旧約時代に神がイスラエルの民に与えられた法体系(これを「モーセの律法」と言い,旧約聖書の出エジプト記,レビ記,民数記,申命記の中に書かれています)の中心的な戒めが,出エジプト記20章3~17節(あるいは申命記5章7~21節)に書かれているモーセの十戒(じっかい)です。 モーセの十戒はモーセの律法の中に含まれており(ヤコブ2:10~11),モーセの律法はイエス・キリストの十字架上の死をもって無効になりました(ローマ7:1~6,10:4,2コリント3:2~11,ガラテヤ3:19,3:23~25,エペソ2:14~16,ヘブル7:11~18)。 したがって,現在ではモーセの十戒も無効になっています。 しかし,クリスチャンの中には「モーセの十戒は現在でも有効だ」と考えている人がいるようなので,そのように考えてしまう理由を考えてみました。 結論から言うと,新約聖書を調べてみると,モーセの十戒におけるほとんどの戒めが新約聖書の中で再登場しているので,頭が混乱して「モーセの十戒は現在でも有効だ」と考えてしまうのではないかと思います。 しかし,既に述べたように,そもそもモーセの律法はイスラエルの民にのみ与えられた法体系であり,私たち異邦人に与えられた律法ではありません。 そして,モーセの律法は現在では無効になっているので,モーセの十戒も無効になっています。 したがって,新約時代のクリスチャン(現在のクリスチャン)はモーセの十戒そのものを守るのではなく,新約聖書に書かれている戒めを守ることになります。 (十戒を含めたモーセの律法が無効になっていることは,アーノルド・フルクテンバウム著/佐野剛史訳『ヘブル的キリスト教入門―メシアニック・ジューの歴史,神学,哲学から学ぶ―』(紙版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年)の「第6章 モーセの律法」で詳しく説明されていますので,興味がある方はこの本を購入して学んでみて下さい。) それでは,無効となったモーセの十戒における戒めが新約聖書の中でどのように再登場しているのかを調べてみましょう。
新約聖書における関連聖句:マタイ6:19~24,6:25~34,使徒8:9~13(シモンという名の魔術師),13:6~11(バルイエスという名の魔術師で偽預言者),16:16~18(占いの霊につかれた女),ガラテヤ5:20(魔術),ピリピ3:19(欲望を神とする),1テモテ6:9~10,2テモテ3:4(神よりも快楽を愛する者),テトス3:3(いろいろな欲望と快楽の奴隷),ヤコブ4:3(自分の快楽),4:4(世を愛する),黙示録9:21(魔術),18:23(魔術),21:8(魔術を行う者),22:15(魔術を行う者)。 魔術や占いを行うことは,まことの神(ヤハウェ)以外のものを神と見なしていることになります。
新約聖書における関連聖句:ローマ16:18(自分の欲望に仕える者),1コリント6:9(偶像を拝む者),1コリント10:7(偶像礼拝者),1コリント10:14(偶像礼拝),ガラテヤ5:20(偶像礼拝),エペソ5:5(偶像礼拝者),コロサイ2:18(御使い礼拝),3:5(貪欲は偶像礼拝),1ペテロ4:3(律法に反する偶像礼拝),1ヨハネ5:21(偶像から自分を守りなさい),黙示録9:20(偶像を拝み続ける),13:12(獣を拝ませる),13:14(獣の像を造るように命じる),14:11(獣とその像を拝む者たち),16:2(獣の像を拝む者たち),19:10(御使い礼拝),19:20(獣の像を拝む者たち),20:4(獣やその像を拝む),21:8(偶像を拝む者),22:15(偶像を拝む者)。
新約聖書における関連聖句:使徒6:11,19:13,26:11,1テモテ1:20(神を冒瀆してはならない),6:1,2テモテ2:19,3:2(神を冒瀆する者),テトス1:16,ヘブル6:10,13:15,ユダ15,黙示録11:18,13:1,13:6(神の御名を冒瀆する),15:4,16:9(神の御名を冒瀆する),16:11(天の神を冒瀆する),16:21(神を冒瀆する),17:3。
この安息日の規定は,新約時代では廃止されています。 というのも,新約聖書のどこにもこの戒めは再登場していないからです。 モーセの律法が有効だった時代の安息日に関連した聖句には,ルカ13:10~17,14:1~6,ヨハネ5:1~18,7:14~24,9章があります。 また,次のような並行記事もあります。 (1)マタイ12:1~8,マルコ2:23~28,ルカ6:1~5,(2)マタイ12:9~14,マルコ3:1~6,ルカ6:6~11。
新約時代に生きる私たちには,モーセの律法(安息日の規定)は適用されません。 安息日は,キリストを信じた人が経験する霊的状態の型です。 それを教えているのが,ヘブル人への手紙の4章です。 キリストにあって神の平安(安息)を得ていることを感謝しましょう。
(中川健一著『クレイ聖書解説コレクション「出エジプト記」』紙版第1版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年,408頁)
新約聖書における関連聖句:エペソ6:1(主にあって両親に従いなさい),コロサイ3:20(両親に従いなさい),1テモテ1:9(父を殺す者や母を殺す者),2テモテ3:2(両親に従わない者)。
