ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


40.神と呼ばれる冒険者

 目次
 フリードは慣れ慣れしく首筋に巻き付いた腕に、ぐいっと引き寄せられた。
 これでは逃げられない。フリードが戸惑っていると、サングラスを掛けた青年が口の端を上げてにっと笑う。
「あ、あの?」
「随分と若いな?」
 青年の態度は不躾ではないか、身を固くしたフリードは口を固く引き結んだ。失礼な青年の顔をちらりと見て驚く。
 確かレースのスタート時に人目を引いていたはずだ、ウインドシップの名は「ナイトクイーン」とアナウンスされていただろう。
「何だよ、機嫌が悪そうだな」
 苦笑した青年は、左手でくいっとサングラスをずらしてみせる。闇を見通すように澄み切った銀色の双眸が現れ、驚いたフリードが息をのんだ。
 夜風が弄ぶさらさらとした髪、背が高くて痩躯の青年だ。顔立ちは整っているが、皮肉げな笑みを浮かべた口元から察するに、やや斜に構えた性格なのかもしれない。
 今までに、あまり接したことがないタイプだ。
「そんなに緊張するなって、俺はテリーっていうんだ。さっき杯を持って回っていたのはアリエッタ、俺の姉貴さ」
 そう言って笑う青年、テリーが浮かべた無邪気な笑み。まさか姉弟だったとは、フリードはまた驚いた。名乗られたのでは、こちらも名を告げねばならない。
「僕は、フリードといいます」
「へへ、まだ酒は早そうだな」
 青年は少し体を引いたフリードの手から、ひょいと杯を取るとぐいっと酒をあおる。十八歳ともなれば、もう立派に大人の仲間入りだ。何となく子供扱いされたようで、フリードは気分が悪い。
 そんなフリードの表情に気付かない様子のテリーは、そのまま美味そうに酒を飲み干して、ぷあっと息を吐き出した。
「ああ旨い。いい夜にいい酒、最高だぜ」
 フリードが呆れていると「はいよ」と、空になった杯を手渡された。
「フリードだっけ。レースに出るのは、初めてだよな?」
「……はい」
「求めるのは富か、名声か……?」
 先程からの気さくな様子が一変した。声を潜めて、探るようなテリーの言葉にフリードは口を噤む。冒険者とは富と名声を欲する。しかしフリードは、そのどちらにも魅力を感じていない。
 黙り込んだフリードの顔を覗き込み、テリーは表情を和らげた。
「まぁ、どっちでもいいや。へへ、ルーキー君にちょっと教えてやるよ」
 再びフリードの肩に腕を回し、煌々と燃え盛る炎の周りに集う選手達をくいっと指さした。
「ほら、見てみな。あそこで喋っている、大きな体をした男が居るだろう? あいつがウェンリー・ホークっていう有名な冒険家さ」
「ウェンリー・ホーク?」
「おいおい。ウインドシップレースに参加するような奴が、ウェンリー・ホークも知らないのか?」
 やれやれと言った表情のテリーが、呆れたような声を出した。
 フリードはウインドシップに興味があるものの、レースについてはその概要すら全く知らなかった。無理もない、領主の後継者たるフリードにとって冒険など遠い遠い世界の夢物語だったのだ。
 ウェンリー・ホークの名を知らぬ冒険者はいない。鋼のように鍛え抜かれた体に優れた英知を備え、ウィンドシップを自在に駆る高い操舵術を身に付けている。
 彼はこれまでに、数多くの冒険を成功させてきた。
 大陸を渡る風と空を満たす大気の流れを読み、未開の陸地と陸地を繋ぐ新たな空の航路図を作り上げた。彼が為し得た功績はとても大きい。
 またウインドシップレースへの参加も常連、まさにウインドシップ乗りの最高峰に位置する彼は、神と呼ばれている。ウェンリー・ホークに憧れ、目標とする冒険者やウインドシップ乗りはたくさんいるのだ。
「ウェンリー・ホークはな、探しものをしているのさ」
「……探し物?」
「ああ」
 ウェンリー・ホークが持つ冒険者としての経歴に驚くばかりのフリードに、テリーは肩に回した腕、拳にぐっと力を込めた。
「この大陸には、常識じゃとても考えられない事が幾つも残っているんだよ」
