カトリック教会では主イエスの母を「聖母マリア」と呼び,日本正教会では「生神女マリヤ(しょうしんじょマリヤ)」と呼ぶそうですが,彼女(以下,マリアと表記)へのとりなし(転達)の祈りについて考察してみます。
カトリック教会や正教会では,マリアへとりなしの祈りをすることができると教えているようですが,この聖書的根拠は,ヨハネの福音書2章1~11節にあると考えられます。 しかしこの聖書箇所は,ぶどう酒がなくなって困っているだろう花婿のために,マリアが自発的に主イエスにお願いをしただけにすぎず,既に死んでいるマリアがまだ生きている信徒のために主イエスへとりなしをしたという根拠にはなり得ません。 どこをどう読んでも,この聖書箇所は,マリアへとりなしの祈りができる根拠にはなっていないのです。 よって,カトリック教会や正教会は的外れな根拠を提示していることになります。
また,マリアは,使徒の働き1章14節を最後に,その死や召天や死後の様子について,一切聖書には出て来ません。 マリアは確かに模範的なクリスチャンだったと思いますが,そのマリア自身も主イエスによって罪赦された罪人だったことが聖書から分かります。 その証拠に,ルカの福音書1章28節を読むと,天使ガブリエルはマリアに対して「恵まれた方」と言っています。 (ギリシア語の原文では「ケカリトーメネー(κεχαριτωμένη)」という一つの単語で,これは「恵みを授ける」という意味の動詞「カリトー(χαριτῶ (-όω))」の現在完了受動分詞・呼格女性単数形です。 そして,「恵み(χάρις)」とは,受ける資格のない者に神が与えて下さる愛のことです。 カトリック教会のラテン語訳聖書『ウルガタ(Vulgata)』では「グラーティアー・プレーナ(gratia plena)」(「恩寵に満ちた方」「full of grace」という意味)と訳されていますが,これは誤訳です。) つまり,マリアは神の一方的な恵みによってメシアの母に選ばれた,ということです。 決してマリアに選ばれるだけの優れた要因があったわけではないのです。 100パーセント神の恵みによって,マリアはメシアの母に選ばれたのです。 これは,クリスチャンが100パーセント神の恵みによって救われた(エペソ人への手紙2章5節参照)のと同じことです。 また,ルカの福音書2章22~24節(特に24節)を読むと,マリアは,レビ記12章6~8節に書かれた「罪のきよめのささげ物」(『聖書 新共同訳』では「贖罪の献げ物」,『聖書 聖書協会共同訳』では「清めのいけにえ」)を献げるためにエルサレムに来たことが分かります。 このルカの記録は,マリアも罪をきよめられる必要がある罪人だったことを証明しています。 つまり,マリアも私たちと同じ罪人だったのです。 したがって,マリアを偶像のように特別扱いすることは,聖書の教えに反しているのです。 また,聖書には,死んだ人間が生きている人間のためにとりなしの祈りをするという記述はありません。 既に死んでいるマリアが,生きているクリスチャンのためにとりなしの祈りをしてくれるという記述も,聖書にはありません。 したがって,マリアがとりなしの祈りをしてくれるという教えは,非聖書的なのです。
現在,もし仮にマリアにとりなしができるとすると,マリアは信徒一人一人の祈りを聞いて,それを主イエスに伝えることになります。 ところが,カトリック教会と正教会の信徒を合わせると,世界中に何億人もいるわけですから,マリアへとりなしを祈る人々は,いつも世界中に億単位,少なく見積もっても万単位の人がいるのではないでしょうか。 マリアは神様のように遍在ではないので,その億単位,万単位の人の中から一人を選んで,とりなしをすることになります。 ならば,とりなしの祈りが聞き届けられるのは,何億分の一,あるいは何万分の一の可能性しかありません。 つまり,もしあなたがマリアにとりなしの祈りをしたとしても,その祈りが聞かれる可能性は限りなく低いことになります。 あなたの祈りがマリアに届く可能性はほとんどないと言っても良いでしょう。 マリアへとりなしの祈りをすることは,非現実的なのです。 ゆえに,マリアにとりなしの祈りをして心の平安が得られなかったとしても,それは当然のことなのです。 また,マリアへのとりなしの祈りを聞いていた神様があわれんで下さることはあるかもしれません。 しかし,それを「とりなしの祈りが聞き届けられた」と勘違いしないように。 それはあくまで神様の一方的なあわれみによるのです。
そもそも,祈りをするのにマリアという人間の仲介者は必要ないのです。 それは,ヨハネの福音書16章25~27節を読むと分かります。
わたしはこれらのことを,あなたがたにたとえで話しました。 もはやたとえで話すのではなく,はっきりと父について伝える時が来ます。
その日には,あなたがたはわたしの名によって求めます。 あなたがたに代わってわたしが父に願う,と言うのではありません。
父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。 あなたがたがわたしを愛し,わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 16章25~27節)
つまり,父なる神が私たちクリスチャンを愛しておられるので,主イエスでさえ私たちに代わって祈ってあげることはない,という意味です。 また,ヨハネの福音書1章12節とガラテヤ人への手紙4章6節から,クリスチャンは神の子どもとされたので,父なる神様に対して「アバ,父よ」(「アバ」は「お父さん」という意味のアラム語)と親しみを込めて呼びかけて良い特権があることが分かります。 つまり,祈りをするのに仲介者は必要なく,直接,主イエスの御名(みな)によって,父なる神様に対して祈れば良いのです。 神は遍在ですので,どこでお祈りをしても構いません。 心から熱心に祈り求めれば,神様はその祈りを聞いて下さるでしょう(マタイの福音書7章7~12節参照)。 そして心には平安が与えられると思います。 (聖書の中で「とりなし」という言葉は,ローマ人への手紙8章34節,ヘブル人への手紙7章25節に出てきます。 これらの聖句における「とりなし」とは,主イエスが弱い私たちのために自発的に父なる神様にとりなしをして下さる,という意味です。 ローマ人への手紙8章27節には「御霊(みたま)は神のみこころにしたがって,聖徒たちのためにとりなしてくださる」と書いてありますが,このとりなしは,26節に書いてあるように,どう祈ったら良いか分からない私たちのために,聖霊が父なる神様にとりなして助けて下さる,という意味です。 また,主イエスのとりなしについては,ヨハネの手紙第一2章1節も参照して下さい。)
あなたが祈るときは,家の奥の自分の部屋に入りなさい。 そして戸を閉めて,隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば,隠れたところで見ておられるあなたの父が,あなたに報いてくださいます。
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 6章6節)