ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード

2.領主の息子


 目次
 そっと口づけたニーナの唇は、柔らかくて温かい。
 良い匂いがする金色の髪を撫でて、フリードはぎゅっと彼女を抱き寄せる。
 ニーナはわずかに身を堅くしたが、ふわっと体の力を抜いて体をフリードに預けた。
 しばらくフリードの胸にそっと顔を埋めていたニーナだったが、不意に両手でとんっ! と、フリードの胸を押して突き放した。
「ニーナ?」
 フリードは押されて少しよろめいたが、刈り入れが済んだばかりの畑の土を踏ん張って堪えた。両手を胸の前できつく握り、ニーナが細い肩を震わせている。
「フリード、もう帰りましょう。もしもお館様に……あなたのお父様に見つかったりしたら」
「大丈夫だよ。あの人はこんな麦畑のど真ん中になんか、絶対に来やしないさ」
「……でも」
 二人が立っている広大な麦畑は役目を終えたばかりで、陽光にさらされ乾燥した草の匂いが立ち上っている。
 以前はこうして、互いの心臓の鼓動と温もりに恥じらいを覚えつつ、いつまでも寄り添っていられたのに。
 フリードは眉根を寄せて唇を噛む、薄茶色をした髪が微風に揺れた。色素が薄く白い肌、整った顔立ちに、淡い光を湛えた琥珀色の瞳。背が高くて均整の取れた身体つき。
 着ている衣服の生地はとても上質で、育ちの良さと裕福さがうかがい知れる。
「ニーナ、父上が怖いのかい?」
「そうではないの。でも、私とあなたはもう……許される間柄ではないわ」
 美しい青玉石のような瞳を伏せ、ニーナが小さな声で答える。
 フリードは再び彼女の肩に手を掛けて、そっと抱き寄せた。
 フリードの父、ブレンディア・ブロウニングはこの辺りの地域、カーネリア領を治める領主を務めている。
 とても大柄な体躯で、精悍な男だ。
 カーネリアの広大な土地を所有し、領民達をまとめ上げる領主としての辣腕は、近隣の領地を治める諸侯にも広く知れ渡っている。
 幾人か存在する領主のひとりとしては、王都でも名を馳せるものの。父親として、子供と正面から向き合う事は得意ではないようだ。
 フリードとブレンディア、父と子の間には深く埋められぬ溝がある。
 その理由は……ニーナの存在によるところに間違いはない。
 フリードがふと気付けば、ニーナが心配そうに見上げている。彼女の身を包んでいるのは、屋敷の使用人達と同じくすんだ色の服。フリードは覚えている、ニーナはもっと薄い緑色や、淡いブルーが似合う子だったはずだ。
 そう、ニーナ・フランネル、彼女はフリードの幼なじみ。そして、許嫁だった。
 ニーナは、カーネリアでも名が知れた高名な貴族の娘。
 ブロウニング家の跡取りであるフリードと、フランネル家の娘ニーナとの婚姻の話が進められていたのだ。
 幼い頃から仲が良いフリードとニーナは、家同士が決めた許嫁同士というお互いの立場をごく自然に受け入れていた。
 ブロウニング家は歴史が浅い。
 「フランネル」という名家との、強い繋がりが欲しい……二人の婚姻には、ブレンディアのそんな思惑もあったのだろうか?
 だが人の運命など、誰にも予測する事など出来はしない。
 フランネル家が出資していた事業が失敗したのだ。返済のあてもない程の莫大な借金を抱えたフランネル家に、ブレンディアは手のひらを返したような態度をとった。
 事業の立て直しと損失の補填に協力して欲しいという、ニーナの父の申し出をあっさりと断ったのだ。
 そしてフリードとニーナの婚約を破棄し、きっぱりと両家の関係を絶った。
 ニーナの父が手掛けていた事業は完全に頓挫し、借金を返すためにニーナの父はすべてを失った。
 没落していく貴族の末路は目を覆いたくなる。ニーナの両親は相次いで体を壊し、この世を去った。
 家族を失い一人残されたニーナを、ブレンディアはあろう事か使用人として家に置いてやると言い放ったのだ。
 フリードにはニーナが使用人として屋敷で働くなどと、そんな事を認められるはずがない。父に猛然と抗議したフリードを、ブレンディアは怒りにまかせて鞭で幾度も打った。
 激しく鞭で打たれた痕が腫れ上がり、高い熱を出して苦しむフリードを、ニーナは一晩中寝ないで看病した。
「私はどんな立場だっていい、フリードの側にいたい……」
 高熱に浮かされながらも、フリードは耳にしたニーナのその言葉を覚えてい
る。
 あの日フリードは心に誓った、ニーナは必ず自分が守ると。

 フリードはふと、頭上に広がる蒼穹へと顔を向けた。
 輝く太陽に眩しさを感じながらも真っ直ぐに睨みつける。目に映るのは、ひっきりなしに空を行き来するウィンドシップ……大空を自在に駆ける飛行艇だ。それはフリードにとって、いや、この世界で暮らす者にとって当たり前の光景だ。  ウインドシップは運送、客船、軍用ど様々な用途によって、その機体の大きさが異なる。
「そうだ! ニーナ、『ウインディ』を見に行こう!」
 ウインディ、それはフリードの軽量型ウインドシップの名前である。
 フリードは、ニーナの手を取ると優しく引いた。
 躊躇いがちな青い瞳、きゅっと引き結んだ桜色の唇。少し荒れている小さな手に感じるのは、戸惑いと微かな抵抗。
 そのもどかしさに、フリードは彼女の体を抱き上げると、勢い良く畑の中を走り出した。
「きゃあっ、フリードっ!」
 ニーナが首に強くしがみつく。
 少しでも早く大空へと近付きたい、フリードは路肩に停めてある車まで全速力で走った。

