新約聖書はもともとギリシア語で書かれているので,その意味を正確に理解するためにはギリシア語の知識が必要です。 しかし,神学校でギリシア語を学んだことのない信徒の方々が,自発的に聖書ギリシア語の学びをされることはあまりないと思います。 そこで,このページでは,今もキリスト教会で重視され,頻繁に唱えられている「主の祈り」の内容を,原文のギリシア語から考えてみたいと思います。
一般的に「主の祈り」と呼ばれているものは,マタイの福音書6章9~13節とルカの福音書11章2~4節に書かれています。 (時間的にはマタイ6:9~13が先で,ルカ11:2~4が後です。 このページでは,マタイに記録されている「主の祈り」を採り上げます。) しかし,正確には「主が教えてくださった,弟子たち(信者たち)の祈り」と呼ぶのが良いと思います。 実際,ギリシア語の原文では「私たち」ということばが9回も出て来ます。 つまり,この祈りは,信者の共同体が神にささげる祈りだということです。 とはいえ,信者が一人でこの祈りをささげるのはダメというわけではありません。 「主の祈り」の構成に従って,自発的に真心から祈るなら,神はきっと喜んでくださいます(ホセア6:6参照)。
なお,使用した校訂テキストは,聖書協会世界連盟(UBS)第5版,ネストレ=アーラントの校訂本第28版(NA28)です。 どちらも本文は全く同じです。 辞書と文法事項に関しては,ページ末の参考文献をご覧ください。
原文 | Οὕτως | οὖν | προσεύχεσθε | ὑμεῖς |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 副詞 | 接続詞 | 現在・中動・命令法 2人称複数 (προσεύχομαι) | 2人称代名詞 主格複数 (σύ) |
逐語訳 | このように | だから | 祈れ | あなたがたは |
直訳:ですから,(ほかの者はともかく)あなたがたは,このように祈りなさい
「だから」というのは,イエス様が先に語られた内容に基づく結論を示しています。
ギリシア語では,「私は」のような主語は,動詞の語形の中に織り込まれているので,通常は省略されます(マタイ6:11など参照)。 しかし,この箇所では「あなたがたは」という主語が書かれています。 このように,わざわざ主語を言う場合は,強調や対照の意味を出したい時です。 この箇所では,「ほかの者はともかく,あなたがたは」というニュアンスがあります。
「このように」とは,必ずしもこれと全く同じことばで祈る必要はなく,この祈りを模範として祈りなさいという意味です。
「祈れ」というギリシア語は現在命令法なので,一度だけでなく習慣的に祈りなさい,というニュアンスがあります。
原文 | Πάτερ | ἡμῶν | ὁ | ἐν | τοῖς | οὐρανοῖς |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 第3変化男性名詞 呼格単数 (πατήρ) | 1人称代名詞 属格複数 (ἐγώ) | 男性定冠詞 主格単数 | 前置詞 | 男性定冠詞 位格複数 (ὁ) | 第2変化男性名詞 位格複数 (οὐρανός) |
逐語訳 | 父よ | 私たちの | ~に | 天 |
直訳:天におられる私たちの父よ
聖書が教える祈りの対象(呼びかける相手)は,常に天の父なる神です。 私たちは,聖霊によって,主イエス・キリストの御名を通して,父なる神へ直接祈ることができます。 これは信者だけの特権です。 それゆえ,感謝して,また信頼して祈りましょう。
また,天の父なる神は,私たち人間にとっては「私たちの父」ですが,イエス様にとっては「わたしの父」です(マタイ7:21など)。 これは,イエス様と父なる神は特別な関係にあることを意味します。 それゆえ私たちは,父なる神へ畏敬の念をもって祈りましょう。
「天」を意味するギリシア語が複数形になっているので疑問を感じる方がおられるかもしれませんが,「天」は複数あることが聖書から分かります(創世記1:1,2コリント12:2など)。 父なる神は,そのすべての天のどこにでもおられるので,複数形になっていると考えられます。
原文 | ἁγιασθήτω | τὸ | ὄνομά | σου |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 1アオ・受動・命令法 3人称単数 (ἁγιάζω) | 中性定冠詞 主格単数 (τό) | 第3変化中性名詞 主格単数 (ὄνομα) | 2人称代名詞 属格単数 (σύ) |
逐語訳 | 聖とされるがよい あがめられるがよい | 名が | あなたの |
直訳:あなたの御名(みな)が聖(せい)とされますように
これは,神の御名が偶像のようではなく,神聖なものとして扱われることを願う祈りであり,また,神の御名があがめられることを願う祈りでもあります。 (神の御名とは,ヘブル的には,神の本質やご人格を指します。) つまり,この祈りは,神が神としてあがめられ,賛美されますように,という祈りです。
適用として,神がして下さったすばらしいみわざの数々を思い起こしながら,神に感謝と賛美の祈りをささげるのも良いでしょう。
原文 | ἐλθέτω | ἡ | βασιλεία | σου |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 2アオ・能動・命令法 3人称単数 (ἔρχομαι) | 女性定冠詞 主格単数 | 第1変化女性名詞 主格単数 | 2人称代名詞 属格単数 (σύ) |
