ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


57.遺跡が見る夢

 目次
 艶やかな光沢を放っている、滑らかな鎧の表面。金属が擦れ合う音を響かせて、鋼色の鎧がこちらへと足を踏み出す。手甲で固められた右腕が腰に帯びた大剣を鞘走らせた。
 無言で迫るその様は、とても友好的な雰囲気ではない。フリードも慌てて立ち上がると、棒立ちになっているトールの体を引き寄せる。
「よ、鎧の中には、人が?」
「いや、人が身に着けているんじゃない。鎧そのものが動いているんだ、これも魔術のひとつさ」
 リュティスの答えを聞いたフリードとトールは、もう驚くばかりだ。
「お嬢ちゃんも、後ろに下がっていな」
 足を踏み出したリュティスが、腰に吊った長剣をすらりと引き抜いた。鈴のような音が響き、美しい姿を見せた刀身が僅かな光を反射する。
「まったく、勤勉な奴だよな。だが……」
 リュティスの言葉を掻き消すような轟音を響かせて、大剣を振り上げた鎧が猛然と突進してくる。
「戦う相手が違うだろうがっ!」
 掬い上げるように長剣を掲げたリュティスが、振り下ろされた巨大な剣を真正面から受け止めた。
 鼓膜を破るように甲高い音が響く。
 驚くべき事に、黒衣を纏う騎士が手にした片刃の長剣は折れることなく、鋼色の鎧が振り下ろした大剣の一撃を受け止めたのだ。力を込めて刃と刃を合わせ押し合う。鎧の突進を止めたリュティスはしばらくの間、魔術で動く物言わぬ鎧人形を見つめていた。
 細められた濃いブルーの瞳に浮かぶのは、憐憫の情であるのか。
 いちど体を退いたリュティスは軸足に力を込めて体を伸ばし、鋼色の鎧が構える大剣を弾き上げた。漆黒の外套がふわりと翻り、体をよろめかせた鎧の胴体へと強烈な足蹴りを見舞う。
 力任せに蹴られた鎧は後方へと弾き飛ばされて石畳の上に転がった。大きな振動、もうもうと舞い上がる土埃が視界を塞ぐ。
 ゆっくりと身を起こす鎧の頭部、その鋼板に覆われた顔面に開けられた双眸を模した穴の奥で、青白い光がゆらゆらと揺らめいている。それは全身を鎧に包まれた兵器の魂のようだ。
 石畳にめり込んでいた体を起こした鎧は低い唸りを発した。体に力を蓄えるように身震いし、大剣をずるりと引きずると再び突進を始める。死の旋風を巻き起こす大剣の刀身が迫る、僅かに触れただけで皮膚が破れ肉が弾けてしまうだろう。
 しかしリュティスは眉ひとつ動かすことなく、一閃する大剣の斬撃を躱した。旋風に嬲られる黒髪。姿勢を低くして鎧の懐へと滑り込み、その鋼色の胸甲にそっと左手を当てる。
「長い間ご苦労だったな、もういい……」
 湖面に微かな波紋を起こすような、とても優しい声。
「ゆっくりと眠れ」
 リュティスの手の平が淡い光を放った次の瞬間。鋼色の鎧、その継ぎ目に沿って光が走り、稼働を停止した鎧が力を失い仰向けに倒れた。
「こいつは、砦に身を寄せる人間を守る衛兵なんだがな。長い長い時の流れに、己の役目すら見失ったか」
 狂ってしまった古の鎧人形が、その役目を終えたのだ。
 濃いブルーの瞳に微かな光が照り返し、リュティスがゆっくりと振り返る。
 巨大な柱の表面が再び輝きを放ち、その光の中から鋼色の衛兵が次々に姿を現す。それも一体や二体ではない、後から後から姿を現す衛兵達で、視界は鋼色の一色に染まりつつある。
「こりゃあ壮観だな。あいつがこの仕掛けを見たら、小躍りして喜ぶだろうが」
 抜き身の長剣を担いで軽口を叩いていたリュティスの頬に、一筋の冷や汗が流れた。
「おいおい、何体出てくるんだよ」
 鎧同士が擦れ合う金属音で耳が痛い。
