クリスチャンは兄弟姉妹を裁いてはいけないのか

クリスチャンの中には,「クリスチャンは兄弟姉妹(同じ信仰を持つクリスチャン)を裁いてはいけない」と考えている人がいるようですが,その考えは正しくありません。 その理由を,聖書に基づいて説明したいと思います。

旧約聖書の教え

まず,旧約聖書を調べてみましょう。 モーセの律法には,人を裁くことについて次のように書かれています。

不正な裁判をしてはならない。 弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。 あなたの同胞を正しくさばかなければならない。
(『聖書 新改訳2017』レビ記 19章15節)

そのとき,私はあなたがたのさばき人(びと)たちに命じた。 「あなたがたの同胞相互の言い分をよく聞き,ある人とその同胞との間,また寄留者との間を正しくさばきなさい。
裁判では人を偏(かたよ)って見てはならない。 身分の低い人にも高い人にもみな,同じように聞かなければならない。 人を恐れてはならない。 さばきは神のものだからである。 あなたがたにとって難しすぎる事柄は,私のところに持って来なさい。 私がそれを聞こう。」
(『聖書 新改訳2017』申命記 1章16~17節)

あなたの神,があなたに与えようとしておられる,あなたのすべての町囲みの中に,あなたの部族ごとに,さばき人たちと,つかさたちを任命しなければならない。 彼らは公正に民をさばかなければならない。
あなたはさばきを曲げてはならない。 人を偏って見てはならない。 賄賂(わいろ)を取ってはならない。 賄賂は知恵のある人を盲目にし,正しい人の言い分をゆがめるからである。
正義を,ただ正義を追い求めなければならない。 そうすれば,あなたは生き,あなたの神,が与えようとしておられる地を自分の所有とすることができる。
(『聖書 新改訳2017』申命記 16章18~20節)

もし町囲みの中で争い事が起こり,それが流血,権利,傷害に関わる事件で,あなたがさばきかねるものであれば,あなたはただちに,あなたの神,が選ばれる場所に上り,
レビ人の祭司たち,あるいは,そのときに立てられているさばき人のもとに行って尋ねなさい。 彼らはあなたに判決のことばを告げるであろう。
(『聖書 新改訳2017』申命記 17章8~9節)

いかなる咎(とが)でも,いかなる罪でも,すべて人が犯した罪過は,一人の証人によって立証されてはならない。 二人の証人の証言,または三人の証人の証言によって,そのことは立証されなければならない。
悪意のある証人が立って,ある人に不正な証言をする場合には,
争い合うこの二人の者はの前に,その時の祭司たちとさばき人たちの前に立たなければならない。
さばき人たちはよく調べたうえで,もしその証人が偽りの証人であり,自分の同胞について偽りの証言をしていたのであれば,
あなたがたは,彼がその同胞にしようと企んでいたとおりに彼に対して行い,あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。
ほかの人々も聞いて恐れ,再びこのような悪事をあなたのうちで行うことはないであろう。
あわれみをかけてはならない。 いのちにはいのちを,目には目を,歯には歯を,手には手を,足には足を。
(『聖書 新改訳2017』申命記 19章15~21節)

以上の聖句から,神はイスラエルの民に対して,公正な裁き(裁判)をするように命じておられることが分かります。 また,モーセ五書以外にも,人を裁くことについて次のように書かれています。

悪しき者をえこひいきすることも,
正しい人をさばきで退けることも良くない。
(『聖書 新改訳2017』箴言 18章5節)

さばくときに,人を偏(かたよ)り見るのは良くない。
(『聖書 新改訳2017』箴言 24章23節b)

口のきけない人のために,口を開きなさい。
すべての不幸な人の訴えのために。
口を開いて,正しくさばき,
苦しむ人や貧しい人のためにさばきを行いなさい。
(『聖書 新改訳2017』箴言 31章8~9節)

善をなすことを習い,
公正を求め,虐(しいた)げる者を正し,
みなしごを正しくさばき,
やもめを弁護せよ。
(『聖書 新改訳2017』イザヤ書 1章17節)

人が正しい者であるなら,公正と義を行う。
丘の上で食事をせず,イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず,隣人(となりびと)の妻を汚さず,月のさわりのある女に近寄らず,
だれも虐(しいた)げず,質物(しちもつ)を返し,物をかすめ取らず,飢えている者に自分の食物を与え,裸の者に衣服を着せ,
利息をつけて貸さず,高利を取らず,不正から手を引き,人と人との間を正しくさばき,
わたしの掟(おきて)に従って歩み,わたしの定めを守って真実を行う。 このような人が正しい人であり,この人は必ず生きる――である主のことば。
(『聖書 新改訳2017』エゼキエル書 18章5~9節)

