ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


37.月に掲げる銀杯

 目次
 ブロウニングカンパニーの機体製造工場は、王都からほど遠い郊外に位置している。
 王立軍が誇る『旗鑑ヴェルサネス』の建造。その大規模な事業は王立軍の出資により、この工場を持つブロウニングカンパニーを中心にして、複数のウインドシップ関連事業社により行われた。
 そうだ。ブロウニングカンパニーの全盛期は、同業種の中でも群を抜いた規模を誇る大企業であった。
 しかし、かつての栄光はもう過去の事。人員削減と規模縮小措置のため、巨大な工場は人気も少なくひっそりと息を潜めている。
 だが軍事関連の事業から完全撤退した訳ではなく、皇女エクスレーゼの指揮直下に位置する竜騎士の『飛竜』をはじめ、王立軍主力機の消耗部品の製造と納入を続けているのだが。近年は新興勢力となったボーウェン社の台頭により、その受注数も減少傾向に歯止めが掛からない。
 長年に渡る王立軍への貢献が評価され、広大な工場用地に科せられる税率等は考慮されているものの、やはり経費がかさみ経営は思わしくないのだ。

 フリードはここ数日、活気を取り戻したようなブロウニングカンパニー工場の現場事務所に泊まり込みで、シルフィードの機体チェックを行っていた。
 聞けばシルフィードは、完成してから一度も空を飛んだ事がないらしい。
 それを聞いた瞬間、フリードは目眩がした。
しかしレースのスタートは明日だ、もう慣熟飛行などと言っていられない。機体の設計を担当した技術主任と製造責任者である工場長は、その機体性能に太鼓判を押してくれているのだが。
 少ない時間を出来るだけ有効に使わなければならない。操縦桿を握るフリードは、懸命に機体が空を飛ぶ様をイメージする。 
「どうだ、コイツの凄さが分かったか? 基本的な事は、ライセンスを持っているお前にゃ造作もねぇだろう」
 ばん! と機体の外装を叩いたアルフレッドが、得意げな顔で言った。
「操縦については、おそらく問題ありません。でも……」
 シルフィードの操舵室から顔を出したフリードは、機体に足を掛けると身を翻し、軽やかに飛び降りた。
「見慣れない計器に操作レバー、パネル類がたくさんありますね?」
「ん。あ、ああ、ま、まぁな。普通の軽量機とは、根本から設計思想が違うんだよ、こいつは」
 フリードは、シルフィードの操舵室に驚くばかりだ。確かに操作そのものは変わらない。しかしシルフィードとウインディの操舵室とを比べると、その違いは歴然としている。記憶に残っているウインディの操舵室が、まるで玩具のようだ。
 質問の答えに口を濁したアルフレッドは、おどけたように両手をひょいと上げて肩を竦めた。フリードは叔父の態度に何らかの裏を感じる、懐に何を隠しているのか見当も付かない。
「あの、叔父さん」
「何だよ、不都合でも見付かったのか?」
「いえ、そうじゃないんです」
 フリードはシルフィードの機首から、胴体、動力炉がある機体後部へと視線を移動させた。
「長い行程のレースに出場するんです、もっと人手が要るんじゃないですか? 機体のメンテナンスも必要になります、機関部なんて素人の僕一人の力ではどうにもなりません」
 長い期間を要して行われる、ウインドシップレース。
 まずスタート地点が決定され、そこから参加各国の主要都市を結び航路図が作成される。参加者は、その図に示された航路に沿ってレースを競い合う。
 それぞれの都市では、給油や機体整備を行うための施設が設置されており。通常、各参加者はチームを組んで、機体のメンテナンスと搭乗者の健康や精神面のケアを行うのだ。
 主要都市及び航路の所々には、いくつもの通過確認ゲートが設置されている。
 レースに参加したウインドシップが通過すると、その通過日時と時刻が詳細に記録される。航路を大きく逸脱したり、決められた期間内に各ゲートを通過しなければ失格となってしまう。
 今までまともにゴールする事が出来た機体は数少ない。この辺りは年を追う事に技術が進歩しているので、全行程を制覇出来る機体が増えていくものと思われる。
「馬鹿野郎。俺も素人じゃねぇ、そんな事は承知の上だ。だがな、シルフィードは少し違うんだ。あー動力炉に関してはな、つまり、なんだ。手を掛ける必要が無いんだよ」
