生物学の授業で習う「進化」は事実か?

はじめに

現在の日本では,誰もが幼い時から生物の進化を事実として教えられ,小学校・中学校・高等学校・大学と進学しても進化論しか教わらず,たとえ進化論以外の考え(例えば,聖書に書かれている創造論)の存在を知ってはいても,その具体的な内容まではほとんどの人は知らないように感じます。 また,水族館へ行っても進化論を前提にした説明しかなされておらず,生物の進化はほとんどの日本人にとって一般常識として受け入れられているようです。 日本でこんなにも進化論が定着している理由の一つは,日本のクリスチャン人口はとても低い(1%未満)ので,進化論者(生物の進化を事実だと信じ切っている人)に対して論理的に反駁できる人が極めて少ないのが原因ではないでしょうか。 また,日本では進化論の間違いを正確に伝える情報に触れる機会が極めて少ないのも,日本人が進化論を一般常識として受け入れてしまっている原因になっているのではないかと思います。 さらに,学校でも新聞でもテレビ番組でも「生物の進化は事実だ」という前提に立って説明がなされるので,「偉い肩書きを持った科学者たちや,学校の教師たちや,多くの人々が『生物の進化は事実だ』と断言しているのだから,生物が進化してきたことは疑う余地のない事実だ」と信じ切ってしまうのでしょう。 かつての私自身(クリスチャンになる前の私自身)がそうでした。 しかし,そのような,相手の肩書きや権威に対して盲目的に服従してしまう姿勢はとても危険だと思います。 なぜなら,「生物の進化は事実だ」という主張の中身には論理の飛躍があり(詳細は後述します),このような進化論者の主張には科学的な根拠は何一つないと主張する生物学者も現に存在するからです。 つまり,「生物の進化は事実だ」と主張する生物学者がいる一方で,「生物の進化は事実ではない」と正反対の主張をする生物学者もいるのが現実なのです。 では,どちらの主張が正しいのでしょうか。 そこで,私は一人の創造論者(聖書に書かれている,神による生物の創造は文字通り事実だと信じる者)として,「生物の進化は事実だ」という主張が本当に科学的に証明された事実なのかどうかを皆さんに考えていただきたいと思い,以下に判断材料を用意してみました。 学者ではない,一般の人が常識の範囲内で理解できるように説明したいと思います。

生物学で使われる「進化」という言葉の意味

今日,「進化」という言葉は生物学以外の様々な場面でも頻繁に使われていますので,言葉の意味の混乱を避けるために,生物学で使われる「進化」という言葉の意味を明確にしておきたいと思います。 以下に,生物学で使われる「進化」という言葉の意味を『広辞苑』第七版から引用しておきます。 (参考までに「進化論」の意味も引用しておきます。)

【進化】
生物個体群の形質が,世代を経るにつれて遺伝的に変異し,元の種との差異が増大してゆくこと。 退化2を含む。
(新村出編『広辞苑』第七版,岩波書店,2018年)

【退化】
②生物体のある器官・組織が,進化並びに個体発生の途上で次第に衰退・縮小すること。退行。
(新村出編『広辞苑』第七版,岩波書店,2018年)

【進化論】
生物のそれぞれの種は,神によって個々に創造されたものでなく,極めて簡単な原始生物から進化してきたものであるという説。 1859年,ダーウィンが体系づけたことによって広く社会の注目をひき,以後,文化一般に多大の影響を与えた。 また一般的には進化に関する諸種の議論・研究。 狭くは進化の原因についての議論。
(新村出編『広辞苑』第七版,岩波書店,2018年)

『広辞苑』の説明は簡単でとても分かりやすいと思いますが,学問的には説明不充分だと思いますので,不足分を補うために,大学入試対策本から,東進ハイスクール・東進衛星予備校の講師である田部眞哉先生の著書『生物合格77講【完全版】』(初版,東進ブックス,2017年)をベースにして,進化論のおかしさを説明することにします。 田部先生の本を選んだ理由は,帯に「真打ち登場!生物受験参考書の最高峰」と書かれていて,現在(2017年3月),高等学校で使用されている「生物基礎」「生物」の全教科書(出版5社)を徹底的に比較検討して書き上げたと書かれていますので,進化論について専門的に研究していない人であれば,この本の内容を理解すれば充分なのだろうと考えたからです。 高等学校で生物学をしっかり学んでいない人には難しい内容だと思いますが,進化論の問題点を正確に理解し,他者に説明するためには,進化論者の考え方を学び理解することは避けて通れないので,難しくても一生懸命学んでいただくことを願っています。

進化論者による生物進化の説明(高卒程度の内容)