 ☆★☆

 二人を乗せた車は中心街を抜け、湾岸沿いの道を進む。
 グランウェーバー国――。
 賢王と名高いハインリッヒ王の治世は長く、近隣諸国の情勢も安定しており、人々は穏やかな暮らしを満喫していた。
 近年、ハインリッヒ王が体調を崩して床についてしまったとの噂が流れたが、真偽の程は明らかではない。王政に目立った変化が起こっている訳でもなく、人々の胸の内から社会に対する不安は薄れつつあった。

 車の乗り心地は相変わらず悪いが、今ではその性能も良くなり、道端で立ち往生している車を見かける事は少なくなった。フリード達が向かっているのは、その叔父が所有している別荘だ。
 隣に座っているニーナの表情は固い。車窓を流れる景色に目を向けることもなく、じっと前を見据えている。
 その不安に揺れる瞳……。
 自分はニーナのために、何をすればいいのだろう? 正しい答えは、いつまでたっても見つける事が出来ない。
 そんなもどかしさを胸に抱えるフリードは、ハンドルを握る手に力を込めてアクセルをやや強く踏み込んだ。
 車は次第に整備されていない道に入っていく。別荘までは、道端に雑草が生い茂る荒れた一本道が続いている。叔父の別荘は、まったく人が寄りつかない崖下の小さな入り江に建っていた。
 建物はそれほど大きくはないが、隣接されている巨大な格納庫。
 ウィンドシップを心から愛する叔父が、所有する大切な愛機を置いているの
だ。そして、フリードのウインディも、この格納庫へと保管されている。
 ウインディは小型軽量のウインド・シップ、両翼に動力炉を一基ずつ搭載している。
 ウインドシップはそれまで大金持ちの道楽だったが、有用性が高い輸送用小型機の開発競争が激化している。

 安全を考慮すれば、それは致し方ないことだが、ウインド・シップを扱うには免許が必要であり、案外厳しい取得基準が普及を妨げている。
 フリードも何度か免許取得に挑み、軽量機の免許取得を成し得た。
 その時に明らかになったのだが、フリードが潜在的に持っているウィンドシップの操縦に関するセンスは非常に高い。
 今ではウインディを駆って、大空を自由に舞うことが出来るのだ。
「ニーナ。すぐに準備を済ませるから、少し待っていてくれ」
 フリードは叔父の別荘の前に車を停め、ニーナを車内に残して降りる。
「久しぶりだな」
 この日のために、叔父に預けてあるウインディの起動キーを受け取っておいた。
 格納庫の扉を開けるのももどかしく、中へと足を踏み入れる。
 薄暗い格納庫内に、叔父が『天空の貴婦人』と絶賛する自慢の愛機、『ロゼッタ』と並んでいるウィンディの姿が目に入り自然と早足になる、フリードの胸が高鳴った。静かな格納庫の中で翼を休めるウインディを眺めていると、時が経つのを忘れてしまう。
 フリードもまた、叔父と同じようにウィンドシップの魅力にとりつかれているの
だ。
 空を飛ぶ事だけがその魅力ではない。
 自らの手を掛けて整備してやる事もまた楽しみだが、こちらは高度な技術も要するので誰にでもと言う訳にはいかないが。
「陽の光を、たくさん浴びさせてやるよ」
 フリードは起動キーのボタンを押して、機体のロックを解除する。
 機体上面にある、搭乗用のハッチを開けた。
 前後にシートが設置された、複座のコクピットに身体を収める。シートに身体を馴染ませるように数回身動ぎを繰り返す。
 操縦桿を握りその感触を確かめる、スロットルレバーも滑らかに動作する、良好だ。
 期待と共に高まる緊張、僅かに震える指先。フリードはコントロールパネルに起動キーを差し込んだ。
 一気にキーを捻り起動スイッチを押し込む、ほんの少しの間を置いて動力炉に信号が伝わり、ウインディが目を覚ました。
 動力炉からの振動が、ウインディの力強い鼓動となってフリードの魂を激しく揺さぶる。目を閉じて、その心音にも似た音を感じていたフリードは心の中で問い掛けた。
「調子はどうだい? ウインディ」
『久しぶりですね、フリード。飛びたくて、うずうずしていますよ』
 そんな答えが聞こえてきそうだ。
 満足げに頷いたフリードは、ニーナを呼ぶために機体を降りる。
「少し待っていてくれよ」
『ウインディ』にそう声を掛け、ニーナが待つ車へ戻るために格納を出る。
「ニーナ……」
 彼女に声を掛けようとしてフリードは驚愕し、その場で凍り付いた。
 フリードの前に立ちはだかった、その大きな身体。
「優雅な空の散歩はお預けだな……我が愚息よ」
 フリードの父、ブレンディアが唇の端を微かに上げて笑った。
「……父上」
 何故、あなたがここに居るんです。
 眼前に立つ父を鋭く睨み付け、湧き上がる憎しみにも似た呪詛を込めた言葉を、フリードは苦労して喉の奥に押し込んだ。
 
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