「叔父さん。そんな動力炉って存在するんですか?」
 まったく手を掛けなくてもその機能を維持し、正常に動作し続ける機械などあるのだろうか。信じられないといった表情をしているフリードの肩を、アルフレッドが大きな手で叩いた。
「へへっ! ここにあるじゃねぇか」
 ぐっ! と突き立てた親指で、シルフィードを指し示す。フリードもつられて純白の機体を見つめた。どうにも不安だが、叔父がそう言うのなら信用するしかない。
「レースの出場だって計画済みなんだ、まさか一人で行けとは言わねぇさ。お前にも分かるだろう、シルフィードは複座なんだぜ?」
 レースを制して見事ゴールするためには、機体の操縦が巧みなだけでは駄目だ。航路の全行程を、地域ごとの情報を元にして正確に把握する、そんな冷静さと知能が必要になる。
 そしてもちろん、絶対にゴールするという強い意志、胆力。精神面の強さがなくてはならない。
「ちゃんとパートナーを用意してある、心配するな」
 アルフレッドがニヤリと笑った。
「おい、お嬢ちゃん。そろそろ出て来いよ!」
 アルフレッドの声と共に工場の扉が開き、小柄な人影が現れる。工場の天井からの光に照らされたその姿を見て、フリードは驚いた。
「き、君は、あの時の……」
 ぽかんと口を開けて、目を瞬かせたフリードがつぶやく。姿を現したのはひとりの少女だ。そう、以前フリードとアルフレッドが盗賊から救い出した少女だったのだ。
 ゆっくりした足取りで歩いて来た少女は、フリードの目の前で立ち止まる。
「あの、私の顔に何か?」
 フリードが不躾に見つめ過ぎたのだろう。不快げに眉を顰めて、やや俯いた少女が身を竦めた。
「おい、こら、馬鹿かお前は。淑女に対する態度が、まるでなってねぇ!」
「あ、ああっ! ご、ごめん」
 美女との付き合いに慣れているアルフレッドに小突かれたフリードが慌てて謝ると、少女は姿勢を正してぺこりとお辞儀をした。
「助けてくれて、ありがとう」
 抑揚のない声でつぶやいた少女が、小柄な体に纏うのはやはりオリーブグリーンの軍服だ、折り返した袖口の赤い色は血の色なのか。タイトなスカートから伸びる細い足には、濃いグレーのタイツに頑丈な革製のブーツ。そしてフリードと同じ、フライトジャケットを羽織っている。
 ゆっくりと顔を上げた少女、肩まである長さの黒髪がさらさらと揺れた。光を映し込んでいる、大きな翠の瞳に吸い込まれそうになる。しかし、どうにもその表情は乏しい。
「元気になったんだね、良かった。本当に良かった!」
 フリードはずっと、少女の心配をしていたのだ。安堵の表情を浮かべているフリードを、少女は無機質な瞳で見つめ続けている。
 まるで、何かを確認するように――。
「でも、どうして君一人が輸送機に乗っていたんだ? いや、誰か一緒だったのかい? それに……」
 フリードは膝を曲げて、女と視線の高さを合わせた。ずっと思っていた事を次々と尋ねた。
 しかし軽く身を引いた少女は、つい……とフリードから視線を逸らし、まるで助けを求めるようにアルフレッドへ顔を向ける。
 「ま、まぁその、なんだ。元気なんだから、それでいいじゃねぇか。お、そ、そうだ! この子の名前はな、ヴァン・デルニフォン・クラッド・ミレイ・グレイシアス・エールっていうんだ」
 アルフレッドがいきなり口にした長い名前を聞いて、フリードは目を白黒させた。
「え、それは、な、名前ですか? お、叔父さん。もう一度ゆっくりと聞かせて下さい」
「馬鹿言うな、俺もうろ覚えなんだよ。お前が呼び易いように呼べばいいじゃねぇか」
「そんな、いい加減な!」
「ええい、うるせぇ! ほれ、お嬢ちゃんもそれで良いってよ」
 憤慨するフリードが少女へと目を向けると、子鹿を思わせる大きな瞳を数回瞬きさせた少女は小さく肯いて、やはり無表情のままでじっと見つめ返す。少女はアルフレッドの意見に同感なのだろうか。
 その真っ直ぐで無垢な視線に見つめられる事が、とても気恥ずかしくなったフリードは、工場の天井を見つめてぶつぶつとつぶやきながら考える。
「じゃ、じゃあ、ええと。うん、そうだ『ヴァンデミエール』っていうのはどうかな?」
 照れ隠しに頭を掻きながら、フリードがそう言うと。
「ヴァン、デ、ミ、エール……ヴァンデミエール」
 その名前を覚え込むように繰り返しつぶやいた瞬間、少女の表情に微かな変化があった。
