ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


38.蒼き翼の旅立ち

 目次
 レースのスタートを祝福するかのように晴れ渡っている空。人間の意図などに無関係なたくさんの海鳥達はひと固まりになって、これから何が起こるのだろうかと湾の様子を見守っている。
 カーネリア領の東側に広がる海岸線に出来た湾内で、ウインドシップレースのスタート準備が整っていた。
 連盟長の挨拶と共に開会が宣言され、賑わう会場には綺麗な紙吹雪が舞う。
 スタートの瞬間に立ち会おうと、参加している機体に関わる各企業の役員達の姿も見受けられる。レース結果は言うに及ばず、長い行程を制覇し見事にゴールしたとなれば、企業の株は一気に上がるのだ。自社製品に大きな期待を寄せているのだろう。
 一般の観衆もたくさん詰めかけている、情報誌を手にした者、双眼鏡を使って機体を眺めている者、日差しを避けるように日傘を差したご婦人等々……皆、高揚する気持ちにそわそわしながら、その瞬間を待つ。
 もっとも、すべての機体が一斉に飛び立つのではなく、時間差を設けて一機ずつ飛び立つのだが。
 湾上に勢揃いした数多くの機体がスタートの時を待っている。それぞれの機体の側に立つレース参加者達は皆、自信に満ちた表情だ。そう、彼らは命知らずの冒険者達なのだ。
「毎回思うんだが。どいつもこいつも不敵な面構えをしていやがる」
 潮の香りを含んだ風、日差しに目を細めたアルフレッドが心底楽しげな笑みを見せた。騒動を呼び込む体質というよりは、自ら騒動に飛び込んでいくのが彼本来の姿なのだろう。
「叔父さん。自分が出場したくて、うずうずしているんじゃないですか?」
 明け方近くまでシルフィードの調整を続けていたのだ。少々寝不足でぼんやりしているフリードは、眠気を覚ますように頭を軽く振った。
 出発前に出来る限りの事はしたつもりだが、なにせ空を飛ぶのは今日が初めてになる。どうしても不安がつきまとうが、フリードは揺れる気持ちと共にそわそわとした高揚感を感じていた。
 少し離れた場所に立つヴァンデミエールの小さな背に目を向ける。彼女は真っ直ぐに背筋を伸ばし、湾に向かって微動だにせず佇んでいる。
「ヴァンデミエール。海風が冷たいけど、寒くないか?」
「大丈夫です」
 フリードが声を掛けると、肩までの黒髪をふわりと踊らせて振り返ったヴァンデミエールが短く答えた。
「ざっと見た限りでは、シルフィードにとって驚異となる性能を有する機体の存在は確認出来ません。ですが操舵手の熟練度や能力という条件を加えれば、また状況は変わると思われます」
 光を吸い込むような、翠色の瞳に宿る闘志。瞬きすらせず淡々と語る彼女の言葉にフリードは目を瞬かせ、アルフレッドはひょいと肩を竦めた。
「おいおい。そんなにぴりぴりすんなよ、お前はシルフィードの面倒をみてくりゃいい。飛ばすことに関しちゃ、フリードに問題はねぇよ」
「はい」
 苦笑したアルフレッドが、ヴァンデミエールの頭に手を置いた。固い声で答えた少女は再び、じっと湾上に浮かぶ機体の群を見つめ続ける。
 二人のやりとりを見ていたフリードは、ふと大勢の観客に目を向けた。観衆の中からニーナの姿を探し出そうとして唇を軽く噛む。捜し求めるのは光に溶け込む繊細な金色の髪と、穏やかで澄み渡る空のような青玉石の瞳だ。
 しかし視界を埋め尽くすのは、会場に詰め掛けた人、人、人の群……。
