「告解」について

はじめに

カトリック教会は,カトリックの信者に対して,告解(こっかい)をするように教えています。 また,定期的にゆるしの秘跡を受けるように勧めています。

【告解】
カトリック教会で,洗礼を受けた後に犯した罪を神の前で悔い改め,司祭を通して告白すること。ゆるしの秘跡の中心的行為。
(新村出編『広辞苑』第七版,岩波書店,2018年)

【赦しの秘跡】
カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)の一つ。人が神の前で罪を痛悔し,司祭に告白することを通して神のゆるしを得,神との和解を与えられる。旧称,悔悛(かいしゅん)の秘跡。
(新村出編『広辞苑』第七版,岩波書店,2018年)

しかし,この告解やゆるしの秘跡と呼ばれるものは,聖書の教えではありません。 特に問題なのが,司祭(神父)を通して罪を告白することです。 カトリック教会では,司教や司祭は罪を赦す権威を与えられていると教えていますが,その教えは間違っています。 それを以下に,順序立てて説明したいと思います。

使徒職の継承はない

カトリック教会で告解やゆるしの秘跡が教えられていることの前提として,使徒職が継承されているという教えがあります。 その証拠に,カトリック中央協議会のサイトには次のように書かれています。

イエス・キリストは,弟子の中から12人を選び「使徒」としました。そしてペトロに使徒の頭としての特別な使命を委ねました。使徒たちは各地で宣教し,キリストを信じる者たちの共同体,すなわち教会をつくり,自分たちの後継者を定めました。ペトロはローマに行き,教会をつくりました。このペトロの後継者がローマ司教,すなわちローマ教皇です。そして使徒たちの後継者が世界中で働いている司教なのです。
(カトリック中央協議会「教義と組織」,2018年)

しかし,新約聖書を読むと,誰一人として使徒の後継者は定められていません。 例えば,イスカリオテのユダの後継者などいませんし,最初に殉教した使徒ヤコブ(使徒12章2節)の後継者もいません。 (使徒1章26節でマッティアが使徒職を継承したと反論される人がいるかもしれませんが,マッティアは,使徒職を放棄したユダの穴埋めとして補充されたのであって,使徒職を継承したのではありません。 誤解のないように。) したがって,使徒職が継承されるという教えは聖書には存在しないのです。 (「司教は使徒職を継承しているわけではない」と反論される人がいるかもしれません。 しかし,カトリック教会によると,使徒ペテロは地上で生きている間に初代ローマ教皇となったとされています。 その職を受け継いでいるのがローマ教皇なのですから,ローマ教皇はペテロに与えられた使徒という職を受け継いでいることになります。 つまり,使徒職を継承していることになります。)

また,エペソ2章20節を読むと,教会は使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていると書いてあります。 もし使徒職が継承されているなら,教会の土台はいつまで経っても完成しないことになります。 神は,未完成の土台の上に教会を建てておられるのでしょうか。

使徒たちは罪を赦す権威を与えられていなかった

旧約時代から,罪を赦す権威は神だけが持っておられます(レビ記4~6章参照)。 したがって,イエスが中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われた時,イエスを神だと認めない律法学者たちは「この人は神を冒瀆(ぼうとく)している」と心の中で言ったのです(マタイ9章1~8節)。 しかし,イエスは神ご自身なので,罪を赦す権威を持っておられるのです。

では,使徒たちはどうかというと,主イエスが使徒たちに罪を赦す権威を与えたという記録は聖書のどこにもありません。 ある人はヨハネ20章21~23節に書いてあると主張していますが,この箇所は,神が決定されたことを宣言する役割が弟子たちに与えられたという意味です。 罪を赦したり,赦さずにそのまま残すのは,神ご自身です。 その神の決定を告げるのが,主イエスの権威によって派遣される弟子たちの役割なのです。 ヨハネ20章21~23節はそういうことを言っているのであって,使徒たちに罪を赦す権威を与えたと言っているのではありません。 したがって,この聖書箇所は,ゆるしの秘跡の聖書的根拠にはなり得ません。

