旧約聖書には,主の使い(ヤハウェの使い)が何度も出て来ます。 ある人は,この「主の使い」のことを天使だと言いますが,それは間違いであることを説明します。
まず確認しておくことは,聖書(旧約聖書と新約聖書)は第一次的には一人の著者である神ご自身によって書かれたので,全体的に統一性がある,ということです。 したがって,他の箇所で同じことばが使われているなら,同じものを指すと考えなければなりません。 その原則を踏まえて,旧約聖書に登場する主の使いについて考えてみます。
まず,創世記16章7~13節を読んでみて下さい。 8~12節で,主の使いはサライの女奴隷ハガルに語りかけていますが,13節を読むと,ハガルは自分に語りかけた方が主(ヤハウェ)であると認識しています。 つまり,ハガルはヤハウェが自分に語りかけた,と認識しているのです。 この箇所から,「主の使い(ヤハウェの使い)」=「ヤハウェ」であることが分かります。 しかし,ここで一つの反論が考えられます。 「主の使いは,ハガルにメッセージを伝えただけだから,天使だと考えて良いのではないか」というものです。 あるいは,「ハガルは主の使いをヤハウェと間違えたのであり,本当は天使だったのではないか」というものです。 しかし,10節を読むと,主の使いはハガルに,「わたしはあなたの子孫を増し加える。」と約束しています。 このような約束ができるのは神である主だけです。 (そして,この約束は実現しました。 イシュマエルの子孫として,数え切れないほど多くのアラブ人が今も存在しています。) 天使には人間の子孫を増やすことはできません。 したがって,上記の反論は成り立ちません。 (これに対し,「創世記6章1~4節の『神の子ら』は堕天使であり,この堕天使たちによって人間の女性との間に子供ができ,ネフィリムと呼ばれたという聖書解釈がある。 よって,必ずしも天使は人間の子孫を増やすことができないとは言えない」という反論があるかもしれません。 しかし,天使と堕天使は違います。 天使が人間の子孫を増やしたという記事は,聖書のどこにもありません。 それどころか,マタイ22:30やマルコ12:25やルカ20:35~36から,天使は結婚しないことが分かります。 また,主の使いがハガルに語ったのは恵みのことばです。 堕天使は10節にあるような恵みの言葉など言いません。 なぜなら,堕天使は人間を惑わし,おとしめる存在だからです。 したがって,この反論も成り立ちません。) また,この時ハガルに語りかけた主の使いは,創世記21章17~18節では「神の使い」と書かれていますが,どちらも同じお方を指しています。
ここで注意すべきは,主(ヤハウェ)は三位一体の神であるということです。 つまり,父なる神(第一位格の神),子なる神(第二位格の神),聖霊なる神(第三位格の神)の御名は,全て「ヤハウェ」なのです。 (聖書には神の御名として他にもいくつか名が出て来ますが,最も重要な名が「ヤハウェ」です。) さて,それでは主の使いとは一体どの位格の神を指すのでしょうか。 主の使いという表現から考えて,この方は主から遣わされた方であることが分かります。 ということは,主の使いとは,子なる神か,聖霊なる神のどちらかだと考えられます。 さて,旧約聖書には,聖霊なる神(御霊)のことは「神の霊」(創世記1章2節,41章38節,出エジプト記31章3節,民数記24章2節,27章18節,サムエル記第一10章10節,11章6節,19章20節,23節,歴代誌第二15章1節,24章20節,エゼキエル書11章24節,ダニエル書4章8節,9節,18節,5章11節,14節)とか「主の霊」(士師記3章10節,6章34節,11章29節,13章25節,14章6節,19節,15章14節,サムエル記第一10章6節,16章13節,14節,サムエル記第二23章2節,列王記第一18章12節,歴代誌第二20章14節,イザヤ書11章2節,40章13節,61章1節,63章14節,エゼキエル書11章5節,37章1節,ミカ書3章8節)とか「わたしの霊」(イザヤ書30章1節,42章1節,44章3節,59章21節,エゼキエル書36章27節,37章14節,39章29節,ヨエル書2章28節,29節,ハガイ書2章5節,ゼカリヤ書4章6節)と書かれています。 この解釈は,新約聖書の「使徒の働き」における聖霊の役割と一致します。 (使徒の働き1章16節,2章4節,33節,38節,4章8節,31節,6章3節,5節,13章9節など参照。) したがって,主の使いとは,子なる神のことを意味すると考えられます。 つまり,旧約聖書における「主の使い」とは,子なる神(受肉前のメシア)のことであると結論づけられます。
