ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


70.ライオネット(1)

 目次
  喧騒に満ちた室内に、ばさりという音を立てて書類が舞った。誰か書類を抱えたままで躓きでもしたのだろうか。それ程に、この室内は乱雑に散らかっている。
「この馬鹿たれが、何をしてるんだ!」
「邪魔をするなら出て行け!」
「ぶち殺されたいのか!」
 物騒な怒声があちらこちらから上がった。殺伐とした喧騒と罵詈雑言が似合わぬここは、ウインドシップレース運営委員会本部である。
「何だって言うんだ、まったく」
 山積みの書類に埋もれたまま疲れた表情でぼやいたのは、ウインドシップレース運営委員会の責任者を務めるコンラードだ。背中を丸めて少々寂しい髪を撫でつけた頭を抱えている。やや小太りの男であるが、レースの開催とともに体重は減り続けている。
 彼の目の前で繰り広げられているのは、まさに修羅場だ。
 レースに関わる多様な役割を担う、レース開催中の運営委員会本部は毎回このような状態である。
 航路に点在する中継点から次々と報告が寄せられるのは、ウインドシップがゲートを通過した時刻だ。その情報を元に刻々と入れ変わっていく順位を管理している。それだけではない。リタイアした機体の回収、参加者の救護の手配、ルール違反を犯す不届き者の監視など。報道までも含めて様々な仕事があり、目が回るような忙しさなのである。
 コンラードとて、これが初めての仕事ではない。彼は何度も運営委員としてレースに関わってきた。裏方の雰囲気は心得ているつもりであったのだが、今回のレースはどうにも様子がおかしい。
 レースをリタイアする機体数が、参加した機体全体数の三分の二を超えてしまったのだ。
 設定されたコースが過酷であるから、参加している機体に新たな技術が導入されているから、そんな理由ではない。どうやら、あちこちで参加者同士の小競り合いが頻発しているらしい。
 レースが中盤戦に突入した頃から、ちらほらと報告があったのだが。終盤戦になると日を追う毎にその報告件数が増えるのである。
 意気揚々と運営委員長を引き受けたというのに、どうして今回のレースはこんなにも荒れ模様なのか。報告が上がって来る度に、コンラードはやせ細る思いで頭を抱えなければならない。
「もう、いい加減にしてくれ。これでは参ってしまう」
 机に突っ伏して泣き言を漏らす彼の耳に、どさどさと新たな書類の山が積まれる音が聞こえてきた。いっそ寝たふりでもしてやり過ごそうかと、現実から逃避する方法を考えていたコンラードは、ふと目の前にある書類を手にとって眺めた。
「ブロウニングカンパニーの看板を背負った『蒼き翼』か……。はて、どう対処したものか」
 はぁ、と深い溜息をつく。
 エントリーナンバー五十二番、シルフィードに関する報告ばかりが目につくのは、気のせいではあるまい。上位でレース行程を進むシルフィードは現在、聖王国アリアレーテルの王都に設置されたゲートを通過した事が確認されている。
 それを裏付けるように、聖王国アリアレーテルから書状が届いた。女王陛下の印で封をされた書状が運営委員会本部へ聖王国の使者の手によって届けられたのだ。
 聖王国アリアレーテルといえば、ヴィゼンディア大陸で一番の大国だ。何事かと封を開けて書面を読めば、一時的にアリアレーテル国がシルフィードを預かると、その旨が記されていた。
 コンラードは困惑したが、書状を携えてきた使者の話しによれば、些細なトラブル……行き違いがあったらしい。
 シルフィードはレースの最中、既に十数回の小競り合いに巻き込まれている。事実、そのシルフィードからも対処を求める連絡が届くのである。運営委員会が行った真偽を確かめる調査で、シルフィードの方から仕掛けている訳ではない事は確認出来たのだが……。
 危険を伴う争いを引きつけてしまう、その渦中にある機体だ、いっそ失格にしてしまえば騒動は減るだろう。
 コンラードの頭痛の種はそこにある、シルフィードは注目を集め過ぎているのだ。
 今回のレースを主催国するのはグランウェーバー国だ。そしてシルフィードを操っているのは、グランウェーバー国の辺境伯とはいえ領主の子息だ。その上、シルフィードの製造元は、あのブロウニングカンパニーなのだ。今は精彩を欠くとはいえ、一時は業界内の最大手だった企業が、満を持してレースに送り出した最新鋭の機体であると噂され、その評判も高い。
 運営委員による調査報告書では、シルフィード側に全く否は無いのである。そしてレース終盤戦の盛り上がりを考えれば、今まさに首位争いを演じている機体を失格にする事など出来ないだろう。
 また、シルフィードの件以外にも火種といえる案件がある。どうやらレースを妨害する何者かの存在もちらついているようだ。リタイアを余儀なくされた参加者の証言では、得体の知れない黒色に染められた機体からの襲撃を受けたらしい。レースの妨害が目的なのか。それともウインドシップの、それも戦闘艇の製造を手掛ける企業が秘密裏に新型機の試験でもしているのだろうか。真偽の程は分からぬが、事実ならばとんでもない話だ。
「非常事態を宣言するなんて事に、ならなければいいのだが」
 そうなれば、否応なしにレースは中止となってしまう。
 確かに荒れ模様のレース展開だが、これほどの盛り上がりを見せるレースはこれまでにあっただろうか。頼りない足取りだった技術が確立され、ウインドシップの需要が高まりだした頃の熱気が胸の奥へとよみがえってくる。
  コンラードは思う。裏方の苦悩や憂鬱など、レースを戦う者達にとっては関係のない事なのだ。