その他に,マタイ16章19節やマタイ18章18節を聖書的根拠として挙げる人がいますが,これらもゆるしの秘跡の聖書的根拠にはなり得ません。 マタイ16章19節を読むと,ペテロにだけ「天の御国(みくに)の鍵」が与えられています。 「鍵」とは権威を象徴する言葉です(イザヤ書22:22参照)。 つまり,ペテロには天の御国の扉を開く権威が与えられたのです。 これは罪を赦す権威ではありません。 この箇所の「天の御国」とは,霊的な意味での御国,つまり教会のことです。 ペテロによって,教会の扉は,まずユダヤ人に(使徒2章),次にサマリア人に(使徒8章),その次に異邦人に開かれました(使徒10章)。 そして,一度開かれた教会の扉は,今も全ての人に対して開かれたままになっています。 ペテロのこの権威は誰にも継承されていません。 つまり,この聖書箇所も,ゆるしの秘跡の聖書的根拠にはなり得ないのです。

マタイ18章18節を読むと,この聖句は15~20節の文脈の中で理解する必要があることが分かります。 この文脈では,教会はまだ誕生していません。 教会は,使徒2章に書かれている五旬節の日に誕生します。 この箇所(マタイ18章15~20節)は,教会の誕生後に罪を犯す兄弟が出た場合,地域教会はその兄弟をどう扱うべきかを教えているのです。 それを踏まえて18節を考えてみましょう。 ここでの「つなぐ」と「解く」は,マタイ16章19節に出て来た言葉と同じで,当時のラビ用語です。 「つなぐ」は「有罪」あるいは「禁止」を表し,「解く」は「無罪」あるいは「許可」を表しています。 これは,使徒たちだけに与えられた権威です。 続く19~20節では,罪を指摘する証人となった二人か三人の客観的な証言は,神によって承認され,教会の決定となることを教えています。 20節は教会の定義ではありません。 つまり,マタイ18章18節は,使徒たちに罪を赦す権威が与えられたことを言っているのではなく,彼らの判断と決断を,神が承認されると言っているのです。 したがって,この聖書箇所も,ゆるしの秘跡の聖書的根拠にはなり得ないのです。

その他に,使徒5章のアナニアとサッピラの夫婦の場合について,説明しておきます。 彼らの罪を指摘したのはペテロですが,実際に彼らの罪をさばいたのは神ご自身でした。 また,使徒たちは新約聖書の書簡をいくつか書きましたが,その中で彼らは,ある行為を禁止したり,許可したりしています。 しかし,実際に罪を赦したり赦さなかったりするのは神ご自身であり,使徒たちではありません。 このことからも,使徒たちが罪を赦す権威を持っていたわけではないことが分かります。

大から小への議論によって導かれる結論

以上のことから,使徒たちは罪を赦す権威を与えられていなかったことが分かります。 使徒たちにさえ与えられていなかったのだから,司教や司祭たちに罪を赦す権威が与えられているわけがありません。 (これは「カル・バホメル(קַל־וָחֹמֶר)」とか「大から小へ」の議論と呼ばれるユダヤ的論法で,この場合,使徒たちが「大」で,司教や司祭たちが「小」です。 「大」に成り立たないなら,なおさら「小」に成り立つわけがないでしょう,という論法です。) したがって,カトリック教会が主張する「ゆるしの秘跡」という教えは間違っているのです。 当然,司祭(神父)を通して罪を告白するという「告解」という教えも間違っています。

