キリスト論

例えばエホバの証人のように,聖書(旧約聖書と新約聖書)を天地万物の創造主である神のことばとして認め,教典としていながら,イエス・キリストの二性一人格,すなわち,イエス・キリストは神であると同時に人間でもあることを認めない人たちが世の中にはたくさんいます。 このような人たちの考えは,聖書を正しく読めば間違いであることが分かります。 このページでは,そのキリスト論(イエス・キリストの二性一人格)について,簡単に説明したいと思います。

旧約聖書

まずは旧約聖書から,メシア(キリスト)は人間であると同時に神でもあることを説明します。

「わたしは敵意を,おまえと女との間に,
おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
彼はおまえの頭を打ち,
おまえは彼のかかとを打つ。」
(『聖書 新改訳2017』創世記 3章15節)

この聖句の「女の子孫」とはメシアのことですが,天使が人間から生まれることはあり得ませんので,ここで言われている「子孫」とは人間であることが分かります。 (天使が人間から生まれることがあるという話は,聖書には全く存在しません。)

人は,その妻エバを知った。 彼女は身ごもってカインを産み,「私は,によって一人の男子を得た」と言った。
(『聖書 新改訳2017』創世記 4章1節)

この聖句のエバの言葉は七十人訳聖書に基づいていて,原語であるヘブル語聖書を直訳すると,「私はひとりの男子,ヤハウェを得た」となります。 つまり,エバは神が約束されたメシアはすぐに誕生すると思い,カインを人間であり神でもあるメシアであると思ったのです。 エバは,創世記3章15節で約束されたメシアが人間であり神でもあることを正しく理解していたのですが,適用が間違っていました。

次に,有名なメシア預言であるイザヤ書9章6節(『聖書 聖書協会共同訳』では9章5節)を見てみましょう。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が私たちに与えられる。
主権はその肩にあり,
その名は「不思議な助言者,力ある神,
永遠の父,平和の君」と呼ばれる。
(『聖書 新改訳2017』イザヤ書 9章6節)

この聖句の「みどりご」や「男の子」という言葉は人間に対して使われますので,やがて生まれるメシアは人間であることになります。 また,生まれるメシアは「力ある神」であるとも預言されています。 つまり,メシアは人間でもあり,神でもあるのです。 (ここで考えられる反論は,「まるで力ある神のようだ」と言っているのだ,というものでしょう。 しかし,ヘブル語聖書に「~のようだ」というような言葉はありません。 また,ユダヤ人は現代の日本人のように軽々しく「神」という言葉を口に出しません。 したがって,この反論は成り立ちません。)

また,ゼカリヤ書のメシア預言も見てみましょう。

わたしは,ダビデの家とエルサレムの住民の上に,恵みと嘆願の霊を注ぐ。 彼らは,自分たちが突き刺した者,わたしを仰ぎ見て,ひとり子を失って嘆くかのように,その者のために嘆き,長子を失って激しく泣くかのように,その者のために激しく泣く。
(『聖書 新改訳2017』ゼカリヤ書 12章10節)

ゼカリヤ書12章は,メシアの再臨の時に起こる出来事を記しています。 その中で,10節はメシアの初臨について触れています。 前後の文脈を見ると,ここで語っている「わたし」とは(ヤハウェ)のことだと分かります。 そのが「自分たちが突き刺した者,わたしを仰ぎ見る」と言っておられるのです。 つまり,突き刺されるのはヤハウェご自身なのです。 この箇所でも,メシアは神ご自身であると言われています。 そしてこの預言は,イエスが十字架につけられたことによって成就しました(ヨハネ19章)。

新約聖書

次に,新約聖書を調べてみましょう。 新約聖書の四福音書を読めば,生まれたメシア(キリスト)が人間であることは明白です。 このことは説明するまでもないと思われますので,メシアとして生まれたイエスというお方が神でもあるのかどうかについて,新約聖書を調べてみましょう。

新約聖書の中で,イエス・キリストが神である根拠として挙げられる有名な箇所の一つに,ヨハネの福音書1章1~18節があります。 この箇所を要約すると,次のような非常に単純な三段論法が導けます。 「ことばは(本質において)神である。ことばとは,イエス・キリストのことである。ゆえに,イエス・キリストは(本質において)神である。」 本質において神である存在は,神ご自身しかおられません。 したがって,イエス・キリストは神ご自身なのです。 ヨハネはこんなにも分かりやすく,イエス・キリストは神だと教えてくれています。 (ヨハネ1:1の「ことばは神であった」という翻訳に疑問を抱く人がいますが,この翻訳は正確です。 ギリシア語では,「AはBである」という文の場合,主語Aと補語Bを区別するため,主語Aに冠詞が付けられます。 そのため,ヨハネ1:1では,補語である「神(θεὸς)」には冠詞がなく,主語である「ことば(ὁ λόγος)」に冠詞が付けられているのです。)

