ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


12.虹色の羽根

 目次
 ブロウニング邸の花壇に咲く色とりどりの花が、目映い光を浴びようとして葉をいっぱいに広げている。 
 爽やかな風に揺れる洗濯物がよく乾いて真っ白に輝き、光を弾いている。ハンナやミレーヌと一緒におしゃべりしながら洗ったのだ。眩しさに目を細めたニーナはふと顔を上げて、青い空にぽっかりと浮かぶ雲を眺めた。
(ふわふわで、気持ち良さそう……)
 とても高くて、とても遠いから、手を伸ばしても届かないから。想像の中で、色々な雲の姿を思い浮かべられる。
 ニーナは大きく翻るシーツを手際良く取り込む、洗濯ばさみがこんなに力を必要とする物だと、ニーナは知らなかった。
 シーツの端を持って軽く纏めると、一度ぱっと風をはらませた。広がる陽の光の匂い、胸に広がる温かい気持ち。深呼吸したニーナは、大きな籠へ取り込んだ洗濯物を入れると屋敷へ向かった。
(後は、お部屋で服を畳んで……)
 ブロウニング邸内の印象は質素だ。大抵の貴族は、己の権力や財力を誇示したがるものだが、ブレンディアはそんな事に全く興味が無いらしい。
 明るい場所から、急に屋敷内へ入ったので視界が暗い。
「よいしょ!」と籠を抱え直したニーナが目を凝らすと、カリナを伴い正装に身を包んだブレンディアの姿が見えた。
(あ、お館様……。お出掛けなさるのかしら)
 ニーナは籠を落としたりしないように、しっかりと抱えると、壁際に下がりそっと頭を垂れた。
 目を閉じて、ブレンディアが通り過ぎるのを待つ。足音が近づく度に、心臓の鼓動が早くなる。ニーナが身を固くしていると、ブレンディアの足音がニーナの前で止まった。
(あ……)
 恐る恐る目を開けたニーナが顔を上げる。ブレンディアが、ニーナを見下ろしていた。
 フリードとは異なる瞳の色。
 その表情から感情を読み取る事が出来ずにニーナが困惑していると、ブレンディアがすっと大きな手を上げた。 
 緊張したニーナは、思わず目を瞑って身を竦める。
 ぽん。
(……え?)
 大きな手、温かい手がニーナの頭の上にあった。
 無言でニーナの金髪を優しく撫でた後、ブレンディアは再び歩き出す。荷物を持って付き従うカリナが、ぽかんとしているニーナへ笑みを浮かべて片目を瞑った。
(お館様……)ニーナは亡くした父の仕草を思い出し、ブレンディアの背に深々と頭を下げた。

 優しかった父と母。
 両親はニーナへ、惜しみない愛情を注いでくれた。
 しかし暖かな日々は過ぎ去り、心に焼き付けた思い出はセピア色に変わってしまった。でも、ニーナにとっては忘れられない、とても大切な宝物だ。
「大丈夫……私は、強くなるんだから」
 つぶやいて、勢い良く顔を上げたニーナは籠を抱え直し、しっかりとした足取りで歩き始めた。
 体の中の涙は枯れ果てた、その涙の泉が満たされる日がまた訪れるのか……それは分からないが。

 ☆★☆

 扉を開けて、そろりとフリードの部屋へ入る。
 きちんと片付いているが、何もない無機質な印象を受けてしまう部屋の様子に、ニーナはある種の不安を感じてしまう。ベッドの端へちょこんと遠慮がちに座ったニーナは、丁寧に服を畳む。
 畳んだ服を見ながら思う。フリードは、ニーナが物心付いたときにはもう側に居た、幼なじみの男の子だ。
 背丈も高くなって、肩幅も広くなって。
 変わらないのは優しい心と、いつも柔らかな光を湛えたように見える琥珀色の瞳。
 悲しい詩に涙ぐんでいた、幼い頃のフリードの姿を忘れない。

