ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


28.クララ

 目次
 微かに感じる、夜風の囁きが心をくすぐる。
 人々の思念が集中する大きな都市で聞くその囁きには、どうしてもいびつさを感じてしまう。おおらかさや純朴さは、大きな街には似合わないのだ。
 大通りに沿って建ち並ぶ大小様々な建物、テリオスは王都のビジネス街を歩いていた。
 目立たぬように気配を消して、街の喧噪に紛れる。建物が大木のように伸びている、面積が狭い空を何度も見上げていたら首が疲れてきた。
 テリオスは行き交う人の流れから抜け出して、ふうと息を付く。
「なるほど、この辺りはたくさんの企業が軒を連ねている……壮観だな」
 かなり夜も更けてきている。企業通りは賑やかな繁華街と違い、すでに人通りは少ない。
「平和なのは歓迎すべき事だが、食うには金が必要だからな」
 テリオスとアリオス、双子の盗賊が狙うのは強欲な地方領主である事が多い。己の私腹を肥やす事に熱心で、領民の事などまるで考えぬ金の亡者だ。そんな輩を懲らしめるごとく領民の苦しみの分だけ盗み出し、ついでに領主の悪事を白日の下に曝してやるのだ。
 しかし、ここグランウェーバー国では、地方領主の悪い噂など、少しも聞こえて来ない。
 姉の言うとおり、そこがハインリッヒ王の賢王と呼ばれる由縁かもしれない。
「しかし背に腹は代えられねぇ、ギルドに顔出しするしかないか」
 つぶやいたテリオスは、吸い込んだ空気に微かな湿り気を感じた。
「雲行きが怪しいな……」
 月は厚い雲に覆い隠されている。
 銀色という、希有な色の瞳を細めたテリオス。
 クララと出会った、あの日も雨が降っていた。
 あれは、二年前だっただろうか。
 テリオスは、ある雨の日を思い出していた――。