新約時代に生きる私たちクリスチャンは,旧約時代のイスラエルの民のように,大祭司を通して神に近づくのではなく,直接,神に近づける特権が与えられています。 なぜなら,主イエスが,ご自分の肉体という垂れ幕を通して,私たちのために,この新しい生ける道を開いてくださったからです(ヘブル10章20節)。 また,ヘブル10章19節のみことばは,主イエスをメシアと信頼する全ての人が祭司であることを保証しています。 これを「万人祭司」と言います。 万人祭司という教えが正しいことは,黙示録1章6節でも保証されています。 したがって,主イエスをメシアと信頼して救われた人は誰でも,直接,神に罪の告白をすれば良いのです。 司祭(神父)という人間の仲介者は必要ないのです。

ちなみに,ゆるしの秘跡を授ける時に,司祭は次のように言うそうです。 「わたしは,父と子と聖霊のみ名によって,あなたの罪をゆるします。」 この言葉は,司祭が自分を神以上の存在と見なしていることになります。 これがどれほど重大な罪に値するのか,司祭はご存じないのでしょうか。

聖書的な罪の処理法

最後に,聖書的に正しい罪の処理法を説明しておきます。 主イエスを信じて救われた人が,罪をどのように処理すれば良いかは,第一ヨハネ1章9節にはっきりと教えられています。

もし私たちが自分の罪を告白するなら,神は真実で正しい方ですから,その罪を赦し,私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの手紙 第一 1章9節)

まず,自分の罪を認めましょう。 ここでの「罪」は複数形になっています。 つまり,日常生活で犯す罪を,一つ一つ具体的に神に告白するように,と言っているのです。 そうすれば,神はご自身の約束に忠実なお方なので,その罪を必ず赦して下さいます。 もし誰かを傷つけてしまったら,その人にきちんと謝りましょう。 罪を告白したら,聖霊を心にお迎えしましょう。 この一連の流れが,一般的には「霊の呼吸」と呼ばれるものです。 この「霊の呼吸」をすることで,神との交わりを保ち,勝利あるクリスチャン生活を送ることができるようになります。

追記:マタイ16章18節の「この岩」の解釈について

カトリック教会は,マタイ16章18節の「この岩」をペテロだと解釈していますが,そのように解釈すると矛盾が生じます。 どのような矛盾が生じるのかを,以下に簡潔に述べておきます。 まず,原語のギリシア語では,ペテロは「ペトロス(Πέτρος)」で,岩は「ペトラ(πέτρα)」です。 そして,ギリシア語の文法では,ペトロスは男性名詞であり,ペトラは女性名詞なのです。 (カトリック教会のラテン語訳聖書『ウルガタ(Vulgata)』でも,この箇所の「岩」は「ペトラ(petra)」というラテン語の女性名詞になっています。) ペテロは男性ですが,もしイエスがペトラという女性名詞を使ってペテロのことを言ったのだとしたら,次のような問題が生じてしまいます。 一つは,この時イエスはペテロが男性か女性か分からなかったので,女性名詞を使ってしまった,もう一つは,イエスはペテロが女性に性転換した後にご自分の教会を建てると言った,この二つの可能性しかあり得ません。 前者だとしたら,この時イエスは頭がおかしくなっていたのでしょう。 後者だとしたら,イエスの預言は実現しなかったので,イエスは偽(にせ)預言者だということになります。 いずれにせよ,ペトラという女性名詞をペテロという男性のことだと解釈すると,必然的にイエスは偽(にせ)メシアだという結論に至ります。 しかし,カトリック教会は,イエスはメシア(キリスト)であると主張しています。 これは矛盾です。 もし,「ペテロという人物の上に教会を建てる」と言いたかったのなら,ペテロを指して「あなたの上に」とか「彼の上に」とか「この岩のような男の上に」と言われたはずです。 しかし,イエスはそうは言いませんでした。 つまり,「この岩」とは,ペテロのことを指して言っているのではないということです。 この箇所を正しく理解するためには,前後の文脈をよく考える必要があります。 結論だけ言うと,マタイ16章18節の「この岩」とは,「『イエスこそメシアだ』という信仰告白」のことを意味していると考えられます。

参考文献

2021年12月13日更新
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