まずは,高等学校を卒業するまでに学校の教科書で習う内容を,田部先生の本から引用しておきます。 生物進化に関連する部分をピックアップしました。

進化
(1)原始生命体が地球に誕生してから現在に至るまで,生物は多様な環境に適応しながら変化してきた。 生物の遺伝的性質が世代を経るにしたがって変化することを進化(しんか)という※。 「進化」は生物がもつ共通性の一つである。
※進化の定義は1つに限定されておらず,「集団内の遺伝的な変化」や,「集団内の遺伝子頻度の変化」も進化と呼ばれる。 単に「進化」と言った場合は生物の進化を指すことが多い。
(2)現存する生物に共通性多様性がみられるのは,地球上に出現した生物が,共通性は残しながらも多様な進化をとげてきた結果と考えられる。
(3)「進化」を,「時間の経過にともなって生物のもつ機能が変化し,その変化が遺伝していくこと」と考えると,RNAワールドの生物からDNAワールドの生物が進化してきたということができる。
(4)タンパク質合成のしくみや,生物体を構成している有機物の特徴(下記①~③)は,すべての生物でほぼ共通しているので,現在の地球上に存在する生物は,単一の共通の祖先*から由来したと考えられている。
①タンパク質が20種類のアミノ酸からなる。
②核酸(DNAあるいはRNA)は4種類のヌクレオチドからなる。
③3塩基からなる遺伝暗号は,すべての生物で共通のアミノ酸を指定する。
*原始地球では,複数の(非常に多くの)場所で,複数回(数え切れないほど)原始生命体が誕生したが,それらの生物のうちの1個体が現在の多様な生物の共通の祖先となったと考えられている。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,695頁)

参考
現在広く受け入れられているRNAワールドの考え方には,次のような問題点もある。①原始地球において無生物的にRNAが合成された筋道が見つかっていない。②RNAは不安定で,触媒機能が低く,特異性がほとんどない。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,694頁)

化学進化と呼ばれる考え方には,恐らく全ての進化論の土台を否定できる重大な問題が存在していますので,化学進化についても下記に引用しておきます。 (化学進化は生物進化の前の過程のことであり,生命の起源に関することなので,生物がどのようなメカニズムで進化してきたかという生物進化の議論とは関係のない別の話だ,と主張される方がおられるかもしれません。 しかし,田部先生の本によると,生命の起源に関する内容は「第13章 生物の進化と系統」(687~771頁)の中の最初に書かれていますので,学校の教科書では生物進化と関連づけて教えられていると考えられます。 実際,688頁の図では,「地球での進化のようすを,イメージでつかもう!」と書かれていて,その中に化学進化→生命の誕生→生物の進化という図式がはっきりと書かれています。 つまり,生物進化の前の過程として,化学進化という段階を経ることにより生命は誕生したと考えられている以上,「化学進化はまた別の話だ」と言って無視するわけにはいかないのです。 また,「化学進化」という言葉自体に「進化」という言葉が使われている以上,やはり化学進化について無視するわけにはいきません。 ちなみに,中立説で有名な木村資生氏(1924~1994年)も,自身の著書『生物進化を考える』の「第三章 進化の道すじをたどる」の冒頭で,生命の誕生について次のように述べています。 「海は生命のふるさとであり,最初の生命はこの中で生命のない有機物から物理的・化学的法則に従って作られたというのが現在最も有力な考え方である。…(中略)…そして,ひとたび生命が誕生するとその後は生物進化によって次から次へと新しい生物が生まれ,やがて現在見るような実に多種多様な生物の世界が生じたわけである。」(『生物進化を考える』64頁。) この引用文の中には化学進化という言葉はありませんが,木村資生氏がここで述べている内容は,化学進化と呼ばれる考え方そのものです。 そして,田部先生の本と同様に,化学進化→生命の誕生→生物進化という図式が述べられています。 したがって,やはり化学進化について無視するわけにはいかないのです。)

化学進化
(1)生命は約40億年~38億年前に,原始海洋中で誕生したと考えられている。
(2)原始地球上では,高温・高圧・紫外線などにより無機物から簡単な有機物(アミノ酸やヌクレオチドなどの低分子有機物)がつくられ,次にその有機物から複雑な有機物(タンパク質や核酸などの高分子有機物)が合成され,さらに,それらの高分子有機物から原始生命体が誕生した。 このような,生命が誕生する前の有機物の生成過程を化学進化(かがくしんか)という。
(3)現在は,高温・高圧で熱水を噴き出し,メタン(CH4),アンモニア(NH3),硫化水素(H2S),水素(H2)などが高濃度で存在する海底の熱水噴出孔(☞p.673)付近や,原始大気で化学進化が起こったと推定されている。
(4)海底の熱水噴出孔付近や原始大気などを想定した実験が行われ,さまざまな条件下で無機物から有機物が合成されることが示されている。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,689頁)

参考
化学進化の考え方に関して,①原始地球の大気の組成や海水の組成が未確定なこと,②リボースの合成・蓄積様式が不明なこと,③鏡像異性体(L型とD型のアミノ酸)のうち一方(D型)のみが選択されたしくみが不明なことなどの問題が残っている。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,690頁)