 いつから、フリードを意識するようになったのだろう?
 親同士が決めた事とはいえ、婚約が決まった時、ニーナはとても嬉しかった。
 幸せに満たされていた……。
 はっとして、ぶんぶんと首を振る。
(駄目、お仕事しなきゃ)
 フリードの服を見つめて物思いに耽っていたニーナはふと、我に返った。
 慌てて服を畳み始めた、その時だった。
「あれ? それでおしまいですか!?」
 甲高い声が耳を打ち、ニーナは驚いて飛び上がった。何事かと振り返ると、ミレーヌが少しだけ開けた扉の隙間から、するりと部屋へ入り込んだ。
 栗色の長い髪、黒い瞳を持った娘で、ニーナよりもひとつふたつ年上のはずだが。
 背丈も低く容姿が幼いので、とてもそうには見えない。本人の自覚も薄いのだろう、ミレーヌは年下のニーナを慕っている。
 それは、ニーナが自然に身に纏っている、高貴な雰囲気のせいかもしれない。
「み、見てたの!?」
「えへへ」
 バツが悪そうに、ミレーヌが笑った。
「もう、つまらないなぁ。せっかく隠れて見ていたのに! フリード様の服を、こう……胸に抱いて、うっとりしたりしないんですか?」
 ミレーヌは、ニーナの手からフリードの服を取り上げ、胸に掻き抱いて身悶えてみせる。
 その様子を見ていたニーナの顔が、真っ赤になった。
「そ、そんな事しません!」
「え〜つまらないです」
 ミレーヌは「ふりーどさまぁ」と服を抱いたまま、くるりくるりと踊っている。
「もう! せっかく畳んだのに、また畳み直さないと。それに、皺になってしまうわ!」
「えーもう少し、いいじゃないですか」
 フリードの服を掴んで、お互いに引っ張り合う。
 ぐいぐい。
 しばらく続いた、不毛な意地の張り合いに疲れたのか、ミレーヌがぱっと服を手放す。
「きゃあ!」
 小さな悲鳴を上げたニーナが勢い余って、ころんとベッドの上に転がった。
「あ、ごめんなさい、ニーナ様!」
「もう、ミレーヌったら」
 しばらく二人で顔を見合わせたあと、自然に笑みがこぼれ出す。
 ブロウニング家で使用人として世話になることが決まった日から、ミレーヌには助けられてばかりいる。ニーナは自分がどれほどの世間知らず、いわゆるお嬢様だったかということを思い知った。
「ね、ニーナ様。もっとフリード様に甘えてもいいんじゃないですか? みんな知ってるんだし、誰も咎めたりしませんよ」
 ミレーヌはニーナの手から、ひょいと服を取り上げる、服を畳む手付きが良い。当たり前の事だが、ニーナはミレーヌの手元をじっと見つめた。
「そんな事、出来ないわ」
「フリード様だって、嬉しいんじゃないかなぁ……」
 ミレーヌは「うふふ」と、含み笑いを漏らす。
「だって、フリード様ったら、ニーナ様しか目に入らないんですよ? ほら、何回か夜会が開かれたでしょう。あの時だって、貴族のお姫様がたくさんいらしたのに」
 夜会は季節事に開かれる、華やかな貴族達の社交場だ。
 娘達はきらびやかなドレスに身を包み、緩やかな音楽に合わせダンスなどに興じる。ニーナも数回、出席した事があるが、決まって父の背中に隠れてばかりだった。
 そしてブロウニング邸で開かれる夜会で、ニーナは客人の世話係を命じられた事がない。
 ハンナと共に必ず、厨房での手伝いに回される。それは、ニーナを目立つところに出さないようにと考えた、カリナの配慮によるものだ。
「お姫様達はみーんな、それはもうこれでもかっ! て、くらい着飾っちゃってて」
 その時の様子を思い出したのか、ミレーヌがやれやれと首を振った。貴族の娘達は誰もが、フリードの目に止まりたい一心だったのだろう。
「でもフリード様ったら、ぜんぜんお姫様達に興味が無いみたいで、ずーっとぼんやりしてて、溜息まで付いて……わたし、それを見ていて、お姫様達が気の毒で」
 そう言う割に、ミレーヌの表情は少しも気の毒そうではない。ミレーヌはすべての服をてきぱきと畳み終え、ワードローブの中へと仕舞った。
「それに、ほら、この間だって」
 エプロンドレスの長い裾が翻る。
 ミレーヌはくるりと振り返り、ぴん!と人差し指を立てた。
「この間?」
「カーネリアの森事件ですよぉ。フリード様、お屋敷にお戻りになられたら、真っ先にニーナ様のところへ来られたじゃないですか」
 思い出して、ニーナは恥ずかしさに俯いた。
 ぼろぼろになったフリードの姿を見た瞬間、驚きと安堵、その他諸々の感情が噴出し、ニーナは気を失ってしまった。
 そしてフリードはやっぱり、屋敷に戻って報告を受けたブレンディアに力任せに殴られたと後から聞かされて、ニーナはまた倒れるところだった。
 心配が尽きない、もっと大人しい性格だったはずなのに。
 自立の芽が顔を出したのは、やはりウインド・シップのライセンスを手にした頃からだろうか。
 大空を舞い、雲へ届く術を得たフリード。
 その姿に、ニーナは不安を覚える。
「ニーナ様?」
 急に両肩をきつく抱いたニーナに、ミレーヌが心配そうな声を掛けた。
「私は怖いの。フリードの背中には、大きな翼があるような気がする。……何処か遠くへ飛び立ってしまうようで」
「ニーナ様!」
 目を見開いたミレーヌが、大きな声を出した。
「そんな筈ありませんっ! フリード様は何処へも行かれません、カーネリアの領主様におなりなんです! みんなそう信じてます! それに、ニーナ様をあん なに大切に思っていらっしゃいますっ、間違いありません! だからニーナ様は絶対に、絶対にフリード様の手を離しちゃ駄目なんですっ!」
「……ミレーヌ」
 一気にまくし立て、ニーナの隣にすとんと座ったミレーヌは両手を伸ばして、ぎゅーっとニーナを抱きしめた。
「わたし、楽しみにしているんですよ、ニーナ様が奥様になられるのを。だから、頑張ってくださいね。わたし、賢くないから難しい事が分からないけど。ニーナ様の事を、ずっと応援していますからね!」
「ありがとう……ミレーヌ」
 ニーナも腕に力を込めて、ミレーヌを抱きしめた。
 こんこん。
 抱き合う二人がノックの音に驚いて振り返ると、開いた戸口で黒髪の執事が微笑んでいた。
「カ、カリナさんっ!」
「す、すみませんっ!」
 ニーナとミレーヌは、大慌てでベッドから立ち上がる。
「さぁ、二人とも。もう少し頑張りましょう。ハンナに、スコーンを焼いてくれるように頼んでおきました。お茶を淹れて、木イチゴやリンゴ、ベリーのジャムを添えて頂きましょう。仕事の後のお楽しみ、ちょっとしたお茶会です」
 二人を咎めることもなく、そう言って黒縁眼鏡を掛け直したカリナが部屋を出る。
「わぁ! さ、がんばりましょ、ニーナ様っ!」
「ええ!」
 頷いて、弾む足取りのミレーヌと部屋を出ようとしたニーナは、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。
 その時。
 部屋の中にゆっくりと舞い降りる、虹色の羽根が目に映ったのは、気のせいなのだろうか……?
 
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