The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

20.沢渡家〜休日の朝
 目次
 純和風の佇まいである沢渡邸、休日の朝は穏やかだ。
 小さいながらも、よく手入れされた庭。池には綺麗な鯉が泳ぎ、花や木々は四季折々の姿を見せてくれる。
 ばさり。
 縁側から庭の様子を眺めていた幸一郎は、居間に戻って座布団の上で胡座をかくと、やおら新聞紙を広げた。
 堅物の幸一郎は、芸能面などにまったく興味が無い。
 きちんと新聞の一面から目を通し、社会面、政治面、経済面と読み進めていく。
 聞こえてくるのは、雀の鳴き声。
 休日の朝などは特に、静かな家の中がやけに広く感じられる。
 慎吾と彩人。
 二人の子供達は、それぞれに巣立ち……いや、一人は実家に寄りつかず、一人は幸一郎自らが寄せ付けぬ。
(ええい、いまいましい)
 いや、ちょっと待て、私は何を考えているんだ。はっとした幸一郎は、口の中一杯の苦虫を噛み潰して喉の奥へと押し込んだ。
 これではいかん、少々感情が乱れた。
 些細な事で心を乱しているようでは、公僕など勤まらぬ。
 一人でぶつぶつとこぼしていた幸一郎は、気を取り直して世論のコラムをじっくりと読む。
 新聞の記事で目を引くのは政治と金、凄惨な事件に事故、不穏な世界情勢。
 色々な意味で、実にけしからん。
 ああ、けしからん、けしからん。
 憤慨しながらふと、人生相談の欄を読んでいた幸一郎は、思わず目頭が熱くなってきた。
 鼻の奥がツンとする。
 や、これはまずいぞ。
 眼鏡を外して目頭をマッサージしていた幸一郎の耳に、しずしずと妻、紫織の足音が聞こえた。
「お茶が入りましたよ……」
 む、これはまずい。
 急いで眼鏡を掛け、しかめっ面でエヘン虫を総動員した。
 冷静を装うとばさばさと音を立て、わざとらしく新聞紙の皺を伸ばす。
「すまない、ありがとう」
 では、お茶を貰おうか。
 新聞を読みながら、すいっと右手を卓へと伸ばす。
 とてもよく気が利く妻は卓の上、幸一郎の手が届く場所に湯呑みを置いてくれる。
 おや?
 しかし、伸ばした手は空しく宙をさ迷った。
(む、私の湯呑みは何処だ?)
 その辺りをまさぐってみるが、湯呑みの存在がまるで感じられない。
 しばらくの間、ぱんぱんと卓を叩いていて湯飲みを探していた幸一郎は、ふとある事に思い当たった。
 ひとつため息をついて、丁寧に新聞を畳んで卓の上に置いた。
「私に話があるようだね」 
「はい、あなた」
 湯呑みをお盆に乗せたまま、妻が微笑んだ。
 いつもきちんと和服を着て、柔和な笑みを湛えている。
「話があるのなら、始めからそう言いなさい」
「でも、声が掛けづらくて」
 湯呑みを卓に置いた妻が、困ったような顔をした。
 幸一郎は湯飲みを手に取り、熱いほうじ茶を一口飲む。
「人生相談を読みながら、泣いていらしたじゃないですか」
「ぶっ!」
 しっかりとばれている。
 幸一郎は思わず、口に含んだ熱いお茶を吹き出した。
「あら、たいへん」
 言葉とは裏腹に、まったく慌てた様子が無い妻が布巾で畳を拭く。
「わ、私は泣いてなどいないっ!」
 無駄な抵抗だが、しないよりはましだ。
 ありがたいことに、優しい妻はそれ以上の追求をしない。
「ところで、話とはなんだね」
「ええ、実は」
 幸一郎が卓に置いた湯呑みにお茶を継ぎ足しながら、妻はようやく話を切りだした。
「彩人さんと、茶館の話です」
 ほら、やっぱり来た。
 よりによって休日の朝から、論じたくない話題を持ち出すんだな。
 幸一郎は、一気に不機嫌そうな表情になる。
「どうして今頃、その話題なんだ? 茶館は慎吾に任せたはずだ」
「はい、それは存じています」
 妻はこくりと頷く。
「何を話し合う事があるんだ。彩人と私は考え方が合わない、それだけの事だろう」
 うむ、間違いはない。
 話の肝心な処から、すいっと逃げているのだが、幸一郎は心の目と耳に蓋をした。
「彩人さんは元気ですって、幸司さんが連絡を下さいましたよ」
 弟の幸司は、郊外で「沢渡カーアドバイザー」という、中古車の販売会社を経営している。 
 むう、やっぱりそうか……。
 あいつめ、この間会った時には、そんな事を一言も言わなかったぞ。
 ええい、この私を騙しおって。
「あなた。もしかして騙された、なんて考えていらっしゃらないですよね?」
「う、うむ」
 またもやばれている、はっきりと顔に書いてあるのでもなかろうに。
「いつまでも、このままという訳にはいかないでしょう?」
 妻は心底、家族という繋がりを心配しているのだろう。
 継母だからという、引け目のようなものを感じている訳ではないだろうが、慎吾や彩人をとても心配してくれている。
「親には親なりの、子供に対して願いや想いがあるのと同じように、子供にも子供なりに譲れぬ想いがあるのではないのですか? それは人間として成長していくのですから、当たり前の事でしょう」
 妻はぴんと背筋を伸ばし、はっきりと自分の意見を聞かせてくれる。
「彩人さんのように、しっかりと自分自身と向かい合っている息子がいるのに、親子で語り合う事もないのでは寂しいと思います。お願いですから、もう一度お考え下さい」
「……うむ」
 ここであまりにぶつぶつ言えば、ただの頑固親父に見えるのだろうな。
 幸一郎は腕を組んで唸った。
 紫織は遙の親友だった、だから遙の事を深く理解している。遙が遺した絵への情熱を確かめながら、自分の道を歩む彩人を応援してやりたいのだろう。
 それは幸一郎にも、よく分かっている。
「それから先日の夕方、茶館で水無月さんに会って参りました。名乗らなかったので、働きぶりを確かめに行ったみたいになってしまいましたから、今度謝っておかないと」