化学進化の説明で,難しくて意味がよく分からない点があると思いますので,簡単に補足説明をしておきます。 アミノ酸の鏡像異性体にはL型とD型が存在します。 鏡像異性体を簡単に言うと,ヒトの左手と右手のように,まるで鏡に映したかのように左右対称の構造をしていて,互いに置き換えることはできません。 地球の生物,例えばヒトの体の中にはL型のアミノ酸しか存在しないそうですが,L型のアミノ酸のみを使って試験管の中で化学反応させると,なぜかL型とD型のアミノ酸が半分ずつ作られるそうです。 しかし,不思議なことですが,ヒトの体の中ではL型のアミノ酸だけが作られているそうです。 生物反応と化学反応は,現実にはこんなにも違うそうです。 そして,ヒトの体の中で起こっているこのような現象を,誰も再現できないのだそうです(安藤和子博士による「『進化論か創造論か』セミナー(1)」参照)。 この事実は,化学進化を経て生命が誕生することはあり得ないことを証明していると考えられます。 なぜなら,化学進化を経て生命が誕生するためには,L型のアミノ酸からL型のアミノ酸のみで構成された生命体が誕生しなければならないはずなのですが,それは実験によって否定されているからです。 また,さらに言うと,アミノ酸やヌクレオチドなどの低分子有機物から,タンパク質や核酸などの高分子有機物が偶然に合成される可能性は事実上ゼロだとしか考えられません。 なぜなら,タンパク質や核酸のような高分子有機物は構造がとても整然としているので,そのような構造が偶然による産物だと考えるのはあまりに非理性的です。 たとえて言えば,いくら料理の材料が豊富にそろっていても,その材料を上手に使って料理を作れる一流の料理人がいなければ,完璧な料理は完成しません。 下手な料理人が何人いようとも,決して一流の料理人のようには上手に作れません。 そして,聖書の神による生物の創造を否定する進化論者にとっては大変残念なことに,どうやら偶然という名の一流の料理人は存在しないようです。 また,原始地球に存在していたと推定される無機物から偶然に低分子有機物がつくられ,その低分子有機物から偶然に高分子有機物が合成され,ついには一つの細胞が誕生し生命活動を始めたという実験データは一つも存在しませんし,確率的にも低すぎて再現不可能だと考えられます。

進化論者の中には「そのうち再現できる」と楽観的に考えている人もいると思いますが,そのような考え方は根拠のない妄想にすぎないと思います。 例えば,2014年に世間を騒がせたSTAP細胞事件を考えてみて下さい。 小保方晴子氏本人による検証実験はわずか8か月ほどで中止され,STAP細胞の存在はほぼ完全に否定されました。 小保方氏はこの間,何度も何度もSTAP細胞を作る実験をしたのですが,STAP細胞をただの一度も作ることができませんでした。 そのため,実験は完全に失敗であり,小保方氏が「存在する」と主張したSTAP細胞は存在しないと,優秀な科学者たちによって判断されたのです。 小保方氏が書いた論文の通りに追試の実験をした科学者や,彼女の論文を修正して実験をした科学者もいましたが,結局,誰もSTAP細胞を作ることはできませんでした。 この事件を踏まえて考えると,化学進化の検証実験に関しては,少なくとも1953年のミラーの実験から続いていると思われますが,65年も経った2018年現在,まだ一度も生命は誕生していません。 生命起源研究者たちが様々な仮説を立てて検証実験をしてみても,生命が誕生したことはただの一度もないのです。 この事実から,化学進化の検証実験は失敗に終わったと判断すべきです。 したがって,化学進化という仮説は破棄すべきであると私は考えます。

あり得ないことだと思いますが,もし仮に,将来のある時,化学進化が実験によって起こることが確かめられたとしても,原始地球上でその化学進化が起こったと断言することは誰にもできません。 なぜなら,過去にさかのぼって原始地球での様子を直接観察しない限り,本当にその化学進化が起こったのかどうかは,誰にも分からないからです。 せいぜい言えるのは,「原始地球上でこの化学進化が起こったかもしれない」という可能性だけです。 もし「化学進化は実際に原始地球上で起こったのだ」と断言する人がいたら,その人は化学進化が起こったことを信じているだけなのです。 実際に原始地球上で化学進化が起こったかどうかについては,信じるか,信じないかの2択しかありません。 どちらを選ぶかは,ご自分で考えて判断して下さい。

「hello, world」の可能性と化学進化の可能性

ここで,化学進化の可能性を考えるヒントとして,「hello, world」と表示させるC言語のソースコードが一発で偶然に出来上がる確率を計算してみます。

まず,ソースコードを以下のように考えてみます。

#include 

int main(void)
{
	printf("hello, world\n");
	return 0;
}

次に,このソースコード作成のために使用できる文字を,a,c,d,e,f,h,i,l(小文字のエル),m,n,o(小文字のオー),p,r,s,t,u,v,w,0(数字のゼロ),#,<,>,.(ピリオド),(,),{,},"(ダブルクオーテーション),,(コンマ),\,;(セミコロン)の31文字と,空白のための1文字,改行のための1文字,合計33文字とします。 これら33文字は何度でも使用可能とします。 これらの必要最小限の文字が適切に並ぶなら,このソースコードは完成します。 ちなみに,2行目の空白と,5行目・6行目の先頭の空白は無視します。

さて,一見すると,この最も単純なソースコードは偶然に出来上がってもおかしくないように見えます。 しかし,実際には一発で偶然に出来上がることはありません。 それを証明するために,実際に計算してみます。

使用できる文字は全部で33ありました。 それが,適切に,74個のマスに埋まれば,このソースコードは完成します。 そこで,このソースコードが一発で偶然に出来上がる確率を計算してみると,33分の1の74乗≒4.27×10-113になります。 このような低い確率は,どれほど長い時間をかけても現実には起こりません。 (一発で出来上がらなければならない理由は,中途半端なソースコードにはソースコードとしての存在意義が何もないからです。 つまり,途中で間違えたなら,最初からやり直す必要があるのです。) したがって,最も単純なソースコード「hello, world」でさえ,決して一発で偶然には出来上がらないことが分かると思います。