上から来られる方(かた)は,すべてのものの上におられる。 地から出る者は地に属し,地のことを話す。 天から来られる方は,すべてのものの上におられる。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 3章31節)

ヨハネの福音書3章の文脈から,31節の「上から来られる方」「天から来られる方」とはイエスのことだと分かります。 そして,そのイエスは「すべてのものの上におられる」のですから,天使でも人間でもなく,神だということになります。

「わたしと父とは一つです。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 10章30節)

これは主イエスのことばです。 主イエスは,ご自分と父なる神が一つだと宣言されました。 新改訳聖書の注釈には「あるいは『同一の本質』」と書かれていますが,これはヘブル人への手紙1章3節を読めば分かります。 すなわち,「御子は神の栄光の輝き,また神の本質の完全な現れであり」と書かれているとおりです。 さらに,コロサイ人への手紙1章19節では,「なぜなら神は,ご自分の満ち満ちたものを(注:あるいは「満ち満ちた神の本質を」)すべて御子のうちに宿らせ」とあります。 いずれも,御子イエスが父なる神と同一本質であることを意味しています。 また,ヨハネの福音書10章30節はイエスの神性宣言(「わたしは神です」という宣言)でもあります。 イエスは自分のことを神だと言ったので,次の31節と33節を読めば分かるように,これを聞いたユダヤ人たちは,イエスは神を冒瀆(ぼうとく)したとして,モーセの律法(レビ記24章16節)に従い,イエスを石打ちにしようとしたのです。 もしイエスのこのことばが神性宣言ではなかったのなら,ユダヤ人たちはイエスを石打ちにして殺そうとはしなかったはずです。 なぜなら,石打ちにする正当な理由が何もないからです。 「ものみの塔」はこの事実を隠蔽して,人々を惑わしています。

もう少し詳しく説明すると,参考文献に挙げた「ものみの塔」の説明にはおかしな点があります。 まず第一に,「もしイエスと父が同一の存在であるなら」とありますが,これは正統的な三位一体論を完全に誤解した発言です。 イエスと父なる神は本質において同一なのであり,位格においては区別されるのです。 ものみの塔(エホバの証人)は正統的な三位一体論を理解していないことが分かります。 第二に,「ものみの塔」によると,25節と27~29節を引き合いに出して,「これは,人が自分の父の敵に向かって,『わたしの父から盗むのは,わたしから盗むことだ』と言うのと似ています」と述べていますが,このたとえは全く無意味です。 なぜなら,「わたしの父から盗むのは,わたしから盗むことだ」というのはただの感情論であり,法的には何の意味もないからです。 もしこのたとえが正しければ,イエスは法的には無意味な発言をしただけなので,ユダヤ人たちはイエスを石打ちにしようとはしなかったはずです。 しかし,31節と33節を読むと,ユダヤ人たちはモーセの律法に従って,つまり法的にイエスを裁こうとしています。 これは矛盾です。 ここで,「ユダヤ人たちはイエスの言葉を誤解したのだ」という反論があるかもしれませんが,そんなことは聖書のどこにも書かれていませんし,前後の文脈から考えてもあり得ません。 実際,イエスは,「いやいや,それは誤解だ」などと言っておられません。 それどころか,むしろご自分の発言を肯定しておられます。 したがって,この反論は無効です。 「ものみの塔」は,「文脈を見てみましょう」と言いながら,30節以降(特に31節や33節)を完全に無視しているのです。 これはマインド・コントロールの情報コントロールに当たります。 このような情報コントロールは,エホバの証人が破壊的カルトであることの一つの証拠になります。 第三に,「同様に,イエスと父エホバ神も,目的・規準・価値観が完全に合致しているという意味で,『一つ』です」とありますが,イエスと父なる神の「目的・規準・価値観が完全に合致している」なら,イエスは天使ではないので,イエスは神だという結論しか導けません。 しかし,エホバの証人は,「イエスはあくまで被造物であり,神ではない」と主張しています(参考文献:「エホバの証人はイエスを信じていますか」)。 これは矛盾です。 以上のことから,「ものみの塔」の説明は全く無意味であることが分かります。

次に,12使徒の一人であるトマスの信仰告白を見てみましょう。

トマスはイエスに答えた。 「私の主,私の神よ。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 20章28節)