 まるで、何処か遠くを見つめるような翠色の瞳に輝きが灯る。
「コードネーム確定……認証を終了しました。システム再起動完了、すべての機能への制限を解除。ありがとうございます、フリード・ブロウニング。私の事は以後、ヴァンデミエールとお呼び下さい」
「え? な、何だって!?」フリードは少女が、ヴァンデミエールが何を言っているのかまったく分からない。
「うまい事くっつけやがったな、この野郎。まぁいいさ、これでめでたく名前も決まった」
「ちょっと待って下さい! 彼女が僕のパートナーって事ですか!?」 
 鈍い頭痛を堪えるフリードが、アルフレッドに噛みついた。
「当たり前の事を聞くんじゃねぇ。お嬢ちゃんを、いや、ヴァンデミエールを甘く見るなよ。彼女は航路図を読む事に長けている。それにお前よりも、シルフィードと一緒にいる時間が長いんだ」
「彼女はまだ子供じゃないですか! こんなレースに出場させるなんて無茶です!」
 この話は決まったとばかりに手を叩くアルフレッドの前で、納得がいかない表情のフリードが両手を大きく広げてみせた。フリードはヴァンデミエールの身を 案じているのだが、ヴァンデミエールはやはり無表情のままで、ぎゃあぎゃあと言い合うアルフレッドとフリードを見比べている。
「ええい兄貴にそっくりだな、この石頭め。だから言ってるだろうが、お前はレースに勝つ事だけを考えていればいいんだよ!」
「ですが、叔父さん!」
「おいおい、それとも何か? お前は娘っ子一人守れねえって言うのかよ? だらしねぇな」
 睨み合いながら、ぜえぜえと息を切らすフリードとアルフレッド。
 アルフレッドの憎らしげな表情は明らかに挑発だ、一瞬ぐっと眉根を寄せたフリードは喉の奥から出かかっていた数々の言葉を苦労して飲み込んだ。ああ言えばこう切り返す、叔父の秘書をしているサラの苦労がよく分かる。
「……分かりました」
 とても叔父には敵わない、フリードは果てしなく平行線を辿る言い合いに疲れ果てた。足下に視線を落として少し考えを巡らせた後、ゆっくりと顔を上げて姿勢を正す。
「ごめんね、僕の名はフリード・ブロウニング。あらためてよろしくお願いするよ、ヴァンデミエール」
 大きな心配の塊を何とか飲み下し、そっと手を差し出したフリードの右手を、ヴァンデミエールは動きを止めて凝視していた。しかしやはり首を傾けて、指示を仰ぐようにアルフレッドを見つめる。
「それは親交の証だよ。お前のパートナーはフリードなんだ、お前が選んだ男だろう?」
「……はい」
 何やら笑いを堪えているアルフレッドがそう言うと、ヴァンデミエールはおずおずと右手を上げた。まるで初めて見たものに触るように、指先だけでフリード の手にそっと触れる。冷たい指先がその形を確かめるようにフリードの手の形をなぞる。しばらくくすぐったさを堪えていると、小さな手はフリードの手をしっ かりと握った。「うん」肯いたフリードが少し遠慮しながら、優しく握り返す。
 握り合った手を放すと、フリードの体温はヴァンデミエールの手へと移ったようだ。
 不思議そうに自分の手を見つめているヴァンデミエールを見遣った後、フリードは表情を改めてアルフレッドへと向き直った。
「叔父さん、アレリアーネは……」
 自分のために、無茶をした幼馴染みを案じる。
 大舞台を演じ切った後、顔を紅潮させてへなへなと踞ってしまったアレリアーネだったが。
 満ち足りた爽やかな笑顔をして言った。
「不甲斐ないあなたの背中を押してあげたの。リタイアなんて、絶対に許さないわよ!」
 カリナとクウェルが、魂が抜けてしまったようなアルバートを引きずるようにして部屋を出て行く。心配そうにその様子に目をやったアレリアーネは、碧い瞳でフリードを見据えた。
「もう一度言うわ、負けたらこの私が承知しない。ニーナのために、命を掛けてレースに臨みなさい!」
 魅惑の魔力が残る、アレリアーネの挑戦的な笑み。
 深紅のドレスを身に纏い、アレリアーネは力一杯、応援してくれたのだ。
「そんなに心配するなよ。アルバート氏には、目に入れたって痛くないほど可愛い娘だろうさ。それにあいつは今頃、大好きな本を山と積んで読み耽っているはずだぜ」
 何やら訳ありげな事を、さらりと言ったアルフレッド。
