ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


55.黒衣を纏う騎士

 目次
 力強くそれでいてしなやかな蒼き翼、雲を裂くシルフィードが発する爆音が蒼天に轟く。
 湖に墜落していた為に少々時間を浪費してしまった。いや、それは新たな出会いに対して失礼であろうが、レースの最中であるということを思えば、やはり時間的なロスを生じさせてしまった事になる。
 繰舵室に白い小鳥シルフィの姿は見えない。しかしヴァンデミエールは一向に気にしている様子ではなく、それどころか逆に上機嫌であるようだ。
 航路図を頼りに大陸を遙下に見ながら飛ぶ。何としても上位へと食い込み、レースに参加しているすべての冒険者達の頂点を目指さねばならない。
「ね、ね、フリード。下はすっごい森だよ!」
「ああ、そうだね」
 先ほどから身を乗り出して、眼下に広がる広大な森林地帯を飽くことなく眺めているトール。
 操縦桿を握るフリードも、故郷にある神秘の森がすっぽりとおさまってしまいそうな森に目を向けた。その深緑を見つめていると、姫巫女トゥーリアが思い出される。
 姿は幼い少女のようであるが、カーネリアの森を護る神秘の存在だ。
「現在は、リィフィート国の制空権内を巡航中です」
 先程、編隊を組んで飛行するリィフィート国の巡視艇と遭遇した。
 通信により二つ三つの簡単な質問をされたのだが、これは念のためということなのだろう。通信の最後に「頑張れよ、青年」と励まされた。
「進路、このままです。航路からの逸脱はありません、動力炉からの出力は正常に供給されています」
 砲手席のヴァンデミエールが伝えて寄越す情報は、操舵手であるフリードへの負担が極力小さなものになるようにと配慮されている。優秀な少女はいつも全力でフリードに手を貸してくれる。
 その熱意が、たまにおかしな方向へと向けられることもあるのだが。
「ヴァンデミエール、下に見えるのは……」
「ヴァスティーユの砦です」
 フリードにみなまで言わせず、少女が淡々とした口調で答えた。
「これが、砦なのか」
 あらためて眼下の光景に目をやったフリードは思わず息をのんだ。
 眼下の森に見え隠れする灰色は石造りである事を示す、砦と呼ばれる遺跡の規模はあまりにも巨大だ。伝え聞くのと実際に目で見たのでは感じる大きさが違う。
 ヴァスティーユの砦は大陸五大国の一国、リィフィート国に存在する歴史を刻む証だ。
 創世戦争という忌まわしき大戦。肉体のみならず魂までをも灼いた魔術は大地を焦がした、雷鳴が轟く天空に掲げられた長剣は多くの血を吸った。伝えられるその激しい戦いの話を聞けば、身震いに両肩を掻き抱かずにはいられまい。
 この大陸に生まれた人間は、幼い頃から創世戦争を昔話として聞かされて育つ。それは戒め、そんな意味合いが強いのであろうが――。
「あまり高度を落とさないで下さい。砦近辺の上空では、ウインドシップの操舵系に異常が起こる事象が、多数報告されています」
「調子が悪くなって、整備工場に搬入される機体も多いんだ。でも、どこがどう悪くなったっていうんじゃないから、修理箇所の判断が難しいんだよな」
 ヴァンデミエールとトールの話を聞いて、フリードは高度計を確かめる。整備工場で働いていたトールは、そういった不具合を抱えてしまった機体をたくさん見ているのだろう。
「もう少し、高度を上げよう」
 ヴァンデミエールの了解を得ようとした時だった、フリードが握る操縦桿に意図せぬ力が加わる。操縦桿は何か大きな力で固定されて、フリードがどんなに力を入れてもびくともしない。
 背筋に吹き出す冷や汗、幾度か操縦桿を握る腕に力を込めたフリードは機体に起こった異変を感じた。
「ヴァンデミエール!」
「フリード、どうしたのです?」
「操舵不能だっ!」
 鬼気迫るフリードの声に、翠の瞳を見開いたヴァンデミエールが計器と機外の様子を見比べる。
「高度が落ちています、注意して下さい!」
「またかよ、ちくしょう! 今度は何だよっ!」
