ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


58.思い出の軌跡(1)

 目次
 遙かな上空で、もつれるように激しく競り合う二機のウインドシップ。
 軋む主翼の上を流れゆく冷気、蒼い翼を畳んだシルフィードは最高速度に達している。
「ここが勝負どころです!」
「分かっている!」
 全力で挑む純粋なチェイスに、砲手であるヴァンデミエールの出番はない。
 シルフィードが前方を行く機体を捉えた、激しく振動する操縦桿を握るフリードの表情は真剣だ。シルフィードは徐々に順位を上げている。
 生意気なルーキーになど負けられぬという意地があるのだろう、勝負を受けて立つとばかりに相手も動力炉を全開にして加速を続ける。
「フ、フリード、無茶するなって! また調子が悪くなるんじゃないのかよっ!」
「その時は君の出番だろう!?」
 機体の振動に耐えながら叫ぶトールに、フリードが軽口で返した瞬間。
 突然,競い合っていた相手の速度が落ちた。
「あ、諦めたのかな」
 首を伸ばして風防に頬を押し付けたトールが、みるみる小さくなっていく機影を見ながら、ほっとしたようにつぶやく。
 後方視認用の鏡は、もう空と雲しか映していない。安堵の吐息を漏らしたフリードが、シルフィードを減速させようとすると。
「そのままです、現状の速度を維持して下さい」
 厳しい声に驚いて、フリードは思わず操縦桿を強く握りしめる。
「ヴァンデミエール?」
「フリード、あなたは必ず勝たねばならないのでしょう!?」
 砲手席に座る少女の表情は険しい。
「このレースを制するというのならば、最後に立ち塞がるのはウェンリー・ホークであると予想されます。彼は優れた冒険者。幾筋もの航路を見出し、この大陸の地形、気象など様々なデータを蓄積している……。その彼に立ち向かわなければならないのです、これから先はさらに気を引き締めて下さい」
 ヴァンデミエールの一言一言は、幻影の冒険者という高く厚い壁をフリードに想像させる。
「目的を果たす為ならば犠牲をも厭わぬ。あなたはそれほどに強くならなくてはなりません。そうでないと、あなたは、あなたの心は……」
 背中にそっと触れるような弱々しい声。
 フリードが少女へと声を掛ける前に、ヴァンデミエールは俯いて口を閉ざしてしまった。
「分かった、覚えておくよ」
 そう答えてみたものの、フリードはヴァンデミエールの真意を掴む事が出来ないでいる。

