ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


65.ニーナからの便り

 目次
 孤独な空で、己の目標に向かう為に広げられた翼は逞しい。
 航路図に示された道が空に線引きされている訳ではないが、レースに参加している冒険者達は己の瞳にくっきりと映る道筋に沿って飛ぶ。その道筋は輝かしいゴールへと続いているからだ。
 レースの経過に目を向ければ、既に多くの機体が飛行不能に陥りリタイアを余儀なくされている。どの機体も万全の準備、最善の策を施されているとはいえ、軽量化との兼ね合いもあるのだろう。
 ウインドシップは観光や輸送手段等、広く一般用途化している。しかしレースという特殊な条件下で、複数の国家間をまたぐ長距離を継続航行出来る機体となれば話は別である。機体の設計と制作、機能維持のための整備等々。資金調達と人材選定……。設計技師、技術屋、後方支援役の確保などの諸事情も絡んでくる。
 また運という未知数の力も無視する事が出来ない。そのすべてが歯車となり、しっかりと噛み合えばウインドシップは過酷なレースに耐える事が出来るのだ。
 レースも後半戦となるこれからが本番だ。
 冒険者達はまだまだ疲れてなどいられない、技能と技量を余すところなく発揮し続けなければならぬ。
 そして、今回のウインドシップレースでは先の事柄を加味した当初の予想に反し、やや不思議な状況になりつつあった……。

 凡庸という形容は船の主に対して失礼だが、意気揚々と進むのはゼルウィーダという機体だ。
「おい、ランドル」
「おう、カーティス」
 大真面目な顔で名前を呼び合った冒険者。ランドルとカーティスは突然、相好を崩したかと思うと大爆笑をした。大きな笑い声がゼルウィーダの操舵室内に響き渡り、二人は互いに肩を叩き合った。
 単独で参加しているこの二人組の冒険者は、レース開始当初の予想において、まったく噂に上らなかったのである。
「いやっほうっ!」
「信じられねぇ、夢みたいだぜ。あのウェンリー・ホークの姿も見えやしねぇ!」
「そうだ! 俺達は神と讃えられる奴を越えたんだぜ!」
 力強く太い右腕を突き上げるランドル。隣のカーティスはウイスキーの瓶をひっつかみ、蓋を開けて投げ捨てると豪快に煽った。喉を鳴らして胃袋の中へとウイスキーを流し込み、満足そうな顔で口の端を拭うと、瓶をランドルに差し出す。
「ぶはぁ、おお美味ぇ。ブロウニングカンパニーの新鋭機だって置き去りにしてやったぜ!」
「ブロウニングカンパニーも地に落ちたもんだな。まぁ仕方ねぇよ。新型機を投入したって、操舵手が領主のお坊ちゃんなんだからよ」
「へへ、ウインドシップレースは甘くないぜ。今頃は鼻水垂らして、べそかいているんじゃねぇのか?」
 カーティスの馬鹿にしたような口調。ランドルがまったくだと言うように、ばん! と膝を叩いた。
「わはは、そうに違いねぇ!」
 愉快げなカーティスは、両手を頭の後ろで組んでシートに背を預け、両足をパネルの上へと無造作に投げ出した。同じ姿勢を取るランドルは、右足で気ままに操縦桿を操作する。
 二人の眼前に機影はない。そう、ランドルとカーティスはウインドシップレースの首位に立っているのだ。
 もちろん現時点でのことではある。未だレースの真っ最中なのだが、浮かれた二人は大盛り上がりだ。
「スタート時に雁首を並べていた企業のお偉いさんどもは、レースを新型機の品評会だと勘違いしてやがる。その思惑にまんまと踊らされて、新型機を有り難がっている奴らなんぞ真の冒険者とは呼べねぇ」
「しっかし、ボーウェン社にも拍子抜けだ。本気を出す気がねぇのか? この先、市場での優位な立場を確立したいんなら、余裕ぶっこいてる場合じゃねぇだろうによ」
 ブロウニングカンパニーに代わって市場に台頭した新興勢力であるボーウェン社は、今回のウインドシップレースに参加していない。
 そしてカーティスは、企業から新型機の提供を受けてレースに参加する一部の冒険者達が気に入らないらしい。
「ああ、その通りだ」
 相棒の意見へ同意するように大きく頷いたランドルも、酒で焼けた咽をがらがらと鳴らす。ほんのり赤ら顔の二人は、だんだん気も大きくなってきたようだ。
 しゃっくりとともに真顔に戻ると、自分達の状況を再確認する。何度となく確認しても他の機体は遙後方、ゼルウィーダは間違いなく首位だ。
「俺達って……」
「俺達って……」
 ランドルとカーティスは、どちらからともなくぽつりとつぶやく。
「凄いんじゃねぇのか!?」
 同時に叫んだ二人の頭の中では、色とりどりの紙吹雪が舞い、燦然と輝く優勝の証である杯を高く掲げる己の姿が目に浮かぶ。そして二人を待っているのは目も眩む金貨の山だ。
 もうそろそろ聖王国アリアレーテルの国境付近となる、この能天気な二人組がレースを制するのだろうか。
 それは、まだ誰にも分からない。