また,創世記22章1~19節からも説明してみます。 この場面では,アブラハムは神に言われた通り,ひとり子イサクを神に献げようとしています。 そして,イサクを屠(ほふ)ろうとした時,11~12節で主の使い(12節では「御使い」と書かれていますが,文脈から判断して,主の使いと同一人物です)がアブラハムに呼びかけられ,このように言われました。 「その子に手を下してはならない。 その子に何もしてはならない。 今わたしは,あなたが神を恐れていることがよく分かった。 あなたは,自分の子,自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 アブラハムにイサクを献げさせる試練にあわせられたのは,神ご自身です。 つまり,この聖書箇所から分かることは,「神=主の使い」である,ということです。 神と主の使いが同一視されているからです。 神と天使が同一視されることはありません。 なぜなら,神と天使は全く違う存在だからです。 したがって,主の使い(ヤハウェの使い)とは,決して天使ではなく,神(ヤハウェ)ご自身であることが分かります。 続く15~19節を読んでみても,主の使いとは神ご自身のことであることが分かります。 なぜなら,主の使いは16節で「自分にかけて」誓っており,17節では,アブラハムの子孫を大いに増やす,と言っておられるからです。 17節の約束は創世記12章2節の「子孫の約束」の再確認です。 また,18節の約束は創世記12章3節の「祝福の約束」の再確認です。 つまり,この場面で主の使いは,創世記12章1~3節に書かれているアブラハム契約を必ず成就させることを,ご自分にかけて誓っておられるのです。 したがって,主の使い(ヤハウェの使い)とは主(ヤハウェ)ご自身であることが分かります。
また,創世記31章11~13節を読むと,ヤコブの夢に現れた「神の使い」=「御使い」とは,ベテルで現れた神,すなわち主であったことが分かります(創世記28章10~22節)。 また,ヤコブがヤボクの渡しで格闘した「ある人」も神でした。 ヘブル人は,神の顔を見たら死ぬ,と考えていました(出エジプト記33章20節参照)。 そのことを踏まえて創世記32章30節を読むと,ヤコブが格闘した人は神(もっと正確に言えば,子なる神,受肉前のメシア)だったことが分かります。 この神のことを,ヤコブは臨終の床で「すべてのわざわいから私を贖われた御使い」(創世記48章16節)と呼んでいます。
その他にも,「主の使い」=「神」であることが証明される箇所があります。 (1)出エジプト記3章1節~4章17節の中の,特に3章2節では,主の使いは「柴の茂みのただ中の,燃える炎の中」でモーセに現れたと書かれています。 それ以降,主の使いは「主」とか「神」という名前で登場しています。 これらの人物に区別は付けられていません。 つまり,同一であるという意味です。 このことから,3章2節の「主の使い」=「主」=「神」であると考えられます。 (使徒の働き7章30節,35節の「御使い」は,出エジプト記のこの箇所を読むと,天使ではなく主であり神であることが分かります。 もっと正確に言えば,子なる神,受肉前のメシアだと考えられます。) (2)民数記22章21~35節で,バラムは主の使いを伏し拝んでいます(31節参照)。 その行為に対し,主の使いは「礼拝してはならない」とは言いませんでした。 もしこの主の使いが天使だったのなら,必ず「礼拝してはならない」と言ったはずです(ヨハネの黙示録19章9~10節,22章8~9節参照)。 なぜなら,神以外の者を礼拝する行為は偶像礼拝になるからです(出エジプト記20章3~5節参照)。 しかし,この主の使いはバラムの行為をとがめませんでした。 したがって,この箇所でも,「主の使い」=「神」(もっと言えば,子なる神,受肉前のメシア)だと分かります。 (3)ヨシュア記5章13~15節で,ヨシュアは,抜き身の剣を手に持った一人の人を伏し拝んでいます。 その人は「主の軍の将」であり,ヨシュアの行為をとがめなかったので,やはり神であると考えられます。 そしてその人もやはり,三位一体の神の,子なる神,受肉前のメシアだと考えられます。 (4)また,ヘブル人をエジプトから上らせて,カナンの地に連れて来られた方は神です。 そこで士師記2章1節を読むと,その神は主の使いと書かれています。 ここでも,主の使いは神と同一視されています。 また,この箇所で,主の使いはアブラハム契約を決して破らないと言及しています。 アブラハム契約を結ばれたのは主です。 したがって,ここで現れた主の使いは神であり主ご自身であることが分かります。 また,士師記6章11~24節(特に22~23節)や士師記13章(特に22節)も参照して下さい。 特に士師記13章18節とイザヤ書9章6節から,主の使いとは子なる神,受肉前のメシアであることが分かります。 (5)歴代誌第一21章(特に16節)での主の使いも(1)と(2)と同じで,神と同一視されていることから,天使ではなく神であることが分かります。 この章での「御使い」(15節,20節,27節)も,文脈から判断して,主の使い,つまり子なる神,受肉前のメシアだと考えられます。 (歴代誌第一21章の並行箇所であるサムエル記第二24章も参照して下さい。)
以上の考察から,旧約聖書における「主の使い」とは,天使のことではなく,第二位格の神(子なる神,受肉前のメシア)であると考えられます。