 世界を形作る大地、この大陸には古き名前がある。この大陸は古来より、争いや疫病と災禍が絶えなかった。
 遙かな昔――。
 「創世戦争」と呼ばれる、大陸全土を巻き込み焦土と化した忌まわしい大戦があったという。
 妖精族をはじめとする亜人種族や古来より伝えられた文化、現在へと続く人々の足取りである遺産のすべてが消滅した。大陸五大国に存在する『砦』と呼ばれる巨大な遺跡は、その大戦の名残だという。
 創世戦争の後、混沌とした世界をまとめるために、長い時の流れの中でたくさんの国家が興亡を繰り返すことになる。そしてその歴史には、幾多の英雄の名が刻まれていったのだ。
 フリードも幼い頃から、大陸の生い立ちについて勉強をしている。自らが立つ母なる大地の歴史を知らずして、生を営むことは出来ない。豊かな恵みによって人々を生み育む大地に、大きな敬意を示すのは当たり前だ。
「今じゃあ、お伽話だがな。シャングリラ……そう呼ばれる大地が、空の何処かに存在しているらしいんだよ」
 ……そうだ、そして冒険者達の間で囁かれている伝承がある。
 大陸に伝えられる英雄譚を紐解けば、随所に記されている理想郷の名前。神にも等しい種族が住まう、『シャングリラ』と呼ばれる幻の天上宮が存在していると伝えられている。
 しかし、その存在は未だに解明されていない。多くの冒険者が理想郷を求めて旅立ったのだが、誰一人としてシャングリラに到達する事が出来た者はいない。
「まぁ、ウインドシップが空を飛ぶこのご時世じゃ、そんなことを誰も真剣に考えたりしない。真っ青な空に大陸最大の国家、聖王国アリアレーテル並の、どでかい土地が浮かんでいるなんて信じられるか?」
「理想郷……シャングリラ」
 テリーは一笑に付したが、その名をつぶやいたフリードは、心の片隅にほのかな灯りが点ったような気がした。想像が一気に天上宮へと飛んでいく。もしも存在するならば、語り伝えられる理想郷とはどんな場所なのだろう。
 ニーナと手を取り合い、二人でそこへと辿り着けたなら……。
「いい機会だ、珍しい話を聞いておくのも悪かねぇさ」
「……はい」
 テリーに軽く背を押されたフリードは数歩前に歩いて立ち止まった、炎の明かりに照らされたウェンリーの姿を、じっと見つめる。
「ああそうだ、ちょっと訪ねるけどよ。お前の相棒は女の子だったよな、一緒じゃないのか?」
「……湯浴みをしていたから、もう寝ているかもしれない」
 心ここにあらず、ぽつりとつぶやき火の粉を舞い上げる焚き火を見つめるフリードが、冒険者達が集う輪に向かってゆっくりと歩き出す。
「なるほど、そうかい。ひとつ言っておくぜ、パートナーの手は絶対に離すなよ」
 忠告のような青年の言葉は、神秘の大陸への思いに占められたフリードの心を素通りする。サングラスを外した青年の銀色の瞳が、月の光を受けてきらりと輝いた。

 ウェンリー・ホークは、冒険者達が作る輪の中心にいた。苛烈な日差しに灼かれて色褪せた金髪、彫りが深い顔から、年齢を推測するのが難しい。
 揺らぐ炎を映す瞳を細めくわえ煙草をふかしながら、求められるままに自らの冒険を語っている。
 自慢話をするでもなくその口調は落ち着いていて、誇張したりしている様子は全くない。自らが向き合い立ち向かった、これまでの道程を真摯な姿勢で語る。彼の記憶はまさに、偽らざる真実なのだろう。
 天上宮は、理想郷は本当にあるのだろうか……。浮かび上がる水泡のような疑問の答えが欲しくてたまらない。吸い寄せられるように炎へと集う冒険者達の輪に近づいたフリードは、何やら沸き起こったざわめきに気付いた。
「ちょっと、やめてよっ!」
 フリードは踏み出した足を止めて、大きな声が聞こえた方へと目を向ける。
「……あれは」
 声の主は、先ほどフリードに酒を満たした杯を渡してくれた女性。テリーと名乗った痩躯の青年の姉、アリエッタだ。
 振る舞う酒が無くなったのか、杯を運ぶ盆を手に持ってはいない。彼女の空いた手を掴んでいるのは、冒険者としては貧相に見える小男だ。
