The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

 50.幸せのクリームソーダ
 目次
 茶館の店内に充満している澄んだ空気。
 朝が訪れる度に、その新しい清々しさを感じるのです。
 開店の準備も出来ました、茶館を訪れて下さったお客様はどんな時間を過ごされるのでしょうか。
 そんな事を考えていた私は、ふと右手の小指を見つめます。
「電話してね、約束だよ!」
 舞ちゃんの真剣な表情を思い出すと口元がほころびます、小指を絡めて、何度も約束をしました。
 隣町から私を訪ねてくれた舞ちゃん。久しぶりに川澄のおじさんとおばさんと、お話をする事が出来ました。新しい生活にばかり気を取られて、妹のような舞ちゃんの寂しさに気が付いてあげられなかった事を、深く反省します。
 土曜日の夜には舞ちゃんに電話をして、たくさんお話をしようと思っています。
 小さな楽しみが、ひとつ増えました。

 今日は木曜日。
 慎吾さんはやっぱり朝から姿が見えません。そして、そろそろ麗香さんがお店にいらっしゃる時刻になります。
 今日は、卵を使ったサラダでも用意しましょうか? 人差し指を顎に当ててそんな事を考えていると、茶館の空気をドアベルの音が震わせました。
 きっと、麗香さんです。 
「いらっしゃいませ、おはようございます!」
 振り返って元気に挨拶をした私は、そのままの姿勢で固まってしまいました。
「あの、ええと」
 咄嗟に言葉が出てきません。
 茶館の扉を開いたのは、麗香さんではありません。ごくりと咽を鳴らした私は、扉を開いている可愛らしい男の子をじっと見つめてしまいます。
 背中には大きなランドセル、小学校の三年生くらいでしょうか? 着ている洋服は、ひと目で仕立ての良い品だと分かります。
「お、おはようございます」
「えっと、あの……。お、おはようございます」
 お互い、挨拶のしっぽが掠れて消えました。
 ぐっと力を込めた両手を握りしめ、ぺこりとお辞儀をした男の子は、すたすたと店内に入ってきます。
 店内の真ん中で立ち止まった男の子は、その場でしばらく店内を見回していましたが、はっと何かに気付いたような素振りを見せました。
 そして、真っ直ぐに窓際のテーブル席へと歩いていくと、ランドセルを降ろして椅子に座ってしまったのです。
「どうしましょう」
 思考が停止していた私は、ふと我に返り店内の大きな時計で時刻を確認します。
 困りました。今日は木曜日、午前十時半です。春休みでも、夏休みでも、冬休みでもありません。小学生は学校にいる時間なのです。
 私には男の子が茶館を訪れた理由が、まったく分かりません。
 ひょっとして、夢を見ているのでしょうか、それとも男の子は幻なのでしょうか。そんな不思議な存在ならば、すぐに遙さんが姿を現されるはずなのですが、その気配は一向にありません。
 現実から逃避している場合ではなく。どうすればいいのか思案していると、再び店内に響いたドアベルの音。
「おはよ、瞳子」
「あ、麗香さん。おはようございます」
 朝の挨拶と共に会釈をすると、麗香さんが手を振って応えて下さいます。
「さって、今日も頑張るわよ!」
 体温が高いのでしょうか。麗香さんは両手を上げてうーんと伸びをすると、拳を握ってガッツポーズを決めます。ふんふんと何かの歌を口ずさみながらご自身の予約席に向かおうとして、足を踏み出したままの姿勢で硬直しました。
「あの、麗香さん?」
 恐る恐る背中に声を掛けると、くるりと振り返った麗香さんの瞳が半眼になっています。
「ねぇ瞳子。私の席に座っている、あのお子様はどちら様?」
「ええと、分かりません」
「あの席は、私の予約席でしょう? あなたが分からないって、どういう事よ」
 どういう事と訊ねられても、私にも分かりません。私は激しく詰め寄る麗香さんを、両手で押しとどめながら、なだめようと試みます。
 麗香さんの抗議は次々と、遠慮無く私にぶつかります。心の耳に栓をしてやり過ごしていると。何かを思い出したような麗香さんは、ぐるぐると回していた腕をぴたりと止めました。
「もういいわ、仕事がたて込んでいるの。濃いめのブレンドをお願いね」
「は、はい。かしこまりました」