☆★☆

 聖王国アリアレーテル。
 長い歴史を経ても尚、その威厳を保ち続けている古城。豊かな芝生が広がる丁寧に手入れをされた城内庭園で、燦々と降り注ぐ陽の光に手を翳す女性。 
 彼女の名はクレアという、聖王国の女王である。高貴なる者が纏う気品、際立ったその美しさ。清らかな光を湛えた青い瞳、真白き肌は透き通るようだ。
 背後に感じた人の気配に、光を弾く長い黒髪をふわりとなびかせたクレアが振り返る。
「失礼いたします」
 人の気配を感じた皇妃の勘は、ぴたりと当たった。
 金色の髪を揺らす一人の騎士がクレアの前に進み出ると、片膝を突いて深々と頭を垂れる。
「ローゼンか、どうしたのです?」
「お便りでございます」
 女王の姿が眩しいのだろうか。顔を上げぬままの騎士がそう告げると、クレアが大きな瞳を瞬かせた。
「便りですか? あっ!」
 便りの主に心当たりがあるのだろう。まるで少女のようにはしゃいだクレアは、小走りで膝を折る騎士に駆け寄った。円形をした銀製のプレートへと載せられている封書を嬉しそうに手に取る。女王の立ち居振る舞いは決して近寄り難い雰囲気ではない、むしろ親しみのようなものを感じる。
 手にした封書を裏返して、さっと目を走らせたクレアの頬が緩んだ。
「やっぱり、ニーナからの手紙!」
 封書に書かれた差出人を見たクレアは表情を輝かせた。そのあまりの喜びように、くすりと微笑んだ騎士。その表情に気付いたクレアは頬を染め数回咳払いをした後、細密な細工を施されたペーパーナイフを手に取った。
「な、何を見ているのですかっ! も、もう、用件は済んだのでしょう? 下がりなさい!」
 いつもの威厳は何処へやら。
 しどろもどろのクレアが眉を吊り上げて、笑っている騎士に向けてしっしっと手を振る。
「はいはい。仰せのままに、我が愛しき妻よ。待ちに待った便りだ、良かったね」
 邪険にされても怒ることなく、わずかに肩を竦めたクレアの夫、騎士ローゼンはゆっくりと立ち上がり芝居掛かった仕草で深々と一礼する。
「では、失礼いたします」
「……もう!」
 クレアは踵を返した夫の背中に舌を出した後、頬を膨らませてそっぽを向いた、その照れ隠しをする姿が微笑ましい。