万軍のはこう言われる。
「真実のさばきを行い,
誠意とあわれみを互いに示せ。
やもめ,みなしご,
寄留者,貧しい者を虐(しいた)げるな。
互いに対して,心の中で
悪を企(たくら)むな。」
(『聖書 新改訳2017』ゼカリヤ書 7章9~10節)

これがあなたがたのなすべきことだ。
あなたがたはそれぞれ隣人(となりびと)に対して真実を語り,
真実と平和をもたらす公正さをもって,
あなたがたの門の中でさばきを行え。
(『聖書 新改訳2017』ゼカリヤ書 8章16節)

これらの聖句からも,神はイスラエルの民に対して正しい裁き(裁判)を行うように求めておられることが分かります。 また,旧約聖書には次のような聖句もあります。

心の中で自分の兄弟を憎んではならない。 同胞をよく戒めなければならない。 そうすれば,彼のゆえに罪責を負うことはない。
あなたは復讐してはならない。 あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。 あなたの隣人(となりびと)を自分自身のように愛しなさい。 わたしはである。
(『聖書 新改訳2017』レビ記 19章17~18節)

復讐と報復はわたしのもの。
それは彼らの足がよろめくときのため。
(『聖書 新改訳2017』申命記 32章35節a)

怒ることをやめ,憤りを捨てよ。
腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
(『聖書 新改訳2017』詩篇 37篇8節)

これらの聖句はどのように解釈すれば良いでしょうか。 結論から言うと,神はイスラエルの民に対して,「憎しみ,復讐心,恨み,不当な怒りによって隣人を裁くのではなく,モーセの律法(神がイスラエルの民に与えた法体系)に基づいて公正に裁きなさい」と言っておられるのです。 また,神はイスラエルの民に対して,「愛によって隣人を戒めなさい」とも命じておられるのです。 いずれにせよ,隣人を個人的に戒める場合でも,公に裁く場合でも,必ず愛に基づいていることが最も重要なのです。

また,旧約聖書の次のような箇所にも,神から,愛に基づいた正義(公正な裁判)を行うように求められていることが書かれています。

幸いなことよ さばきを守る人々
いかなるときにも正義を行う人は。
(『聖書 新改訳2017』詩篇 106篇3節)

善を求めよ。悪を求めるな。
そうすれば,あなたがたは生き,
あなたがたが言うように,
万軍の神,が,ともにいてくださる。
悪を憎み,善を愛し
門で正しいさばきを行え。
(『聖書 新改訳2017』アモス書 5章14~15節a)

以上のことから,旧約時代に神がイスラエルの民に求められたのは,愛に基づく個人的な戒めと,愛とモーセの律法に基づいた正しい裁き(公正な裁判)であることがご理解いただけると思います。

新約聖書の教え

次に,新約聖書を調べてみましょう。

「うわべで人をさばかないで,正しいさばきを行いなさい。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 7章24節)

このみことばはイエス様が群衆に対して言われたことですが,このみことばはレビ記19章15節と同じことを言っていると考えられます。 ここでの「うわべ」というのは,当時の宗教的指導者たちが教えていた口伝律法(先祖からの言い伝え)のことで,モーセ五書に書かれているモーセの律法にはない教えのことです。 そのような,人間が勝手に作り出した教えで人を裁いてはいけないと,イエス様は言われたのです。 また,新約聖書には次のようなみことばもあります。

「さばいてはいけません。 自分がさばかれないためです。
あなたがたは,自分がさばく,そのさばきでさばかれ,自分が量(はか)るその秤(はかり)で量り与えられるのです。」
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 7章1~2節)

このみことばを裁きの全否定と考える人がいるようですが,文脈をよく考えてみると,イエス様は裁きの全否定をしているのではないことが分かると思います。 このみことばは,自分を神のような審判者とし,自分が勝手に正しいと思い込んでいる基準で兄弟を裁くなら,同じように自分も裁かれるという意味です。 あるいは,「裁き」という言葉にこだわって説明すると,イエス様は個人的に兄弟姉妹を裁くことを否定しておられるのであって,公の場(教会内)で裁きを行うことは否定しておられないのです。 そして,公の場で裁きを行う時は,必ず聖書の明確な教えに基づいている必要があります。 (聖書に明確な教えがない場合は,寛容な態度をとるのが良いと思います。 ローマ人への手紙14章参照。) また,続く3~5節を読めば,このみことばは裁きの全否定ではなく,自分の大きな罪を認めようとせずに相手の小さな罪を裁くような偽善者であってはならないという教えだと分かると思います。 イエス様は,裁きの全否定をしているのではないのです。 同じことが,ルカの福音書6章37節,41~42節に書かれています。 以下に,マタイの福音書7章3~5節を引用しておきます。