「hello, world」のソースコードは非常に単純なので,偶然に出来上がってもおかしくないように考えるかもしれません。 しかし実際には,環境と材料をすべて整えても,このソースコードは知性を持った存在(ヒト)によらなければ,決して完成することはないのです。 そして,化学進化のプロセスが現実に起こり,原始生命が誕生することは,「hello, world」のソースコードがヒトによって書かれる以上に,遙かに困難です。 それは,ヒトはいまだに化学進化のプロセスを再現できないことによって,証明されています。 つまり,「hello, world」の可能性がゼロなら,化学進化の可能性はなおさらゼロであることを証明しているのです。 進化論を信じている人は,化学進化のプロセスが偶然に成り立ち得るとお考えだと思いますが,それはただの錯覚だと思います。

生物進化に対する疑問点

上記に引用した田部先生の本の「進化」の説明から,不可解な点をまとめてみました。 私が感じた疑問と,それに対する私の考えを述べてみます。

  1. そもそも原始生命体はどのようにして地球に誕生したのか。
    どのような場所で,どのような無機物からどのような有機物がつくられたのか,具体的な説明はほとんど書かれていない。この問題には不確かな仮説しか存在しない(689頁の「参考」参照)。にもかかわらず,地球で生命体が誕生したことになっている。これは論理の飛躍であり,論理学で「論点先取の虚偽」と呼ばれるものである。(「論点先取の虚偽」とは,『広辞苑』第七版によると,「証明を必要とする命題を前提とする誤謬」のこと。)つまり,進化論は論点先取の虚偽を犯していて,科学的根拠のない強い信念によって作られていると言える。また,前述した化学進化という仮説は科学的に否定されたと考えるのが妥当であろう。その結論として,原始生命体の誕生を説明しようとする化学進化仮説は破棄されるべきだと考える。化学進化仮説ではこの問題は解決できない。ということは,そもそも「生命とは何か」という問いに対して一から考え直さなければならなくなる。また,「われわれはどこから来たのか,われわれは何者か,われわれはどこへ行くのか」という根本的な問いに一切答えることもできなくなる。
  2. 生物が多様な環境に適応してきた結果,新しい種への進化は起こり得るのか。
    地球上の生物で,現在(2017年3月),名前(学名)が付けられている生物は175万~190万種存在しているが,実際には1000万種から1億種以上の生物が存在しているとも考えられている(11頁参照)。これほど多くの種が存在しているにもかかわらず,新しい種への進化を直接目撃した科学者がいまだに一人もいないというのはおかしな話である。新しい種への進化は実際には起こらないと考えるのが妥当である。聖書に書いてあるとおり,全ての生物は種類に従って創造されたと考える方が合理的である。(進化論を信じ切っている人にはとても理解しがたい考えだと思うが。)
  3. 現存する生物の共通性と多様性を説明するために進化論を持ち出す必要はない。創造論で充分説明できる。
    生物に共通性があることでその生物を理解しやすい。また,生物に多様性があることで創造主である神の偉大さを知り,神に栄光を帰すことができる。これが創造論を信じるクリスチャンの喜びとなるのである。(進化論を信じ切っている人にはとても理解しがたいと思うが。)
  4. 694頁の「参考」(上記の引用)で述べられているように,RNAワールドの考え方の問題点が何も解決していない以上,原始地球において,無生物的に,無機物→有機物→生命体という過程を経て細胞が誕生することは,科学的に考えてあり得ない。(RNAワールド仮説には,解決不可能とも思えるきわめて大きな問題点がいくつもあることが,生命起源研究者によっても確認されている。研究者の中にはRNAワールド仮説では解決不可能だと考えて別の仮説を立てている人もいるが,いずれにせよ,それらの仮説の確からしさを示すような実験データは一つも存在しないようだ。)
  5. ①~③までの内容は,偶然や適応による産物と考えるよりも,人知を超えた知性を持っておられる創造主=神が設計し創造したと考えるほうが,遙かに理にかなっている。偶然や適応の産物と考えるのは非理性的である。

生得的行動について

昔は「本能」と呼ばれ,現在の生物学では「生得的行動」と呼ばれるものについての私の考えも述べておきます。

生得的(せいとくてき)行動:生まれつき備わっており,経験や練習なしで起こる定型的な行動。遺伝的なプログラムによって決まっている。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,139頁)

自分でプログラミングをやってみたことがある人はよく分かると思いますが,前述した「hello, world」と表示させるだけの極めて単純なプログラムでさえ,偶然によって一発で出来上がることはあり得ません。 実際にキーボードを適当にたたいてみれば分かると思います。 「hello, world」と表示させるだけの非常に単純なプログラムを作る場合でさえ,そのソースコードの中に,1文字でも別の文字が入力されていたら,正常に動作するプログラムは作れません。 そして,生物の生得的行動の場合は,そのような単純なプログラムより,はるかに複雑なプログラムから成っています。 それほど複雑なプログラムが,一度に,偶然や適応だけで作られたと考えるのは,異常だと思います。 つまり,生得的行動も,偶然や適応の産物ではなく,人知を超えた知性を持った存在によって創造されたと考えるほうが,遙かに合理的です。