 空間の裂け目から次々と現れる衛兵達は、あっという間に群れとなった。その様子をげんなりと見つめるリュティスの顔、その口元がひくひくと痙攣をしている。
「ちっ、まずいな。フリード、回れ右だ! 逃げろ! この先に礼拝堂がある、走れっ!」
 形勢不利と見て取ったリュティスが、フリードの体を強く押しやった。
「トール、走るんだっ!」
 フリードは慌ててヴァンデミエールを抱き上げると、驚きのあまり硬直している少年を大声で呼んだ。
「フ、フリード! お、おろして下さい、自分で走れますっ!」
「ヴァンデミエール、大人しくしていてくれっ!」
 顔を真っ赤にして、じたばたと暴れるヴァンデミエールの肘と拳がフリードの横顔を叩く、フリードは構わずに少女を抱いたままで走る。
「わわ、フリード! ま、待ってくれよっ!」
 置いていかれては堪らないと、勢いよく石畳を蹴ったトールがフリードの背中に飛び付いた。
「速く走らなきゃ、お、追いつかれるよっ!」
 がちゃりがちゃりと金属の鎧を軋ませて、大群となった鋼色の衛兵が押し寄せてくる。懸命に足を前に出して駆けるフリードの背中にしがみついたトールが大きな悲鳴を上げた。
「これ以上は速く走れない。トール、絶対に手を離すなっ!」
 息を切らせて駆け続けると砦内の最上部に近付いているのか、石造りの天井が迫ってくる。そして礼拝堂が追われるフリード達を迎え入れるように広い門を開いていた。
 朽ちていても尚、荘厳な雰囲気を感じさせる建造物の姿は体を竦ませる、しかし足を止める訳にもいくまい。ヴァンデミエールを抱き、トールを背負ったフリードが礼拝堂に駆け込むと、しんがりで門を潜ったリュティスがその場に踏み留まった。
「リュティスさんっ!」
 フリードが急ブレーキを掛けると、両腕に抱えられていたヴァンデミエールがするりと腕をすり抜け、トールが背中から飛び降りて礼拝堂へと駆け出す。
「ぐずぐずするな、礼拝堂の奥に行け。ここは俺に任せろ。狂ったあいつ等を止めるには、もう破壊するしかない」
「でも、あなた一人ではっ!」
「馬鹿野郎が、要らん心配をするな」
 眼前に立ち並ぶ衛兵達は鋼色をした林のようだ。怒鳴りながらも、リュティスの瞳は集結した衛兵達の動きを追う。
 劣勢に立たされてもその表情に焦りの色などはなく、黒衣を纏う騎士はひょいと肩を竦めた。
「お前がそこに居たって、足手まといでしかないからな」
 そう言われてしまえばフリードは反論出来ない。どう逆立ちしても、群れを成す戦闘兵器に敵う筈がないからだ。
「ぴい! ぴい! ぴいっ!」
 礼拝堂の奥から、白い小鳥が一直線に飛んできた。シルフィは表情を輝かせるヴァンデミエールの肩に止まると、ばたばたと羽ばたきながらオレンジ色の嘴でくわえた一房の黒髪を引っ張る。
「分かっているわ、こっちなのでしょう?」
「ぴぴぴいっ!」
 シルフィはヴァンデミエールの言葉に同意するように鳴き、白い翼をばたばたとせわしなくばたつかせる。
「……ほう。なるほどな、そういう事か。トゥーリアの得意げな顔が目に浮かぶぜ」
 鋼色の衛兵の前に立ちはだかるリュティスが、シルフィとフリードを見比べて少しの驚きを見せた。
「フリード! お前の蒼い翼は礼拝堂の奥で待っているはずだ」
「え!?」
 名を呼ばれ、振り返ったフリードを見つめる濃いブルーの瞳。リュティスは秀麗な顔に魅力的な笑みを閃かせた。
「覚えておいてくれ、創世戦争は善と悪の戦いじゃない。いいか? 人の心と心は案外近いところにあるものさ……」
 リュティスは鋼色の衛兵を迎え撃つべく、長剣を一振りするとフリードに背を向けた。
「大切な人の手を、繋いだ手を絶対に離すな」