 お仕事を思い出したのでしょう。首を横に振った麗香さんはお気に入りのテーブルに歩み寄ると、大きなトートバッグを置きました。
 両手を腰に当てて、男の子を見下ろします。
「ちょっと、僕」
 男の子は、高圧的な麗香さんに答えることもなく。いえ、麗香さんの顔を見ることもなく、ただじっと窓の外を眺めています。
 まるで麗香さんが、その場に滞留する空気でもあるかのように、無関心で。
「あ……」
 私は気付きました。麗香さんのこめかみの辺りがひくひくと蠢いています。
 無視されるのは我慢ならないのでしょう、大きな打ち上げ花火の導火線に火が着いたらどうしようかと気を揉みましたが。麗香さんは大きな溜息をついて、そのまま椅子に腰掛けました。
 ひとまず、ほっと胸を撫で下ろします。
 トートバッグからパソコンを引っ張り出して、お仕事を始めた麗香さん。
 身動ぎもせずに、じっと外を眺めている男の子。
 二人が座っているテーブルの周囲に渦巻く、言いようのない不安を孕んだ空気に、私は耐えられそうにありません。胃の辺りが妙に重いです。私はハラハラしながら、サイフォンの様子を見るために意識を集中します。
 それから……。
 大きなグラスを用意しました、シロップ漬けのチェリーも必要ですね。
 しばらく、仕事を続けていた麗香さんでしたが。
「ちょっと瞳子、何やってるのよっ!」
 どうしたのでしょう。足早にカウンターに歩み寄った麗香さんに、バックヤードへと引っ張り込まれました。
「麗香さん、こちらへ入られては困ります。ブレンドはすぐにお持ちしますから」
「もう! ブレンドを急かしたんじゃないの。私も困っているのよ、気が散って仕事が出来ないじゃない」
 不便を訴える麗香さん。
「今日だけは、別の席というわけにはいきませんか?」
「駄目よ、もうあの席になれているの。他の席では、インスピレーションが湧かないわ」
 私の対案はすげなく却下されました、そういうものでしょうか。
 文筆業というのは、とても繊細な感性を必要とされるのかもしれません。と、いうことは麗香さんは見掛けによらず……。そんな失礼な事を考えながら、上目遣いで麗香さんの真っ直ぐな背筋を見つめます。
 バックヤードに身を隠して店内を窺う麗香さんは、腕を組んで苛々した様子です。
 ひょっとして、原稿の締め切りでも近いのでしょうか。
「もう少ししたら、名前でも訊ねてみようと思っているんですけど」
「甘いわよ、瞳子。名前なんて本人に聞かなくたって、ちゃんと名札に書いてあるじゃない。小学校に問い合わせて、父兄か先生に迎えに来て貰えば一件落着よ」
「でも、それでは……」
 私は言葉を濁します。
 確かに男の子は胸に名札を付けています。
 麗香さんの仰る通りかもしれません。でもそれでは、男の子がどうして茶館に来たのかその理由が分かりません。
 名前を教えてくれたなら、少しでも私が向けた言葉に触れてくれたのなら、私にも男の子にも伝わる想いがあると思うのです。
 そして何よりも――。
 男の子は相変わらず、じっと窓の外を眺めています。そのひたむきで真剣な表情が、どうしても気になってしまうのです。
「ごめんなさい麗香さん。ご迷惑でしょうけど、もう少し、もう少しだけ待って下さい」
「もう、しょうがないわね」
 麗香さんは不承不承ですが肯いて下さいました。席へ戻ると、再びパソコンに向かってキーを叩き始めます。
 その様子を横目で見ながら、冷凍庫の扉を開けて冷たいバニラアイスクリームの容器を取り出します。アイスクリームディッシャーを手に取ると、くるりと回して掬い取りグラスに満たしたソーダ水に浮かべます。
 真っ赤なチェリーをトッピング、クリームソーダが出来上がりです。
 麗香さんのブレンドと共にトレイに乗せて、さあ、出発しましょう。
「お待たせしました」
 麗香さんの前にブレンドを、男の子の前にクリームソーダを置きます。男の子は目の前に現れたクリームソーダに驚いたのか、丸くした目をパチパチとさせて、私を見つめます。
「ガラスの向こうに、何が見えるんですか?」
 訊ねた私から目を逸らして、俯いてしまう男の子。私は側にしゃがんで、男の子が見ていた風景に目を向けます。
「あら」
 この席から見えるのは……。
 その時です。何かの意志に揺さぶられたように、茶館のドアベルが乱暴な音を立てました。