生物進化の証拠と考えられているものは,本当に生物進化の証拠だと言えるか

上記の田部先生の本から「進化の証拠」について引用しておきます。

進化の証拠
現代の生物学では,次の①~③などを進化の証拠として,進化の過程やしくみについての研究がなされている。
①化石に見られる形態の比較 ②現生生物に見られる形態の比較
③現生生物間の分子レベル(核酸,タンパク質,代謝産物)の比較
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,719頁)

これらの「進化の証拠」と考えられているものは全て,「各点(ある特定の時期に生存していたそれぞれの生物の形態など)を進化論者が勝手に線でつなげて,あたかも生物が進化したかのように見せかけているだけ」であり,進化の証拠とは言えないのではないかと思います。 具体的な証拠として,田部先生は「連続的な進化を示す化石」としてウマの化石で進化を説明したり,「中間形化石」の具体例としてシダ種子類と始祖鳥で進化を説明したり,「生痕化石」(生物が残した生活の跡が化石化したもの)で進化を説明したり,「生きている化石」の具体例としてヤツメウナギ(原索動物と脊椎動物の中間形質)やシーラカンス(魚類と両生類の中間形質)やカモノハシ(爬虫類と哺乳類の中間形質)やソテツ・イチョウやメタセコイアやカブトガニやオウムガイが進化途上の移行段階を示すと説明したり,「現生生物の形態にみられる進化の証拠」として「適応放散と相同器官」「収束進化と相似器官」「痕跡器官」「脊椎動物の発生過程の比較」で進化を説明したり,「現生生物の代謝産物の変化にみられる証拠」の具体例としてニワトリの胚の窒素排出物の変化の説明で,進化の証拠を説明しています。 しかし,これらの説明は本当に進化の証拠だと言えるのでしょうか。 私には,進化を正当化するためのこじつけに思えるのですが…。 これらの説明は「生物進化は事実だ」と疑うこともなく信じ切っている進化論者だけに,論理的な説明として聞こえるのだろうと思います。 私は生物学者ではありませんので,学者がしているような細かい議論はできませんが,一つだけ間違いを指摘しておきます。 痕跡器官(進化の過程で退化し,ほとんど働きを失った器官)の例としてヒトの虫垂が挙げられていますが,ヒトの虫垂は腸内環境を整えるための重要な免疫システムとして機能していることが科学的に分かってきています。 また,進化の過程で退化した器官でもないそうです。 ならば,ヒトの虫垂は痕跡器官とは言えません。 ヒトの虫垂は退化した器官ではなく,しっかりと働いている器官だと分かっても,痕跡器官であることを否定しようとしない進化論者のかたくなな態度は,科学者としても人としてもいかがなものかと思います。 虫垂は人の体に必要な器官として,神によって創造されたと考える方がよほど合理的で柔軟な態度だと思います。

適応進化の一例とされる擬態について

生物の擬態を進化で説明できると信じている進化論者はとても多いように思いますが,彼らの説明はあまりに不可解なので,この点について少し考えてみたいと思います。 田部先生の本から,適応進化と自然選択(自然淘汰)と,擬態の説明を以下に引用しておきます。

自然選択と進化
(1)自然界で起こる個体間の変異に応じた選択であり,集団内の個体のうち,生存や繁殖の上で有利な形質をもつものが次世代の個体を多く残すことを自然選択(自然淘汰)という。
(5)自然選択の結果,適応(生物が生存や繁殖に有利な形質を備えていること)をもたらす進化が起こることがある。これを適応進化(てきおうしんか)という。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,732頁)

擬態(捕食者に対する被食者の適応)
(1)生物が周囲の景色や他の生物と見分けがつかないような形や色になることを擬態(ぎたい)という。
(2)生物が周囲の景色と同じような色(保護色)や模様をもつことをカモフラージュ型擬態といい,コノハムシやコノハチョウは,緑色や茶色の葉に酷似した模様と色をしており,捕食者である鳥やトカゲなどに見つかりにくくなっている。
(3)また,鳥などの捕食者は,学習により毒針をもつハチ(スズメバチなど)や,毒があり味の悪いチョウ(マダラチョウやベニモンアゲハなど)を襲わなくなる。これらのハチやチョウには,鮮やかな色彩(警告色)をもつものが多い。
(4)毒針もなく,味も悪くない昆虫には,(3)のハチやチョウの形や色を似せて,捕食者から逃れるものもいる。このような擬態を標識型の擬態という。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,627頁)

参考
標識型の擬態には,目立つ花などに形と色を似せたハナカマキリが,えさとなる昆虫を待ち伏せするようなペッカム型擬態なども含まれる。
(田部眞哉著『生物合格77講【完全版】』初版,東進ブックス,2017年,627頁)

上記の擬態の説明は広義で使われるもので,狭義には標識型の擬態である(3)と(4)だけを擬態と呼びます。 ちなみに,(3)はミュラー型擬態と呼ばれ,(4)はベーツ型擬態と呼ばれます。 いずれにせよ,生物の擬態を適応進化という概念で説明できると考えるのは,あまりにも非合理的すぎます。 例えば,ある人が,誰か近寄りがたい雰囲気の人に変装するには,今の自分がどのような姿をしているのかを鏡などを見て確認する必要があります。 しかし,擬態をする生物はそもそも自分の姿を見たことがないでしょうし,仮に鏡の役割を果たすようなもので自分の姿を見たとしても,それが自分であるという意識を持つことはないと思われます。 さらに,もし仮に自分の姿を認識できたとしても,周囲の景色や他の生物の形や色に自分の姿を見分けがつかないほど似せることなど,どれだけ長い時間をかけて進化したとしても,確率論上あり得ないことだと思います。 この不可思議な擬態について,古生物学者の濱田隆士氏(1933~2011年)は次のように述べています。