 紫織さん。今、なんとおっしゃいましたか?
 幸一郎の眼鏡がずり落ちた。
「若いのにしっかりしていて、とても良い方だと思いました。今までに苦労があったのかもしれませんね。彼女の立ち居振る舞いから、私はそう感じました」
「慎吾の馬鹿ではなく、彼女に茶館を任せていれば大丈夫だろう」
「またそんな事をおっしゃって……あの、私思うのですけど」
 妻の真剣な表情に、幸一郎も表情を改める。
「あなたも一度、水無月さんと会って下さい」
「私も?」
 妻はこっくりと頷いた。
 彼女が何かしらぽつりと漏らした一言が、真理をついているという事が少なくない。
 幸一郎は、黙って妻の話に耳を傾ける。
「はい。縁など、その時は気付かないほどとても儚いものです。でも、ふとしたきっかけで触れ合ったほんの僅かな縁でも大事にしないと……大切な絆は生まれないし、育まれません」
 紫織も名乗らなかったのは、水無月さんの素顔を見たかったのだろう。
 茶館のオーナーの妻が来たとなれば、緊張してしまうに違いない。
 水無月さんか。やれやれ、これでは私一人が意地を張っているみたいだ。
 幸一郎には、茶館を軸にして何か大きな流れが起こっているように感じられる。それが縁と言うのなら、結局私も巻き込まれるのか。
 亡き父、幸太郎が愉快げに舌を出しているような気がする。
 それとも遙、やはり君なのか……。
 幸一郎は、胸の中に確かに苦い思いを押さえ込んでいる。
 紫織に気兼ねしているわけではないし、彼女もそうは思わないのだろうが。肩をすくめた幸一郎は、冷めてきたほうじ茶をごくりと飲み干した。
 ……彩人か、まるで不器用な自分を見ているようだ。
 母を失ってから泣いてばかりいた彩人。しかし心ではずっと、母に教えられた絵への想いを大切に育んでいたのだ。
 ならばやれるところまでやって見ろ、だが生半可な覚悟で歩ける道ではないぞ?お前が奮起出来るなら、私はいくらでも憎まれ役を引き受けてやるさ。
 その思いを、幸一郎は誰にも明かすことはないだろう。
 微かな笑みを浮かべた幸一郎がふと気付くと、妻がそっと袖で目尻を押さえている。
 やれやれ、やっぱり妻にはお見通しらしい。
「分かった、考えておくよ。すまないが、お茶をもう一杯もらえるかな」
「はい」
 声を詰まらせた妻は、それでも明るい笑顔を見せて、幸一郎から湯飲みを受け取った。
 
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