ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


68.未来を示す羅針盤

 目次
 なんと清々しい。
 クレアが胸に強く感じたのは、青年の胸の内で輝きを放つ譲れぬ願いだ。温かで力強い想いを抱く青年は、全身全霊を賭けてレースに挑む。その心は恐れというものを知らぬようだ。
 クレアは胸がすくような気持ちに震えた。
 「彼と話をする事が出来て良かった……でも」
 フリードを見送った後、謁見の間に足を運んだクレアは玉座に腰を下ろす。
 ため息と共に、深く玉座に背を預けて想いを巡らせる。
「シルフィード……。どう考えても、あれは普通のウインドシップではありません」
 人差し指を顎に当てる、ぽつりと言葉がこぼれ出た。上空でシルフィードと接触した瞬間に、クレアは激しい反応を示した愛機クリステリアを制御出来なかったのだ。
 蒼い翼を持つシルフィードからは、聖剣エターナルを機体の動力炉に取り込んだ愛機と同じ、いや、それ以上の何かを感じる。
「それに、あの砲身は……」
 シルフィードの右舷側に装備されているのは、その姿に似合わぬ恐ろしい威力を秘めた武器であろう。さり気なく問うてみようかとも思ったのだが、青年の琥珀色の瞳を見つめているとそんな気は失せてしまった。何より、彼はニーナの想い人であるのだ。
 蒼い翼を広げ、大空を駆ける風の精霊。
 クレアには、この聖王国を訪れた蒼き翼が何かを知らせようとしている気がしてならない。
「ならば」
 呼吸を整えたクレアは大陸に想いを馳せるため、人という器から己の魂を解き放とうとする。
 不意にふわりと宙に浮いた感覚に包まれて、体の重みを感じなくなった。少しの恐ろしさ、多くの興味が綯い交ぜになりクレアの魂を揺さぶる。肉体など所詮は器でしかない、定められた時を過ごすしか叶わぬ脆弱な器だ。そのしがらみともいうべき制約を取り払ってやれば、己の意識は広大な空間へと飛翔する事が出来る。
 クレアはそうして、しばらく思考の奔流にその身を任せた。
 静かに大陸の現状を思う。
 この大陸で起こっている、すべての事象を挙げながら思索に耽る。幾つもの可能性を次々と提示しては否定する、その作業を飽きることなく繰り返した。そんなクレアの脳裏へと鮮やかに浮かび上がるのは、やはり蒼き翼だ。そしてヴァンデミエールという翠色の瞳を持つ少女。
 シルフィードを建造したブロウニングカンパニーと市場を巡って争い、その対極に位置するボーウェン社。同社が各国に売り込むウインドシップの強化部品と、新鋭機『ヴェスペローパ』……。
 ボーウェン社が力を注ぐ黒い翼のバトルシップは、周辺の中堅国へと急速に配備されつつある。クレアは諸国が保有する戦力が肥大しつつある事を懸念しているのだ。強い力は人を惑わせるものだ、そして諸国間の緊張状態が長く続けば、些細な火種が戦火の発端となりかねない。
 ヴィゼンディア五大国には、大陸の危機を救った聖剣の勇者達に敬意を表し、不可侵の盟約が存在するのだ。だがはたして、五大国に追いつこうと躍起になっている中堅諸国にその道理が通じるものか。
 また無視することが出来ないのは、闇の中で暗躍する魔術師たちの組織フェンリルの牙だ。
 今は沈黙してはいるが、多くの謎を抱えたまま大陸に点在する、創世戦争の禍根である『砦』という存在も、クレアの心を不安に満たし揺さぶり続ける。
 己の心の内に答えを見つけられず、堂々巡りを続けるクレアは意識の外郭に響く音色に気が付いた。
「これは?」
 クレアの意識の中へと流れ始めたその柔らかな旋律は、袋小路に阻まれて進むことが出来なくなった思考を導くようだ。途絶えることがない旋律に導かれ、クレアの心に浮かぶ幾つかの事柄、そのひとつひとつが徐々に繋がり始めた。
 刻々と色を変える空間を漂う、クレアの裸身をくすぐるように噴き上がったのは羽根だ。
 それは、虹色の輝きを放つたくさんの羽根。
 高く高く舞い上がった虹色の羽根が、ふわりふわりとまるで雪のように降って来る。美しく柔らかな羽根に包まれ、その光景に目を奪われるが。心に湧き上がるのは感動ばかりではない、大きな不安をも掻き立てられてしまう。
「これは……エターナル!」
 クレアを導こうとする存在、それは大陸へと残された最後の聖剣だ。
 エターナルは全ての歴史、その軌跡を見つめていたのだろう、しっかりと憶えているのだろう。
 この大陸で己の命、全てを賭けて戦った英雄達の微かな残留思念が、クレアへ指針を示す。それは思考の奔流、まるで大海の荒波に揉まれる小舟のようなクレアにとっての羅針盤だ。
 そう。聖剣の記憶がクレアへ伝えようとするのは、大陸の行く末を指し示す道筋なのだ。
「闇の女神グローヴィアの遺志が、再び旗に掲げられると……? でもあの戦いは、創世戦争は終焉を迎えた。遺された『砦』も沈黙している筈。そんな事があるはずがない」
 伸ばした手に触れた虹色の羽根。
 その瞬間に、クレアは閃いた。グランウェーバー国、緑多き小さな旧き国を優しく抱く神秘の森。