 酒が回っているのか、赤ら顔にどんよりとした目をしている。ふらふらと足下がおぼつかない、下毘た笑いを浮かべて手にしているのは酒の瓶だ。アリエッタに酌でもさせようというつもりなのだろうか。
 フリードは、アリエッタの声を聞いた瞬間に、爪先の方向を変えていた。
 口元を引き締めて真っ直ぐに、そして足早に小男の冒険者から逃れようともがく、アリエッタの元へと向かう。
「……こいつっ!」
 アリエッタが、金色の瞳に物騒な輝きを宿らせた時だった。
「いい加減にしたらどうです!」
 突然、二人の間に割り込んだフリードが、アリエッタに絡む不埒な冒険者の小男を引き剥がした。
「うぉ、何だ、てめぇ、このやろ……」
 フリードに体を押しやられ、酒に酔って足下がおぼつかない冒険者の小男は、ふらふらとよろめいて尻餅をついた。
「大丈夫ですか?」
「えっ!? え、ええ、ありがとう……」
 油断無く冒険者の小男を見据えたフリードが、アリエッタの手を引いて背中に庇う。フリードの背中を見つめるアリエッタは、金色の瞳をぱちぱちとさせた。
「女性に対して失礼ですよ、飲み過ぎじゃないんですか?」
「おいてめぇ、俺に説教しやがんのかぁ?」
 よろよろと立ち上がり、酒で濁った目でフリードをじろりと睨んだ冒険者の小男が、乱杭歯を剥き出しにして威嚇する。
 どうやら説得は通用しないらしい。そう悟ったフリードは、小男の動きに注意を払いながら、ゆっくりと右足を引くと半身に構えた。不意に攻撃を受けても対処できるように左肩と腕で顎を守る。
「僕から離れていて下さい」
「え? ち、ちょっと、ええと。う、うん……」
 きょろきょろと周りを見回し、戸惑ったアリエッタが数歩ほど後退った。
 すでに一触即発の状況が整いつつある。その緊迫感を感じ取ったのか、冒険者達が野次馬となってフリードと小男を取り囲み、無責任にけしかけ始める。
「へっ、見かけねぇ顔だな。この鼻たれ小僧が、良い度胸しているじゃねぇか」
 顔を歪めて酒臭い息を吐く小男の挑発に、フリードはゆっくりと筋肉に力を溜めて右の拳を握り込んだ。高揚している気持ちに、薪をくべられたようなものだろう。いきなり拳を固めるなどと、冷静さを欠いている。普段のフリードからは、考えられない行動だ。
「酔いが醒めたときに、後悔しますよ?」
「生意気なひよっこの躾をしてやるぜ!」
 舌なめずりをした小男が咆吼を上げ、身構えたフリードが体の重心を低くしたときだった。
「おい」
 深く静かな声が響き、その場に居る冒険者達が揃って口を噤んだ。
 ――ことり。
 声を発したウェンリー・ホークが杯を地面に置いて、ゆらりと立ち上がった。ウェンリーはぼさぼさの金髪を掻き上げながら、フリードの前に立つ。
「よう、青年。良い夜だな……」
 フリードが体を固くした事が分かったのか、ウェンリーは軽く息を吐いた。そこで水を打ったように静まり返っている周囲を見回し、首を傾げてまた頭を掻いた後、フリードに絡んでいた冒険者の小男へ目を向ける。
「無粋な真似はやめないか、いい夜が台無しだ」
 静かな制止の声が、フリードを含め危険な熱を帯びてきた冒険者達に冷水を浴びせた。
「う、ウェンリーの兄貴っ!」
「うるせぇ。黙って耳を澄ませてみろよ、恥ずかしがり屋の妖精達が歌っているだろう?」
 ウェンリーの言葉に狼狽した小男が、おどおどしながら脇に退く。大柄な体、厳つい容貌をした男が妖精達とは、いささか想像出来ないが。ウェンリー・ホークという男には、常に周囲へと放出されている熱気、命が燃やす激しい熱量を感じる。
 フリードはやや気圧されながらも、下腹に力を入れて真っ直ぐに長身のウェンリーを見た。
「ほう……」
 ウェンリーの色素が薄い瞳から放たれる視線が、フリードの視線とぶつかる。だが、ウェンリーは視線での力比べなどしなかった。口元に微かな笑みを浮かべ、フリードの肩に大きな肉厚の手を置く。
「おい、みんな! 俺達は冒険者だ。軍人でも傭兵でも、ましてやゴロツキなんかじゃない。正面から向き合わなくちゃならないのは自分自身だ、それを見失うなよ!」