旧約聖書の出エジプト記32章27節などを読んでも分かるように,この十戒の戒めは殺人の全否定をしているわけではありません。 しかし新約時代になると,意味合いが変わってきます。 例えばレビ記20章に書かれているような神による殺人命令や,ヨシュア記に書かれているような神の代理戦争は,新約時代の現在ではあり得ないのです。 その理由は,新約聖書を読むと分かると思いますが,新約聖書には神からの殺人命令や代理戦争の命令は一つも登場しないからです。 新約聖書における関連聖句は次の通りです。 マタイ5:22,ヨハネ8:22(自殺するつもり),使徒16:27(自殺しようとした),エペソ6:12(私たちの格闘は血肉に対するものではない),1テモテ1:9(人を殺す者),ヤコブ4:1~2,1ペテロ4:15,1ヨハネ3:15(兄弟を憎む者はみな,人殺し),黙示録9:21,21:8,22:15。 また,並行記事として,マタイ15:19~20,マルコ7:21~23があります。
ここで,死刑制度について触れておきます。 死刑制度の創設は,無条件契約(=片務契約)であるノア契約(創世記9章1~7節)の条項の一つとなっています(創世記9:5~6)。 この条項は後にモーセの律法に採用され,神が命じた場合のみ死刑が行われることになりました(死刑に当たる罪は,レビ記20章など参照)。 新約時代ではモーセの律法は既に無効になっているのですが,無効になっていることと禁止されていることはイコールではありません。 新約時代のメシアニック・ジューにはモーセの律法の命令を守らなくても良い自由がありますが,その一方で,モーセの律法の一部を守る自由もあります(使徒の働き15章,ローマ人への手紙14章など参照)。 死刑制度について言えば,新約聖書には神からの殺人命令は一つも存在しませんが,愛や正義に基づく法にのっとった死刑は禁止されていないのです。 (旧約聖書においても新約聖書においても,私的な殺人と,愛や正義に基づく法にのっとった死刑は常に区別されています。) その判断は,新約時代に生きるクリスチャン一人一人に委ねられています。 つまり,新約時代にも死刑制度が存在すること自体は,神の戒めに違反しているわけではないのです。 重要なことは,その死刑制度や死刑の執行の方法は,信仰から出ているかどうかです(ローマ14:23)。 被害者やその関係者の気持ちだけでなく,加害者の気持ちや将来についても充分に考えて,判断する必要があります。 実際に死刑制度を認めるか認めないかの判断は,大変難しいものだと思います。 そして,神は悪者の死を喜ばれるお方ではないことも知っておく必要があると思います(エゼキエル18:23,18:32,33:11)。
この聖句の正しい意味は,マタイ5:28にあるように,情欲を抱いて女を見ることは,心の中ですでに姦淫を犯したことになるというものです。 今日の私たちへの適用としては,「汚れた情欲を抱いて人を見てはならない」と言えると思います。 新約聖書における関連聖句は次の通りです。 1コリント5:9,5:10(淫らな者),5:11(淫らな者),6:9(姦淫をする者),6:18(淫らな行い),ガラテヤ5:19(淫らな行い,好色),エペソ4:22(人を欺く情欲),5:5(淫らな者),コロサイ3:5(淫らな,情欲),1テサロニケ4:3~5(淫らな行い,情欲),1テモテ1:10(淫らな者,男色をする者),2テモテ2:22(情欲),テトス3:3(快楽の奴隷),ヘブル12:16(淫らな者),13:4(神は,淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれる),1ペテロ4:3(好色),2ペテロ2:10(汚れた欲望),2:14(その目は姦淫に満ちている),2:18(肉欲と好色),黙示録2:20(淫らなこと),2:21(淫らな行い),2:22(姦淫を行う者たち),9:21(淫らな行い),21:8(淫らなことを行う者),22:15(淫らなことを行う者)。 また,並行記事として,マタイ15:19~20,マルコ7:21~23があります。
これらの聖句を読むと,情欲を全否定しているかのように思えるかもしれませんが,聖書は汚れた情欲や淫らな行いを否定しているだけで,健全な情欲は否定していないと考えられます。 その聖書的根拠は旧約聖書の雅歌にあると思いますが,雅歌は非常に解釈が難しいので,正しく理解するために『60分でわかる旧約聖書(22)雅歌』を参照して下さい。 また,新約聖書の教えの中でも結婚は禁じられていません(1コリント7:2,7:9,エペソ5:21~33,1テモテ3:1~5,3:8~13,4:1~3など参照)。 ただし,パウロのように独身の賜物を与えられている人(1コリント7:40,12:4~7参照)は,独身者として主に奉仕する生活を送るのが良いと思います。
新約聖書における関連聖句:1コリント6:10(盗む者),エペソ4:28,1テモテ1:10(人を誘拐する者),1ペテロ4:15,黙示録9:21。 また,並行記事として,マタイ15:19~20,マルコ7:21~23があります。
新約聖書における関連聖句:エペソ4:25,コロサイ3:9,1テモテ1:10(嘘をつく者,偽証する者),黙示録21:8(すべて偽りを言う者たち),21:27(偽りを行う者),22:15(すべて偽りを好み,また行う者)。 また,並行記事として,マタイ15:19~20,マルコ7:21~23があります。
新約聖書における関連聖句:マルコ7:21~23(貪欲),1コリント5:10~11(貪欲な者,奪い取る者),6:10(貪欲な者,奪い取る者),エペソ5:5(貪る者),コロサイ3:5(貪欲,貪欲は偶像礼拝),ヤコブ4:1~2。
以上のように,新約時代では安息日の規定は廃止されています。 殺人についても,神による殺人命令や神の代理戦争などあり得ず,ただ神を信頼し,神に忠実に従うことによって,自分の罪の性質や霊的な戦いに勝利することだけが求められています(ヤコブの手紙1章19~21節,4章7節など参照)。 したがって,新約時代のクリスチャンはモーセの十戒を守るのではなく,新約聖書に書かれている戒めを守ることになります。 この点,誤解のないように。