☆★☆

 勝負というものは、必ず勝者と敗者に分かたれる、それが真理である。
 輝かしい栄冠と破格の賞金を得るために……。いや、それだけではない。それぞれに胸へと秘めた想いがあろう。
 腕に覚えがある多くの冒険者が、我こそはと集うウインドシップレース。過酷なレースを闘い抜いた勝者が座る王座は、ただひとつのみなのだ。
 現在、その栄光に一番近いのは、ゼルウィーダという機体を駆るランドルとカーティス、二人組の冒険者だ。
 順調にゆけば、もう少しで勝利の女神が微笑んでくれるだろう。さしずめ、女神の口元が綻び始めたといったところだろうか。
「んふふーん、らりらりらー」
 調子外れの鼻歌など操舵室内に響かせ、気楽に操縦桿を操作するランドル。頭の中では、ゴール後のインタビューで何を語ろうかと頭を捻り思案中だ。
 この不真面目な態度が、女神の機嫌を損ねなければ良いのだが……。
「おい、カーティス」
「何だよ、俺は忙しいんだ」
 ランドルに呼ばれた相棒のカーティスは、せっせと髭の手入れをしながら面倒臭そうな返事をした。彼がどこをどういじったとて、とても美男とは呼ぶことが出来ぬ顔の造作であるのだが。かといって何もしなければ、これもまた困ったことになるだろう。
「おい、今から無精ひげの手入れをしたって、ゴールまでにはまた伸びちまうんだぞ?」
「馬鹿野郎。こういうのはな、普段の手入れが大切なんだよ」
「笑わせるな。今の今まで気にした事も無いくせに、よく言うぜ」 
 鏡とにらめっこを続けるカーティスは、神経質な芸術家さながらの表情で眉間に皺を寄せ、小さな鋏でちょきりちょきりと器用に髭を整えている。げんなりとした表情で、熱心な相棒を眺めていたランドルは呆れたように肩を竦めた。
「分かった分かった、好きにしやがれ」
 相棒を投げ置いたランドルは、満足そうな顔で操舵席から空を眺める。
 聖王国アリアレーテルは、もう遥か後方だ。この先を進めば、グランウェーバー国北部に横たわる険しい山脈が聳えている。厳しい気候の空域を通過せねばならないが、北壁と南壁では対照的な気候だ。
 レースの航路設定では寒冷な気候である北壁を避け、穏やかな南壁の裾野に沿って飛び、グランウェーバー国に入る予定である、問題はないだろう。一大決心をして、初めて挑んだウインドシップレースだ。こんなにうまくいくとは思っていなかった。ここまで来ればもう大丈夫だ、勝利は確実に違いない。
 レースに参加するには様々なスタイルがある。勝利という栄光を確実に掴むために豊富な人員と資金を注ぎ込み、大所帯でレースへと参加するチームがほとんどだ。
 機体整備や、レース行程の緻密な分析等、きめ細かな情報収集を行い、それぞれの役割がベストを尽くす。その為に大規模なチームを組んでのレース参加が基本になりつつある。
 対してランドルとカーティスは、相棒同士の二人きりだ。企業からの資金提供を受けている訳でなし、トラブルでも起こればそれで全てお終いなのだ。
 オンボロ愛機に全財産ともいえる多額の金を掛けてチューニングを施した。満足のいく機体に仕上がりはしたが、そのおかげで二人の懐は、極寒の北部山脈の如く寒々としている。何としても優勝して賞金を得なければこの先、路頭に迷ってしまう。