 突如として足下から巻き起こる風が、漆黒の外套を激しくはためかせる。
「幻影を駆る冒険者に会ったなら、よろしく伝えてくれ。じゃあなっ!」
 そう言い残した黒衣を纏う騎士は白刃を閃かせ、鋼色の衛兵達の大群へ向かって駆け出した。
「リュティスさんっ!」
 告げられたその言葉に驚いたフリードが、黒い髪をなびかせるリュティスの後ろ姿を目で追う。衛兵の群れに突入したリュティスが輝きを放つ長剣を振るう度に打撃音が響き、鋼色の鎧が木っ端微塵となる。
 どこが三流騎士だというのだ。
 鋼色の衛兵が打ち下ろす大剣を軽やかに躱す。
 しなやかな腕を振るう度に、片刃の長剣が朧な光を弾く流れるように美しい剣技。その姿はまごう事なき一流の剣士の姿であり、戦場を駆け抜ける一陣の風だ。
 ここはリュティスの意に従わねばならぬ、フリードは迷いを振り切って駆け出した。
 礼拝堂の中を駆け抜ける際に、僅かな間だけ美しい女神エリスティリアの像を目に映す。戦火に脅えながら、この砦に身を寄せる人々は一心に祈りを捧げていたのだろうか。リュティスはこの世界に神など居ないと言った、女神と称される二人の女性は魔術師だと教えられた。
 だがフリードは信じている、この大陸の平穏は人々の願いが集まった結果なのだろうと。その願いを聞き届けた存在が確かにあるのだと。
「フリード、はやくはやくっ!」
 リュティスの言葉通りだった。
 礼拝堂の奥で駐機状態のシルフィードに乗り込んだトールが、ぐるぐると腕を回してフリードを急かす。シルフィードがどうしてこの場所にあるかなどと、今は考えている余裕がない。
「フリード、機関部は正常です!」
「あ、ああ、分かった!」
 砲手席に収まっているヴァンデミエール、もう一度振り返ったフリードは慌ててシルフィードに駆け寄ると操舵席に飛び乗った。起動キーはパネルに刺さったままだ。祈るような気持ちで右へと捻ると、指先に僅かな痛みを感じると共にシルフィードの動力炉が起動する。
「ヴァンデミエール、リュティスさんはっ!」
「騎士様が言う通り、私達が一緒では邪魔になります」
「しかし!」
「風防、閉じます。補助動力炉最大稼働。主動力炉出力急上昇、臨界まであとわずかっ!」
 ヴァンデミエールは有無を言わせない。
「わ、分かった、飛ぶぞっ!」
 シルフィードの動力炉が臨界に達したその時、前方を閉ざしていた巨大な石壁が軋みながら上下左右、四方に向けて扉のように開いた。ヴァンデミエールの声に急かされたフリードの叫びに呼応し、シルフィードが力強く加速を始める。堆積した土埃を巻き上げながら石壁に囲まれた細い通路を飛ぶと、前方に小さな明かりが見えてくる。さらにスロットルレバーを捻るとその光は徐々に大きくなり、シルフィードはついに大空へと飛び出した。
「リュティスさん……」
 危機を逃れ、シルフィードは砦を抱く深い森の上空で大きく旋回を繰り返す。黒衣を纏う騎士の身を案じて辛そうにつぶやくフリードの腕に、ヴァンデミエールが砲手席から手を伸ばしてそっと触れた。
「フリード、気付きませんか?」
「え?」
「騎士様の名前です、リュティス・ライムアートという名に聞き覚えはありませんか?」
「な、名前だって?」
 少女の問い掛けに首を捻り視線を宙にさ迷わせていたフリードだが、記憶の中に浮かび上がるひとつの名に気が付き思わず息をのんだ。
 何かを閃いたフリードの様子に、ヴァンデミエールが小さく頷く。
「リュティス・ライムアート。創世戦争の禍根である、砦に残された巨大な力の所在を巡って繰り広げられた、数々の陰謀を退けた騎士の名前です。『レイカード・ウィニフィ』『ディアナ・クレイフィールド』『ラナーク・デュエルディール』そして、『アルヴィース・デュエルディール』……。彼の元に集い共に戦った剣士達の名は、伝承の中に記されています」
