ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


24.皇女が貫く正義(1)

 目次
 まるで水泡のように、浮かんでは消える光景。それは、エクスレーゼの十歳の誕生日だった――。
 賑やかなお祝いの日。
 朝から、そわそわとした雰囲気が漂う王城。
 煌びやかに飾り付けられた城内の大広間では、大きなテーブルへと豪華な料理が数多く並べられ、幾人もの侍女たちが行ったり来たりと、忙しなく立ち働いている。
 次々と訪れる、遠方の国からの王族。近隣の領主達を含む、貴族の諸侯など。
 背が高い大人達を見上げるのは、幼いエクスレーゼ。口々に祝いを述べられるものの、言葉とは裏腹に貴族達の笑顔はどれも、心の奥底を隠す硬質な仮面のように見える。子供心に、エクスレーゼはそれが怖くて、きゅっと唇を噛んで耐えていた。
 (誕生日なんて……)
 もう厭だなどとは我が儘でしかなく、とても父王に訴えられる訳もない。エクスレーゼはただ大人しく、耳に響いてくる音楽と人々のざわめきの中へと、身を置いていた。
 胸でくすぶる疎外感に、涙ぐんでいると。
「こんにちは、姫様」
 明るい声がエクスレーゼの耳に届き、エクスレーゼは驚いて蒼い瞳を見開いた。
 目の前に立っている一人の少年、年の頃はエクスレーゼと同じくらいか。温かさを感じる茶色の瞳が、にっこりと笑っている。
「誰?」
 驚いたものだから、思わず不躾な言葉を口にしてしまった。
「初めまして、姫様。僕はセシル、セシル・クラム……父はアンディオーレ領を治めています」
 少しなまりがある言葉遣いだが、明るくてしっかりとした挨拶をした少年は、恥ずかしさに頬を染めているエクスレーゼの様子を気にした風もない。
「せしる、セシル!」
「はい、姫様っ!」
 茶色の瞳を輝かせた少年が微笑む。
 滲んでいた涙を、慌ててごしごしと拭ったエクスレーゼは、一生懸命に微笑んで見せた。
「さ、姫様っ!」
「え?」
「こっちですよっ!」
 セシルはエクスレーゼの手を握り、ぱっと身を翻す。
「て、手を引っ張らないでくれっ!」
「あははは。姫様、いきますよぉっ!」
 二人はしっかりと手を繋ぎ、驚く大人達の間を縫うように駆け出した。
 セシルに引っ張られるエクスレーゼは、戸惑いを隠せなかったが、少年の無邪気な笑顔につられて、次第に楽しくなってきた。大広間を飛び出し、王城の回廊をひた走る。
 宰相のルーセントが何か叫んでいるようだが、そんなことはお構いなし。
 バルコニーをぐるりとひとまわりして進路を変える、厨房を混乱させ、司書や文官を跳び退かせ、武官を緊張させながら駆け抜ける。
 城の中庭、大きな花園に辿り着いたセシルとエクスレーゼは、共に芝の上へと倒れ込んだ。
 見上げる青空に浮かぶ白い雲、むせるような草の香。息が乱れているが苦しさなど少しも感じず、それどころかとても心地良い。
「姫様は、笑っているほうがいいです」
 ころりとうつ伏せになったセシルが、両足をぱたぱたさせながら言った。
「そ、そう?」
 エクスレーゼも、ころりとうつ伏せになり、二人は顔を見合わせると、同時に吹き出した。お腹が痛くなるまで笑った、誕生日のためにしつらえた綺麗なドレスが汚れるのも構わずに、芝生の上を転げ回った。
 そうして、誕生日の祝いが終わり。
 別れの時が訪れると、ひとひらの寂しさがエクスレーゼの胸を締め付ける。
 「姫様、あのね」
 その気持ちが伝わったのか、帰り際にセシルがエクスレーゼの耳にそっと囁いた。
「アンディオーレ領は、とても遠いけど。僕、姫様にお手紙を書きますね」
 それは、とびっきりの笑顔だった。
 それからずっと、セシルは遠いアンディオーレ領から、エクスレーゼに手紙をくれるようになったのだ。
 ☆★☆