 だが本来、ウインドシップレースは博打なのだ。それがレース本来の醍醐味ではないかとランドルは考える。僅かに眉を上げて、ざまあみろとばかりにに鼻を鳴らした。自分達は、無造作に転がっている幸運の実をうまく拾い上げる事が出来たのだろうと思う。
 結果、数多のレース参加者ばかりではなく。ブロウニングカンパニーの新鋭機と、そして神と讃えられる凄腕の冒険者、ウェンリー・ホークをも抑えてみせたのだ。
 このまま優勝すれば、自分達の名は冒険者仲間の間で永久に語り継がれるに違いない。
 そんな想像をしていると、くにゃりと頬が緩んで来る。ランドルが思わず、にへらと笑みを浮かべた瞬間だった。目の前の景色に違和感を感じる、彼は視界に小さな光を捉えたのだ。
「ん、あれは何だ?」
 ランドルが目を凝らす、前方に見えた光が視界で踊り始めた。これは、この光の動き方は……。
「ウインドシップだ!」
 目を剥いたランドルが叫び声を上げる。そのあまりの大声に驚いたカーティスが手元を狂わせ、じょきりと髭を切り落とした。
「だああ! 手前ぇ、この野郎! しくじっちまったじゃないか、どうしてくれるんだ!」
 詰め寄る相棒の顔面を鷲掴みにしたランドルが、切羽詰まった顔でさらに怒鳴った。
「ええい喚くな! 髭なんぞほっときゃ伸びる、それよりも前を見ろ!」
 慌てふためくランドルの様子から、これはただ事ではないと分かったのだろう。カーティスが鋏を投げ出してシートに座り直した瞬間に、黒い機体が放った紫色の光弾が、ゼルウィーダの直近を掠めて過ぎた。
「この野郎、舐めた真似をしやがって!」
 カーティスが直ぐに火器管制を起ち上げる、ここに来て賊と遭遇など冗談ではない。ランドルがすぐさま操縦桿を引く、ゼルウィーダが身を翻したが、その動きが緩慢に感じられるほどに、黒い機体は鋭利で俊敏な旋回をしてみせた。
「あの機体は何だ? あんな動きができる機体なんぞ見たことがねぇ……」
 黒い機体は、確かにゼルウィーダよりも小型である。それにしても、あの挙動が可能だなどとは考えられない。何より操舵室の人間は何とも無いのだろうか。
「ええい、そんなことはどうでもいい。こりゃあ、殺る気満々だな」
「あの速さは間違いなくバトルシップだ、来るぞ!」
 ゼルウィーダに搭載された全砲門が開放される。このあたりは、さすがに身に迫る危険に慣れた冒険者であるといったところか。
「くたばりやがれっ!」
 砲手であるカーティスが続けざまにトリガーを引き絞る。これまで温存されていた砲弾を、真正面から向かい来る黒い機体にバラ撒く。しかし、撃ち出された砲弾の火線は黒い機体を捉える事がかなわない。黒い機体は、まるでからかうようにカーティスの砲撃をやり過ごしゼルウィーダへの最接近を繰り返す。それはまるで、何かの間合いを測っているようだ。
「馬鹿にしていやがるのか、畜生めっ!」
 癇癪を起こすカーティスは尚も砲撃を続ける。砲門が瞬く度に高価な砲弾が撃ち出されていくが、今はそんな事を言ってはいられない。
 ……そして。 
「な、何だよこいつは」
「ば、化物じゃねぇか!」
 情けない声を上げるランドル。トリガーに指を掛けたカーティスが、あんぐりと口を開けたまま凍りつく。ゼルウィーダに高速で迫る黒い機体。彼らの視界で、紅色に染められた黒い機体の両翼が物騒な光を反射した。