「こんな所にいたのですか」
 店内に響いた冷たい声。
 その声に、男の子が体を堅くするのが分かります。
「随分探しましたよ」
 扉を開けて店内に踏み込んで来たのは、大柄な体格をした男性でした。
 ダークグレーのスーツに威圧感を感じます、身だしなみは整っているのですが、男性が発するのは何者も寄せ付けぬ雰囲気。足音が近づく度に、背筋が凍り身が縮まる思いです。男性は男の子の前で立ち止まると、無造作にその腕を掴みました。
「さあ、行きますよ」
「……嫌だ」
 ぎゅうっと唇を噛んで頭を振る男の子は、泣くまいと必死に堪えているようです。ですが男の子の腕を掴んで引き寄せる男性は、そんな事には無関心のようで。
「聞き分けのない事を言わないで下さい。さぁ、行きましょう」
 苛立つように、男の子の腕を掴んだ手に力を入れます。
「い、痛っ」男の子が小さな悲鳴を上げた瞬間でした。
「何やってんのよ、あんたはっ!」
 茶館に飾られた絵達も驚くほどの鋭い怒声と共に、麗香さんが男性の脚を思い切り踏み付けます。堪らず男性が体をくの字に折ると、するりと近付いた麗香さんが男性の顎を膝で打ったのです。
 仰け反って飛ばされた男性が、背中からテーブルにぶつかり、派手な音が響きました。
「ふわっ!」
 麗香さんのとんでもない行動に、私は思わず両手で顔を覆います。
「こんな小さな子に何て事してくれるのよ。いい加減にしないと、警察を呼ぶわよっ!」
 指の隙間から恐る恐る覗くと、床に転がり苦悶の呻き声を上げる男性を、仁王立ちの麗香さんが睨み付けています。ひとつ間違えば、警察官に連れて行かれるのは麗香さんではないでしょうか。
 いいえ、そんな心配をしている暇はなさそうです。
 麗香さんは私の方を向くと、しきりに目で合図を送ってきます。彼女の視線は茶館のバックヤードを捉えているのでしょう。
 すぐに察した私は、震える足を叱咤するとそろりそろりと後退り、カウンターへと入ります。
「いきなり何をするんだ、君は」
「それは、こっちの台詞よ」
 ぎり……。と、歯を食いしばった男性が、スーツの袖で口を拭います。どうやら私の姿は男性に見えていないようです。私はぱっと身を翻し、茶館の裏口から外へ飛び出しました。
 肩越しに見えたのは、男の子を背中に庇い麗香さんがパソコンを頭上に掲げた姿。
 早く助けを呼ばなければなりません。
 裏口から商店街の表通りに飛び出すと、偶然にもばったりと出会ったのは商店会長さん。
「おや。おはようございます、瞳子さん。どうしたんです?」
「か、か、か、会長さん、あ、あ、あのあのっ!」
 焦る気持ちと安堵、伝えなければならない事がごちゃごちゃになって、うまく言葉になりません。訝しげな顔をしている会長さんの両肩を掴むと、私は肺一杯に息を吸い込み。
「助けて下さいっ!」
 大声で叫んで、茶館を指差しました。
「なんですと?」
 そうつぶやいて、茶館へ目を向けた会長さんの老眼鏡がぎらりと光ったかと思うと、振り上げた両手に魔法のように携帯電話が現れました。
「これはいけませんね」
 茶館の店内を覗き込みながら二台の携帯電話を開き、会長さんは素早い指捌きでボタンを押し始めます。ダイヤルし終えたのでしょう、両方の耳に携帯電話を当てた会長さんがニヤリと笑い。
「征二、健太、緊急事態です。すぐに茶館に集合して下さい」
 抑揚のない声で伝える会長さんは、いつもの柔和な表情ではありません。
 すると数分も経たないうちに魚屋の征二さん、肉屋の健太さんを始め、商店街の人々がそれぞれに武器を持って集まりました。いえ、武器といっても箒とかモップとかお玉とか。
 その人数は、ざっと二十人。
 迅速で強固な連絡網の賜でしょうか。中央通り商店街に軒を並べる主要なお店の皆さんが勢揃いです。会長さんの前に整然と並んだ皆さんは力強く私へと肯いて下さいます、その凛々しい姿は頼もしいのですが。
「皆さん、説明している暇はありません、瞳子さんの大切な茶館の危機です」
 ニヤリと笑う会長さんが右手を振り上げ。
「今こそ、中央通り商店街の結束を発揮する時ですっ!」
 その叫び声を合図に、皆さんが茶館に向かって猛然と駆け出しました。
「ええと、み、皆さん、あのあのっ!」