逐語訳 | 来るがよい | 国が 王国が | あなたの |
直訳:あなたの国が来ますように
「バシレイアー(βασιλεία)」というギリシア語は,英語では「kingdom」と訳されます。 つまり,この祈りは,神が王として統治される国が到来することを,私たちが待ち望む祈りです。 その国は現実的な国(王国)で,メシアであるイエス様が地上に再臨されてからできる千年王国,そして,その先の新天新地において完全に実現します。 その御国(みくに)が到来するように祈りましょう。
適用として,次の「天におけるように地の上にも,あなたのみこころが行われますように」と合わせて,メシア再臨の条件であるユダヤ人の救いも祈ると良いでしょう。 また,教会の携挙は,教会の一員となる異邦人の数が満ちたときに起こるので,異邦人の救いのためにも祈ると良いでしょう。 (教会の携挙やメシアの再臨については,聖書が教える救いと終末論を参照してください。)
原文 | γενηθήτω | τὸ | θέλημά | σου |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 1アオ・受動・命令法 3人称単数 (γίνομαι) | 中性定冠詞 主格単数 (τό) | 第3変化中性名詞 主格単数 (θέλημα) | 2人称代名詞 属格単数 (σύ) |
逐語訳 | 行われるがよい | みこころが | あなたの |
原文 | ὡς | ἐν | οὐρανῷ | καὶ | ἐπὶ | γῆς |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 副詞 | 前置詞 | 第2変化男性名詞 位格単数 (οὐρανός) | 副詞 (καί) | 前置詞 (ἐπί) | 第1変化女性名詞 属格単数 (γῆ) |
逐語訳 | ~ように | ~に | 天 | ~も | ~の上に | 地 |
直訳:天におけるように地の上にも,あなたのみこころが行われますように
天において神のみこころが行われるように,私たちが住む地の上にも神のみこころが行われることにより,神の国の計画が進展することを祈りましょう。 「神の国」の詳細は,中川健一牧師のメッセージ『メシアの生涯(68)―たとえ話で教えるイエス―』を参照してください。
マタイ6:9では「天」は複数形になっていましたが,この箇所では「天」は単数形になっています。 この箇所の「天(οὐρανός)」の意味について,織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』(教文館,2002年,425頁)では次のように説明されています。 「(文字通りの空や大気圏や地より上方の空間ではなく,霊的な意味での)天,神がお住まいになり,神の支配が完全に行なわれている世界(もちろん地上にも神の支配は行なわれているのだが,地上の諸限界や人間自身の理解の限界から,そのようには見えないので,このような限界の全く存在しない場所または状態を指す)」。 つまり,マタイ6:10での「天」は「第三の天」(2コリント12:2)だけを指しているので,単数形になっているのだと思います。
ここまでが「主の祈り」の前半で,神のみこころを求める祈りとなっています。 後半(11~13節)は,自分の必要を求めるための祈りです。 このような,まず最初に神,次に自分という順序(あえて言うなら「神第一主義」あるいは「神様ファースト」)は,マタイ6:33でも教えられています。 イエス様の弟子である私たちは,イエス様が教えてくださったとおり,神第一主義者として生きることを心がけましょう。
原文 | τὸν | ἄρτον | ἡμῶν | τὸν | ἐπιούσιον | δὸς | ἡμῖν | σήμερον |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 男性定冠詞 対格単数 (ὁ) | 第2変化男性名詞 対格単数 (ἄρτος) | 1人称代名詞 属格複数 (ἐγώ) | 男性定冠詞 対格単数 (ὁ) | 第2変化男性形容詞 対格単数 (ἐπιούσιος) | 2アオ・能動・命令法 2人称単数 (δίδωμι) | 1人称代名詞 与格複数 (ἐγώ) | 副詞 |
逐語訳 | パンを | 私たちの | 必要なだけの | あなたは与えよ | 私たちに | きょう(今日) |
直訳:私たちの必要なだけのパンを,きょう私たちにお与えください
これは,私たちの肉体的必要を満たすための食料を求める祈りです。 その適用として,慰め,励まし,困難へ立ち向かう力などが与えられる祈りもしましょう。
原文 | καὶ | ἄφες | ἡμῖν | τὰ | ὀφειλήματα | ἡμῶν |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 接続詞 (καί) | 2アオ・能動・命令法 2人称単数 (ἀφίημι) | 1人称代名詞 与格複数 (ἐγώ) | 中性定冠詞 対格複数 (τό) | 第3変化中性名詞 対格複数 (ὀφείλημα) | 1人称代名詞 属格複数 (ἐγώ) |
逐語訳 | また | あなたは赦せ | 私たちに対して | 負い目を | 私たちの |
直訳:また,私たちの負い目を,私たちに対してお赦しください
私たちは,気づかないうちに隣人に対して,そして神に対して罪を犯したままの状態になっていることがあります。 それらも赦されるように祈りましょう。