 ☆★☆

 ぱたっぱたっと、音を立てて響く雨音。
 雨を避ける傘の中は、テリオスと少女だけの空間だ。
「こんなに濡れて、風邪をひいちまうぞ?」
 傘を持ったテリオスは、青い瞳でじっと見つめる少女の頭に、ポケットから取り出したハンカチを広げて被せた。
 雨に濡れた少女の身なりは悪くない、本など高価な物を持っているので、ひょっとしたらどこか大きな屋敷のお嬢さんかもしれない。取りあえず傘に入れてやったものの、さてこれからどうしようかと思案する。
 迷子なら街の警備隊の出番だが、テリオスは出来ることなら彼らに近づきたくはない。
「お兄さんに、名前を教えてくれないかなぁ?」
 もしかしたら、この子は怯えているのかもしれない。
 自分の顔はそんなに怖いのだろうかと、テリオスはショックにぐらぐらしながらも、少女に精一杯の笑顔を見せた。
 しかし少女は相変わらずの無表情。テリオスの姿を映した青玉石の瞳は、じっと見開かれたままだ。
 その青い瞳が湛えた光の揺らぎは、怯えでも恐怖でもない全くの無に感じられる。
(ちょっと、変わった子だな……)
 少女の青い瞳を見つめ返したテリオスは、背後にただならぬ気配を感じて振り向いた。
「おや。驚かせてしまいましたか、これは失礼」
 近づいた気配も感じさせず、テリオスの背後に立っていたのは、大きな黒い傘をさした一人の中年男。長身で身に纏うスーツもコートも黒という、全身黒ずくめだ。
 頭髪は少なく、病を患っているように見えるほど顔は青白く頬がこけている。浮かべた笑みが嘲笑に感じられ、テリオスは緊張に奥歯を噛みしめた。
「なんだ? あんたは……」
「私は、こちらのお嬢さんの身を守るのが役目でね」
「……ボディガードか」
「そのようなものです、ご迷惑をお掛けしました」
 深々と一礼した男の丁寧な言葉使い、だが漂う気配は普通の人間のものでは無い。テリオスは微かに眉を顰めた、あまりにも強い血のイメージを男に感じたからだ。
「やれやれ、ちょっと目を離した隙に……。困ったお嬢様だ。早く連れて帰らないと、私が主に叱られるのです」
 男は苦笑しながら肩を竦めてみせる。
「ご理解いただけたましたかな? 傘を差し掛けて下さったあなたの優しさは、お嬢様にも伝わったでしょう」
 落ち着いた声でそう言うと、少女の腕を取ろうとして大きな手を伸ばす。
「さ、お嬢様。参りましょう」
 男が顔に張り付けた、柔らかな微笑。
 テリオスは初めて、身を竦めた少女の見開かれた青い瞳に浮かんだ感情に気が付いた。
 ――それは恐怖だ。
「……いや」
 少女が、雨音に消えてしまうほどの微かな声で呟いた瞬間、熟慮する猶予も持たず無意識にテリオスの体が動いていた。傘を放り投げて、コートの裾を翻し勢いよく振り上げた長い足。その鋭い蹴りは、男が少女へと向かって伸ばした右腕の肘を強く打った。
 肘を蹴られた男が呻き、腕を抱えて半歩ほど後ろへ下がる。
「な、何をなさるのです!」
「おいおい。役に立たない従者だな、手前ぇの心配かよ? こんなに雨に濡れて、お風邪を召しますよ。くらい言えないのか?」
 男が怯んだ隙に、テリオスは素早く少女の手を引いて、背中へと庇った。
「へっ! 猫被ってるんじゃねぇよ、おっさん。俺はあんたと同業者みたいなもんだから、鼻がよく利くんだ……。あんたの近くにいると、血の臭いでむせかえるようだぜ?」
 テリオスは嘲笑で、男を挑発してみる。
「ぬうっ!」
 男の表情が、瞬間的に悪鬼の形相に豹変した。
 ぐん! と右足を踏み出し、漆黒の闇を切り取ったような黒いコートが翻る。急激に体を回転させて繰り出された鋭い拳が、とっさに身を引いたテリオスの鼻先を通過した。
「あ……っぶねぇな、この野郎! まだ話の途中だろうが!」
 少女の手を引き、数歩後退して身構える。体を半身に開いて左手を掲げ、身を守りながら右手は相手の視線から隠すように、腰の高さで握り込んだ。街のゴロツキなどに負けはしないが、テリオスの痩躯は格闘戦に向いてはいない。
 男の体から迸る凄まじい殺気、よくも隠していたものだ。少女を背に庇うテリオスは、対峙した男の重心の変化に注意する。
 雨に濡れた前髪を、ぴっと払った。
「なぁ、お嬢ちゃん。あのおっさん……好きか?」
 テリオスが聞くと、少女はふるふると首を横に振り、ぎゅっと腰にしがみつく。
「分かった。すぐに終わる、ちょっと離れてな」
 少女に優しく答えるテリオスの銀色の瞳は、眼前の男を鋭く見据えたままだ。
(とは言え、まずいな。盗賊とプロじゃ、勝負にならねぇ)
 その弱気は、テリオスの闘志に水を差す。
 唇を噛んだ少女がテリオスのコートから手を離した瞬間、短く息を吐いた男が突進してくる。
「速えっ!」
 男の重い右拳が腹部にめり込み、テリオスは呻き声も出せずにその場へ膝を折った。
 あまりに鋭い攻撃に反応出来ず、繰り出された拳を防ぐ暇もなかった。男の両手がテリオスが着ているコートの肩口を掴み、顔面を砕こうと振り上げる膝の一撃が迫る。
 しかし、男の膝がテリオスの顔面を捉える直前、着ている濡れた革のコートがゆらりと揺れた。
「ぬおっ!」
 コートを残してテリオスの姿が掻き消え、振り上げた膝を空振った男はよろめいてバランスを崩し、濡れた路面に足を滑らせて派手に転んだ。
 テリオスは、まるで手品のように脱ぎ捨てたコートを残して、その場を跳び退いたのだ。
「ざぁまないぜ……ばぁか」
 消え入るように掠れた声。心が萎えないように強がって見せるが、胃袋はひしゃげてしまったように、ぎりぎりと痛む。
(助かったな、得物を持っていないのか)ぺっと唾を吐くと、少し血が混じっていた。
「お嬢ちゃん、逃げるぞ!」
 テリオスが少女を抱き上げて踵を返し、駆け出そうとした時だった。突然、背中に殴り付けられたような大きな衝撃を受け、一瞬息が止まる。背中の所々が焼 けたようだ、テリオスは苦悶の呻き声を上げた。ぎりっと歯を食いしばるが、両足の膝が震えて力が入らない。仕方なく抱いていた少女を下ろして、がっくりと 路上に手をつく。
「逃がす訳にはいかないのだよ」
 額に脂汗を浮かべながら肩越しに背後を見やると、物騒な笑みを浮かべる男の周囲に、燐光を発する幾つもの光球が浮かんでいる。
「ああ? おっさん、あんた魔術師かよ……。まったく、ウインドシップが空を飛んでる、このご時世によ」
 魔術師……古より存在する、魔力を扱う術者だ。様々な法術を扱い、恐ろしい破壊力を発揮する。
 歴史上の大きな戦の舞台には、必ず彼らの姿があった。
 だが平和な時代が訪れると、その強大な力は忌み嫌われた。大陸の各国が協力し、その地道な努力により魔術師はその数を減じてきた。しかし、己の存在を否定されても、彼らは滅びなかった。憎悪と怨念を増幅させながら、魔術師達は脈々と破壊を司る力を受け継いでいるのだ。
「たかが虫けらが、我らに逆らうからだ」
 嘲笑する魔術師の男。
「ふざけるなよ、この野郎。次にそれを言ったら、ただじゃおかねぇぞ?」
 荒い息をつくテリオスは己を叱咤しながら立ち上がり、腕を広げて少女を庇う。男は手加減をしたのだろう、魔術師ならばテリオスを瞬時に灰に変えることも可能なのだ。
 路上で起こっている大きな騒ぎに、次第に人々が集まり始めた。しかし、男は周囲の状況など少しも気にしている様子はない。
『ね、姉さん、姉さん!』
 銀色の瞳で男を釘付けにするテリオスは、アリオスへと思念を飛ばして呼びかける。
 姉に助けを求めるのは本意ではないが、この少女を放っておけない。
 ましてや、あの男に渡せる訳もない。
 少女の身は、姉に任せればいい。
『……テリオス!?』
『ああ』
 テリオスが送る思念は弱々しく乱れを感じるのか、耳の奥へと響いて来るアリオスの声に緊張がある。
『迷子の女の子が魔術師に追われてる。助けてやりたいんだが……。その前に、俺が殺されそうなんだ』
『魔術師だって!? この馬鹿! また厄介な事に首を突っ込んでっ! 場所は……分かった、近くに居るから待っていなっ!』
『む、無茶言うなよ、姉さん……』
『とにかく! あたしが行くまでヘマするんじゃないよっ!』
「へへっ、そりゃあ相手次第だな」
 眼前で冷酷な笑みを浮かべている魔術師の男、テリオスは笑えない憎まれ口を叩いて己を励ましてみる。
「そ、そこの、き、君っ!」
 張り詰める緊張の中で、対峙する男とテリオス。
 二人を遠巻きにざわめく人々の壁が割れ、人垣を押し退けて一人の警備兵が現れた。職務に忠実であろうとする彼は、腰から警棒を引き抜いて男に近づくと、肩を掴んで揺さぶった。
「おい、やめろ! 近づくんじゃないっ!」
 テリオスが止める間もなかった。
 男は右手で警備兵の顔面を鷲掴みにすると、軽々と持ち上げる。悲鳴を上げて手足をばたつかせる警備兵を、男はそのまま足下に投げ付けた。
 どすんと鈍い音が響き、二、三度体を痙攣させた警備兵が、ぴくりとも動かなくなる。
 息をのむ周囲の人々……誰かが、ひきつったような声を絞り出した。それが合図となり、人々がわっと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
「はははっ! 見せてやるよ……。これが私の魂を揺さぶる、破壊衝動だっ!」
 人々が発する恐怖が興奮を高めたか、狂気の哄笑と共に男が放った幾つもの光球が紫電を伴い、テリオスに向かって殺到する。
「はしゃぐな、この化石野郎っ!」
 ギラリと光る、テリオスの銀色の双眸。
 勢い良く振り上げた両腕、その両手には二丁の拳銃が握られていた。親指で素早く安全装置を解除し、テリオスは迫り来る幾つもの光球を狙って、トリガーを 引き絞った。乾いた音が弾け、拳銃から発射された弾丸は、次々と光球と正面からぶつかる。凄まじい閃光と轟音、巻き起こる爆炎。逃げまどう人々から、さら に大きな悲鳴があがる。
 そして、もうもうと立ちこめる煙が薄らいだ時、その場にテリオスと少女の姿は無かった。