☆★☆

 獰猛な牙を剥く猛吹雪の中、白く塗りつぶされた視界に黒い染みが浮かんだ。その小さな点が次第に大きくなると共に轟音が響いてくる。
 北部山脈の裾野。その地下深くに眠る、四隻の巨大な戦艦達を抱く巨大なドック。稼働を開始した旗艦のバトルシップ着艦口に集まっている整備兵達が、その様子に気付いてざわめいた。
「準備はいいな、ライオネットが戻ったぞ!」
「まさか、被弾なんかしていないだろうな? あの小娘、勝手に出ていって俺達の仕事を増やしやがったら、ただじゃおかねぇ!」
 整備兵達の悪態に迎えられ、鋭利な刃物のような冷気と共に、紅の翼を持つ機体が勢い良く滑り込んで来る。ドック内に吹き込む猛吹雪、伸ばした手の先も見えるかどうかという視界の悪さなどものともせず、ライオネットは危なげもなく見事に着艦をしてみせた。
 機体がゆっくり停止すると操舵室を覆う風防が開き、長い黒髪を揺らす小柄な少女が姿を現す。驚くべきことに、紅い翼を操っていたのはこの幼い少女なのだ。
 操舵席から立ち上がったパンドラは視線をめぐらし、駆け寄って来る整備兵達を険しい翠色の瞳で睨み付けた。
「あなた達はライオネットの何を見ている! 機関からの動力伝達が不安定だ。大顎も開きにくい、すぐに主要なシリンダーの点検をして!」
 長い黒髪を冷気に晒す少女。そのあまりの剣幕に整備兵達は虚を突かれて、ぽかんとした表情で立ち竦んでいる。
 パンドラは言葉も出ない整備兵を叱責すると、ひらりと機体から飛び降りた。
「小娘が、ふざけるなよ」
 怒りを露わにする少女を睨むフランシェスカが、眉間に深い皺を刻む。ライオネットが無許可で発艦したという知らせを受けたのだが。北部山脈の酷い気象状況の中、追尾の為に戦闘艇を出す訳にもいかなかったのだ。 
 ライオネットは無事に戻ったが、それで済まされる問題ではない。フランシェスカは両手を強く握り込んで足を踏み出すと、パンドラの剣幕に動けないでいる整備兵達を掻き分けて前に出る。
「おい!」
 パンドラが振り向くと同時に、フランシェスカは右手を高く振り上げていた。
「貴様は何をやっている!」
 その場に乾いた音が響く、フランシェスカが振るった手がパンドラの頬を激しく打った。
 不意に平手打ちを受けて、格納庫の冷たい床に投げ出された黒髪の少女はしばらくの間、頬の痛みと衝撃に肩を震わせて呆然としていたようだった。
 床に突いた両手へ力を込めて握ったパンドラは、小さな唇を噛むとゆっくり顔を上げる。乱れた髪を掻き上げ、ぶたれて赤くなった頬を抑えながら険しい表情でフランシェスカを睨みつけた。
「痛いじゃない、何をするのよ」
 敵意を露わにしている翠色の瞳。
「何だその目は、お前は自分がしでかしたことが分からないのか!」
 不容易にライオネットの姿を晒すなどと。
 その軽率な行為が、全ての計画を台無しにしてしまうことも有り得るのだ。誰もが計画の遂行に神経をすり減らしているというのに。
 だが少女は、フランシェスカのそんな苦心など全く意に介してはいないようだ。
「ライオネットは私の言うことしかきかない、私にしか出来ない事よ。ディスアレーザなんて、汎用機しか操ることが出来ないあなたとは違うんだから」
 自分は特別な存在であると主張する少女は、まるで猫が毛を逆立てるようにフランシェスカを威嚇する。
「殿下は、ライオネットを好きに使えと言ってくれたもの!」
 フランシェスカは、口の端を上げて憎らしげな表情をしたパンドラの小さな体を蹴り上げようとしたが、すんでのところで思い止まった。ここで小娘に怒りをぶつけたとて何の得にもならぬだろう。
「貴様と私の論点は全く別だ。それが分からぬのならば、部屋に戻って大人しくしていろ」
 怒りを押し殺した声で告げるフランシェスカの視線が、黒髪の少女を射竦めた。冷気を纏うその言葉は物騒な光を反射する短剣のようである。
 言うとおりにせねば、言葉通りに痛めつけられるのは間違いないと悟ったのだろう。パンドラは悔しげに体を震わせ、無言のまま立ち上がると、フランシェスカへと背を向けてゆっくりと足を踏み出した。
「見ているがいいわ。シルフィードを墜として、動力炉を持ち帰れば文句はないのでしょう?」
「ぬかせ。この小娘が……」
 底光りをしている翠色の瞳。
 去り際に少女が吐き捨てた言葉、己の力に疑いなど抱いてはおらぬようだ。
 
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