トマスはユダヤ人です。 昔からユダヤ人は,現代の日本人が軽々しく「神」という言葉を使っているのとは違い,聖書の神以外の物や存在に対して「神」という言葉を使いません。 (マタイの福音書の中に「天の御国(みくに)」という言葉が出て来ますが,これは「神の国」と同じ意味です。 マタイはユダヤ人向けに福音書を書いたので,同胞のユダヤ人に配慮して,あえて「天の御国」という書き方をしているのです。 ユダヤ人はモーセの十戒の第3戒(出エジプト記20章7節)を拡大解釈し,「神」という言葉を避けるようにしていました。 それでマタイは,同胞のユダヤ人が読んでも受け入れやすい表現を用いたのです。) このようなユダヤ人の文化・習慣を知れば,トマスの信仰告白は真実のものであると分かります。 つまり,イエスは神ご自身なのです。 もしトマスの信仰告白が間違っていたのなら,イエスはトマスを叱責するはずですが,次の29節を読むとイエスはトマスの信仰告白を受け入れています。 したがって,この箇所からも「イエスは神である」と言えるのです。

また,メシア(キリスト)が神であり人であるという決定的な証拠として,イエスご自身による論証があります。 それを以下に引用しますが,この箇所は理解するのが難しいと思いますので,しっかり考えてみて下さい。

パリサイ人たちが集まっていたとき,イエスは彼らにお尋ねになった。
「あなたがたはキリストについてどう思いますか。 彼はだれの子ですか。」 彼らはイエスに言った。 「ダビデの子です。」
イエスは彼らに言われた。 「それでは,どうしてダビデは御霊(みたま)によってキリストを主と呼び,
『主は,私の主に言われた。
「あなたは,わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするまで。」』
と言っているのですか。
ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら,どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
するとだれ一人,一言もイエスに答えられなかった。 その日から,もうだれも,あえてイエスに質問しようとはしなかった。
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 22章41~46節)

この箇所を詳しく解説しておきます。 旧約聖書には,「メシアはダビデの子孫として生まれる」と預言されていました(歴代誌第一17章10b~14節,イザヤ書11章1~2節,エレミヤ書23章5~6節)。 そのため,メシアの称号(タイトル)として「ダビデの子」が用いられているのです。 (実際,イエスは,肉体的にはダビデの息子のナタンの子孫であるマリアからお生まれになりました。 ルカの福音書3章23~31節参照。) ここまではパリサイ人にとって常識でした。 ところが,その次の質問が難問でした。 イエスは,詩篇110篇1節を引用してパリサイ人に質問しました。 詩篇110篇1節を説明すると,この時ダビデはイスラエル全土の王だったので,ダビデが主と呼ぶような人間はこの世には存在しませんでした。 したがって,ダビデがこの箇所で主と呼んでいるのはイスラエルの神だということになります。 つまり,「ダビデがキリストを主と呼んでいる」ということの意味は,キリストはイスラエルの神,すなわちヤハウェであるということです。 したがって,キリスト(メシア)は神であることが分かります。

この詩篇についてもう少し解説すると,最初の「主」は,詩篇110篇1節では「ヤハウェ」と書かれていますのでヤハウェのことだと分かります。 では,その次の「私の主」とは誰のことを指しているのでしょうか。 この詩篇110篇1節を理解する唯一の解釈は,ヤハウェを父なる神,ダビデの「主」をメシア(キリスト)と解釈することです。 神の右の座に着くという言葉の意味は,メシアは神と同格の存在であることを意味します。 その根拠は,列王記第一2章19節からもうかがい知れますし,当時の習慣からも分かるそうです。 さて,イエスの質問に戻って,イエスの質問の意味を要約してみます。 (1)メシアは「ダビデの子」と呼ばれている。 (2)ところが,ダビデはそのメシアのことを「私の主」と呼んでいる。 (3)もしメシアが「ダビデの子」であるなら,ダビデはメシアのことを「私の子」と呼ぶべきではないか。 なぜダビデはメシアを「私の子」とは呼ばないで「私の主」と呼んでいるのか。 イエスのこの質問に,誰も答えることができませんでした。 パリサイ人はメシアが「ダビデの子」であることを認めていましたが,これはメシアが人間であること(メシアの人性)を指す言葉です。 しかし,彼らはメシアが神であること(メシアの神性)は認めていなかったので,ダビデがメシアを「私の主」と呼んでいる理由が理解できなかったのです。 ここにラビ的ユダヤ教の限界があります。 結論を述べると,イエスは「ダビデの子」(人間)であると同時に「ダビデの主」(神)なのです。