 興奮が絶頂に達しているのでしょうか、誰も私の話を聞いて下さいません。
 皆さんは手に手に得物を握ると、さながら狂戦士のように茶館へ殺到します。もしかすると、私はとんでもない事態を引き起こしてしまったのかもしれません。
「さあっ! 行きますよ、瞳子さん!」
「え? は、はいっ!」
 呆然としていた私は会長さんに背を押され、仕方なく皆さんの最後尾から茶館に向かいます。
 いちばん乗りで、茶館の扉へ取り付いた征二さんが、大声を上げながら扉を開いて店内に突入していきます。
 征二さんが開いた突破口を使い、皆さんが店内に雪崩れ込みました。
「きゃあ! ちょっと、なんなのよ、あんた達っ!」
 パソコンを振り回して男性を威嚇していた麗香さんが、目を丸くして驚いています。しんがりで突入した私は、騒ぎの中で男の子を見つけるとその手を引いて、ぎゅっと抱きしめました。
「安心して、もう大丈夫です」
 私と男の子の眼前で皆さんが乱暴な男性に飛び掛かり、あっと言う間に押し潰してしまいました。
「おいコラ。瞳子ちゃんの茶館で狼藉を働くなんざ、ふてぇ野郎だ。然るべきところへ突き出してやるから覚悟しろい!」
 床に突っ伏して、苦しげな声を漏らす男性。
 天秤棒を担いだ鼻息も荒い征二さんが、鬼でも討伐したように高らかな勝ちどきをあげています。
「やれやれ。どうやら大事には至らなかったようですね、良かった良かった」
 指揮官のような表情を収めた会長さんが「ほっほっほ」と、楽しげに笑っています。
「ぜんぜん良くありませんっ!」
 店内に響いた大きな声は、盛り上がる皆さんに冷水を浴びせるのに十分でした。
 声の主は恵子さん。
 慌てて駆けつけたのでしょう。ポニーテールを振り乱し、眉を吊り上げて厳しい視線で茶館に集まった皆さんを撃ち抜きます。弾む胸に手を当てて息を整えた恵子さんに、にゅっと角が生えました。
「いい加減にしなさい、この馬鹿騒ぎは何なのよっ! 通りを歩くお客さんが驚いているでしょう! こんな騒ぎを起こしているようじゃ、駅前通りの百貨店に潰されるわよっ!」
 中央通り商店街のご意見番、恵子さんの一喝に、皆さんの動きがぴたりと止まりました。
「もう。会長に瞳子ちゃんまで、何をやっているのよ……」
 恐怖に凍り付いている皆さんを、ぐるり見回した恵子さん。
 皆さんを支配していた魔法がようやく霧散したようです、我に返った皆さんは、バツが悪そうに苦笑しながら視線をふらふらとさ迷わせるばかり。
 その時でした、私の腕をするりと抜けた男の子が、仁王立ちをしていた恵子さんに飛びつきました。
「お母さんっ!」
 その大きな声に、皆さんの視線が恵子さんと男の子に集中します。
「つ、翼……?」
 息を止め、目を丸くした恵子さん。
「どうして……」
「僕、この間、学校の帰りにお母さんを見たんだ、もう、我慢出来なくなって……」
 次第に震えてくる男の子の涙声。驚愕の表情を浮かべている恵子さんの体が小刻みに震えています。触れれば消えてしまう幻であるかのように、翼君を抱きしめようとするのを躊躇う恵子さんでしたが。
 溢れ出す涙が、その呪縛を解いたのでしょう。
「……翼、翼っ!」
 恵子さんはその場に崩れるようにしゃがみ込み、翼君を力一杯に抱きしめました。
「お母さん、お母さんっ!」
 恵子さんに、息子さんがいらっしゃるなんて。
 まるで「お母さん」以外の言葉を忘れてしまったように、翼君は恵子さんを呼びながら強くしがみつきました。
 しっかりと抱き合う親子を見つめている、商店会の皆さん。
「驚いた、翼じゃないか」
「ああ、翼だ」
「じゃあ、こいつは佐倉家の……」
 そうつぶやいた、征二さんと健太さん。その他の皆さんが作る輪の中心で、押し潰されていた男性がのろのろと体を起こしました。
「まったく、酷い目に遭わせてくれたものですね」
 怒りを含んだその声に、皆さんが脅えたように後退ります。
「覚悟は出来ているんでしょうね? 大奥様がこの商店街に格別な配慮をなさっている事を、よもや忘れたとは言わせませんよ?」
「つ、翼のボディーガードだったのかよ」
 表情を歪め、喉の奥で唸る健太さん。
「いやいや。気付かなかったとはいえ。もちろん佐倉の大奥様には、いつもお世話になっております」