「……ん?」
 夢を……見ていたのか。
 温かで懐かしい記憶は、現実に押し流されて彼方へと消え去った。目を開けたエクスレーゼは、ゆっくりと体を起こす。
「アルフレッド、何処にいる?」
 答えはない。
「何処だ!?」
 もう一度名を呼ぼうとして、エクスレーゼは自分が天蓋付きの豪華な寝台の上にいることに気が付いた。
「ここは?」
 ぼんやりと眺める広い室内は、厚いカーテンが引かれているので薄暗い。
 豪奢な寝台とその天蓋、室内の調度品や家具なども、決して粗末なものではない。室内を観察するエクスレーゼは、順を追って記憶を反芻しようとするのだが、どうしても上手くいかない。
 どれくらいの間、眠っていたのか見当もつかない。
 はっきりとしない頭を振っていると、扉をノックする音が響いた。
「……失礼します」
 少しの間をおいて、そっと扉が開かれる。
 丁寧に一礼したのは、黒服を身に纏う銀髪の青年だ。
「ご気分はいかがですか? エクスレーゼ様」
 にこやかな笑顔、濃い藍色の瞳を細めた痩躯の青年。
「お前は……誰だ?」
 相手が名を知っていたとしても、用心したエクスレーゼは自ら名乗らない。その探るような蒼い瞳を向けられた青年は、姿勢を正すともう一度丁寧にお辞儀をした。
「ここはアンディオーレ領、領主クラム家の屋敷。私の名はワイズ、当家で執事を勤めております」
「領主の館だと?」
「はい。エクスレーゼ様は、道で倒れていらしたのですよ。街の者が見つけて大騒ぎになり、当家に連絡を寄越しまして……」
「待て、ワイズと言ったか。なぜ私の名を知っているのだ?」
「お召し物を見れば、高貴なお方だと推測がつきます。ですからすぐに、屋敷へとお運びいたしました。我が主が貴女の姿を見て、間違いなく皇女様であるとおっしゃったのです……とても、驚きました」
「……私の連れがいたはずだ、知らないか? 背が高くてスーツ姿、人を食ったような顔をして、へらへらと笑う男だ」
 アルフレッドが聞いたなら、間違いなく苦虫を百匹は噛み潰したような顔をするだろう。
「お連れの方ですか? いいえ、存じ上げませんが」
 青年執事は、困ったような顔で首を捻った。
 エクスレーゼは訝しげな視線で青年執事を見つめるが、その険のある視線を受け止めるワイズは涼しい顔だ。並べられたのは尤もらしい理由だが、端々に綻びがたくさんあるように感じられる。
 しかし、それを確かめようにも、エクスレーゼの記憶自体がどうにも曖昧なのだ。
「昼間は日差しが強うございます、暑さあたりでも起こされたのでしょう。ですが、エクスレーゼ様はどうして、この辺境においでになられたのです? やはり、お忍びの領内視察なのですか?」
「む、それは……」
 エクスレーゼは、思わず口を噤んだ。
 しかしワイズは仕事の方が大切なのか、エクスレーゼの答えに興味は無いらしい。
「我が主が、エクスレーゼ様のお目覚めを待っております」
 エクスレーゼの沈黙も気にせぬ風で、僅かに微笑んだワイズは、軽やかな足取りで扉に近づいた。
 音も立てずに扉を開けると、静かにエクスレーゼを待つ。
「主だと……。領主? セシル! そうだ、私はセシルに会わねばならぬ!」
 はっとしたエクスレーゼは、急いで寝台を降りる。
「そう急かれずとも、ご案内いたします。狭い街ですから、お連れの方もすぐに見つかりますよ」 
 笑顔を見せたワイズは軽い調子で言うと、エクスレーゼの先に立って歩き出した。
「そうだな」
 腑に落ちない事だらけだが、取り合えずセシルに会わなければならない。アルフレッドの事も気に掛かるが、あの男なら大丈夫だろうと、エクスレーゼは己に言い聞かせた。

 既に陽は落ちて、窓の外には深い宵闇。
 虫の音が微かに聞こえてくる邸内は、あまりにも静かだ。部屋を出たエクスレーゼは、ワイズに案内されながら屋敷の中を観察する。