 首筋を這う悪寒に身を固くする。油断であった、各国が抱える巨大な力を蓄えた砦ばかりに気を取られていた。以前、大陸を揺さぶった危機はすべて砦に残されているという力を巡ってのものであったからだ。
「カーネリアで産まれたあの蒼い翼は、この大陸へと産み出される命の源を導く……」
 そうつぶやいた後。
 クレアは首を横に振って、思わず親指の爪を噛む。
 あの時、シルフィードから発せられる鼓動を確かに感じた。それは神秘の森で護られている、尊き命の結晶を導く存在ではないのだろうか。そうであるならば、愛機クリステリアが反応したことも頷ける。
「姫巫女様が……まさか」
 相手が誰であろうと、姫巫女トゥーリアはそんな暴挙を許さないはずである。
 だが姫巫女トゥーリアが敢えて、敢えてそれを許したのならば。
 恐れながらも、手掛かりを得たクレアの思考は、次々に枝葉を伸ばさずにはいられない。神秘の森を領内に抱える、グランウェーバー国の内情に思い至った。王の身体を蝕む、魔術文字にも似た不吉な文様が忘れられぬ。クレアは病床についたハインリッヒ王を見舞った事があるのだ。忘れはしない、勇猛果敢な武人であったとは到底思えぬ、力を失ってしまった声音。視線を落とし、これは己の弱さだと自虐の言葉を漏らしたのではなかったか。
 王が案じるのは、温もりを感じられぬ冷たい光を湛えた紫水晶の瞳だろう、自らの思想をずっと追い求めていると噂に聞く皇太子キルウェイド。
 心に湧き上がる不安の表れなのか。クレアの思考は、まるで急な坂を転げるように落ちてゆく。そしてその先には戦乱という絶望が大きな顎を開き牙を剥き出して待ち構えている。
 だが、その戦乱は侵略や侵攻といった、どす黒い欲望によるものではない。
 それは人の心、その有り様を問う戦いなのだ。
 深い吐息を付いたクレアは眉を顰めて視線を横へと流した、そしてひとつの結論を導き出すと椅子から立ち上がる。自身の肉体の感覚を掴み損ね、急いで足を踏み出そうとしたために足下がおぼつかずに数歩よろめいた。
 どうやら無理が過ぎたらしい。
 それでもクレアは唇を引き結び、足に力を入れて床を踏みつけると背筋を伸ばした。
 下腹に力を入れて息を吸い込む、聖王国を統べる女王に躊躇いは無い。
「ローゼン、どこに居るのです」
「ここに控えております、何かございましたか?」
 立ち居並ぶ大きな柱の影から姿を見せた騎士ローゼンは、急ぎクレアの前に進み出ると胸に手を当てて片膝を折った。
「ルミニウス国、ファンデルマーレ国に急使を送ります。それから、すぐに出立の準備をしなさい。今からリィフィート国、グリスパルム国へ参ります」
 切迫した妻の、いや女王の口調にローゼンは驚きを隠せない。
「い、今からと仰せられますか、しかも自らいらっしゃるとは……」
「人という存在の意識、その変革を志す者達。彼等の囁きは甘く、清浄なる水へ染み込んでゆく。それは甘美な毒として既に大陸を潤す源泉を侵し、水脈へと回り切っているようです」
 そうつぶやいた、クレアの表情は厳しい。
「全ての騎士を非常招集なさい。我が国に現存する全てのバトルシップの動力炉を、起動可能な状態にしておく事、一刻も早く!」
「御意にございます。急ぎ準備を整えます故、しばしお待ち下さい」
 切迫したクレアの様子に、ただならぬものを感じ取ったのだろう。深く頭を垂れていたローゼンがさっと身を起こし、踵を返すと早足に回廊の奥へと消えていく。
「……歯痒いな」
 クレアがその胸に抱く危惧が実際のものになった時。
 たとえ非常召集を掛けているとて、アリアレーテルの全軍を動かすのならば、相当な時間が掛かるであろう。そして、聖王国の動向は大陸の情勢に多大な影響を与えてしまう。
 決して読み違えることは許されない。
「おそらく、もう後手に回ってしまうことは避けられない。各国への連絡が間に合えばよいのですが」
 ひたひたと、背後から不気味な足音が迫るのを感じる。
 長き歴史の中で、共に時を刻み続けて来た大陸五大国が力を合わせなければ、この危機から逃れる事が出来ないだろう。
 今再び、人の心は試されようとしている。
 闇の女神と呼ばれた魔術師グローヴィアに……。いや、その遺志を尊ぶただ一人の青年にだ。儚い紫水晶の瞳に映るのはどんな未来であるのか。
 慌ただしくなる広間の中心で暗く高い天井を見上げると、クレアの美しい黒髪が背中へと流れた。
「女神よ……。またも我らに試練をお与えになるおつもりなのですか? 大陸は、この大陸は貴女の為の箱庭などではありませぬ」
 女神と呼ばれる程の力を有していたとはいえ、たかが人間ではないか。傲慢が過ぎるだろうと、クレアは憤りを隠さない。
 静かに瞼を閉じたクレアの脳裏に浮かぶのは、行方知れずであるグランウェーバー国の皇女、『鷹の剣姫』と呼ばれるエクスレーゼの青い瞳だ。彼女の行動には、それ相応の意味があるのだと気が付いた。
「貴女には覚悟があるのですね、エクスレーゼ。でも……」
 クレアは手のひらをじっと見つめる。
「私に断りもなく、逝く事は許しませんよ」
 大陸最大の国家である、聖王国アリアレーテル。
 白竜の皇妃が、鞘に収められた剣の柄にその手を掛けたのだ。