 ☆★☆

「あの馬鹿! 毎度毎度、心配掛けてさっ!」
 大きな紙袋から長いパンが覗いている、買い物を終えたアリオスは弟、テリオスから届いた思念に驚いた。
 雨の中、人通りが少ない街頭で立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。その時、左に見える花屋の前で車が停車し、ぱりっとしたスーツ姿の男性が降り立った。妙にうきうきとしている様子。花束でも買い求め、恋人にでも会いに行くつもりなのだろうか。
 アリオスは雨の中を、花屋に向かって駆け出した。男性には気の毒だが、この際仕方がない。
「ちょっとおっ、そこの彼氏っ!」
 大声を張り上げて男性に駆け寄ると、肩を掴んでがくがくと揺さぶった。突然の事に目を白黒させる男性に構わず、アリオスは長いパンが顔を出す大きな紙袋を押し付ける。
「この袋の中に、一通り材料が揃っているから。彼女においしいシチューを作ってもらいなさい、今夜は豪華なディナーになるわよっ!」
「え? えぇっ!」
「後は上等のワインを一本、忘れずに買いなさいなっ!」
 輝く金色の瞳でひとつウインクを送ったアリオスは、男性が返事をする間を与えずに彼の車へと乗り込む。目にも止まらぬ早さでシフトレバーを操作し、急激にクラッチを繋ぐといきなり床までアクセルを踏み付けた。
「ああああ、ちょっとぉ!」
 情けない顔で買い物袋を抱き、わたわたと慌てる男性を残して、車は濡れた路面で派手にタイヤを空転させ、白煙をその場に残し放たれた矢のように急発進した。
「あの馬鹿。ちゃんと待っていなきゃ、承知しないんだから」
 きつくハンドルを握り、街中を疾走する。
 金色の瞳で前を見据え、唇を噛んだアリオスが小さくつぶやいた。

