The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

29.Artist Brand (1)
 目次
 予定していた講義が終われば、すぐにアルバイトに直行する。彩人にとっては、もう当たり前の日常だ。
 店のロゴがプリントされたデニムのエプロンを身に付け、彩人は喫茶店「フェアリー・テール」で忙しく立ち働く。
「ありがとうございました!」
 お母さんに手を引かれた小さな男の子が、彩人を見上げて“ばいばい”と手を振った。彩人はにっこり笑うと、しゃがんで男の子に目線を合わせ“ばいばい”と手を振り返す。
 男の子は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに何度も彩人を振り返る。その様子を見ていたお母さんは笑いながら彩人に会釈して、男の子の手を引いてお店を出て行った。
 彩人の下宿先は大学にほど近い喫茶店「フェアリー・テール」の二階。下宿人募集条件は『アルバイト可能な方』というものだった。
 同じように実家に喫茶店がある彩人は、やっぱり縁があるのかなと思った。
 こんなに良い話は、そうそうありはしない。生活費すべてを稼ぎ出さねばならない彩人にとって、かなり好条件だったのだ。
 喫茶店「フェアリー・テール」を経営しているのは、まだ若い夫婦。
 マスターである智一は痩身でやや覇気に欠けるが、優しい笑顔で気さくにお客に接する。
 彼の妻、晴海はとりたてて美人ではないが、気だてが良い人気者だ。

 智一は以前、普通のサラリーマンだった。
 真面目な性格で仕事一筋、家庭を顧みず随分無理もしたらしい。
 働き過ぎで体を壊し長く入院した智一は、妻に辛い思いをさせたと感じて会社を退職した。
 そして、退職金とそれまでの貯金に借り入れを加え、智一さんは喫茶店をはじめたのだ。
 体に無理が利かない智一だが、その人柄はとても温かく、晴海は元気で明るくて。
 小さな店は夫婦の温かい人柄が人気を呼び、訪れる客も多い。
 そして若夫婦に気に入られている彩人は、「フェアリー・テール」でのアルバイト時間が一番長いのだ。
「よし、綺麗になった!」
 先程テーブルに座っていた小さな子が、チョコパフェをこぼしてしまったようだ。
 綺麗にテーブルを拭き終わった彩人は、肩こりを感じて首をぐるりと回す。
 最近は課題制作の進み具合が思わしくなく、夜更かしをするので朝からぼんやりしている。
 疲れが溜まっているのか、それともスランプ気味なのか判別がつかない。
 厳しい講師は締め切りを延ばしてくれない、そろそろペースを上げてかからなければならないだろう。
 心を込めて、丁寧に磨いたテーブルも綺麗になった。
 彩人がひと息ついたところで店の自動ドアが開き、店内に“るっるる〜”とチャイムの電子音が響く。
 これじゃあ、まるでコンビニだ。
 雰囲気無いよな、実家の茶館じゃ綺麗な音のドアベルだったけど。無意識の内に、いつも『画廊茶館』と比べている自分に彩人は苦笑いをする。
 店に入って来たのは茶髪で耳に幾つものピアス。ちゃらちゃらとしたファッションは、ひと目で遊び慣れていると分かる。
 ……出来る事なら、知り合いたくなかった高橋祐二。
「よお、彩人!」
 気さくに声を掛けてくる祐二の姿に、彩人はすぐさまげんなりとした表情になった。
 そんな彩人の表情に、気付く事がないほど祐二は鈍い。
 ……まぁ、微妙な表情の変化に気付いてくれる男友達というのも、ある意味気持ちが悪いが。
 祐二は、彩人が綺麗に磨いたばかりのテーブル席にどっかりと座る。
 生意気に高価なワークブーツなど履いた足を組んで、テーブルの上に煙草を投げ出した。
 彩人のこめかみに、じんわりと怒りマークが浮き上がる。
『いいや、待て待て。こいつも大切なお客様だ、お客様……』
 彩人は心の中で念仏を唱えるように自分に何度も言い聞かせ、おしぼりと水を満たしたグラスを祐二の前へと丁寧に置いた。
「祐二、何か用か?」
