「煉獄」は存在するか

カトリック教会では,主イエスを信じて救われた人でも,地上生涯のうちに全ての罪からきよめられていないと,「煉獄」という場所で全ての罪をきよめられるまで苦しめられ,それから天国へ行くことができる,と教えているようです。 しかし,その教えは非聖書的な教えです。 なぜなら,聖書には「煉獄」という言葉だけでなく,そのような概念すらも存在しないからです。 ではなぜ,カトリック教会は「煉獄」というものの存在を主張するのでしょうか。

第一に,「煉獄」の存在を暗示している聖書箇所として,マタイの福音書12章32節が挙げられているようです。 しかし,この箇所における「次に来る世」(『聖書 新改訳2017』),「後の世」(『聖書 新共同訳』),「来(きた)るべき世」(『聖書 聖書協会共同訳』)とは,ユダヤ的理解では「メシア的王国(千年王国)」のことを指しています。 既に主イエスを信じて救われた人は,肉体的に死んだ後で「煉獄」という所へ行くことなしに,天の御国,すなわちメシアであるイエス様が地上に再臨してからできるメシア的王国(千年王国)へ入れることが100パーセント保証されています(ルカの福音書23章39~43節,ゼカリヤ書14章5節,ユダの手紙14節,ヨハネの黙示録20章4~6節参照)。 (これらの聖書箇所の「聖なる者」「聖徒」と言うのは,主イエスを信じて救われた全ての人を指していて,殉教者だけが特別扱いされるという教えは聖書にはありません。 つまり,殉教者だけが「煉獄」を経ないで直接天国へ行けるのではなく,全ての信者が直接天国へ行けるというのが聖書の教えなのです。 実際,ルカの福音書23章に登場する回心した強盗は殉教者ではなく,強盗という罪のために十字架刑で死にましたが,死んだその日に主イエスとともにパラダイス(天国)へ行っています。) これが,聖書が教える救いの意味であり,神の恵みなのです。 そもそも,一度主イエスを信じたら,過去,現在,未来の全ての罪が完全に赦される,というのが,主イエスの十字架の意味です(コロサイ人への手紙2章13~14節参照)。 主イエスは,私たちの全ての罪を背負って十字架上で死んで下さいました。 その贖いは完全なものでした。 その証拠に,主イエスは十字架上で「完了した」(『聖書 新改訳2017』),「成し遂げられた」(『聖書 聖書協会共同訳』)と言われました(ヨハネの福音書19章30節参照)。 これは,罪の赦しのための全ての贖いが完了し,もはや他の贖いは何も必要ないということを意味しているのです。 それゆえ,救われた人は誰でも,死後にそのまま天国へ行けるのです。 したがって,マタイの福音書12章32節は「煉獄」の存在の根拠にはなり得ません。

ちなみに,マタイの福音書12章31~32節の「赦されない罪」とは,文脈をよく見てみると,この時代のユダヤ人だけが犯せる罪であることが分かります。 その理由は,イエス様は「この時代の人々」(マタイ12:41~42)に対して,マタイ12:31~32のみことばを語られたからです。 したがって,この「赦されない罪」は今の私たちには適用されません。 「この時代の人々」が「この世でも次に来る世でも」赦されない理由は,彼らが,目の前にいるイエスを,悪霊どものかしらベルゼブル(悪魔=サタン)によって悪霊どもを追い出していると,民族的・国家的に信じた(イエスがメシアであるという聖霊の証しを冒瀆した)からであり,イエスがメシアであることを公に拒否したからです。 その後でも個人的に救われるユダヤ人はいましたが,民族的にはイエスのメシア性を拒否したので,「この時代の人々」はその「赦されない罪」を犯した結果,紀元70年にローマ軍によって滅ぼされて,その罪の刈り取りをしたのです。 これがマタイの福音書12章31~32節の「赦されない罪」の意味です。 この記事の並行箇所として,マルコの福音書3章22~30節,ルカの福音書11章31~32節,12章10節も参照して下さい。 (文脈に注意しながら,読んでみて下さい。)

ヨハネの福音書19章28節,30節の「完了した」「成し遂げられた」という言葉の意味について,もう少し詳しく説明しておきます。 この言葉は,ギリシア語の原文では「テテレスタイ(τετέλεσται)」と書かれています。 (τετέλεσταιは,τελῶ (-έω)の現在完了・受動相・直説法・3人称単数です。) この「テテレスタイ」というギリシア語は,発掘された当時の請求書に書かれていた商売用語で,負債が全額支払われた証拠としてサインされていることが,考古学者たちの研究によって分かっています。 つまり,イエス様は,私たちが支払うべき罪の代価を,私たちの代わりに全て支払って下さったのです。 したがって,このイエス様を「私の主」と信仰告白した人は誰でも,自分の罪を全て赦されているのです(ローマ人への手紙3章23~24節,10章9~10節参照)。 ここで「全て」というのは,過去や現在進行形の罪だけでなく,将来犯してしまう罪も全て含まれているのです。 なぜなら,イエス様は神ご自身なので,時間に束縛されるお方ではないからです。 私たち人間の時間感覚から言えば,イエス様の贖罪死は約2000年前の出来事になりますが,神の視点から見れば,当時まだ生まれてもいなかった現代の全ての人に対しても有効な,完全な贖いなのです。 もしカトリック教会が主張するように「煉獄」というものが存在するとしたら,イエス様の十字架上の贖罪死は不完全だったことになってしまいます。 「煉獄」の存在を主張するということは,イエス様が成して下さった完全な愛である身代わりの死(十字架上の贖罪死)を過小評価することであり,それは神への冒瀆罪に当たります。 当然,死罪に値する罪です。 何と悲しく,愚かなことでしょうか。 カトリック教会のように「煉獄」の存在を教える偽教師たちに惑わされないように注意して下さい。 キリスト教会で教えられる全ての内容は,聖書(66巻から成る正典)の教えと一致しているかどうかを調べる癖を身につけて欲しいと思います。 使徒の働き17章10~12節に書いてあるように,ベレアという町のユダヤ人は,パウロとシラスの教えが本当に正しいのかどうかを確認するために「毎日聖書を調べた」のです。 カトリックの信者たちが,彼らの熱心さを見習って下さいますように,願っています。