また,イエスによるもう一つの論証を引用しておきます。

数日たって,イエスが再びカペナウムに来られると,家におられることが知れ渡った。
それで多くの人が集まったため,戸口のところまで隙間もないほどになった。 イエスは,この人たちにみことばを話しておられた。
すると,人々が一人の中風(ちゅうぶ)の人(すなわち「からだが麻痺した人」)を,みもとに連れて来た。 彼は四人の人に担がれていた。
彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので,イエスがおられるあたりの屋根をはがし,穴を開けて,中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て,中風の人に「子よ,あなたの罪は赦された」と言われた。
ところが,律法学者が何人かそこに座っていて,心の中であれこれと考えた。
「この人は,なぜこのようなことを言うのか。 神を冒瀆(ぼうとく)している。 神おひとりのほかに,だれが罪を赦すことができるだろうか。」
彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを,イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。 「なぜ,あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと,『起きて,寝床をたたんで歩け』と言うのと,どちらが易しいか。
しかし,人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを,あなたがたが知るために――。」 そう言って,中風の人に言われた。
「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで,家に帰りなさい。」
すると彼は立ち上がり,すぐに寝床を担ぎ,皆の前を出て行った。 それで皆は驚き,「こんなことは,いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。
(『聖書 新改訳2017』マルコの福音書 2章1~12節)

この論証を要約すると,次のようになります。 (1)神だけが罪を赦す権威を持っておられる。 (2)イエスは,中風の人に罪の赦しを宣言された。 (3)「あなたの罪は赦された」と言うだけなら,誰にでもできる,簡単なことである。 しかし,中風の人に「起きて,寝床をたたんで歩け」と言うのは,目に見える結果が要求されるので,非常に困難である。 ここで「カル・バホメル(קַל־וָחֹמֶר)」とか「大から小へ」の議論と呼ばれるユダヤ的論法が使われていることに注目して欲しい。 困難なこと(「大」)ができるなら,簡単なこと(「小」)ができるのは当たり前ですよね,というのが「大から小へ」の議論である。 この箇所では,中風の人に「起きて,寝床をたたんで歩け」と言うのが「大」であり,「あなたの罪は赦された」と言うのが「小」である。 (4)そこでイエスは,不可能としか思えない困難なことを,律法学者もいる多くの人の目の前で行うことにより,ご自身が罪を赦す権威を持っていることを教えられた。 (5)この奇跡により,神だけが持っておられる「罪を赦す権威」を,メシアであるイエスも持っておられることが示された。 つまり,イエスは神である。

その他にも,イエス・キリストは神であると言っている聖書箇所がありますので,いくつか挙げておきます。 (1)ヘブル人への手紙1章8~9節では,御子イエスに向かって「神よ」と言っています。 (2)ローマ人への手紙9章5節では,キリストは人であり神であると,はっきり言われています。 (3)テトスへの手紙2章13節では,イエス・キリストは「大いなる神」(『聖書 新共同訳』では「偉大なる神」)であると言っています。 (4)ペテロの手紙第二1章3節では,主イエスに「神としての御力(みちから)」があると言っています。 (『聖書 新共同訳』では,「主イエスは,御自分の持つ神の力によって」と書かれています。 神の力を持っているということは,神以外の何者でもないことを意味します。) (5)ヨハネの手紙第一5章20節では,御子イエス・キリストのことを「この方こそ,まことの神,永遠のいのちです」と言っています。 (6)ヨハネの黙示録22章6節では,ヨハネに天使を遣わした「主」は神であると書かれています。 そしてヨハネの黙示録1章1節を読むと,ヨハネに天使を遣わした「主」がキリストであることが分かりますので,主イエスは神であることになります。

結論

以上のことから,イエス・キリストは100パーセント神であり,100パーセント人であるとしか言えません。 それ以外のイエスに関する見解(例えば,イエスは人ではあるが神ではないとか,神であるが人ではないという見解,すなわち,キリストの単性論)は全て間違っています。 正統的なキリスト教なら,イエス・キリストは100パーセント神であり,100パーセント人であると信仰告白します。 いくら,「イエスは主です」と告白していても,キリスト論が間違っているなら,その人は救われていません。 エホバの証人のように,間違ったキリスト論に惑わされずに,どうか正しいキリスト論を受け入れて下さい。 そして,神であり人であるイエス・キリストをあなたの救い主と信じて,救われることを願っています。

参考文献

2022年3月26日更新
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