では,魚類がなぜ陸上生活を目ざしたのか,という疑問にはどう対応したらよいのであろうか。 初めに意志あり,というのでは説明として納得しにくい。 いろいろな方向へ環境をひろげようとした中から,たまたま偶然陸上進出をしてしまう流れにのってしまった,というほど受身的,非積極的な傾向だったのであろうか。
ダーウィンは,例えばガラパゴス諸島の島の一つ一つでのさまざまな生物の形態変化を観察し,それぞれの生物はそこでの閉じた環境へしっかり適応することを余儀なくされたための進化の結果と解した。 適応が進化させる,というものであり,おそらく適応できなかった形態変化傾向のものは自然に滅びてしまったのであろう,という,いわゆる自然淘汰(natural selection)の考え方を打ち出した。 リクガメ,ダーウィンフィンチ,ガラパゴスコバネウなどがその素材であった。
たしかに,フィンチの例で見ると,食性に応じて見事に嘴の形が変化した種が成立していて,説明としては納得できるが,そのプロセスについてそのようにふり分けられ,その傾向が固定・定着するという点にはなかなか合点がいかないところもある。
目的意識やそれへの願望実現の努力が重なれば,果たして思い通りの形態や行動を獲得できるのであろうか? 一番不可思議に思えるのが,昆虫類や魚類にしばしば認められる擬態の例であろう。
コノハチョウは,どうやってあの葉脈まで持った木の葉の形を,自ら羽根を閉じたときに演出できたのであろうか。 チョウが葉っぱを見て,このようになれば敵から見つかりにくくて都合よい,では葉になれ,葉になりたいと念じてそうなったと考えてよいのであろうか。 そしてさらに,でき上った形が,まさに木の葉そっくりだ,これでよい,と判断するのは誰なのであろうか。 擬態は,このように,結果としての効用に説明をつけることは愉しく,またおそらく間違っていないのであろうが,その適応のモチーフやプロセスについては何も判っていない,としか言えない。 まして,このような変化が,環境圧から独立の,遺伝子の中の塩基の置き換わりの偶然性から造り出されるとは,大変に納得し難い。
進化の目的は,以上のように,現在のところ全くといってよい程理解されておらず,生物進化学の究極の目標として遠くにあると言わざるを得ない。
(濱田隆士著『固体地球』放送大学教育振興会,1996年,155~156頁)

同様に生物の環境適応傾向の中で,いまのところ説明できない点はほかにも多く見い出せる。 その典型はなんといっても昆虫や魚類にみられる擬態の不思議であろう。 生命の発展形成としては,いわば特殊化に相当するのであろうが,目的をもった意志の働く適応で形態が獲得できるとは考えにくい。 現代科学をもってしても説明できないこの傾向は,いわゆる生物進化の学にとって刺激的な課題でもあるが,進化現象そのものを根底から考え直す必要があることであるかもしれない。 目的論型生態学的解釈が横行しているきらいがあることは否めない。
(濱田隆士・小尾信彌著『地球と宇宙(地球編)』放送大学教育振興会,1996年,139頁)

生物進化を信じていた濱田隆士先生でさえも,このような行きすぎた適応,「過適応」(濱田隆士・小尾信彌著『地球と宇宙(地球編)』放送大学教育振興会,1996年,142頁)については疑問を感じておられたようです。 生物の擬態を最も合理的に説明する方法は,聖書の神による創造です。 聖書を字義通りに解釈すれば,生物が擬態する理由もある程度分かるようになるのではないかと思います(創世記9章2~3節参照)。

ヒトの直立二足歩行について

濱田隆士先生によると,ヒトは二足歩行で直立姿勢を獲得したために,身体的にマイナス効果をもたらすことになったそうです。 具体的には,二足歩行による直立姿勢の完成により,重力生物学的負担として虚血性貧血(たちくらみ),内蔵下垂(胃下垂,脱腸),関節障害(関節炎,ぎっくり腰,椎間板ヘルニア)を引き起こし,運動能力が低下し,柔らかい食物を食べるようになったせいで顎が退化し歯数も減少したという「不自然性」をヒトは持ってしまったというのです。 通常は,ヒトの祖先が直立二足歩行をするようになったことは,進化論者が人類の優位性(脳容積が大幅に拡大した,複雑な道具を使える,高度な文明を築ける等)を説明するために用いると思いますが,それはある局面を強調した,いわば一方的な評価でしかありません。 「ヒトの直立歩行を地球自然の中でみると,不自然性が高く,正確にいえば直立姿勢についての生理的順応が,いまだに達成されていないということになる」のです。 (濱田隆士・小尾信彌著『地球と宇宙(地球編)』放送大学教育振興会,1996年,209~210頁より。)