 クレアを女帝として国の頂点へと戴く、聖王国アリアレーテルは大陸五大国の内で最大規模の国家である。
 光の女神と呼ばれる大陸の守護神、エリスティリアを信奉する者が多く住まい。聖王国という名の通りアリアレーテルはその信仰の中心だ。
 ローゼンは国軍の将として王政を支える要であり、アリアレーテルの国と民を守っている。
 愛情と信頼で結ばれ、仲睦まじい女王クレアと騎士ローゼンは民達の憧れでもあるのだ。
「ニーナは、元気にしているのでしょうか」
 便りが届いた事への安堵。封書の縁を撫で、芝生を踏むクレアは庭園に据え付けられた白い椅子にすとんと腰掛けた。
 ペーパーナイフで封を切るのももどかしく、丁寧に折られた数枚の紙を取り出す。
 待ちに待った便りだ、しばし瞳を閉じて気持ちを落ち着けた後、深呼吸までしたクレアは綺麗な文字を目で追う。その文面を読む表情は豊かだ。考え込み、時には驚き、優しい笑顔を見せる。
 しばらくニーナから便りが無かったので、クレアは心配をしていたのだ。
 年に数回ではあったが、ニーナと顔を合わせるのが何よりの楽しみであったというのに。フランネル家に、そしてニーナの身にふりかかった不幸はクレアとの縁までも脅かした。
 今は便りのやりとりをする事くらいしか叶わぬ、彼女と最後に顔を合わせたのはいつの事だったのだろう。クレアは、ニーナの青玉石の瞳を思い浮かべた。
 心を優しく包み込み、魂へと響く美しいニーナの声。その歌にまた耳を傾けたいとクレアは強く思っている。
 クレアは当初、両親を亡くしたニーナへの庇護を申し出ようかと考えた。
 だが彼女を引き取ったのは、グランウェーバー国の辺境伯であるブレンディア・ブロウニングだ。
 ニーナの父親であるフランネル卿と、ブロウニング伯の間には色々とあった事を聞き知っているクレアは、ニーナの身を案じたものだが。
 彼女からの手紙を読む限りでは、ニーナはきちんと生活しているようだ。自由にならない我が身にじれながらも、クレアはかの伯爵を信じてみようと思っている。
 待ちわびた便りに記されているのは、近況と暮らし向きだ。
 そして何度も綴られている名前に目が止まる、ニーナはその名前の主を心配しているようだ。
 それだけではない感情を滲ませる文面に表情を和らげたクレアは、ニーナの気持ちを推し量るように指先でそっと文字をなぞった。
「フリード・ブロウニング、辺境伯の嫡男か……。それがあなたの想い人なのですね」
 想いを寄せる青年がウインドシップレースに出場しているという。彼の身を案じるニーナの気持ちを読みとる事が出来る。
 クレアは、はたと気が付いた。
 今、大陸を賑わすウインドシップレースは、このアリアレーテルの首都も通過点であったはずだ。
「これは、是非とも確かめねばなりません」
 頬に指を当てて思案していたクレアは、閃いた思いつきに満足そうに頷くと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 手紙を丁寧に畳んで胸に抱く、椅子の背もたれに縋り空を振り仰いだ。長い黒髪を揺らす微風。閉じた瞼に感じる光、わずかな間思考を停止させていたクレアは手櫛で黒髪を梳いた。
「蒼き翼を駆る青年……か」
 ニーナが想いを寄せるのは伯爵家の嫡男に違いない。大きな冒険に旅立った彼を案じ、ニーナの胸は切なさに喘いでいるのだろうか。
 自分であれば待つことなど耐えられないかもしれないと、クレアは小さな吐息をついた。もっとも、白竜の女王と呼ばれるクレアは勇ましい。
 身を焦がしながら想い人を待つ事などせぬ、自らも同じ舞台に飛び込むのであろうが。
「そうと決まれば、クリステリアを起こさないと」
 椅子から立ち上がったクレアがドレスの裾を翻す。ふわりと踊るドレスの裾、鮮やかな緑葉の中に真白き花が咲いたようだ。
「フリード・ブロウニング、私自身がこの目で確かめさせてもらいます。貴方がニーナ・フランネルにとって、真にふさわしい男性であるのかを」
 大切な友達……。
 ニーナからの便りを胸に抱いたクレアの髪を、爽やかな風が撫でていった。
 
