仏教の開祖・釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)について

釈迦牟尼は本当に悟りを開いた人か?

釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)は仏教の開祖とされていて,悟りを開いた人と仏教徒からは信じられていますが,本当にそれが正しいかどうかを考察してみました。 (「悟りを開く」という言葉の意味を明確にするために,以下に『広辞苑』第七版から引用しておきます。)

【悟りを開く】
まよいを脱して真理を会得する。
(新村出編『広辞苑』第七版,岩波書店,2018年)

ガウタマ・シッダールタは,前世で人並み外れた利他的なことをしたと言われています。 例えば,飢えた虎のために自分の身を投げて虎の命を救った,つまり,飢えに苦しむ虎を哀れに思い,自分の体の肉を食わせた,という話があります。 前世では,それほど愛に満ちた人だったというわけです。 しかし,ガウタマ・シッダールタとして生まれてからは,前世の行いからは考えられないほど利己的(自己中心的)な生き方をしています。 例えば,自分の初めての子どもが生まれた時,「ラーフラ(「妨げ」という意味)が生まれた……」と言ったそうです。 そして,実際にその子の名を「ラーフラ」(妨げ)と名付けました。 別の言い方をすれば,シッダールタは「この子は私にとって妨げだ」と言ったのです。 このような自己中心的な父親は,称賛に値するでしょうか。 シッダールタのこの罪深い話は,彼の前世の話から考えられる人物像とあまりにもかけ離れていて,とても同一人物の話とは思えません。 彼の前世の美談は単なる作り話にすぎないと思います。

さらにシッダールタは,自分の悩みを解決したいがために家族を捨て,苦行の旅に出ました。 前世の物語のように本当に愛のある人なら,自分で作った家族のために責任を持って,自分の人生の全てを捧げるのではないでしょうか。 にもかかわらず,彼は誰にも告げずに家族を置き去りにし,育児放棄をして,父親として果たすべき当然の責任を放棄して,一人で勝手に旅に出たのです。 シッダールタのこの行為も,とても自己中心的だと思います。 (1)それでも,「彼は世の人々の苦しみを解決したいがために,苦行の旅に出たのだ」と反論する人がいると思います。 しかし,その「人々」の中には自分の家族は含まれていないのでしょうか。 彼の妻ヤショーダラーは優しく,よく気遣いができる女性だったそうですが,本当は育児放棄などして欲しくなかったのではないでしょうか。 また,もし本当に子どもを心から愛しているのなら,子どもの誕生を妻とともに何より喜ぶはずですし,自分の妻と子どものことを第一に考えるはずです。 しかしシッダールタは,妻と子どものことよりも,自分のことを優先させました。 彼は妻と子どもよりも,自分の悩みを解決することを優先したのです。 つまり,彼は自己中心的に行動したと言えます。 (2)しかし,「突然旅に出たのはあくまで人々のためであり,自分の利益のためではない」と反論する人がいると思います。 しかし,現実に妻と子どもを捨てた以上,「人々のため」という言い訳は通用しません。 本当に愛のある人なら,人々のためであっても,家族を捨てることはしません。 「人々」と「家族」を天秤にかけ,「家族」を捨てるという行為は罪です。 このことは,しっかりと強調されなければなりません。 これが分からない人は,そもそも罪というものが分からない,きわめて自己中心的な人です。

では,罪とは何なのか,と反発する人がいると思います。 自分の罪を知るためには,聖書を学ばれるのが一番の近道です。 以下に,聖書の教える罪について,いくつか具体的に書き出してみました。 もし,生まれてから今までにたった一度でも,以下のどれか一つにでも該当したことがあるなら,あなたも生まれながらの罪人(つみびと)です

もし,上記のどれにも該当したことがないと豪語する人がいたら,その人は自分に嘘をついているか,自分の罪に対して盲目になっているだけです。 そして,人間にとって最も本質的な罪は,私たち人間の創造主であり主権者である聖書の神に背を向けて生きることです。 人は誰しも,生まれつき罪の性質(原罪)を持っているので,聖書の神に背を向けて生きてしまい,その結果として様々な罪を犯してしまうのです。 これが聖書の教えです。 しかも,自分の罪の性質を努力によって取り除こうとしても,絶対に不可能です。 聖書の神が人間に求める愛・聖・義の規準は,人間がどれだけ修行しようとも,決して届くことがないほどに高いからです。

人の心は何よりもねじ曲がっている。
それは癒やしがたい。
だれが,それを知り尽くすことができるだろうか。
(『聖書 新改訳2017』エレミヤ書 17章9節)

もしあなたがたがキリストとともに死んで,この世のもろもろの霊から離れたのなら,どうして,まだこの世に生きているかのように,
「つかむな,味わうな,さわるな」といった定めに縛られるのですか。
これらはすべて,使ったら消滅するものについての定めで,人間の戒めや教えによるものです。
これらの定めは,人間の好き勝手な礼拝(れいはい),自己卑下,肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが,何の価値もなく,肉を満足させるだけです(別訳「肉の欲するままの欲望に対しては,何の効き目もありません」)。
(『聖書 新改訳2017』コロサイ人への手紙 2章20~23節)