「あなたは,兄弟の目にあるちりは見えるのに,自分の目にある梁(はり)には,なぜ気がつかないのですか。
兄弟に向かって,『あなたの目からちりを取り除かせてください』と,どうして言うのですか。 見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ,まず自分の目から梁を取り除きなさい。 そうすれば,はっきり見えるようになって,兄弟の目からちりを取り除くことができます。」
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 7章3~5節)

また,マタイの福音書18章15~17節には,罪を犯した兄弟姉妹を戒める際の具体的な方法が教えられています。 その目的は,罪を犯した兄弟姉妹を霊的に回復させるため(父なる神との交わりを回復させるため)であり,おとしめるためではありませんので注意して下さい。

「また,もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら,行って二人だけのところで指摘しなさい。 その人があなたの言うことを聞き入れるなら,あなたは自分の兄弟を得たことになります。
もし聞き入れないなら,ほかに一人か二人,一緒に連れて行きなさい。 二人または三人の証人の証言(直訳「口」)によって,すべてのこと(直訳「ことば」)が立証されるようにするためです。
それでもなお,言うことを聞き入れないなら,教会に伝えなさい。 教会の言うことさえも聞き入れないなら,彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 18章15~17節)

ルカの福音書17章3b~4節でも,イエス様が「罪を犯した兄弟姉妹を戒めなさい」と言われたことが書かれています。

「兄弟が罪を犯したなら,戒めなさい。 そして悔い改めるなら,赦しなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても,七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら,赦しなさい。」
(『聖書 新改訳2017』ルカの福音書 17章3b~4節)

ただし,この箇所で注意すべきは,罪を犯した兄弟姉妹が悔い改めなくても,赦しの心を持ち続けることです。 このイエス様の教えを誤解しないために,少し説明を加えておきます。 兄弟姉妹が罪を悔い改めた時に,上から目線で「赦します」と言うのは傲慢であり,言うまでもなく罪です。 このイエス様の教えを正しく理解するために,次の二つの聖句の意味を考えてみて下さい。 罪を犯した兄弟姉妹を戒めることと,心の中でその罪を赦していることは両立します。

無慈悲,憤り,怒り,怒号,ののしりなどを,一切の悪意とともに,すべて捨て去りなさい。
互いに親切にし,優しい心で赦し合いなさい。 神も,キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
(『聖書 新改訳2017』エペソ人への手紙 4章31~32節)

ですから,あなたがたは神に選ばれた者,聖なる者,愛されている者として,深い慈愛の心,親切,謙遜,柔和,寛容を着なさい。
互いに忍耐し合い,だれかがほかの人に不満を抱いたとしても(あるいは「責めるべきことがあったとしても」),互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように,あなたがたもそうしなさい。
そして,これらすべての上に,愛を着けなさい。 愛は結びの帯として完全です(あるいは「完全に結び合わせるものです」)。
(『聖書 新改訳2017』コロサイ人への手紙 3章12~14節)

また,キリストの使徒として召されたパウロは,ケファ(ペテロ)の優柔不断な行動を批判したことがありますが,パウロはペテロをおとしめるために批判したのではありませんので,誤解のないように。

ところが,ケファがアンティオキアに来たとき,彼に非難すべきことがあったので,私は面と向かって抗議しました。
ケファは,ある人たちがヤコブのところから来る前は,異邦人と一緒に食事をしていたのに,その人たちが来ると,割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き,離れて行ったからです。
そして,ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり,バルナバまで,その偽りの行動に引き込まれてしまいました。
彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て,私は皆の面前でケファにこう言いました。 「あなた自身,ユダヤ人でありながら,ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば,どうして異邦人に,ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」
(『聖書 新改訳2017』ガラテヤ人への手紙 2章11~14節)

以上の聖句から,新約聖書においても,憎しみや復讐心や恨みや不当な怒りによって兄弟姉妹を裁くのではなく,愛をもって戒めるように求められていることが明確に理解できると思います。 それは次の聖句からも分かると思います。

兄弟たち。 もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら,御霊の人であるあなたがたは,柔和な心でその人を正してあげなさい。 また,自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
(『聖書 新改訳2017』ガラテヤ人への手紙 6章1節)