☆★☆

 焼け爛れた廃墟に佇む娘は今も尚、焦げた臭いを含む不気味な風に晒されていた。微動だにせぬ娘はただじっと、かつてトゥエイユハーゲンの城が在った場所を見つめている。
 思い出される出来事のひとつひとつに顔を歪める、心をざわめかせる嫌な思い出ばかりが脳裏を過るのだ。
 そうして陽が翳り夜の帳が静かに降りてくる頃になって、アーディアはようやく体を揺すった。
「すべてを覆い尽くす闇よ、苦しみを覆い隠して。疾く駆ける風よ、悲しい記憶のすべてを奪い去って」
 目を瞬かせ、祈るようにつぶやいた唇を指でそっと撫でる。乾いた唇へと触れた指先が冷たい。冷え切っているのは自分自身の体か、それとも心なのか。
 風になぶられる髪を纏め、コートの襟を立てたアーディアは視線を巡らせると静かに息を吐いた。
 徹底的に破壊され荒涼とした灰色の風景の中では、僅かな命の脈動さえも感じることは出来ない。アーディアは、ふと小刻みに震える手を持ち上げて、じっと凝視する。
 「ドレイク様……」師を手に掛けた瞬間の手応えが未だに掌に残っている、騎士団の中でも指折りの剣技を誇る彼は、武芸の師であるとともに、姉妹の育ての親でもあったのだ。
 彼女は、いわば親殺しである。
 どんなに理由を付けて自分を納得させようとしても、己の命が尽きる日まで心はその罪に苛まれ続けるに違いない。
「フィーディア、何処に居るの?」
 僅かに首を振り、物思いに区切りをつけたアーディアは、視線を巡らせて妹の姿を探した。
 自分の心がかろうじて平静を保っていられるのは、妹を案じているからなのだろう。歩き始めたアーディアは、妹の姿を探して廃墟の中を進んだ。記憶の中の風景を頼りに、崩れた回廊を歩む。思い出すまい……ともすれば萎えそうになる、己の心を叱咤しながら足を前に踏み出していく。
「これは……」
 アーディアの耳に音が聞こえた、何かを激しく打つような音だ。そして地の底から響いてくるような呪詛。
「いけない」
 歩みを早め崩れた広間に入る、目の前の光景にアーディアは息をのんだ。
 フィーディアが白銀の鎧を身に着けた屍へと馬乗りになっていた、髪を振り乱し両手に持った短剣を、何度も何度も動くことがない骸へと叩きつける。
「やめなさい、フィーディアっ!」
 アーディアは獣じみた雄叫びを上げる妹の側へと駆け寄ると、その両腕を背後から掴んだ。
「だ、誰だ? 離せ、離せぇっ!」
 腕を掴まれて、フィーディアが激しく抵抗する。アーディアは無理矢理に妹の手から短剣を奪い取ると遠くへ投げ捨てた、乾いた音を立てて地面に落ちた短剣の刃が冷たい輝きを放つ。
「私達を苦しめたのはこいつ等だ、私達を捨てたのはこいつ等なんだ! 邪魔を、邪魔をするなっ!」
「フィーディア。いいの、もういいのよ!」
 アーディアは暴れる妹を後ろから抱きしめた。
 きつく抱きしめられ、アーディアの温もりが体に伝わったのだろうか、錯乱していたフィーディアは少しずつ落ち着いてきた。
「……ね、姉様?」
「良い子。良い子ね、フィーディア」
 アーディアは死者への冒涜を咎めたのではない。人だとて他の生き物と変わらぬ、死すればただの冷たい骸だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 そんなことはどうでもいい……。
 姉である自分が、蝕まれてしまった妹の心を理解してやらねばならない。アーディアは優しく妹の髪を撫で続ける。
「姉様、姉様ぁ……」
 体を小刻みに震わせ、うなだれたフィーディアがつぶやく。瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出し、両手で顔を覆うフィーディアが嗚咽を漏らす。
 その声は次第に大きくなり、フィーディアはまるで子供のように泣き始めた。
