The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

 52.瞳子さんとバレッタ
 目次
 差し出された、手のひらの上のバレッタ。
「あなたは綺麗な黒髪だから、きっと良く似合うわね」
 いつも私を励ましてくれた優しい笑顔を、忘れる事などありません。見上げる表情は柔和で、頬に触れる小さな手は柔らかく、とても温かくて。
 泣き虫だった私。
 涙の記憶をたくさん抱える私の心を、園長先生はまるで悲しみの思い出から守るように、いつもふんわりと包んでくれました――。

 朝を迎え夢から覚めて、ゆっくりと目を開きます。
 ベッドの温かさに微睡みながら彼方へと消え去った夢を追うことを諦めるには、ちょっとした勇気が必要です。私はベッドの上で体を起こし、人差し指で目覚まし時計のスイッチを止めました。
 午前六時。人差し指で、ちょんと時計をつつきます。一晩ご苦労様、今日も私の方が早く起きたようです。大きく伸びをしてから、そこでくたっと体の力を抜きます。でも、ここで油断するとまたとろんとしてくるので、気を付けなければなりません。
 ふっと息を止め、ひんやりするカーペットへ素足を下ろし、ととっと小走りに窓辺へ寄って、さっとカーテンを開けて朝日を部屋の中に。
 カーディガンを羽織り、洗面所で顔を洗ってうがいを済ませて朝ごはんです。 
 静かな茶館の店内をそっと覗いてみると、壁に飾られた絵達はまだぐっすり眠っているようです。
 あら、高木さん元気な「ひまわり」の絵は、もう起きているみたいですね。鮮やかな黄色い花びら、真っ直ぐに太陽に向かって花開く元気な姿は、みんなに与えるおおらかさや温かさ、そして力強さを感じさせてくれます。
 私は小声で絵達に「おはようございます」と挨拶をして、カウンターへ入ります。エアコンから流れ出る空気が暖められ、冷気に強張っていた体が少しほぐれ、肩の力が抜けてきました。 
 トースターが一生懸命にパンを焼く様子を眺めながら、ラディッシュとレタスを流し水で洗って、トマトと一緒にサラダに。
 ぽんっ! と飛び出すトースト、彩り豊かな朝食が出来上がりました。
 テーブルに座って手を合わせてからいただきます、慎吾さんは留守なので、ひとりで食べる朝ご飯です。
 私は毎朝、きちんと朝ご飯を食べます。一日中立ち仕事ですから、お腹が空いたままでは体がふらふらとしてしまい力が出ません。 
 お客様を、きちんとおもてなし出来ないのです。
 トーストにバターを塗る音とコーヒーの香り、そしてサラダの綺麗な彩り。
 さくっとした歯触りのトースト、その焼き加減で壊れる結婚生活があると聞きますけど。
 朝食の後、手早く後片づけを済ませたら歯を磨いて、次は身支度を整えます。
 真っ白で、さらさらとした肌触りが気持ち良いブラウス。皺やシミが無いことを確かめて、さっと袖を通してボタンを留め、黒いスカートを履いて……。
 あら、ウエストがちょっと緩いです。
 最近、忙しかったからでしょうか? 気になって小さな鏡台の鏡を覗き込みますが、顔色は良いみたいです。やつれた顔などしていては、お客様の前に出られません。
 ひやりとした化粧水を手に取り、じ〜っと鏡の中の自分を観察しながら、お化粧を始めます。パフに取ったファンデーションをそっと延ばします。私は一日中 お店の中に居ますが、それでも乾燥などに注意しています。明るい色のルージュをひいて、自然な笑顔が映えるように。ティッシュを「はむっ」と、くわえた ら……。はい、おしまいです。
 ちょっと角度を変えてみて……うん、大丈夫ですね。
 エメラルドグリーンの飾り石が輝く、リボンタイをふわりとさせてから丁寧に髪を梳きます。長い黒髪を背中に流し、両側から髪をすくって後ろで留めるためにバレッタを手に取ろうとした私は、そのままの姿勢で凍りつきました。
 大切にしているバレッタ。そのバレッタを飾っている紫色のリボンがちぎれているのです、私は目を見開いたままで、しばらく動く事が出来ませんでした。
 昨日外した時には、何ともなかったのに……。
 私にとってはとても大切な思い出が詰まっています、古い品ですからリボンの生地が痛んでしまったのかもしれません。想像もしていなかった出来事に、私は肩を落としました。
 時間もないのでどうしようもなく、私はリボンの無いバレッタで髪を留めました。
 いつもは目に見えていないバレッタ。
 でも私は、髪と共に揺れるリボンを感じていたのでしょう、やっぱり何かが足りません。ボタンを掛け違えたようで、何やら調子が出ないのです。
 がっちゃん!
「……あっ!」
 するりと手から躍り出たカップが、床で砕けて散らばりました。不意に店内へと響いた不穏な音に、何事かとお客様の視線が集まります。私は恥ずかしさに慌てて床にしゃがみ込みました。
 こんな事は初めてです。
 午前中だけでお皿を一枚、カップを二個壊してしまいました。
 テーブルの角にジャケットの裾を引っかけたり、挽いたばかりのコーヒーの粉を全部ひっくり返したり。
 お客様に、ご迷惑をお掛けしなかったのが幸いです。
 そんな事を考えながら、ぼんやりとしていたのでしょう。 
「痛っ!」
 カップの破片を拾う指先に浮かんだ赤い筋、私はとても落胆してしまい。人差し指をくわえたままぺたんと座ると、床を見つめてため息を付きました。
 それからもお昼ご飯を作ろうとしてパスタを床にばらまいてしまったり、ペティナイフで指を切りそうになったりと。リズムが狂ってしまったように、何もかもがうまくいきません。
 午後からはお客様も増えるでしょう、ご迷惑をお掛けしてしまう前に、今日はお店をお終いにした方がいいのでしょうか? そう考えていると、店内にドアベルの音が響きました。
「こんにちは、瞳子さん」
「あ! こんにちは!」
 お店の扉を開けたのは、商店会長さんでした。
「この間はご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
 ぺこりと頭を下げます。
 商店会長さんは、中央通り商店街で代々洋裁店を営んでいらっしゃいます。
 黒縁眼鏡の奥の目は優しくお話をされるとてもな口調。皆さんからの信頼も厚く、もう何年も商店会長をなさっています。
「いえいえ、気にしないでください。思いの外、大騒動になりましたが。恵子さんと翼君にとっては、良いことだったのでね」
 片目を瞑ってみせるその表情は、まるで悪戯っ子のようです。
「お散歩ですか?」
「はい。皆さんと一声掛け合わないと、一日調子が出ませんからね。それに店番は家内の方が達者ですから」
 笑いながら、恥ずかしそうに頭を掻く会長さん。
 私が着ている黒いジャケットも、会長さんのお手製です。体に合わせたラインで裁断された布地を、丁寧に縫い合わせたジャケット。
 私の体に自然と馴染んで、とても良い着心地。ふわりと包まれ、安心感があるのです。
「今、お茶を淹れますわ」
 私は、ぱたぱたとカウンターへ入りました。
 会長さんに、煎茶をお出しします。お茶うけには駅前の和菓子屋さん、萌音の「あんこ玉」をころころと。あんこを一口大に丸めて、お砂糖でまわりを覆った甘いお菓子です。
 両手で丁寧に湯飲みを持った会長さんは、お茶を一口すすって一息付かれました。
「えーと」
 眼鏡を掛け直して、私をしげしげと見ている会長さん。
「瞳子さん、今日は何か足りませんねぇ」
「は、はい」
「どこか雰囲気が違います」
 白髪を撫でた会長さんは、顎に手を当てて首を傾げていらっしゃいます。
「やっぱり、そうですか?」
 私はその場で、くるりと一回りしてみました。
「ああ! バレッタのリボンが無いんですね。いつもは黒髪と一緒に、綺麗な紫色のリボンが見えていましたから」
 気が付かれたようです。
 ぽん! と手を打った会長さんは納得したように、うんうんと頷かれました。