 片田舎のカーネリアに、こんなにもたくさんの人々が訪れたことがあっただろうか。人いきれにむせるような感覚は、フリードの知覚を麻痺させる。出発の前 に、ニーナの姿を目に焼き付けておきたいのだが。これではまるで母を求める幼い迷子だ。焦燥感に囚われそうになるフリードは、シルフィードの起動キーを握る手に力を込めた。
 そうだ、ニーナとは今生の別れとなるわけではない。
『……選手の方々に連絡します。速やかに、それぞれの機体へ搭乗して下さい』
 場内にアナウンスが響いた。レースが始まる、スタートの時刻だ。
「それじゃあ、気をつけてな! 無事にゴールするのを楽しみにしているよ」
「ありがとうございます。ご期待にそえられるように、全力を尽くします!」
 フリードは声に力を込めて答えると、勢揃いた技術者の代表である工場長のカージーが差し出したゴツゴツの手を強く握る。フリードの手を握り返したカージーが満足そうに肯くと、後ろに控えていた老練の技術者達が、我先にとフリードに激励の言葉を浴びせ掛ける。
「おいおい爺様方、勘違いするなよ? フリードは自分自身の為に飛ぶんだからな」
 年甲斐もなく大騒ぎしている技術者達を押し退けたアルフレッドが、喝を入れるようにフリードの肩をばん! と叩く。そして肩を掴んだその手に、ぐっと力を入れた。大きな手から伝わるのは期待と励まし、それから少しの心配だ。
「分かってるな? よし、行って来いっ!」
「はいっ!」
 アルフレッドの大きな声に肯き、気合いを入れたフリードが力強く足を踏み出す。その後ろを、ヴァンデミエールが付き従う。
 湾上に浮かんでいるシルフィードの機体が、陽光を浴びて輝いている。
 桟橋を渡りその傍らに立ったフリードは、あらためて観覧席を見渡した。押し寄せるような熱気、様々な感情や思惑が溢れるその渦中にあって、竦みそうになる足を励ますように拳で強く数回叩いた。
 シルフィードはレース仕様として追加装備を施されている、機体後部に毛布や食料などの荷物を積載するスペースが設けられた。長いレースの行程ではどんな事態が起こるか分からないからだ。
 ヴァンデミエールはすぐに機体の後部座席に乗り込み、シートの左右に配されたキーボード引き出す。その表情に大きな変化は無く、自分の仕事をただこなすかのように黙々と出発の準備を進めている。
「ヴァンデミエール」
「はい」
 作業の邪魔になるかなと思いつつも、フリードはパートナーの少女へと声を掛けた。目の前の計器、パネルの具合を確かめる手を休める事もなく、しっかりとした返事をする。
「頑張ろう」
 ヴァンデミエールは、どんな想いを持ってこのレースへと出場するのだろう。フリードには、少女の気持ちが理解出来ていない。どの言葉が一番しっくりくるのか、フリードは少しの間考えた後でそう声を掛けた。
「そう……ですね」
 答えを返す真剣な表情、ヴァンデミエールの声が微かに震えた。少女の声には感情の揺らぎが感じられる。
 突然「わぁっ!」という歓声が上がり、湾上を滑走する最初の一艇が見事な離水を見せた。
 輝く陽の光へ突き進むように飛び立つその姿からは、栄光を掴み取ろうという気迫が感じられる。ヴァンデミエールが抱く想いは気になるものの、物思いになど耽っていては冒険者達に失礼だ。 
 湾上に響くアナウンスが次々と選手の紹介を続けていく、フリードは姿勢をあらためて、選手達を紹介するアナウンスへと耳を傾けた。
 次々と飛び立っていく機体、半数ほどの選手が出発した頃だった。