☆★☆

 グランウェーバー城。
 回廊に満ちている、その静謐な空気に身が引き締まる。整然と立ち並ぶのは太い柱、磨き込まれた石床に軍靴の硬い音を響かせて歩くのは、竜騎士隊の隊長を務めるリヴル・スティンゲート大尉だ。もとより笑顔など滅多に見せぬ男であるが。最近は特に、その顔は苦渋にまみれている。
「まったく、どうなっているのだ」
 腹の中に溜め込んだ憤りが、思わず口からこぼれ出た。皇女エクスレーゼにより設立された、精鋭部隊である竜騎士隊。その隊長たるリヴルが駆るバトルシップ『飛竜』一番機は、どういう手違いであるのか機体の交換部品の納入が遅れ、整備不能で格納庫へ長らく放置されたままである。
 整備不良の機体に飛行許可など降りるわけもなく。リヴルは苦虫を噛み潰した表情のまま、こうして毎日うろうろと城内を歩き回っているのだ。
 そうでもしていなければ、体がなまりきってしまう。
「ん? あれは……」
 目的も無く城内を歩き回している、リヴルの視界の端に引っ掛かったその姿。
 柱に背を当てて寄り掛かり、ぼんやりとしている女性がひとり。衣装を見れば城内の者だとすぐに察しがつく。
 くすんだ金髪とそばかすの顔に見えるのは浮かない表情。王の側用を申し遣っている侍女、フェルメーレだと気が付いた。
 それは以前の事だ。
 忌まわしき存在、魔術師であるワイズが城内へと侵入した事件があった。リヴルはワイズを排除するために対峙したのだが、その際にフェルメーレを巻き込んでしまったのだ。
 恐ろしい思いをさせてしまった、心の傷になってはいないかと心配するリヴルは、フェルメーレの姿を見れば声を掛けるようにしている。
「浮かぬ顔だな、心配事か?」
 リヴルがそう声を掛けると、僅かに腰を落としたフェルメーレが一瞬、鋭い表情をした。それは普通の娘が見せる表情ではない。リヴルは、わずかに驚いたものの、軽く手を上げて侍女の側へと歩み寄った。
「どうしたのだ」
「……た、大尉」
 決まり悪そうに体を揺すったフェルメーレが、申し訳なさそうに肩をすぼめて、リヴルへ深々とお辞儀をする。
「おいおい、俺はただの武官だぞ? そんな丁寧な態度など不要だ」
「いいえ。竜と共に空を翔ける大尉は、勇猛な騎士様でございます」
 そう言って、フェルメーレはくすんだ金髪を揺らして首を横に振る。(今は、地面をうろつく事しか叶わぬがな……)胸の内でため息をついたリヴルは、世辞など不要だと余計な一言を喉の奥に押しこむ。翳りある表情をした侍女の様子に、リヴルは王の容態が良くないのだと思い至った。だが、それを口に出す事は家臣としてはばかられる。
 それを分かっているものの、無骨な男であるリヴルに気の利いた話題を持ち出せる訳もない。リヴルは額にじとりと冷や汗を滲ませて、ひとつ咳払いをした。
 己の居場所である空を仰ぎ見て、深く息を吸い込む。
「王都の空は今日も美しい。こうして空を眺めていられるのも、王がこの国を治めていらっしゃればこそだ」
 続いてフェルメーレへと顔を向けて、片眼を瞑ってみせた。
「大尉?」
「案ずるな。王は強いお方である、誇り高き武人なのだ。そしてこの国に、いや、この大陸へ危機が訪れた時。『鷹の剣姫』が、我らの姫様であるエクスレーゼ様が必ずお戻りになり、王の力となられるはずだ。私はそれを信じている」
 多くの言葉を語る事が得意ではない、リヴルはそれだけを言うと再び回廊を歩き出した。
 そんなリヴルの後ろ姿を見送ったフェルメーレは、体の前で握り合わせた両の手に力を込めて、深々とお辞儀をする。
 リヴルの言葉に何を感じたのであろうか。くすんだ金髪が、さらりと流れて侍女の表情は隠され、その心情を推し量ることは出来ない。
 
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