅子へと腰を下ろしました。 再び「画廊茶館」を開店させるため、あの日からの数ヶ月は、目の回るような忙しい日々でした。 今でも、よく頑張ることが出来たものだと思います。 それは、やっぱり――。 失意に囚われた私の心を包み、暖めてくれた遙さんの明るい笑顔と優しい言葉。 心がこもった、ご自慢のカフェ・オレです。 あの日、私が出逢ったのは、遙さんが遺した心だったのでしょうか。 それとも、お店に飾られている沢山の絵が私に見せた、彼女の思い出だったのかも知れません。あるいは失意に囚われた私の心が、無意識に救いを求めたのかも。 いくら考えても、答えは出ません。 でも私は、このとても不思議な出来事に、何か予感めいたものを感じていました。 私はこれからこの茶館で、どんな絵を描いていく事になるのでしょう。 心に広げた真っ白なキャンバスに、静かに想いを巡らせます。 静かに降り続く雨――。 遙さんが愛していらした、お店に飾られているたくさんの絵達もこの雨音に聞入っているようでした。 |
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