「彩人……まずは、『いらっしゃいませ』だろう?」
 ……ほほう、お客のつもりなのか。
 そう思った彩人だが、祐二の意見に間違いはない。
「いらっしゃいませ。祐二、何か用か?」
 そう言い直した。
「そこはかとなく失礼だよな、お前。せっかくいい話があるから、誘ってやろうと思ったのに」
 半眼で彩人を見上げた祐二を、彩人は腕を組んで見下ろした。
「え? いい話だって? お前が声を掛けてきて、良い事があった試しがないんだ。挙げればきりがないぞ? まずは……」
「ああ、分かった、分かったよ。俺が悪かったって!」
 祐二はハエのように両手を擦り合わせて、拝むような仕草を見せる。
 どこまで分かっているのだろうか、このお調子者は。
「なぁ、彩人。とりあえず注文聞いてくれよぉ、俺をお客にしてくれよぉ」
「お前には水で十分だ」
「馬鹿言うな、俺は金魚かよ! 金魚だって餌ぐらい食うだろうがっ!」
 情けない声を上げる祐二に、彩人は仕方なくこほんと咳払いをした。
「ではお客様、ご注文はお決まりになりましたか?」
「ん〜水でいいや……」
「じゃ、ごゆっくり。さて、他のお客様はっと」
 さっと周囲を確認した彩人は、テーブルの上のメニューを取り上げて席を離れようとする。
「じ、冗談だよ、彩人、待ってくれよ!」
「ええい。懐くな、鬱陶しい!」
 彩人は背中にしがみつく祐二を、苦労して引き剥がした。

「さぁて彩人、びっぐにゅーすだっ!」
 紆余曲折を経てありついたブレンドを前にして、祐二は得意げな顔で言った。
「おおかみがでたぞー」
 祐二と顔を付き合わせて席に座っている彩人の抑揚のない声に、たちまち祐二が困った顔になる。
「勿体ぶらずに話すから、聞いてくれよ……」
「いいから早く話せって、今は仕事中なんだ」
 ああ、面倒くさい。
 随分と今日はコシが強い、彩人が話を促すと祐二は携帯を取り出しながら言った。
「実は今週末、ちょっと派手な合コンがあるんだ」
「合コン?」
 一気に興味が失せた、とても付き合っていられない。
「不参加、決定、以上、それ飲んだら帰れよ、五百三十円」
「待てって、彩人っ!」
 短く答えて席を立とうとした彩人の腕を、祐二が素早く掴んだ。 
 だから、仕事の最中だっていうのに。
 課題も仕上げなければならないし、だいいち勤労学生の彩人は浮ついて合コンになど出てはいられない。まったくその気が無い彩人は、カウンターで仕事をする智一をちょっと見てから仕方なく席に座った。
「なぁ、頼むよ彩人。今回の合コンは、お前を出席させないとまずいんだよ」
「まずいってなんだよ」
「いやな、ほら、つまりだな……」
 ちらちらと携帯のメールを確認しながら、歯切れが悪い返事をする祐二は『はあっ』と嘆息した。
「お前、鈍いよなぁ。学内での自分の立ち位置ってのを把握しているのかよ?」
「鈍いなんて、お前に言われたくない。それに立ち位置って何の事だ?」
 彩人には何の事だか全く分からない。
 祐二は心底呆れたように肩をすくめた。
「自覚が無いみたいだけど、お前は学内じゃ結構有名人なんだぞ」
「俺が? 何でまた」
 そんな話は初耳だ、彩人は目をぱちぱちとさせた。
「これだもんなぁ。まったく、天然君はよ」
「そこはかとなく失礼だな、お前」
「うるせぇよ」
 祐二は椅子の背もたれに体を預け、ちらりと羨ましそうな視線で彩人を見た。
「お前の実力は誰もが知ってるよ、講師陣からも高評価だからな。それに鏡くらいは見るだろう? お前、女の子達に案外人気があるんだぞ」
 いまいましい奴だと、祐二の顔にはっきりと書いてある。
 しかし等の彩人自身は、まったく自覚がない、今まで誰かに好意を寄せられた事もない。
「からかうなよ、祐二」
「馬鹿、事実なんだよ。『沢渡君は来ないの〜?』なんて露骨に聞かれるんだ。間違いなくお前が参加すれば、女の子の参加率も上がるんだよ。 ここまで下準備するのは大変だったんだ!」
 祐二は真剣な表情でまくし立てる。