「さぁフリード、お前は自分の事を心配していろ。まだニーナとの仲を、正式に認めて貰った訳じゃねぇんだからな!」
 そうだ、その通りだ。
 あの時フリードは、握りしめたシルフィードの起動キーを、真っ直ぐに父へと掲げて見せた。フリードの射貫くような視線を真っ向から受け止めたブレンディアは、黙ったままで大きく頷いたのだ。
「お前の勇気を見せてみろ……」口に出さないが、父の真剣な瞳は間違いなくそう言っていた。
「おら、ぼやぼやするな!」
 アルフレッドに押しやられ、フリードは再びシルフィードへと乗り込む。
「よし、ヴァンデミエールは複座席に座れ、フリードと呼吸を合わせなきゃならねぇ。お前等二人は、長いレースを共に戦うパートナー同士なんだからな!」
 アルフレッドの指示に肯いてタラップの一段目に足を掛けたヴァンデミエールは、そのままとんっと高く跳んだ。空中でひらりと身を翻すと、すとんと後部座席に収まる。
「準備は良いな。スタートまで、もう時間がねぇ。他の事なんざ考えるな。見事レースを制して、カーネリアに帰る事だけ考えろ!」
 シルフィードに背を向けたアルフレッドはひとつ溜息をつき、胸元から若葉を摸したペンダントを取り出してじっと見つめた。

 ☆★☆

 刻々と、その濃度を変えるエメラルドグリーンの空に、鋭いナイフのような月が浮かんでいる。その切っ先は夜空を傷付ける事はないが、どこか恐ろしさを感じさせる姿だ。
 カーネリアの森は平穏ではあるものの、地脈から伝わる人々の意志が微かに揺らぎ始めている。
 大木の枝に腰掛けてその太い幹に背を預け、銀杯を手にするトゥーリアは、ほんのりと上気した頬に優しい夜風を感じてふと顔を上げた。茶色をしていて先端に近づくほどに薄桃色に変化する、美しい髪がさらさらと風に揺れる。
 ひとりで芳しい酒を味わう、姫巫女の周りをゆらゆらと舞うおぼろな光は森に住まう小さな妖精達だ。よく見ると蝶のような羽を持つ人の形をしている。
 トゥーリアが細い喉を鳴らし、銀杯に満たした酒を飲み干すと妖精達は慌てたように集い、みんなで木の椀を持ち上げて銀杯へと酒を満たしてゆく。
「森の夜は、お前達が自由に振る舞える領域であろう。我に気を使わずともよい」
 紅い瞳を細めて優しく言ったトゥーリアに、妖精達は揃ってふるふると首を横に振った。そして互いに顔を見合わせて頷き合うと、姫巫女の前で綺麗な羽を広げて軽やかに踊り始めた。
 明滅する妖精達が放つ幻想的な光。神秘の森は静寂に包まれていて音楽など聞こえて来ない。だがトゥーリアには、妖精達の魂が刻むリズムが伝わってくるようだ。
「ふふ、楽しんでいると言うことか」
 妖精達の踊りに目を向けていたトゥーリアは微笑んで、ふと銀杯を指先で弾いてみる。杯が震えた振動が伝わり、満たされた酒の表面に波紋が広がった。その様子を見てトゥーリアが微かに眉を顰める。
「少しばかり酔ったか」
 銀杯をゆらりと揺すって吐息をつく。
 人の姿をしている必要など無いのだが、トゥーリアはこの脆弱な肉体に儚い魂を宿す人間達が嫌いな訳ではないのだ。その両手を広げ、胸に抱き、護ってやらねばならぬと。普段は思いもせぬ事だが、そんな意識を知覚するのはやはり酔いが回っているからか。
 僅かに頬が火照っている。トゥーリアはとろんとした意識の中で首を巡らせ、月をじっと見つめる。
「どんな運命の悪戯か、我まで巻き込まれようとは……な」
 紅い瞳に力を込めて、銀杯を強く握りしめた。 
「セーラ、心配せずともよい。お前の息子は必ずやり遂げるだろう」
 姫巫女の震えた声などめずらしい。その胸に抱く不穏な何かを感じたのだろうか、腰の剣帯に吊した細剣が、かちゃりと金属音をたてた。トゥーリアは小さな指でそっと草色の鞘を撫でる、ひやりとした冷たさが熱い指先へと伝わった。
「騒ぐでない、まだ敵の姿など見えぬ。さて、その運命とやらはどこへ流れてゆくのか我にも分からぬ。いや、違うな」
 わざと目を背けているのやもしれない、トゥーリアはざわめく胸中で自嘲した。
「我が案ずるのは、幼き力が宿っている蒼き翼だ。旅立ちは明朝か、頼んだぞフリード」
 銀杯に満たした酒に映る月が、ゆらゆらと頼りなく揺れている。トゥーリアには、それがこの世界の姿だと思えてならない。
 
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