 ☆★☆

 神経を尖らせて相手の気配を探る、爆炎に乗じて逃げ出したのだが、魔術師からそう簡単に逃げおおせるとは、とても思えない。
「くそっ、あの魔術師野郎……」
 テリオスと少女は、裏通りにひっそりと建っている建物の一階……暗い事務所のようなフロアに身を潜めていた。
 使われていないのか、それとも休日なのか人の気配はない。
 テリオスは銃から空になった弾装を抜いた、ベルトのポーチに入れている予備の弾装を取り出して装填する。開いていたスライドは硬質な音を立てて、初弾を薬室内に送りながら閉じた。
 銃の動作音に、少女がぴくりと反応を見せる。
「ん? ああ、怖がらせたかな」
 顔の筋肉を動かしただけで背中の傷が痛む、テリオスは少女へ無理矢理に微笑んでみせた。
「グレイブM230カスタム、装弾数は七発。スライドと、フレームの材質変更により、動作精度をチューニング済み……」
 じっと銃を見つめて、ぽつりとつぶやいた少女。
「金の太陽。銀の月。紅の女王。」
「お、お嬢ちゃん?」
 大きな本を胸に抱いた少女が、ぽつりぽつりとつぶやくのは、双子の盗賊に関連付けられる言葉の数々だ。
「トゥエイユハーゲンの騎士、バルバロック伯爵、双子の継承者、荒れ狂う炎と破壊、そして終焉……」
 テリオスが、銀色の瞳を見開いた。
 少女の言葉が胸を打ち付け、がくがくと体が震え出す。
 頭の中へ、心の中へと甦るのは、とうに捨て去ったはずの記憶。
 それは決して、心安らぐ温かなものではない。
 燃え盛る炎、崩れ落ちる城壁、原形を留めぬほどにひしゃげた純白の鎧。
 そして炎の中で、姉の名を呼びながら泣き続ける幼い自分の姿。
「待て、待ってくれっ!」
 喉を掻きむしり、テリオスは両手で頭を抱え込んだ。
 沸き上がり溢れ出す感情、激情に溺れてしまいそうになる。自我を失いそうになったその瞬間、テリオスは自らを律し大きく息を吸い、静かに吐き出す。
 そうだ。姉と二人で未来を閉ざす絶望に抗い、必死で生きてきたのだ。
「お嬢ちゃん、それ以上は許してくれよ」
 人差し指を立てて、少女の唇へと当てた。
 テリオスのひび割れた弱々しい声に、少女はびくりと肩を震わせた。
 大きな本を、ぎゅっと胸に抱いて俯く。
「ごめん、なさい……」
「謝る事も、泣く事もないさ」
 テリオスは、涙ぐむ少女の肩を引き寄せた。
 この子は、少しも悪くない。……すべてはテリオスが背負う事実だ。
 それよりもテリオスは、少女が感情を見せてくれた事が嬉しかった。
 少女の肩を抱いたまま思う。テリオスは、ひとつの名前を思いついた。
「お嬢ちゃんだと呼びにくいな、名前は無いのか?」
 こくりと肯く少女、テリオスは少女の肩を抱く手に力を込めた。
「じゃあ、クララって呼んでもいいか?」
「クララ……?」
「ああ、クララだ」
 少女が大きく見開いた、その青い瞳に溜まった涙が溢れて頬を伝う。
 それは、少女の確かな感情だ。
「うわ、き、気に入らなかったか?」
 少女の涙に慌てるテリオス、少女は大きな瞳を伏せて首を横に振った。
「ク・ラ・ラ……。コードネーム確定、システム再起動完了。すべての制限事項が解除になりました」
「お、おい、お嬢ちゃん?」
「クララとお呼び下さい、素敵な名前をありがとうございます」
 何がなにやら、まったく理解出来ないテリオスに、クララが柔らかく微笑む。
『そこに居るのか』
 その時、薄暗いフロア内に男の声が静かに響いた。
 
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