『エントリーナンバー25、テリー&アリエッタ!』

 その紹介に、サングラスを掛けた長身痩躯の青年が大きく手を挙げた。ぶんぶんと大きく手を振って、盛大に観客へとアピールしている。
 フリードはふと、その青年と視線が合ったような気がした。びくりと体に衝撃のようなものが走ったのは、気のせいではないのだろう。しかし、それが何なのか確かめる術はない。
 観衆に愛想を振りまく青年の耳たぶを、パートナーの女性が力を込めて引っ張る。耳を引っ張られた痛みにもがく青年が、ずるずると引きずられるように操舵室へ乗り込んだ。
 観衆から、どっと笑いが起こる。人形のように可愛らしい金髪の少女が小さな両手を口に当てて、その二人の様子を心配そうに見ていたが、観衆に向かってぺこりと丁寧にお辞儀をすると操舵室へ消えた。
「あの子も、レースに出るんだ」
 フリードは驚いた、金髪の少女とヴァンデミエールは、それほど歳が離れていないように見える。
 三人が搭乗した機体は、闇に馴染むような暗い紅色に染めらている。「ナイトクイーン」と、その姿にふさわしい名前がアナウンスされた。
 水上でゆっくりと滑走を始めたナイトクイーンは、今までにスタートしたどの機体よりも短い滑走距離で離水した。ウインドシップの知識が豊富な観客が「ほう……」と、感嘆の声を上げる。機体の能力か、もしくは操舵手の腕前が確かなのだろう。
 痩躯の青年と女性、テリーとアリエッタ。いったい、どちらが操舵手なのだろうか。
 シルフィードのエントリーナンバーは、最終の「52」だ。スタート当日に棄権したチームも存在するので厳密なナンバーではないが、それほどの機体がレースにエントリーしている。
 フリードがシルフィードの操舵席に座ると自動で風防が閉まり始め、気密を保つようにしっかりと固定された。
 シートへ腰を落ち着けるように数回身動ぎをする、頑丈なベルトをシートの両側から引き出した。右手を伸ばして握りしめていた起動キーをパネル横に差し込む。キーを奥に押し込んで右に捻ると、パチリという硬質的な音が響いて機体が軽く振動した。
 シルフィードの心臓部である動力炉が目を覚ます、後部から伝わってくる振動。それはかつての愛機、ウインディとは比べ物にならないほどの力強い鼓動だ。
 魂を揺さぶる強い息吹、フリードは操縦桿を手に馴染ませるように握り込む。力を込めてスロットルレバーを数回捻ると凄まじい爆音が轟いた。
「ヴァンデミエール、準備はいいか?」
「はい、問題はありません。すべての機関は順調に稼働を開始しました」
「ありがとう。よろしく頼むよ、相棒」
「……はい」
 後方視界を確保するためのミラーに映るヴァンデミエールへと礼を言うと、彼女は一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を引き締めて短く答えた。
『ここで、皆様にご紹介いたしますのは……』
 アナウンスの声が、微かな緊張を帯びている。
 出発の時が来たのだ。
『今回のレース、最後のエントリーです……。選手は当領地、カーネリア領主様のご子息、フリード・ブロウニング様っ! 搭乗なさる機体は、ブロウニングカンパニーの最新鋭機、シルフィードっ!』
 会場を埋め尽くす観衆の半数以上が一気に湧いた。領内の民達なのだろう、大声で口々にフリードの名を連呼している。シルフィードの名前に反応したのは、ブロウニングカンパニーをライバル視する企業の者達か。
 湾に設置された高い櫓の上で、大きな黄色の旗が振り上げられた。瞬間的に静まる会場。観衆は皆、息を止めてシルフィードへと視線を向けている。
 ……ばさり! 
 張り詰めた緊張の糸が切れ、海風をはらむ旗が大きく降り下ろされた。
「行くぞっ! シルフィード!」
 フリードの叫び声と共に、シルフィードが湾上で滑走を開始した。水面を割る機首下部がさざ波を起こし、視界を流れ始めた景色が徐々に加速度を増す。向かいくる風を切り裂いて進む、美しい蒼き翼が飛沫を受けて煌めく。
「補助動力炉から、推進機関への動力伝達は正常。推力三十パーセントで主動力炉へ機関切り替え、最大稼働へ移行、離水時の稼働率は百二十パーセントを越えます」
 澱みない口調、ヴァンデミエールの報告が続く。
「了解」
 蒼き翼が光を放ち、いよいよ加速を増すシルフィード。
「推進力、補助動力炉より主動力炉へ。最大加速点に到達、主動力炉出力臨界。離水タイミング、カウントします。十・九・八・七……」
 ヴァンデミエールのカウントが始ったとたんに、がくんと機体が大きく揺れた。
「動力炉の出力コントロール不能、推力低下します!」
 後部座席に座るヴァンデミエールの報告に、フリードは驚いた。
「主動力炉の出力低下止まりません。補助動力炉、機関停止!」
「ヴァンデミエール、状況をっ!」
「原因は……不明」
 湾上で滑走を始めたシルフィードのスピードが、見る間に落ちて行き、ついに湾の中央で完全に停止してしまった。
「どうしたんだ、こんな事が起こるなんて!」
 フリードが握った操縦桿とスロットルレバーは、びくともしない。起動キーを抜いて機体の状態を初期化してみるが状況に変化はない。
「動力炉の再起動が出来ません」
「ここに来て、故障なのか?」
 あれだけ入念に調整したのにと、唇を噛んだフリードの爪先からじわりと焦りが這い上がってくる。動きを止めたシルフィードを見つめる観衆がざわめきだした。
「どうしたの? お願い、勇気を出して」
 ヴァンデミエールが、まるで幼子に語り掛けるように優しく囁く。しかし、まさか機体が答えを返すはずもない。そう思うフリードは、必死に故障の可能性がある部位を探す。
 このままでは失格となってしまう。光を遮る暗雲のように広がり始めた焦りが、じわりと心を縛り支配してゆく。