聖書の神(実在しておられる唯一の神)が人間に求める愛・聖・義の規準がいかに高いのかを理解できたら,自分を含めどんな人間でさえも,聖書の福音を受け入れて,神の恵みによって救われない限り,決して神の怒りから逃れられないことが分かります(ローマ1:16~2:16参照)。 つまり,神から見たら「義人は一人もいない」のです(ローマ3:10参照)。 このように,聖書の教えを正しく理解すれば,シッダールタや自分の罪が痛いほど分かるようになると思います。 また,このことからも,シッダールタの前世物語は嘘だと証明されます。 もし彼の前世物語が事実なら,シッダールタは妻と子どもを捨てるという罪を犯すわけがないからです。 後に,シッダールタの妻ヤショーダラーと息子のラーフラは出家したそうですが,彼らが悟りを開いたという歴史的証拠はないようです。 そして,妻と子どもを捨てたという罪に対する償いが完全になされたという証拠も何一つありません。 この罪の問題は非常に重要だと思いますが,おかしなことに何も語られていません。 何も語られていない理由は,シッダールタ自身,悟りを開いたと思った後でさえ,自分の罪に対して無知だったからでしょう。 つまり,本当はシッダールタは悟りを開いていなかったことになります。

さて,シッダールタは,ブッダガヤーの菩提樹下で悟りを開いたと言われていますが,彼はここで重大な思い違いをしました。 それは,「自分が悟った内容は難しすぎて,他の人には理解できない」と考えたことです。 もし彼のその考えが正しければ,仏教は存在しなかったはずです。 しかし,彼以外にも多くの弟子たちが悟りを開いたと言われ,いまだに仏教という宗教が存在しています。 これは矛盾です。 つまり,ブッダ(「目覚めた人」という意味)となったはずのシッダールタは,本当はブッダとなったわけではなかったのです。 また,シッダールタが「他の人には難しすぎて理解できない」と考えたのは,高慢になっていたからでしょう。 実際に誰一人として理解できなかったのならまだしも,彼の教えを理解した弟子たちが出て来た以上,「シッダールタは高慢になったのではない」という反論は成り立ちません。 彼は真理を会得してブッダとなったはずなのに,自分の高慢な心の在り方には気づかなかったようです。

またシッダールタは,悟りを開いた後,誰にも理解できないのならもう生きている意味はないと思い,自殺しようとしたそうです。 しかし彼は,自殺しようとしていた所を梵天に説得されて,初めて,自分の得た真理(と彼自身が思い込んでいたこと)を人々に伝えようと決意したそうです。 (この話は「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と呼ばれています。) 彼は,説得されなければ,自分がしようとしていたこと(自殺)が正しくないことだと気づかなかったようです。 「釈迦に説法」という慣用句がありますが,実に皮肉なことに,釈迦は梵天に説法されたのです。 そのような人が悟りを開いたと言えるでしょうか。

悟りを開いたはずのシッダールタは,悟りを開いた直後に,(1)高慢になり,(2)不誠実なことを考え,(3)自殺しようとしました。 悟りを開いて真理を会得したと言うのなら,なぜシッダールタはこのような罪を犯したのでしょうか。 (この三つの罪を犯したのは,彼が悟りを開く前ではなく,悟りを開いた直後だったというのが重要な点です。) 答えは一つしか考えられません。 悟りを開いたはずのシッダールタは,自分の罪に対して無知だったのです。 つまり,シッダールタは本当は真理を会得していなかったのです。

結論

以上のことから,釈迦牟尼(お釈迦さま)と呼ばれる人は,本当は悟りを開いていなかったと言えます。 彼は生涯,悟りを開くことはなく,罪の問題を解決することもありませんでした。 そして,仏教における一番の教師である釈迦牟尼が悟りを開いていないのなら,他の仏弟子の誰も悟りを開いていないことになります。 (これは「カル・バホメル(קַל־וָחֹמֶר)」とか「大から小へ」の議論と呼ばれるユダヤ的論法で,この場合,釈迦牟尼が「大」で,他の全ての仏弟子が「小」です。 「大」に成り立たないなら,なおさら「小」に成り立つわけがない,という論法です。) ということは,仏教の正しさは誰によっても何も保証されていないことになります。 釈迦牟尼は悟りを開いておらず,その教えの正しさも保証されていないのなら,仏教は信頼できないとしか言えません。 つまり,いくら修行しても決して悟りは開けないし,仏教を信仰しても人が苦しみから救われることは決してないと結論づけられます。

罪の報酬は死です。 しかし神の賜物(たまもの)は,私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(『聖書 新改訳2017』ローマ人への手紙 6章23節)

参考文献

2019年8月6日更新
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