ヒトの行動で最も特徴的とされる二足歩行について考えてみよう。 結論からいえば,この二足歩行という運動形式は,霊長類のみならず,哺乳類はおろか動物一般にとって,生理的には特殊化とみるべきものである。 二足歩行になったから重い頭を支えられるようになり,知的進化の元になった,という論法は,知的進化が高級・高度のものであり,それはよいことだとするヒト側のひいき目での評価に基づいているといってよいかもしれない。
重力の場に生活する地球生物にとっては,陸上に進出した段階ですでに無理をして抗重力構造をとるべく変化してきたものである。 それでも四足歩行形式は,心臓と頭の位置はほぼ同高になり,血液循環にとって負担は軽い。 二足歩行をし,完全直立歩行に至って,心臓からの血行ばかりでなく,骨や関節にまで大きな負担がかかり,それによる不都合が多々発生している現実を深刻にみつめる必要がある。
たちくらみ,各種の内蔵下垂,ぎっくり腰,運動機能低下等々,二足歩行からもたらされるデメリットは,動物としてのトータルな行動能力の縮小であることに間違いはなく,脳の進化との引きかえになった生理的退化とみなさざるを得ないのである。
(濱田隆士著『固体地球』放送大学教育振興会,1996年,181~182頁)

確かに,進化論者はヒトの祖先である猿人が直立二足歩行をしていたと主張していて,木村資生氏によると,約300万年前には直立二足歩行は確立していたそうです(『生物進化を考える』84~85頁)。 そして樹上ではなく地上で生きていくために,急速に脳が発達したと言われています。 しかし,ここである疑問が生じてきます。 濱田隆士先生の指摘によると,少なくとも約300万年もの間に直立二足歩行によってヒトの脳は急速に発達し適応していったにもかかわらず,身体的には300万年(!)経ってもいまだに適応していない部分(腰や膝など)がいくつも存在することになります。 進化論者はこのような,脳ばかりがやたらと発達し,他の部分は犠牲にされてきたという,ヒトの不自然すぎる進化のプロセスをどのように解決するつもりなのでしょうか。 進化の過程で,地上で生活しなければならなくなったとしても,わざわざ体の一部を犠牲にしてまで直立二足歩行をする必要性があったのでしょうか。 仮に,必要性があったから直立二足歩行を始めたのだとしても,重力生物学的負担のために危険を察知できなくなったり充分な食糧を得られなくなったら,生存や繁殖の上で不利になり,元も子もないと思うのですが…。 実に不可解です。

結論

以上のことから,進化論は論点先取の虚偽を犯していること,そして原始地球における生命の誕生を説明しようとする試みには何の科学的根拠もないことがご理解いただけたと思います。 進化論者は,ただ信念によって,無機物から生命という「進化する機械」が誕生したと信じ込んでいるだけなのです。 また,化学進化も新しい種への進化も起こり得ないと結論づけて良いと思います。 したがって,進化論者の言う「進化は事実だ」という主張には重大な間違いや問題点がいくつも存在することが証明されました。 今後の科学の発展により,さらに進化を否定する証拠が発見されるのではないかと思います。

補足:進化論者の問題点と聖書の教え

参考までに,一般の進化論者に共通していると思われる問題点をまとめてみました。

  1. 論点先取の虚偽を犯しているにもかかわらず,化学進化の段階も含め,「進化は事実だ」という前提のもとで生物進化のメカニズム(どのように生物は進化してきたのかという「進化論」)について議論をしている。
  2. 神が全世界の主権者であることを意図的に認めようとせず,相対主義の視点も含めて,人間中心主義という世界観でしか見ない。
  3. 生命とは分子を部品とする機械である(生命は有機分子,すなわち炭素を骨格とする分子を主要部品とする機械である)と考えるので,霊や魂は存在しないと考える。
  4. 聖書に対する無知と無理解な態度が見られる。そのため,聖書の創造論を信じる者をあざ笑う傾向がある。その自分の傲慢さに気づかない。

3番目の考え方について,補足説明をしておきます。 結論から言うと,学校で教わる通りに「進化は事実だ」と堅く信じているのなら,それと同時に,生物の霊とか幽霊とか魂の存在を信じることは矛盾していることになります。 もし学校で習うように,原始地球上で誕生したとされる原始生命体が,無機物から化学進化という過程を経て誕生したのであれば,その原始生命体は単に分子という部品の組み合わせによって100パーセント偶然に誕生したことになります。 そして,その原始生命体が生物進化という過程を経て現在のヒトなどの生物が存在しているのだとしたら,その進化の過程のどの段階においても,霊とか魂と呼ばれるものが突然ある生物に宿るようになるわけがありません。 なぜなら,進化論者が主張する生物進化の過程においては,霊とか魂が入り込む余地など微塵もないからです。 つまり,「進化は事実だ」と信じることと,生物の霊とか幽霊とか魂と呼ばれるものが存在すると信じることは,絶対に両立しないのです。 ところが,多くの日本人はこの矛盾に気づいていないように思われます。 進化論者の考え方を学校の授業でしっかり学べば,進化論者は,ヒトも含めたいかなる生物にも霊とか魂と呼ばれるものは存在しないと考えていることがはっきりと分かります。 もし今まで気づかなかったのなら,その人は学校で習う進化の過程について正確に理解していなかったことになります。