 短い黒髪をばりばりと掻きむしり、両手で頭を抱えたトールがやけくそ気味に叫ぶ。フリードは力任せに操縦桿を引きながら、スロットルレバーを操作する。しかし、シルフィードは一向に上昇へと転じてくれない。
「推力が足りない! ヴァンデミエール、補助動力炉起動、主動力炉出力上昇!」
「了解。補助動力炉点火します、主動力炉最大稼働!」
「動力炉は生きているんだよな、俺が機関室へ行くよっ!」
「駄目だトール! シートに座っているんだ、何が起こるか分からない!」
 体を固定するベルトを外し、腰を浮かせた少年をフリードが引き留める。
 補助動力炉の点火と共に最大稼働を始めた『SILFEED』が唸りを上げた、動力炉の出力推移を見守るヴァンデミエールの翠の瞳は瞬きすらしない。
 シルフィードがようように機首を天空へと向ける。まるで目に見えぬ幾筋もの手が蒼い翼をしっかりと掴み、深い森へと呼び込んでいるようだ。シルフィードが誇る堅牢な装甲が、みしみしと不気味な音を立て始める。
「おい! このままじゃ、動力炉に負荷が掛かり過ぎるぞっ!」
「この程度の負荷など何でもない、シルフィードを馬鹿にしないでっ!」
 トールの警告に、険しい表情のヴァンデミエールが噛みつく。
 機体の周囲に視線を巡らせたフリードはレイディアントの起動を考えたが、それが無意味だと気付いた。シルフィードの周囲には攻撃対象など無い。
「な、何が起こっているんだ?」
 精一杯の力を入れても、やはり操縦桿はびくともしない。
 シルフィードにどんな力が作用しているというのだろうか、フリードはその原因が分からずに焦る。その切迫した意識の深層で不意に小さな光が瞬いた。
 突如、膨大な量の光の粒がフリードの脳裏に流れ込む。その光の粒は弾けて広がり、琥珀色の瞳、その視界いっぱいに散らばる光の欠片となった。
 フリードは、その光の欠片ひとつひとつに映る光景に戦慄する。
 それは戦いだ、激しい戦いの光景だ。
 暗雲渦巻く曇天に向けられた長槍の穂先。傷だらけの鎧に身を包んだ兵士達は、皆無表情に整然と隊列を組み荒れた大地を歩む。
 大顎を開くおぞましい魔物の咆吼、剣戟の火花が散り断末魔の絶叫が響く。大地に撒き散らされた紅の液体は、つい先程まで温かく人の体内を駆け巡っていたというのに。
「な、何だ、これは何なんだっ!」
 叫ぶフリードは何度も目を擦ってみるが、光の欠片は消えてくれない。無防備な心を刺し貫く凄惨な場面が続く。
「エリスティリア、グローヴィア。何故、何故そんなにも……」
 互いを象徴する武器を振りかざし、激しくせめぎあう光と闇の女神。
 フリードの咽の奥から相反する存在である女神の名が、うめき声のように漏れ出た。
 凝縮された光が集うエリスティリアの長剣、対するは漆黒の闇を従えるグローヴィアの長槍。数百年に渡る戦いの歴史、その奔流に溺れるフリードの意識が弾け飛んだ――。

 気が付けば、戦場を映していた光の欠片は何処かへと去っていた。ひやりと頬に感じる冷気に意識がはっきりとしてくる。視線だけを動かしてみるが、辺りは薄暗くて状況が把握出来ない。
 そして何より、何かが体の上に乗っていて重く息苦しい。
「ヴァンデミエール、トールっ!」
 大声で叫んだフリードが、体に乗っている重石を跳ね除けるように身を起こすと、
「きゃあっ!」
「わああっ!」
 二種類の悲鳴が上がり、フリードの上に乗っていたヴァンデミエールとトールが転がり落ちた。
 足下にうっすらと積もっていた細かな土埃がもわっと舞い上がり、フリードは堪らずに大きく手を振った。
「ふ、二人とも大丈夫か?」
 慌ててヴァンデミエールの傍らへと跪いて少女の体を抱き起こした。トールに目をやると、少年は尻餅をついた格好で腰をさすりながら顔をしかめている。
「フ、フリード、あなたは大丈夫ですか?」
 少女は咳込みながら黒髪を揺らす、どうやら怪我など無いらしい。二人の無事に安堵したフリードは、何かを忘れていることに気がついた。
「シルフィード、シルフィードはどこだっ!」