☆★☆

 シルフィードの繰舵室内には重苦しい雰囲気が充満していた、操縦桿を握るフリードの表情は厳しい。
「ヴァンデミエール、どうだ?」
「はい……」
 額に手を当てたヴァンデミエールが眉を顰める。黒い前髪がくしゃくしゃになっているが少女は一向に気にしてはいない、レース経過の分析に集中しているからだ。
「やはり、ペースを上げる必要があります」
 そう言って唇を噛むヴァンデミエール、シートの上で胡座をかくトールが難しい顔で唸った。
「申し訳ありません。私が不覚をとったばかりに……」
「ヴァンデミエール、それはもう言わなくていい」
 悔しげなヴァンデミエールを励ますようにフリードが言う。水の都リヴァーナで、ヴァンデミエールは白磁の仮面で正体を隠した男に連れ去られそうになった。
 フリードの機転と活躍で難を逃れたのだが、気を失っていたヴァンデミエールが目覚めたのは丸一日経った後であり、シルフィードはスタート時刻を大幅に遅らせてしまったのだ。
 幸い失格になることは無かったものの、ペナルティが課せられてしまった。せっかく首位争いに食い込んだというのに、これではまた振り出しだ。
 レースの後半戦ともなれば、どの冒険者達もペースを上げる、首位争いも厳しさを増すはずだ。
 過ぎ去ったことを悔やんでなどいられない、操舵室内の澱んだ空気を入れ換えようとフリードが口を開きかけると。
「心配するなよ、こっちもペースを上げればいいんだから簡単じゃないか。お前が面倒をみているんだ、シルフィードならすぐに取り戻せるよな」
 補助席に座るトールが事も無げにそう言った、あくびを堪えているような少年の様子に、フリードは少々驚いた。
 これまでならば何事も完璧にこなしてしまうヴァンデミエールにやり込められて、地団太を踏んで悔しがっていたというのに。
 水の都で……。いや、これまでの道のりで少年の心に変化が生じたのだろうか。
 心をひとつにと、言葉で表すのは簡単だが現実はそう上手くいくものではない。
(僕達は大丈夫だ)
 育まれつつある絆に嬉しさを噛みしめるフリードは、胸の高鳴りを感じながら操縦桿を握る手に力を込めた。
「フリード、アリアレーテルの通過確認ゲートに接近します」
「了解、減速を始める」
「補助動力炉点火……」
 ヴァンデミエールの指示通り、眼前に通過確認ゲートが迫る。蒼い可変翼の角度を変えて風を抱き込んだシルフィードが、易々とゲートを通過した、この先は聖王国アリアレーテルだ。 
 前方に広がる街の姿に目を見張る、まだ青く霞んで見える街との距離は離れているはずなのだが。
 天空へ向かい聳え立つのは大聖堂だろう。陽光を弾くその堂々とした姿は、敬虔な信者である人々からの祈りに応えてくれるようだ。
「これは……」
 フリードが大きな街の姿を眺めて感嘆していると、砲手席に座るヴァンデミエールが小さな声を漏らした。
「ヴァンデミエール、どうしたんだ?」
 長い歴史を映す、美しい景色に見とれている場合ではないらしい。ヴァンデミエールの声に緊張を感じたフリードが問うと。
「注意してください、未確認のウインドシップが急接近してきます!」
「未確認機だって?」
 ヴァンデミエールの鋭い警告が、繰舵室内に緊張を生んだ。接近するウインドシップは聖王国の国境を守る守備隊だろうか。
 いや。シルフィードに接近するのは、ただ一機のウインドシップだ。どの国に配置されている守備隊も単機での警戒飛行を行うことは有り得ない。
「未確認機が火器を展開! フリード、来ますっ!」
「ここはもう聖王国の領空内だ、王都は目と鼻の先だぞ!?」
 歯噛みするフリード、火器を使用するなどと正気の沙汰ではない。
 各国の守備隊へは、競技本部からレースに参加する機体の情報が送られているはずだ。ならば、またもシルフィードを狙う襲撃者の待ち伏せだというのか。
「ウイングブレードを起動します!」
 主装備の砲門を開くことは出来ない。火器管制のパネルを素早く両脇へと引き出して、両手を伸ばすヴァンデミエール。
 シルフィードに迫り来る純白の翼が強い光を反射させ、その輝きがフリードの琥珀色の瞳に焼き付いた。
 
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