「これは、なるほど」
 仕方なく髪に留めていたバレッタを外して、千切れてしまったリボンと一緒に会長さんに見てもらいます。
「うん。これはこの国の品物ではないですね、美しいカメオ細工。見事な彫り物です……良い品ですね。ん、それだからこそ今まで壊れたりしないで、瞳子さんの髪を飾っていたのでしょうね」
 私はバレッタに施されている、その細工の価値を知りませんが。柔らかな表情をした女性の横顔が彫り込まれています。
 会長さんは感心したようにバレッタを眺め、丁寧にテーブルの上へと置かれました。
「思い出の品ですか?」
「はい」
 私は指先で、バレッタをそっと撫でて頷きました。指先に感じる滑らかなその飾り彫り。あらためてバレッタを見つめる私の心に、たくさんの思い出が浮かび上がります。
「……私は、自分の『水無月』という姓が嫌いなんです」
 胸につかえていた様々な想い、その言葉が思わず口をついて出ました。
 私には、両親がいません。父も母も、私の記憶の中に残る姿はないのです。物心がついたときに、私の手を握ってくれていたのは祖母でした。
 背を丸めて歩く祖母の姿をよく覚えています、柔らかな笑顔と物腰。私は決して祖母の優しさを忘れません。
 でも、祖母は両親の事を何一つ私に話してはくれませんでした。何度も何度も、せがむようにねだる私を見つめる祖母の瞳はどこか悲しげで。その祖母の表情に不安を覚えて、私はいつも俯いて口を噤んでいました。
 私が小学生の頃です。大好きだった祖母が亡くなった後、私は伯父や叔母の家に預けられ、悲しみに暮れる間もなく親類の家を転々とする生活を送っていたのです。
 ですから水無月という自分の姓に、どれほどの想いもありません。温かい言葉も、触れ合いも何もない。まさに無というにふさわしい……。
 そんな生活を送るうちに、親類の間で相談がまとまったのでしょう。私は身寄りのない子供達のための施設へと、預けられる事になったのです。
 大きな不安を抱えて、これから暮らす園の門をくぐった私を迎えてくれたのは、園長先生でした。
 当時、もう初老であったと思います。大きく両手を広げ、丸顔に浮かべた優しそうな笑顔。
「いらっしゃい、瞳子ちゃん」
 園長先生が呼んで下さったのは私の名前。私はその時、初めて私という存在を認めてもらう事が出来たのだと感じました。
 それからの日々は、今までとはまったく違ったものでした。同じような境遇の子供達、一度に出来たお兄さん、お姉さん、弟に妹。私はその中で、様々な事を学びました。
 豊かさという言葉は、決して物質的な贅沢を指すのではありません。
 思い遣りや気持ちの繋がり、心で触れ合うこと。そうして満たされ、初めて幸福を感じるということを実感したのです。そして私達をいつも見つめて下さったのは、園長先生でした。
 社会人として園を巣立つ事が決まったとき、私は園長室に呼ばれました。成長した私を見上げた園長先生は、両手で私の腕をぽんぽんと叩いた後。
「よく頑張ったわね。優しいお姉さん、小さな子達はみんなあなたに懐いていたわ。ありがとう瞳子ちゃん」
 目尻に浮かぶ皺をいっそう深くして微笑むと、園長先生は部屋に置かれている、使い込まれた机の引き出しを開けました。
「古い品だけど……」
 いつの間にかたくさんの皺が増えていた、園長先生の手の平に乗せられているバレッタ。
 いつも一緒にいるバレッタと、初めて出会った瞬間でした。
「大丈夫よ、自信を持って。あなたはきっと幸せになれるから」
 ぽろぽろと、大粒の涙をこぼす園長先生。そっとバレッタを受け取った私も惜別の念が、寂しさが胸を締め付けてきます。
 私は子供の頃のようにしっかりと園長先生に抱きつくと、とめどなく溢れ出る涙、嗚咽を堪えきれず声を上げて泣きました。