 勢いよく立ち上がり、周囲を見回して愛機の蒼い翼を探すがどこにも見あたらない。
 シルフィードは忽然とその姿を消してしまった。墜落して繰舵室から投げ出されたのだろうか、それにしては怪我など負っていない。いや、それよりも。シルフィードは小型のウインドシップだが、まさか機体を見失うはずなどない。
「こ、ここは?」
 シルフィードの姿も見えず、立ち尽くすフリードの口からぽろりとこぼれた疑問。
 仰ぎ見た頭上に空は見えず、石で組まれた天上と壁の圧迫感に押し潰されそうだ。ふと足下を見ると堅い革製のブーツが踏んでいるのは、やはり大きく切り出された石造りの床だ。肌に触れる空気は乾いており、周囲は薄暗く灰色の壁が長く続く。
 自分の居場所を見失い、混乱するフリードはフライトジャケットの襟元をきつく握りしめて呻いた。
「フリード、ここは……」
 拳をきつく握りしめるフリードの腕に、そっと手を触れたヴァンデミエールが唇を開いたその時だった。
「ほう、盗堀か? いい度胸だな」
 背後から聞こえた声に、フリードはびくりと体を震わせる。滞留する空気が僅かに動き、暗がりの中で何かが煌めいた。
「フリードっ!」
 叫んだヴァンデミエールが、フリードの前で身構える。
 薄暗闇を退ける冷たい光を湛えた片刃の刀身、フリードの眼前に長剣を突き付けた人影。
 現れたのは黒衣を纏う剣士だ、足を踏み出す度に長い黒髪がふわりと闇に踊る。フリードの姿を映しているのは大陸の彼方、遙な西方に広がる海を思わせる濃いブルーの瞳。
「なんだ、子供連れの盗賊か?」
 秀麗な顔にいくつもの疑問符を浮かべた剣士が、左腕で漆黒の外套を翻す。黒髪を逆立てたヴァンデミエールが、翠の瞳で長身の剣士を睨み付ける。
「僕達は、盗賊なんかじゃありません!」
 戦闘態勢をとる少女の細い両肩を掴んで背中に庇い、敵意が無いことを示すために大きく両腕を広げたフリードが剣士に向かって叫ぶ。
「ふん。盗賊どもはみんなそう言うぜ?」
 皮肉げな笑みを浮かべる剣士は疑いを解いてはくれないのか、突き付けられた長剣の切っ先は少しも揺らぐ事がない。どうすれば剣士に伝わるのだろう、フリードが焦りに唇を噛んでいると。
 剣士の背後から、そろりそろりと忍び寄るのは……。
「とっ!」
 驚いたフリードが目を丸くした。腰の工具袋からスパナを引き抜いたトールが、ぺろりと舌なめずりをする。
「なんだ?」
 背後にまったく意識が向いていないのか、フリードを見つめる剣士が片方の眉を上げた瞬間だった。
「くらえ、こんにゃろっ!」
 トールが振り抜いたスパナが、剣士の膝裏をしたたかに打った。
「だあああっ!」
 大口を開けて叫んだ剣士がもんどり打ってその場に倒れ、トールに殴られた足を抱えて悶絶する。油断していたのだろうか、しばらく石床の上をごろごろと転がっていた剣士は、埃まみれの四つん這いで荒い息をつきながら顔を上げた。
「へへん。まいったか、油断大敵だぜ!」
「ああ……。まったくその通りだぜ」
 痛みを堪えているのだろう、剣士の額に脂汗が滲んでいる。スパナを担いで得意げに鼻の頭をひと擦りしたトールが、べえっと舌を出した。
「こっ、このクソガキが、やってくれるじゃねぇか!」
「げっ!」
 舌を出したままで挑発を続けるトール。
 少年を凄絶な表情で睨み付けていた剣士はこめかみに青筋を浮かべ、手にしていた長剣を放り投げるとトールに飛び掛かった。
 少年の計算違いか、それとも剣士の怒りが痛みに勝ったのか。
「うわわわわっ!」
「待てこのガキ! お仕置きだ、おらおらおらっ!」
「あ、いてて、やめろよっ!」
 慌てて身を翻したトールの襟首をむんずと掴みんだ剣士は、逃げようともがくトールの小さな体を抱え上げてぐるんぐるんと振り回す。
「あわわわ」
 あっという間に平衡感覚を失い、目を回したトールをぽいと石床に放った剣士は、乱れた黒髪を左手で背中に流した。トールに打たれた足の様子を確かめるように、ぶらぶらさせながら整った顔をしかめる。
「おお痛ぇ。くそ、力任せに殴りやがって」
「ト、トールっ!」