「今回は安い居酒屋なんかじゃないぜ? 早い時間から小さいけどお洒落なレストランを借り切って、ちょっとしたパーティを計画したんだ。たくさん人数が集まれば俺達だって楽しめる、だから頼むよ彩人!」
 どのくらい下準備が大変だったのかは知らないが、どんなに懇願されても彩人だって困る。
 興味もないのに出席など出来るものか。
 今の彩人にとって、課題とアルバイトの方が最重要事項なのだ。
「俺を客寄せのパンダにするつもりか、勝手にやっててくれよ」
 手を擦り合わせて懇願する祐二には悪いが、まったくその気にならない。
 話はこれまでとばかりに、彩人が席を立ったその時だった。
「出席してあげなよ、彩人君」
 智一の声が聞こえた、どうやらカウンターの中で聞き耳を立てていたらしい。
 眼鏡の奥で優しい目が笑っている、彩人は心底驚いた。
「智一さん! じゃない、マスター……そんな!」
「いいじゃないか、これだって人生経験だよ。それにね」
 一度言葉を切った智一は、にっこりと笑った。
「肖像画の彼女、『すみれ色の君』に出逢えるかもしれないよ?」
「わあわあわあわあわあっ!」
 智一がみなまで言い終わらないうちに、彩人は両手をばたばたさせながら、大声でその声を遮る。
 紫の瞳の彼女を描いた肖像画を、部屋の掃除をしてくれていた晴海に見つかってしまった。
 晴海は彩人が描いた肖像画がとても気に入ったらしい。
 色々と質問されて、赤面しながらしどろもどろで答える彩人には、まさに拷問の時間だった。
 そんな事、何があっても祐二なんかに聞かれるわけにはいかない。
「ね?」
 智一の悪意が無い微笑みに、
「はい……」
 彩人は渋々返事をした。好条件を提示してくれる、ありがたい大家さんには無条件で従わなければならない。祐二は智一と彩人のやり取りに不思議そうな顔をしていたが、彩人が合コンに出席するならどうでも良いと思ったらしい。
「じゃ、詳しい事はまた連絡するわ、じゃあな」
 じゃらじゃらっと小銭をテーブルの上へと置き、携帯のストラップを指に引っかけてぶらぶらさせながら軽い調子で言うと、さっさと帰って行った。
「マスター、何でまた……」
「彩人君。僕は思うんだけど、君はもう少し色々な人と関わった方がいいよ」
 祐二の軽薄な後ろ姿を見送った彩人が困った顔で聞くと、痩せた顔に優しい笑みを浮かべて、智一はきっぱりとした口調で言った。
「君は真面目すぎるんじゃないかな、もっとハメを外したっていいくらいだと僕は思っている。若いんだから、もっと色々な経験をしておくべきさ。うん、恋なんてのは実に良いね」
 楽しげに笑う。
 だからって別に「合コン」になんか出なくてもと、そう思う彩人はいまいち納得がいかない。
「人付き合いが多くなれば、色々な事が分かって来るものさ。絵だってもっと深みが増すかもしれないよ? それにほんとに肖像画の彼女に逢えるかもしれない。運命ってものは分からないからね、僕が晴海さんに出会ったみたいに」
 ちょっと誇らしげに語る智一。
 合コンであの肖像画の彼女に出逢えるなどと、彩人は全く期待していないのだが。
 あ、つまりはおのろけですか。
 微笑ましい、仲の良い夫婦にあてられた彩人は仕方ないなと頷いた。
 ……運命なんてものを信じろと?
 智一にそう言われた時に、彩人はちょっとだけ期待した。
 出来れば『すみれ色の君』には、合コンなんかで出会いたくはないと彩人は思う。
 心に触れる優しい声を思うと、胸がそわそわしてくる。
 彩人の中に存在するアトリエ。遠くから微かに彩人の名を呼ぶ、透き通った綺麗な声。紫色の瞳を持つ彼女に逢えるのなら。
 いや、肖像画の彼女は、単に彩人が作り出した虚像かもしれない……。
 彩人がそんな事を考えていると、再び店のチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
 まとまらぬ考えが一気に霧散する。
 もどかしさを心の隅へと寄せて置いて、彩人は朗らかな笑顔でお客を迎えた。
 
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