 男性を宥めようと、会長さんが前に進み出ますが、床に座り込んだ男性の怒りは収まりそうにありません。中央通り商店街全体の支援者である佐倉家のお話は、慎吾さんにも伺った事があります。 
 何か複雑な事情がありそうですが、恵子さんがその名家、佐倉家に関わりがある方だとは知りませんでした。
「ええい、不愉快だ! とにかく、大奥様に報告をさせていただきますからね」 
 涙を流して抱き合う母と子の姿になど、まるで興味が無い様子で毒を吐き続ける男性の脅迫に、形勢は逆転。私達は窮地に追い込まれてしまいました。
 こうなった責任は、間違いなく私にあります。咎められるのは私だけで十分でしょう。
 きゅっと唇を噛み、足を踏み出そうとした私の肩を掴んだのは麗香さんでした。
「れ、麗香さん? あの、私……」
「あなたは引っ込んでいなさい」
 強い口調で言い放った麗香さんは、そのまま歩みを進め、臆することなく男性の目の前に立ちました。腰に両手を当てて、見下すように男性をぐっと睨み付けます。
「大人げないわね。あなたも翼君に痛い思いをさせたのは事実なんだし、痛み分けって事で手を打たない?」
「痛み分けだと? ふざけるな、くだらん取引だ」
 男性の態度には、とりつく島もありません。
 そんな事はお構いなしに、薄い笑みを浮かべた麗香さんは、男性の目の前にその綺麗な足で鋭く踏み出します。
「佐倉の大奥様って、私のボス、支所長と親交が深いのよ。佐倉家の者ならば、葉山由香利って名前を聞いたことがあるでしょう?」
「は、葉山様……だと」
 麗香さんの一言に、怒りを露わにしていた男性の熱が一気に引いたようでした。雑誌記者として、大きな出版社に勤める麗香さん、彼女の上司は有名な方なのでしょうか。
「さて、そこで問題です。翼君がここに居るのは何故でしょう?」
 麗香さんの問い掛けに男性がびくりと肩を震わせます。
「大事な孫の護衛も満足に出来ない男を、佐倉の大奥様が許す訳がないでしょう。それくらいは分かるわよね? 確かにこちらも早合点だった、それは謝罪するわ。だから……」
 麗香さんは床に両膝をついて、爽やかに微笑みます。肩越しに恵子さんと翼君の姿を見て、男性に向けて軽くウインク。
「ちゃらにしましょう、それがお互いのためよ」
 麗香さんの魅力がダメ押しとなったのでしょうか。
 口をぱくぱくさせる男性は、何も言う事が出来ませんでした。

 そして夕暮れ時――。
 茜色の光が射し込む茶館に、温かな笑い声が響いています。
「この馬鹿。仕事ははかどらなかったし、大変な騒ぎになったじゃない。これで原稿が落ちたら、どうしてくれるの」
「……ごめんなさい」
 貧乏くじを引いてしまい、ぼやく麗香さんに小突かれて、涙目の私は赤くなったおでこをさすります。
「まぁいいわ。それに、結果は上出来だったしね」
「はい」
 スツールに腰掛けて脚を組んだ麗香さんが、寄り添い合う恵子さんと翼君を見つめて優しい笑みを浮かべました。
 ぽつりぽつりと事情を話してくれた恵子さん。
 お目付役である男性の目を逃れ、硝子越しに恵子さんの、お母さんのお店をじっと見つめていた翼君。小さな胸にお母さんへの想いが、押し込められなくなったのでしょう。
 今はゆっくりと、母と子の時間を重ねて欲しいです。取引に応じてくれた翼君のボディーガードの男性が、ちゃんと秘密にしてくれる筈ですから。
「それにしても」
「え?」
「クリームソーダで、あの子を釣ろうとしてるんじゃないかって、疑っちゃった」
「そんなつもりじゃありませんっ!」
 握った両手をぶんぶんと振って、麗香さんに抗議です。
「わかってるわよ」
 むくれる私を捨て置いて、カウンターに頬杖を突いて笑う麗香さん。
「ねぇ瞳子。私もクリームソーダ、飲みたいな」
「……はい、かしこまりました」
 機嫌を直してお仕事です。母と子の絆を守ってくれた麗香さんにサービスして、可愛いチェリーをふたつトッピングです。
 思いも掛けぬ母と子の対面に、茶館の絵達も喜んでいます。
 幼い頃の記憶をくすぐる、冷たくて甘いクリームソーダ。グラスの中で弾ける細やかな泡は、たくさんの想いが詰まったカプセルに見えました。
 
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