 フリードは石床の上で仰向けになり、ぐるぐると目を回す少年の元へと駆け寄った。
 トールとヴァンデミエールを背に庇うと、悠然と立つ剣士を睨み付けるように見上げる。足の痛みがひいたのか、剣士は体を屈めて投げ出した剣を拾い上げ、さっとひと振りして流れるような動作で鞘に収めた。
 フリードよりも僅かばかり背が高いだろうか。その引き締まったしなやかな体躯は、戦いを生業としている者であることを感じさせる。
「怪しい奴かと思ったが、ふん……」
 濃いブルーの瞳が、フリードの琥珀色の瞳を捉えた。光を湛える瞳の青色は深く、まさに広大な海のようだ。
 しばらくの間、何かを考えていた様子の剣士は、右手で顔に掛かる長い前髪をさっと払う。
「干涸らびた廃墟だってのに、いつまでたっても懲りねぇ盗掘野郎が多いんでな。ちょいと試したのさ、悪かった」
そう謝罪した剣士は不意に表情をあらためる。
「ここは重要な場所だ、王都の管理区域となっている。立ち入りが禁止されているんだよ……。どこから入り込んだのか知らねぇが、まぁ、あれこれ詮索するのも面倒臭い。こんな陰気な場所にいないで早く帰れよ」
 瞳を細め厳しい表情だった剣士が、剣帯に吊った長剣を宥めるようにその柄を軽く叩いた。外套の裾を翻すと、ひらひらと手を振って踵を返す。
「す、すみません、待って下さい!」
 フリードはすたすたと歩いていく剣士を慌てて呼び止めた、このまま訳が分からぬ場所に置き去りにされる訳にはいかない。
「あん?」
 フリードの切羽詰まった声に、歩みを止めた剣士が訝しげな表情で振り返った。

 ☆★☆

「僕はフリード。フリード・ブロウニングです。彼女はヴァンデミエール、彼はトール・アルディア、仲間の非礼をお許しください」
「それはお互い様ってところだ、俺も油断していたからな」
 剣士はトールの一撃をさほど気にしてはいないらしい、興味深げな表情のまま指先で顎をひと擦りした。
「俺はリュティス。『リュテイス・ライムアート』っていう名だ。騎士としてリィフィート国に仕えている」
 リュティスと名乗った騎士はぐいっと体を反らせ、自慢げに胸の辺りに留められている銀の紋章を親指で指してみせる。よく見れば、その紋章は間違いなくリィフィート国のものだ。
「ま、従者もいない三流騎士。治める領地も持たない冷や飯食いの武官だがな」
 大きく口を開けて「わはは」と、笑う。
 騎士という身分ではあるが、ただの一兵卒。従者どころか守るべき民と領地も持っておらぬ。ついでをいえば品性も無い、まさに無い無いづくしだ。
 言わなければ分からないというのに、それとも体裁など些末な事だと思っているのだろうか。
 乾いた笑いを続ける騎士を眺めるフリードは、体から抜けていく力を留めるのに一苦労しながら頭の中で考えていた。姿が見えないシルフィードが気に掛かるものの、まずは自分達が置かれた状況を確認しなければならない。
 そのためには、頼りなさそうなこの騎士に尋ねるほかあるまいと結論を出した。
「僕は、グランウェーバー国から来ました。今、ウインドシップレースに出場しているんです」
「ういんどしっぷれーす? なんだそりゃ?」
 案の定、眉根を寄せたリュティスの答えにフリードは絶句する。どうやら話が通じていない、目の前で訝しげな顔をしている騎士は大陸でも有名なウインドシップレースを知らないらしい。
「ふん、グランウェーバー国か」
 だがグランウェーバー国の名は知っているようだ。半眼でぽつりとつぶやいたリュティスが不機嫌そうに足を踏み鳴らす、体を守る部分鎧が微かな金属音を響かせた。
「ええと、あの?」
 急に不機嫌そうになったリュティスの表情に、困惑したフリードが僅かに身を引いた。
 グランウェーバー国は歴史が浅い新興国ではあるが、大陸でもまんざら無名ではない。いや、大国に仕える騎士にとっては新興国など小蟻のような存在、そんな認識でしかないのか。それとも、この黒衣を纏う騎士にはグランウェーバー国を嫌う理由があるのだろうか。
「あの国に広がる神秘の森には、おっかねぇ番人が居るんだよ。小娘みたいな大年増はうるさいからな、なるたけ顔を合わせたくないんだが」