「大丈夫、私が側にいるから……」
 アーディアは、唇を強く噛みしめて涙を堪える。
 涙を流せば、体の奥底で渦巻いている恨みと憎しみが流れ出てしまう、そんな気がするのだ。
 そうだ、泣いてはならない。その恨みと憎しみを体の中に留めておかねば、自分は石像のように動けなくなってしまうだろう。
 バルバロック伯爵の嫡子である双子の姉弟。騎士団の後継者となる弟、テリオスが指揮権を継承する儀式が執り行われる日だった……。アーディアの脳裏には、その時の光景が今も尚焼き付いている。
 大地を割り吹き上げる幾筋もの火柱、天空からは無数の光の矢が降り注いだ。堅牢な白銀の鎧をも焦がす炎、貫く光の矢。
 あの日、魔を狩る騎士団は壊滅的な損害を受けた、それも継承者の暴走によってだ。
 混乱の中で継承者であるテリオスは姉、アリオスと共に行方不明となり、騎士団は組織の再編成をしながら魔術師との戦いを続けるという苦難が続いた。
 組織の衰退、弱体化を防ぐ為には継承者を探し出す事が急務であった。
 それが叶わぬのならば、組織を新たに率いる者を選び出さなくてはならない。だが継承者の行方は掴めず。また金色の瞳と銀色の瞳を持つ、継承者ほどの潜在的な力を秘める希有な存在など見つかるはずもない。
 難を逃れた騎士団の重鎮達は、過去の禁忌を繰り返すことになる。
 魔を狩る者トゥエイユハーゲンは魔術によりその肉体を強化された、いわば造られし者達である。魔を狩る者が、また魔より生み出されし者だなどと。それは何という皮肉であるのか。
 選ばれたのはアーディアとフィーディアであった。
 術式を体に刻み込む事は、苦痛という言葉だけでは言い表せぬほどだった。術式は肉体へと、精神へ食らいつき浸食していく。自我を失ってしまう……恐怖に脅える日々が続いた。アーディアが正気を保っていられたのは奇跡に近いといえよう。
 そんな苦難を乗り越えた姉妹であっても騎士団を率いる者だけが扱える武具、その象徴たる長剣と長弓を喚び出す事はどうしても叶わなかった。
 武具は姉妹に従わなかった、それは本来の継承者が何処かで生きているという証でもあった。
 重鎮達は一縷の望みを掛けて、再び継承者の捜索を進める事になる、「役立たずの姉妹」失望と共に、そんな烙印を押された姉妹は打ち捨てられたのだ。
 体に刻み込まれた痛み、苦しみが怨嗟となって荒れ狂う。許しはしない、許せるものか。騎士団の末席に身を置くアーディアは、躍起になって継承者を探す重鎮達の目を盗み、ずっと復讐の機会を伺っていた。
 そして姉妹にとっての転機が訪れる。
 魔術師と通ずるグランウェーバー軍は、魔を狩る者であるトゥエイユハーゲンの騎士団を疎ましく思っているらしい。
 意を決したアーディアは秘密裏にグランウェーバー軍に取り入った。利用されてもかまわぬ、こちらも利用してやるだけだと、そう自分に言い聞かせた。
 信頼を得る事に心を砕いたアーディアの辛苦は実り。
 グランウェーバー軍から姉妹に与えられたのは新型のバトルシップ『ディスアレーザ』だった、内通者である姉妹に与えられる装備としては極上の機体、信じられぬ厚遇である。
 騎士団の居城を襲うディスアレーザの攻撃は、荒れ狂う姉妹の憤激そのものだった。憎しみを叩きつけ恨みを晴らすことは叶い、トゥエイユハーゲンの騎士団は姉妹の手によって潰えた。
 残るはバルバロックの正統なる血筋である継承者の姉弟だけだ。
 長い長い逡巡の後、アーディアは妹の耳元でそっと囁く。
「フィーディア、バルバロック伯爵家の末裔を見つけたよ。双子の姉弟、アリオスとテリオスは水の都さ」
 双子の姉弟を冥府へと送れば、姉妹が歩む茨の道はやっと終わりを告げるだろう。
 アーディアの言葉に、体を震わせていたフィーディアが薄い笑みを浮かべた。