さて,このような進化論者に対して,聖書はどのように教えているのでしょうか。

神の,目に見えない性質,すなわち神の永遠の力と神性は,世界が創造されたときから被造物を通して知られ,はっきりと認められるので,彼らに弁解の余地はありません。
(『聖書 新改訳2017』ローマ人への手紙 1章20節)

この聖句の「彼ら」とは,第一義的には「不義によって真理を阻(はば)んでいる人々」(ローマ人への手紙1章18節)のことです。 これは,進化論者にもそのまま適用できます。 イエス・キリストの福音を聞いていない人であっても,自然界や良心を通した啓示(一般啓示)により,世界を創造した神の存在とその神が力あるお方であることは明確に認められるので,一般啓示によって示されている真理を拒んで死んだ人は弁解の余地なく,一般啓示によって裁かれると聖書は教えています。 (一方,聖書に記されている啓示(特別啓示)である福音を聞いていながら,その福音を拒否して死んだ人は,弁解の余地なく特別啓示によって裁かれます。 神はえこひいきはなさいません(ローマ人への手紙2章11節)。 この教理の詳細は,ローマ人への手紙1章18節~2章16節に書かれています。) 「弁解の余地はない」というのは,どんな言い訳も神には通用しないという意味です。 このみことばは大変厳しいものだと思いますが,弁解の余地がない理由を以下に述べます。 (幼い時から進化論が刷り込まれていると,とても理解しがたい内容だと思いますが,心を開いて素直に神を求め続けていけば,次第に実感を持って理解できるようになっていきます。)

弁解の余地がない理由
(1)聖書を持たない人にも啓示が与えられています。この啓示を一般啓示と言います。
(2)程度の差はあっても,すべての人に何らかの啓示が与えられています。人間は神のかたちに創造されていますので,神を認識する能力があるのです。そして,神は全ての人に救いのチャンスを提供されています。
(3)しかし人間は,啓示されている真理を押さえつけて,宗教的に,道徳的に,自分勝手に生きています。
(4)これは,意図的に真理を押さえつける生き方であり,神に反抗する生き方です。
(5)したがって,弁解の余地はないのです。
(中川健一著『クレイ聖書解説コレクション「ローマ人への手紙」』紙版第1版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年,51~53頁より要約)

聖書によると,福音を聞かないで死んだ人は滅びています。 (滅びているというのは,その人の霊あるいは魂が「ハデス(よみ)の苦しみの場所」(ルカの福音書16章19~31節参照)に行っているという意味です。 そして最終的には,その人たちはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれ,「ゲヘナ」とか「火の池」と呼ばれる場所,つまり地獄に投げ込まれることが定まっています。 もちろん裁きの軽重はありますが,「火の池」で永遠に苦しみを受けることに変わりはありません。 この教理の詳細は,ヨハネの黙示録20章11~15節,21章8節,21章27節に書かれています。 聖書が人に対して「滅びる」という言葉を使う場合,決してその人の存在自体が消滅するという意味ではありません(伝道者の書12章7節参照)。 人は永遠に存在し続けるというのが聖書の教えです。) その人が滅びる理由は,主権者であり創造主である神から与えられていた真理を,自分の自由意志によって拒否し続けて死んだからです。 人が持っている自由意志は神から与えられているものであり,良い行いをするために用いることもできますし,悪い行いをするために用いることもできるのです。 つまり,福音を聞かないというのは,神から与えられている自由意志を悪用していることになるのです。 したがって,福音を聞かずに死んだ人には弁解の余地はありません。 その人が滅びるのはその人の責任であり,神の責任ではありません。 これが聖書の教えです。 では,一般啓示に応答して生きている人はどうなるのでしょうか。

一般啓示に応答して生きている人には,さらなる啓示が与えられます。 神は,真剣に神を求める人をそのままに捨て置くことはありません。 ある日突然,あるクリスチャンが,行ったこともない国に対して重荷を感じることがあります。 その人は,会ったこともない人たちに福音を伝えるために,宣教師になる準備を始めます。 宣教師が感じるこのような使命の背後には,神の導きがあります。 また神は,宣教師を送らなくても,超自然的な介入をもって求道者に語りかけることができます。 事実,ユダヤ人やイスラム教徒は,このような超自然的な神の介入によって回心することがよくあります。
(中川健一著『クレイ聖書解説コレクション「ローマ人への手紙」』紙版第1版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年,56~57頁)

日本人クリスチャンの少なさを考えると,残念なことに,ほとんどの日本人は真剣に聖書の神(まことの神)を求めようとはしないのでしょう。 その原因の一つとして,特に日本では進化論が蔓延しているからではないかと思います。 どうか,進化論者の肩書きや権威(進化論しか教えない学校の教科書や教師など)に惑わされないで,謙遜になって,聖書の福音(良い知らせ)を真剣に学んで下さいますように。 神は,全ての人が救われて,真理を知るようになることを望んでおられます(テモテへの手紙第一2章4節)。

具体的に聖書の福音を学ぶには,まずは「福音の三要素」をご覧になることをお勧めします。 次に,「新・聖書入門講座―人生の謎を解く―」を聴かれることをお勧めします。 進化論という誤った教えから一人でも多くの日本人が解放されて,人生の本当の意味を知り,生きる喜びと平安を味わって下さることを心から願っています。

参考文献

2019年6月12日更新
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