もし,この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば,そのような人には注意を払い,交際しないようにしなさい。 その人が恥じ入るようになるためです。
しかし,敵とは見なさないで,兄弟として諭(さと)しなさい。
(『聖書 新改訳2017』テサロニケ人への手紙 第二 3章14~15節)

次の聖句は長老に対するものであり,全ての信徒に当てはまるわけではありませんので,誤解のないように注意して下さい。

長老に対する訴えは,二人か三人の証人がいなければ,受理してはいけません。
罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。 そうすれば,ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。
(『聖書 新改訳2017』テモテへの手紙 第一 5章19~20節)

ヤコブの手紙4章11~12節にも「隣人を裁くな」ということが書かれていますが,この箇所での意味は,「悪口(あっこう)を言って,主にある兄弟姉妹を裁いてはいけない」というものです。 主にある兄弟姉妹について悪口を言うことは愛のない行為ですから,互いに愛し合うべきクリスチャンはやってはいけないという意味です。 以下に,その聖書箇所を引用しておきます。

兄弟たち,互いに悪口(あっこう)を言い合ってはいけません。 自分の兄弟について悪口を言ったり,さばいたりする者は,律法について悪口を言い,律法をさばいているのです。 もしあなたが律法をさばくなら,律法を行う者ではなく,さばく者です。
律法を定め,さばきを行う方はただひとりで,救うことも滅ぼすこともできる方です。 隣人(となりびと)をさばくあなたは,いったい何者ですか。
(『聖書 新改訳2017』ヤコブの手紙 4章11~12節)

これまで兄弟姉妹を戒めることについて書いてきましたが,クリスチャンにとって最も大事なことは「愛の実践」です。 イエス様がヨハネの福音書13章34節,15章12節,17節で命じられているとおりです。 兄弟姉妹を戒める時には,常に愛と赦しの心を持って戒めなければなりません。 もし愛と赦しの心がなく,上から目線で責めるなら,私たちの心は暗やみに捕われてしまいますので,注意が必要です。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 13章34節)

「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合うこと,これがわたしの戒めです。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 15章12節)

「あなたがたが互いに愛し合うこと,わたしはこれを,あなたがたに命じます。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 15章17節)

結論

以上のことから,新約時代の現在でも,神から求められていることは本質的に何も変わっていないことが分かります。 具体的に言うと,神はクリスチャンに対して,次のように求めておられると考えられます。 「クリスチャンである兄弟姉妹が罪を犯したら,憎しみや復讐心や恨みや不当な怒りによってではなく,聖書の教えに従って,愛によって,柔和な心で戒めなさい。 戒める場合,まずは二人だけのところで戒めなさい。 誰かに告げ口をしたりせずに,罪を犯した相手と向き合って,悔い改めを求めなさい。 それでも罪を認めようとしないなら,一人か二人を証人として連れて来て,悔い改めを迫りなさい。 それでも罪を認めようとしないなら,地域教会として悔い改めを求めなさい。 (もし罪を犯した人が長老,つまり牧師や教師である場合は,その人の罪を兄弟姉妹の前で公にして,裁判をしなさい。) それでも罪を認めようとしないなら,教会の交わりから追放しなさい。 ただし,悔い改めたら,何度でも赦しなさい。」

このような教えは一見厳しいもののように思われるかもしれませんが,これは神による愛のある配慮だと思います。 互いに愛し合うことは大切ですが,不法や不正を放っておくことは兄弟姉妹に悪影響を与えます。 具体的には,つまずかせたり,恨みの感情を生んだり,教会から去らせてしまったり,信仰を失わせてしまいます。 そのようなことを避けるために,罪を犯した兄弟姉妹に対して,柔和な心できちんと戒める必要があるのです。 また,罪を犯した者も,悔い改めないならただでは済まないと思います。 神は侮られるような方ではありませんので,罪を犯していながら罪を認めようとせず,悔い改めもしない人は,必ずその罪の刈り取りをしなければならなくなるでしょう(ガラテヤ人への手紙6章7節)。 それは神ご自身も悲しまれることです(エペソ人への手紙4章30節)。 そのような悲しいことを避けるためにも,これ以上兄弟姉妹が罪を犯さないように柔和な心で戒めるのは,神の御心(みこころ)にかなっている,愛のある大切な行為だと思います。 愛である神は,被害者だけでなく,加害者のことも考えて,上記のように教えておられるのだと思います。

2018年8月15日更新
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