 ☆★☆

「ええい、何が起こった! 機体は完璧なはずじゃねぇのかっ!」
 苛立ちを押さえられないアルフレッドが、両手を強く打ち付けた。カージー達技術屋が、すぐに円陣を組んで原因の検討を始める。
 しかし、もう修理などしていられない。
 観衆にざわめきが広がっていく。公平を保つために与えられた時間と滑走距離で離水、スタートしなければならない。連盟の競技役員達が集まり、協議を始めればそこですべてが終わりだ。
「まさか、トラブルが!?」
 湾上から強く吹き付けた風が黒髪をなぶる。険しい表情でそうつぶやいたカリナは、ふと隣のニーナを見た。
 両手をぎゅっと胸の前で握り合わせたニーナは、固く目を閉じて一心に祈りを捧げている。
「ニーナ様」
 カリナがそっと声を掛けると、ニーナが恐る恐る目を開く。湾上に浮かぶシルフィードは全く動きを見せない、このままでは失格になってしまう。
 不意にニーナの耳元へ訪れた風の精が、何事かをそっと囁いた。未だ見ぬ広い世界へと羽ばたくのを恐れている、蒼き翼が抱くそんな気持ちが、ニーナの心を震わせる。
「怯えている、まるで雛鳥のように……」
 少しの間何かを考えていたニーナは、薄桃色の柔らかな唇をそっと開き、胸へと静かに息をためてゆく。
 何を語りかけよう、どうすれば励ましてあげられるのだろう、蒼い翼に勇気を与えられるのだろう。様々な想いがニーナの気持ちを揺らす。自らの胸で暖めた想いを込めて、ニーナは湾上のシルフィードへと両手をゆっくり差し伸べた。
「フリード……」 
 透明な風が、彼女の足下からふわりと起こった。
 瞳を閉じて語り掛けるように、ニーナが美しい旋律を奏で始める。彼女の周囲に集まった透明な風の精達は、互いに目配せをして大きく肯き合う。
 風を纏う妖精達は、その小さな体にニーナの想いを抱き、瑠璃色の小さな羽を軽やかに羽ばたかせた。
「ニーナ? ニーナの声だ!」
 風の妖精達によって届けられた透き通る歌声に、フリードは観衆の方へと目を向けた。琥珀色の瞳にはっきりと映ったニーナの姿。青く薄い光の被膜が彼女の体を包み、歌声の旋律に合わせて光の結晶のように粒子が舞う。
 それはとても神々しく、美しい一枚の絵画のようだ。
 ニーナの歌声が湾上の空気に浸透していく。胸に湧き上がる、言葉では伝えられない想い。伸びやかな声は高く低く流れ、震える魂を包み込み、温め励ます。人々は心に触れる優しい歌声に、言葉を発する事なく静かに耳を傾けた。
「ニーナ……」
 つぶやいたフリードは、胸にこみ上げてくる熱の塊を知覚した。そうだ、まだ何も始まっていない。あきらめはしない、負けてなるものか……と。
 その時、不意にシルフィードの機体が小刻みに振動した。動力炉が唸りを上げ、甲高い音を響かせ始める。
「補助動力炉及び、主動力炉再起動しました。出力急上昇! 機関最大まで、後わずか!」
「何だって!?」
「フリード、飛び立つのは今です!」
「分かった!」
 フリードはニーナの姿を目に焼き付けると、鋭く前方を見据えて歯を食いしばる。両腕にぎゅっと力を込めて、操縦桿とスロットルレバーを握りしめた。
 眼前に広がるのは遙かな水平線、そして真っ青な空。
 フリード自身も気付かぬうちに、心の中に恐れが芽生えていたのか。それがシルフィードに伝わったのかもしれない。生まれ育った場所、暖かな母の胎内ともいえるカーネリアを離れれば、見たこともない世界がフリードを待っているだろう。
 怖れるな、自らその世界へ飛び込むのだ。愛するニーナの手を取り、その華奢な体をしっかりと抱きしめるために。
「主動力炉、臨界点突破しました。機関最大、今です!」
 ヴァンデミエールの叫び声に、フリードはスロットルレバーを全開にすると操縦桿を力任せに引き起こす。
「一緒に行こう、シルフィード!」
 湾上に留まる大気が激しく振動した。シルフィードを中心に同心円状の衝撃波が放出される。耳をつんざく轟音と共に、爆圧を受けた湾内の水が弾かれて高く空へ吹き上がった。
 シルフィードは水上を滑走することもなく、大空へと舞い上がったのだ。
 旅立ちを祝福するように、陽光の中に美しい虹が生まれた。ニーナの歌声に勇気を得て、いっぱいに広げられた蒼い翼が風と一体となり歓喜に打ち震えている。機体が纏う輝く飛沫は、まるでたくさんの妖精達が集っているようだ。
 風となるシルフィードの姿を追うアルフレッドとカリナ。
 その幻想的な光景に言葉を失っている観衆へと、上空に吹き上げられた湾の水が雨のように降り掛かった。
 一度だけ蒼い翼を振り、一時の別れを告げたシルフィードが加速していく。
「フリード……」
 切なさや寂しさ……そんな感情は、未来を手に入れるための旅立ちに相応しくない。ニーナはそっと涙の粒を拭い、胸に抱いた両手に力を込めて明るい笑顔で見送る。
 青玉石の瞳に映るシルフィードの姿が消えるまで、ニーナはずっと空を見つめ続けていた。
 
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