 揺れている灯り、むずむずとする首筋……足下から這い上がってくる妙な感覚。 
 屋敷内に充満している、身にまとわりつくような冷気は全身を緊張させる。長剣を手にしていたなら、間違いなく鞘走らせていただろう。
(剣は、無くしてしまったか)
 心の中でつぶやく。
 左手に感じていた、長剣の重さが無い事に一抹の不安を覚えるが。エクスレーゼは心が萎えないように奮い立たせて胸を張り、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
「こちらでございます」
 青年執事に案内されて、邸内の長い廊下を歩いていく。
 しばらくすると、大きな両開きの扉の前でワイズが立ち止まり、振り返って一礼すると、白い手袋をはめた手で、丁寧に扉をノックをした。
「エクスレーゼ様を、ご案内いたしました」
 ワイズはゆっくりと扉を開き、身を屈めながら後ろに退いた。
「姫様、お目覚めになられたのですね!」
 エクスレーゼが部屋に入るなり、長いテーブルの先に座っていた領主、セシルが椅子を立った。
 幼い顔立ちに満面の笑顔を浮かべて、両手を大きく広げる。
「ああ! お会いするのは、久しぶりですね。姫様は、お会いする度に美しくなられます」
「……会う度にだと?」
 エクスレーゼは小さくつぶやいたが、訝しげな表情を改めると領主の青年に目を向けた。
「どうやら、世話を掛けてしまったようだ。私に世辞など要らぬ、お前はセシルなのか?」
「そうですよ。姫様、どうなさったのですか?」
 領主の青年は、不思議そうに首を傾げて見せた。
「どうぞ」
 青年執事が椅子を引いてくれる、エクスレーゼは少し緊張しながら、勧められるままに腰掛けた。
「少々失礼いたします。今、お茶を用意いたしますので」
 ワイズは部屋を出ると既に用意してあったのか、茶の用意を整えたワゴンを押しながら部屋へ戻ってきた。
「セシル、元気だったか? 領主となり、家督を継いだことは知っていたが。私は自由に動くことなど出来ぬ立場なのでな、祝いも遅れてしまった……すまない」
「姫様、もったいないお言葉です。でも、お気になさらないで下さい。姫様のお立場は、よく分かっています」
 セシルはにこやかな笑顔のままで、茶色の瞳を細めて微笑む。成長したとはいえ、その温かな笑顔は変わっていない。
 エクスレーゼは安堵して、やや肩の力を抜いた。二人の言葉が交わされる室内で、青年執事は楽しそうに茶の準備を進める。
「お待たせいたしました」
 艶のある真っ白な磁器の中で、湯気を上げる香り高い紅茶。
 しかし、茶を飲む気にもならないエクスレーゼは、カップの中で揺れる茶を、ただ見つめる。ワイズが壁際に退くと、エクスレーゼはまた、蒼い瞳をセシルへと向けた。
「父君の、ホフマン殿の姿が見えぬが……息災か?」
「父は体を悪くして、静養地で療養しています。周囲から、少し早過ぎるのではと意見もありましたが、僕がすぐに跡目を継ぐことになったのです」
 父親の体が気になっているのか、セシルが表情を曇らせる。
「そうか。セシル、領主とは並大抵の努力では務まらぬ。療養中の父君を安心させるためにも、一層精進せねばな」
「はい」
 神妙な顔で頷くセシルに、エクスレーゼは励ましの言葉を贈る。
 だが、当たり障りのない会話を、このまま続けていても埒があかない。エクスレーゼは覚悟を決めて、息を整えた。
「セシル。グランウェーバーでは王制に対する諮問議会がある。領主を務める諸侯の意見を尊重し、その存在にも重きを置いている」
 静かに語る、エクスレーゼの蒼い瞳は真剣だ。
「遠方の領地に王家の目が届かぬという事もあるが……。我ら王族とて、ただの人間。思い違いや間違いも犯す、嫉妬もすれば怒りもする。我らの感情が千々に乱れた時、領主の諸侯には我ら王族を正して貰わねばならぬ」