第二に,カトリック教会が第二正典として認めているマカバイ記二12章44~45節で,死者のためのとりなしの祈りを認めていることを,「煉獄」の存在の根拠としているようです。 しかし,マカバイ記は,プロテスタント教会ではアポクリファ(外典)と考えられています。 (アポクリファについては,聖書入門.comの動画「聖書外典(アポクリファ)とはなんですか。」を参照して下さい。) つまり,歴史的資料としての価値は認められているのですが,神のことばとしての権威は認められていないのです。 なぜなら,正典として認められている66巻の書の中に,死者のためのとりなしの祈りが有効であるという記述が全く存在しないからです。 それどころか,死者のためのとりなしの祈りは無意味だと,聖書の正典が明確に教えています(サムエル記第二12章15~23節参照)。 したがって,マカバイ記のこの箇所も「煉獄」の存在の根拠にはなり得ません。 (ちなみに,このマカバイ記の記述は,正典として認められているサムエル記の記述と明らかに矛盾しています。 ゆえに,マカバイ記は正典とは認められないのです。) 死者のためのとりなしの祈りがテモテへの手紙第二1章16節以下に書かれていると主張する人がいるかもしれませんが,この時オネシポロが既に死んでいると考える必要はありません。 「特に,家族の理解と支えあってのオネシポロのわざと見れば,家族への感謝を覚えて特別に言及しても不思議ではない」(『新実用聖書注解』いのちのことば社,2008年,1731頁)と思います。 また,ヨハネの福音書10章22~23節で「ハヌカの祭り」をキリスト自身も行っているという理由で,マカバイ記を正典だと考える人がいるようですが,そのような理由からマカバイ記が正典だという結論は導けません。 なぜなら,論理的に飛躍しすぎていて,何の根拠にもなっていないからです。 以上のことから,マカバイ記の記述も「煉獄」の存在の根拠にはなり得ないのです。

他にも,「煉獄」が存在する根拠として挙げられている聖書箇所があるようですので,それらについても簡単に説明しておきます。 まず第一に,コリント人への手紙第一3章13~15節ですが,文脈を考えると,ここで焼かれるのはクリスチャンではなく,クリスチャンが建てた建物です。 つまり,クリスチャン(主イエスを信じて救われている人)が神から離れた生活をしているなら,その人自身はそのまま天国へ入れますが,その人の働きは無益なものとして焼かれてしまうという意味です。 実際,15節には「その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」と書いてあります。 どこにも,「その人は,火の中で苦しんで,くぐり抜けて来た後で,救われます」とは書いてありません。 第二に,ペテロの手紙第一1章7節は,「火で精錬されてもなお朽ちていく金」と「試練で試された信仰」とが対比されているだけです。 ペテロはこの手紙の読者(第一義的には,離散している第二世代のユダヤ人クリスチャン)を励ますために,このような対比を用いて説明しているのであって,それ以上の意味はありません。 第三に,マタイの福音書24章13節の「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とは,大患難時代を生き延びるユダヤ人のことです。 「煉獄」とは何の関係もありません。 他にも「煉獄」の根拠だと主張する聖書箇所があるかもしれませんが,それらは全て間違いなく,根拠にはなり得ません。 文脈をよく理解すれば,何の根拠にもなっていないことは簡単に分かると思います。

以上の考察から,「煉獄」は存在しないことが証明されました。 カトリック教会が「煉獄」という聖書には啓示されていないものの存在を主張するのは,その方が彼らにとって都合が良いというだけのことでしょう。 カトリック教会は,神の自己啓示の書である聖書よりも人間の教えの方を上に置いています。 これは神の権威を人間よりも低く見る考え方であり,神に対する冒瀆(ぼうとく)です。 その罪は当然,死罪に値します。 もし,あなたが「煉獄」の存在を信じているのなら,その教理の誤りを認め,主イエスの贖いは完全であることを聖書からしっかりと学んで下さい。 そして,ローマ教皇のような権威ある人間の教えを盲信するのをやめて,何が正しい教えなのか,自分の頭で考えられる自立したクリスチャンになって下さい。 どうか,主の恵みと知恵が豊かに与えられますように。

参考文献

2019年8月5日更新
Copyright © 2012-2019 Yutaka Kato All rights reserved.