 「水の都」と呼ばれている古い街並みを見渡せば大小様々、多数の運河が目に入る。水資源に恵まれた街、リヴァーナ。街中を縦横無尽に走る運河は移動手段や流通に利用されている、人々の生活になくてはならないものだ。
 美しい景観。歴史を刻む街の変わらぬ姿、他では見られぬその特異な光景は、観光の名所でもあるのだ。 
「ねこ、ねこ、こねこ……」
「にゃ」
 大きな青い瞳を持つ少女は道端にしゃがみ込んで、可愛い指が並ぶ小さな手をそっと差し出した。
 白い肌、表情は乏しいものの整った顔立ち。まるで人形のように可愛らしい少女、クララの足下にいるのは一匹の子猫だ。野良猫にしては毛並みの色艶も良い。石畳の上に寝そべって、じっとクララを見つめている。
「ねこ」
「にゃあ」
 クララが声を掛けている生き物は確かに子猫なのだが、名前が分からないのでクララはずっと「ねこ、ねこ」と呼びかけている。子猫の方も自分が呼ばれているのは分かるのだろう、体を丸めたまま瞳を細めてクララをじっと見上げている。
 その時だった。
 行き交う車と馬車がすれ違う大きな道だが、双方が目測を誤ったのかもしれない。馬車と車が軽く接触し、弾かれた馬車が道を逸れたのだ。
「あ、危ない!」
 車と馬車が接触した音に人々が立ち止まった。
 馬車を牽く馬が驚いたのだろう。大きないななきを上げると突然、歩道を暴走し始めた。暴れる馬に追い立てられた人々が悲鳴を上げながら逃げまどう。
 怯えて錯乱する馬は御者のいうことをきかぬ、歩道に乗り上げた馬車がクララに向かって突進してきた。
「ねこっ!」
 クララは子猫を抱き上げると、庇うように抱きしめてその場にしゃがみ込む。馬のいななきと路面から伝わる激しい振動に体が震える、固く目をつむった。
「よいしょっと……」
 馬車の車輪が歩道に喰らいつく、激しい音が不意に遠のく。
 優しい声がクララの耳に届き、同時にふわりと体が浮いた。
「え?」
 まるで雲のように空へ浮かんでいるようだ。おずおずと見開いた青い瞳を覗き込むのは、優しい琥珀色の瞳だった。
 柔らかな毛布に包まれたような感覚、肌が感じるその感触は、クララを守ってくれる金色の瞳と銀色の瞳を持つ双子の姉弟、アリオスとテリオスに似ている。
「危なかったね」
 クララに襲いかかろうとした危険は去った、通りの向こうで街路樹に激突した馬車が横転している。馬車と接触した車の運転手は頭を抱えて右往左往していた。その様子を交互に見ていた青年は、抱いていたクララの体をそっと下ろした。
「どうかな、立てるかい?」
 少しばかり人見知りのクララが上目遣いで頷くと、瞳を細めた青年は笑顔を見せた。
「可愛い子猫だね。怪我もないようだし、間に合って本当に良かった」
 穏やかな声が耳に心地よい。
 薄茶色の髪が風に揺れている、クララの目にはその毛先から薄桃色の微粒子が広がっているように見える。不思議な現象だ、助けてくれた目の前の青年は人間である筈なのだがと、クララは小さく小首を傾げた。
 通りには野次馬達が集まり始めている。大騒ぎになっているが、どうやら怪我人はいないようだ。路上に横たわり、もがいていた馬もようやく立ち上がり御者に宥められている。
「クララ、大丈夫かっ!」
 大声で名前を呼ばれたクララが振り返ると、長身痩躯の青年が勢いよく駆けて来るのが見えた。
「あ、テリオ……」
 盗賊として闇に住まう青年、テリオス。その真の名を呼びかけたクララは慌てて両手で口を塞ぐ。
「怪我はないかっ!」
 クララを案じるその声はわずかに震えている、傍らに跪いたテリオスに強く抱きしめられた。
「……だいじょうぶ、どこも痛くないから」
 クララが小さな声で答えると、青年はそれでも手や足に擦り傷などがないかと真剣な顔で確かめている。くすぐったいが、クララにとってそれはとても嬉しいのだ。
「あの人に、たすけてもらったの」
 ふわりと金髪を揺らすクララが、自分を助けてくれた青年を見遣る。
「そうか」
 クララの無事を確かめたテリオスは、サングラスを外すと大きく息を吐き出した。立ち上がると野次馬の人だかりを心配そうに見つめている青年の背中に声を掛ける。 
「すまねぇ、この子を助けてくれたんだってな。目を離しちまったんだ。礼を言うよ、ありがとう」
「え? 礼だなんて、そんな」
 テリオスに話し掛けられて、振り返った青年が頭を掻きながら照れくさそうに言った。青年の顔を見たテリオスが驚いてわずかに身を引く。
「うお! お前は、ル、ルーキー君じゃねぇかっ!」
「え、ええ!? あ、あなたは!」
 銀色の瞳、そして見開かれた琥珀色の瞳。驚きと困惑の視線が交錯する。
 だが……。
「どちら様でしたか?」
「おい、まだ若いのに呆けるなよ」
 テリオスはちらりと辺りを見回して胸を撫で下ろす、どうやら青年のパートナーである黒髪の少女は一緒ではないらしい。レースの前夜祭でシルフィードの起動キーを手に入れようとしたテリオスは、翠の瞳を持つ少女に阻まれた。あの少女は自分を覚えているかもしれない。
 ぽりぽりと頬を掻きながら困っている青年に、体の力が抜けきったテリオスは肩を落として大きなため息をついた。
「レースの前夜祭だよ、キャンプで話をしただろう?」
「ええと……」
 両腕を組んで真剣な表情で考え込んでいた青年、フリードはテリオスの顔をじっと見ている。その珍しい瞳の色に、思い当たる記憶を見つけたようだ。
「あ、ああ! はい!」
「やれやれ、思い出してくれたか? エントリーナンバー25、テリーだ。姉貴のアリエッタが、機体を預ける手続きに行っていてな」
 能天気なお坊っちゃんだとテリオスは苦笑する。クララの恩人に対して偽名を使う事に少しの抵抗があるものの、これは致し方あるまい。すまなさそうな顔の青年を見つめるテリオスは、ひょいと肩を竦めた。
 それにしても、この二枚目の顔を忘れているとは。
 先程の感謝も何処へやら。心の中で少々へそを曲げたテリオスは、世間知らずのお坊ちゃんをからかいたくなった。
 わざとらしく口の端を歪め、皮肉げな笑みを浮かべてみせる。なまじ整った顔立ちなので余計に憎らしく見えてしまうが、テリオスはそれも計算に入れているのだ。
「へへっ! ルーキー君も好調のようだな。そろそろ、トップ争いに参戦ってところか? ここは水の都さ、冷たい水には困らねぇ。まぁ少し頭を冷やして、ゆっくりと休みな」
「……そうですね」
 挑発的なテリオスの口調に青年の表情が引き締められた。やれやれ。この素直なお坊ちゃんは、腹芸などまったく頭にはないようだ。
「この先を楽しみにしているぜ」
 クララの金髪をさらりと撫でて踵を返したテリオスは、細めた銀色の瞳で肩越しにフリードをひと睨みした。
 
戻<   目次   >次

HOME

ヴィゼンディアワールド・ストーリー

 虹の翼のシルフィード