 彼等が手にしたという五振りの剣は、五大国に存在するそれぞれの砦に紐付けられていた。
 絶大な力を発する剣は「聖剣」と呼ばれている。そうだ、聖剣の担い手である彼らの名は大陸史に何度も登場している。
「お、おい! 何百年も前の話じゃないか。じ、じゃあ、あいつは。ゆ、幽霊ってことかよっ!」
 薄気味悪い場所に亡者の霊が現れたのかと、総毛立たせたトールが身を縮めた。
「私には分からない。彼等が勝ち得たものを受け継ぎ、守ってゆくのは私達の役目」
 つぶやいたヴァンデミエールが、そっと翠色の瞳を閉じた。
「彼らの魂が安らかであることを……」
 静かに瞑目する少女。
 リュティス・ライムアート。相棒である聖剣を掲げ、風のように大陸を駆けた黒衣を纏う騎士の名を知らぬ者はいないだろう。
 彼の姿は幻だったのだろうか、それとも太古の遺跡が見る夢に紛れ込んでしまったのだろうか。
「幻影を駆る冒険者によろしく、か……」
 ウェンリー・ホークの愛機は「ミスティ・ミラージュ」という美しい機体だ。蜃気楼、幻影、それはウェンリーの呼び名とされている。
 リュティスの言伝てに唇を震えさせ、幾度か反芻したフリード。
 大陸を大きな争いの舞台に変えた女神の正体は魔術師であったという。黒衣を纏う騎士の姿は夢か幻か、過去に紛れてまで自分自身がその事実を知らされる必要があったのだろうか。
 互いに近しい場所にある人の心と心とは、どういうことなのだろう。
 悠久ともいえる時の流れに圧倒されたフリードは想いを巡らせる、しかしいくら考えたとて答えが出る訳ではない。

☆★☆

 長い長い時と共に深い深い闇の中で渦巻く意志は、穏やかな時の流れを願う人々の心をあざ笑うかのようだ。
「暑苦しいよ、そう猛るな」
 ねだるようにまとわりつく黒い意志の力を追い払う。冷やりとした石床の上に、ごろりと横になった青年。画策に奔走する魔術師でも、このように怠惰な姿で休息する事があるらしい。
 草の葉を咥えたワイズは、両腕を枕に遙な彼方であろう天井を見据えて小さな吐息をつく。視線の先には薄い闇が滞留している、得体の知れない意志が蠢く空間を睨みながら数回瞬きをした。
 ヴァスティーユの砦と呼ばれるこの遺跡を熟知しているワイズでさえ、ぼんやりしていると時間の流れを見失ってしまいそうだ。巨大な石造りの要塞には、過去の陰謀に注がれた重苦しい悪意が確かに存在している。
 その愚かで貪欲な力までも利用して、幾度となくささやかな可能性を覚醒させようとした。時には光として人を導き、また時には闇として人を欺いて。
 だが、未だにワイズを満足させる結果は得られていない。
「リュティス……。君は、君はこんな僕を笑うのかな?」
 ふと、失った親友に想いを馳せる。
 一流の剣士であるというのに、リィフィート城のバルコニーで日がな一日昼寝をしている怠惰な騎士。彼はそんな姿を演じていたのだろうか。
 ワイズの古い記憶に焼き付いているのは濃いブルーの瞳だ。その瞳は大陸の西方に広がる海のように鮮やかで、どんなに心の奥底へと隠した想いも見通してしまう。親友のそんな瞳に、ワイズは魅了されたのだ。
 咥えていた草の葉をぷっと飛ばし、つぶやいた魔術師の秀麗な顔は酷く疲れているようにも見えた。静かに目を閉じて自らを眠りの淵へと誘う。
 彼は待ち続けている。
 そう。とても長い間、時の狭間を渡り歩きながら……。

 
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