 諮問議会は王制の監視役たる重要な議会であり、参加するのは領主諸侯、貴族に神官などの身分の者達だ。
 未だに王家が絶大な権力を有している国もある中、ハインリッヒ王の考えは民の幸せを思えばこそであり、従来の絶対的な王政とは異なるものである。為政者としては、新しい考え方かもしれない。
 セシルは神妙な顔で、頷きながらエクスレーゼの話を聞いている。
「私も王族として、領地の実情を知っておかねばならぬ、だからここへ参った。しかし、どうやら私は街の視察を始める前に、倒れてしまったらしい。まだ、街の様子を何も見ていないのだ。セシル、アンディオーレ領の様子を、私に聞かせてくれぬか?」
「……はい、姫様。」 
 セシルはそっとカップを持ち上げ、茶で口を湿した。
「ここ何年も、民の暮らし向きに大きな変化はありません。アンディオーレで中心となる産業は、主に街の郊外で行われている営農、酪農です……そのために、街の中心街の発達は王都などと比べても遅れ気味ですね。でも性急な発展、急激な都市化を僕は望んでいません」
 思案深げなセシルは少し目を伏せ、ひとつひとつ頷きながら話す。
「アンディオーレは辺境です、でも、のどかで穏やかなんですよ。領内の人々も、どこかのんびりとしていて争い事も少ない。王都と違ってとても豊かな自然、だから皆、おおらかな気持ちになれるんですね」
 うっとりとした表情で、幸せそうに語るセシル。
 エクスレーゼは黙ったままで相槌を打つ事もなく、じっとセシルの顔を見つめている。
「ここ何年も、大きな問題は起こっていません。警備隊など領内には必要ないくらい、国境にさえ配置してあれば充分です」
 セシルの顔を見つめる、エクスレーゼの蒼い瞳がすうっと細くなった。
「そうそう、食べ物も美味しいんですよ、自然の木の実や果物も豊富で……そうだ!」
 セシルはそこで、嬉しそうにぽん! と、手を打つ。
「……セシル」
 「姫様、夕食をご一緒出来ますね! 今夜はゆっくりとお休み下さい。明日は、森を案内します、僕のお気に入りの場所に姫様をご招待しますよ」
「話の腰を折ってすまぬ、私はお前に話さねばならない事がある」
「え?」
「お前が子供の頃から、ずっと私に書いてくれた手紙、とても嬉しかった。私は一通も無くすことなく、ちゃんと手元に持っている」
 エクスレーゼの心の中にある想い。
 セシルからの手紙を心待ちにしていた、少女の頃の自分を思うとくすぐったい。
「私には、自由という魅力的な果実を手にする事は出来ぬ、そんな私に、お前はずっと便りを送ってくれていた。心易い友も無い私は、どれほどに支えられた事か……」
 父王、王妃はもちろん、城内の者達は皆エクスレーゼを愛し、大切にしてくれる。しかし皇女という立場は純粋な友情と出会い、それを育める環境かといえば、そうではないのだ。
 エクスレーゼは、セシルをじっと見つめる。
 彼の表情、視線の動き、息遣いまでも見逃さぬように。
「て、が、み」
「そうだ、手紙だ」
 セシルは弱々しくつぶやくとうなだれて、その表情が虚ろになる。
 徐々に輝きを失う、茶色の瞳。
「セシル、私の話が分からぬのか?」
「……ひ、め、さ、ま」  
 微かに眉を顰めたエクスレーゼは、落胆したように深い吐息をついた。
「もうよい、セシル。長所というのはまた、短所でもある。お前の穏やかな心は、恰好の隠れ蓑だったようだな」
「ぼ、く、は……」
「もうよいと言った筈だ。いい加減にしろ……聞こえぬのか!」
 たどたどしい言葉を発するセシルを一度見遣り、叫んだエクスレーゼは勢いよく椅子から立ち上がった。
 
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