 よく通る大きな声は、澱みも汚れもなく澄み切っている。ウェンリーの周囲に闇を寄せ付けぬ光が集まっているようだ。「青年も、分かったよな?」ぽんぽんとフリードの肩を叩くウェンリーは、にっと笑った。
「驚いただろう。すまないな、みんな興奮して力が有り余っているのさ」
 穏やかな口調に漲っている自信。フリードは拍子抜けしてしまい、ただぽかんとウェンリーの精悍な顔を眺めた。
「俺はウェンリー・ホークって言うんだ、名前を教えてくれるか? 青年」
 大陸中に知れ渡ったその名だが、勿体をつける事もなくさらりと口にしたウェンリーに、フリードも自然と名乗った。
「僕はフリード、フリード・ブロウニングです」
「ブロウニング……だと?」
 片方の眉を上げて、そうつぶやいたウェンリーが記憶を探るように唸る。頭の中で思い当たる名をすぐに見付けたのだろう、ウェンリーは驚いたように目を見開いた。
「ブロウニング! そうか、アルフレッドの甥っ子っていうのはお前か!」
 ウェンリーが相好を崩し、何か懐かしむような眼差しでフリードを見遣っている。うんうんと肯いたウェンリーは冒険者達をぐるりと見回した。
「おい! アルフレッドを知らない奴はいないよな? 話に聞いてはいたが驚いたぜ、この青年はあいつの甥っ子さ! どうだい……アルの野郎によく似てるじゃねぇか。俺は気に入ったぜ!」
 ウェンリーは、フリードの肩に置いた手に力を込めた。ウェンリーの紹介に、冒険者達から「おお……」と、驚きの声が上がる。どうやらアルフレッドは、冒険者達からも一目置かれているらしい。
「甥っ子に新鋭機を譲るなんざ、あいつの期待は大きいようだな、競り合いを楽しみにしているぜ」
 ウェンリーは嬉しそうに、今度はフリードの背中をばんばんと叩く。
「さぁ座りな、フリード。まだ宵の口だ、ゆっくりとお伽話を聞かせてやるよ」
 大きく両手を広げたウェンリーは咳払いをした後、上機嫌で切株に座り直すと再び静かな口調で語り出した。
 星空の元で、再び語られ始めた冒険譚。
 椅子代わりの丸太に座るフリードの隣に、すとんと腰掛けた人影。柔らかな夜風に、さらりと長い髪が揺れた。
「あ、あの」
「あら、お邪魔だったかしら?」
「い、いえ。そんなことは……」
 少し潤んだ金色の瞳の中に映る炎が、ゆらゆらと揺れている。その瞳を間近から見つめてしまい、慌ててそっぽを向いたフリードは瞬間的に体を硬直させた。
「ねぇ、どうしたの?」
 悪戯っぽく笑うアリエッタが、フリードの肩にふわりと身を寄せた。
「ア、アリエッタさん!」
「ごめんなさい、ちょっと疲れちゃったの」
 まるで猫がじゃれつくようにフリードの腕に自分の腕を絡め、艶がある長い髪を揺らして甘える。
「さっきはありがとう。ちょっとの間だけ、止まり木になって頂戴。私はアリエッタ、よろしくね。ハンサムなルーキー君……」
 奔放な性格なのか、顔を紅潮させたフリードの困惑などお構いなしだ。温かなアリエッタの体から、ほんのりと体温が伝わってくる。
 腕を絡めた彼女の体がもたれ掛かっているので、逃げるに逃げられない。そんなフリードが緊張している様子を見ていたアリエッタが、微笑んでそっと瞳を閉 じる。ウェンリーが言ったように、妖精達の歌でも聞こえるのだろうか。彼女の美しい金色の瞳が瞼に隠されると、少し緊張が和らいだ。
 星降る夜空を焦がす神秘的な炎は、この大陸で生を受けた魂、受け継がれる深い深い記憶を揺さぶる。
 フリードは早くなる心臓の鼓動に戸惑いを覚えながら、じっとウェンリーの話に耳を傾けた。

 ――眠れぬ木々が、ざわざわと葉擦れの音を響かせている。
 吹き抜ける夜風と共に宿営地を移動する何者かの気配。暗い天空を焦がす炎を、遠くに見つめる銀色の双眸。
「さぁて、新型機をいただくとするか。レースの開始早々で可哀想だが、世の中の厳しさってやつを教えてやるよ」
 黒装束を身に纏ったテリー。
 いや……。闇に紛れる盗賊、銀の月テリオスが不敵な笑みを浮かべた。
 
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