 半眼のままで腕を組んだリュティスは口を歪めて悪態を吐く。森の番人である小娘みたいな大年増とは、まさか姫巫女トゥーリアの事を言っているのだろうか。
 それにしても言葉遣いや態度がぞんざいだ。騎士ともなれば立派な貴族階級だ、それなりの立ち居振る舞いがあるものだろうに。
「あの、お尋ねしたいことがあるんです」
「おお、何だ? 大概のことなら教えてやるが。ま、俺が分かる範囲でな」
 背中でひとつに纏めた長い髪をさらりと手で梳き、黒衣を纏う騎士が偉そうに胸を反らす。
「ここは何処なんですか?」
「は? ここが何処かって。そりゃあ、お前……」
 困り顔のフリードをしげしげと見つめ、リュティスは呆れたような表情で両手を腰に当てたまま固まった。
「まさか、ここが何なのか知らないっていうのか?」
「はい」
 呆れられてもしょうがない。迷い込んだ……と、いえばそうなのだろうか。
 フリードは素直に頷いた。
「ええと、ここはだな」
 口を開きかけたリュティスは辺りに視線を巡らせると、かりかりと頭を掻く。
「分かりきった事をくどくど説明するのも何だ、俺について来いよ」
 黒い外套を翻したリュティスは、親指でフリードに行く先を示した。

 敷き詰められた石の床を踏めば土埃が舞い足跡がくっきりと残る、この場所に人が立ち入らぬ証拠だろう。薄暗い回廊は気を緩めれば何か得体の知れぬ幻惑に囚われてしまいそうだ。そんな不安を覚えながら、フリード達はリュティスの背を追って歩く。
 石で組まれた建造物の内部であることは感じられるものの、全体の構造を知らないのでどこをどう歩いているのかさっぱり分からない。
 登っているのか、はたまた降っているのか。そのうちに方向や時間の感覚を失ってしまった。足を踏み出すだけの作業にいい加減疲れてきた頃、石に囲まれた回廊は終わりとなった。
 先程まで石造りの回廊を歩いていたのだ、広い空間に出ると開放感と共に少々不安にもなるが。緊張で固くなった体を伸ばして頭上を見上げてみる。
 やはり空は見えない、相変わらずぼんやりとした薄闇が頭上へと広がっている。
 周囲を見渡すと古びた建物が幾つも目に入る。僅かな風は澱んでいて、光が少ないので草木などの緑は僅かに見られるものの、とにかく視界に入るのは粉っぽい石の白さだけだ。
「こっちだ、ぼんやりしていると置いて行くぞ」
 リュティスの後をついて歩くフリード達は、目の前に現れた石造りの階段をひたすらに登る。階段の横幅はとても広くしっかりとした造りだ。その端の左右には、大人ひとりが両腕を開いても抱えられないほど太い柱が、等間隔で立てられている。
「トール、はぐれるなよ」
「う、うん」
 フリードが少年へ声を掛けると、きょろきょろしているトールは薄気味悪そうにぶるぶるっと体を震わせた。
 しばらく長い石段を登り詰めた場所は高台だ。
 ひと息ついたフリードは振り返り、眼下に広がる光景に驚く。
「これは、街、街だ……」
「ほ、ほんとだ」
 古びてはいるが、大きな建物が密集している。
 ぽかんと口を開けているフリードとトールを見遣り、背筋を伸ばしたリュティスが笑った。
「凄いだろう?」
「は、はい」
「ここは街の全景を見渡せる場所だ。しっかりと拝んでおけよ、滅多に見られる景色じゃないからな」
 ……ぐう、きゅるる。
 突然聞こえたその大きな音は、フリードの返事ではない。
 それは黒衣を纏う騎士が飼っている腹の虫が、盛大に上げた不満の声だ。あまりの大きさにフリードとトールの口が半開きになり、ヴァンデミエールが不機嫌そうな顔でそっぽを向いた。
 真面目な顔で、自分の腹を撫でたリュティスは「ふむ」と、頷く。
「ここらで腹ごしらえをしようぜ。付き合えよ、食いながら話を聞かせてやる」
 リュティスは、ぽかんとしているフリードを余所に背負っていた背納袋を下ろして、どっかりとその場に座り込んだ。
 
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