「なるほど、よく分かりました」
 喉が渇くほど話してしまいました。テーブルに手をついて体を支える腕を、ぽんぽんと叩いてくれる会長さん。
 小さく肯いて、溢れ出す思い出を堰き止めます。
 会長さんは一度だけ、すんと鼻を鳴らした後にっこりと微笑んで下さいました。
「瞳子さん、ひとつだけお伺いしますよ?」
「はい」
「この傷んだリボンと共に、バレッタをこのままにしておけば、あなたの大切な思い出として残るでしょう。リボンを新たに作り直せば、このバレッタは思い出を記す品ではなくなるかもしれませんよ、それでもいいのですか?」
「……そう、ですね」
 手のひらに乗せたバレッタを、じっと見つめて考えます。
 私には、心に決めたひとつの想いがあるのです。心を切り裂いた言葉、突然の別れを告げた彼が気まぐれに私の左の薬指にはめた指輪をきちんと返そうって。
 それが、いつの日になるのか分かりません。
 でも、私はそれまでに再び彼と向かい合う勇気を持たねばならないのです。ですから、いつも見守ってくれる園長先生のバレッタと、私はこれからも一緒にいたいと強く思いました。
「よろしくお願いします」
 深々とお辞儀をして、大切なバレッタを会長さんにお預けします。
「……分かりました、お任せください。瞳子さんと一緒に新しい日々を過ごすのですからね、素敵なリボンを新調します」
 会長さんのおかげで、不安にさざめいていた気持ちがゆっくりと凪いでいきました……。

 そんな一日を無事に終え、スツールに腰を下ろして一息ついたその時です。背中からふわりと絡められた両腕に、優しく抱きしめられました。
 それは思い遣りに満たされた温かな抱擁、驚いたりなんかしません。
「大好きよ、瞳子ちゃん」
 私を抱きしめてくれたのは遙さん。背中越しに、遙さんの温もりが伝わってきます。
「普段は言葉に出さなくても、分かっているって思うものだけど。時には、きちんと言葉に出して伝えないとね」
 私を抱いたまま、体をゆらゆらと揺する遙さん。
「私も、遙さんが大好きです」
 恥じらいとともに、小さな声で紡ぐその言葉。
 俯いた私は瞳を閉じて、遙さんが刻むリズムに身も心もゆだねます。そのリズムは、心を落ち着けるように緩やかで。
「あなたは私の大切な娘よ。ほら、お母さんって、呼んでごらんなさい?」
「……え?」
 優しく包み込んでくれる存在を呼ぶその言葉は、どんなに欲しくてもどんなに求めても遠く、あまりにも遠く、手が届く事はなくて。
 物心ついてから今日までずっと、数えるほどしか口にした事がない言葉です。
「ほら、瞳子ちゃん?」
 遙さんが、そっと促して下さいます。気恥ずかしさと躊躇いに随分と長い間逡巡した後、私は震える唇を開きました。
「お、おかあ……さん」
「はい」
 耳に響くのは、とてもとても優しい返事。
 遙さんは両の腕に力を込めて、私をぎゅっと抱きしめて下さいました。
 
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