原文 | ὡς | καὶ | ἡμεῖς | ἀφήκαμεν | τοῖς | ὀφειλέταις | ἡμῶν |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 副詞 | 副詞 (καί) | 1人称代名詞 主格複数 (ἐγώ) | アオ・能動・直説法 1人称複数 (ἀφίημι) | 男性定冠詞 与格複数 (ὁ) | 第1変化男性名詞 与格複数 (ὀφειλέτης) | 1人称代名詞 属格複数 (ἐγώ) |
逐語訳 | ~ように | ~も | 私たち | 赦すものだ | 負債者たちに対して | 私たちの |
直訳:この私たちも,私たちに負い目のある人たちに対して,赦すものであるように
「赦すものだ」という翻訳について。 動詞「アフェーカメン(ἀφήκαμεν)」はアオリスト直説法ですが,ルカ11:4の動詞「アフィーオメン(ἀφίομεν)」――現在直説法――と調和するように考えると,このアオリストは一般的なことを言い表す用法――例えば「花は散るものだ」(1ペテロ1:24)と言う時の用法と同じ――と考えられます。 (織田昭著『新約聖書のギリシア語文法』§272-3f「格言的アオリスト」参照。) それゆえ,「赦すものだ」と訳しました。
またこの箇所は,ὡςの用法から,直前の祈りの「私たちの負い目を,私たちに対してお赦しください」の理由・根拠にもなっていると考えられます(ルカ11:4も参照)。 たとえ相手からの謝罪がなくとも,私たちは相手の罪を赦すことができます。 なぜなら,私たちは神に愛され,赦されたという体験を何度も味わっているからです。
愛される資格のない私たちを,神は愛してくださっています。 それゆえ,私たちも隣人の罪を赦せるように変えられていくのです。 神は,私たちに,隣人の罪を赦すことを期待しておられます。 その期待に応え,また,私たち自身の罪も赦していただけるように祈りましょう。
原文 | καὶ | μὴ | εἰσενέγκῃς | ἡμᾶς | εἰς | πειρασμόν |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 接続詞 (καί) | 否定の小辞 (μή) | アオ・能動・接続法 2人称単数 (εἰσφέρω) | 1人称代名詞 対格複数 (ἐγώ) | 前置詞 | 第2変化男性名詞 対格単数 (πειρασμός) |
逐語訳 | また | ~ない | あなたは連れ込む | 私たちを | ~の中へ | 試み |
原文 | ἀλλὰ | ῥύσαι | ἡμᾶς | ἀπὸ | τοῦ | πονηροῦ |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 接続詞 (ἀλλά) | アオ・中動・命令法 2人称単数 (ῥύομαι) | 1人称代名詞 対格複数 (ἐγώ) | 前置詞 (ἀπό) | 中性定冠詞 奪格単数 (τό) | 第2変化中性形容詞 奪格単数 (πονηρός) |
逐語訳 | しかし | あなたは救い出せ | 私たちを | ~から | 悪 |
直訳:また,私たちを試みの中へ連れ込まないで,私たちを悪から救い出してください
「試み」という意味のギリシア語「ペイラズモス(πειρασμός)」には,「試練」という意味もあれば,「誘惑」という意味もあります。 (「試練」と訳すべきか,「誘惑」と訳すべきか,あるいは単に「試み」と訳すべきかは,文脈によって判断します。 例えば,ヤコブ1:2,1:12では「試練」と訳されます。) 神は私たちに試練を与えて,私たちの信仰をより純度の高いものへ作り変えようとされます。 また,場合によっては私たちが誘惑に陥ってしまうことを許可されることもあります。 (これは「積極的みこころ」ではなく「許容的みこころ」です。) いずれにせよ,私たちは試練にも誘惑にも遭うのが現実だと思いますので,この箇所では両方の意味があると考えて「試み」と訳しました。
ここで使われている動詞の表現は「μὴ+アオリスト接続法」なので,動詞の動作が実行に移される前の段階で,「手を染めてはならぬ」「行為に移しては(踏み切っては)ならぬ」ことを表現しています。 つまり,この箇所の前半は,「連れ込む」という動作が行われる前に,「(できれば一度も)試みの中へ連れ込むということをしないでください」と懇願している祈りなのです。 ただし,この祈りの強調点は後半にあると思います。
最後の2つの単語「トゥー・ポネールー(τοῦ πονηροῦ)」は男性形でも全く同じ形なので,これを男性形「ホ・ポネーロス(ὁ πονηρός)」の奪格単数と考えると「悪い者(the evil one)」となります。 ここでは「悪」と「悪い者」の両方の意味があるのではないかと思います。
私たち信者にとって,マタイ6:13は悪からの守りを願う祈りです。 この世で生きている以上,私たちは必ず苦難に遭います。 イエス様も,「世にあっては苦難があります」と言われました(ヨハネ16:33)。 しかし,苦難に遭遇しても,不平不満ばかり言わないように,むしろ感謝できるように(エペソ5:20,1テサロニケ5:18),また,その状況から早く救い出されるように祈りましょう。
原文 | ὅτι | σοῦ | ἐστιν | ἡ | βασιλεία | καὶ | ἡ | δύναμις |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 接続詞 | 2人称代名詞 属格単数 (σύ) | 現在・能動・直説法 3人称単数 (εἰμί) | 女性定冠詞 主格単数 | 第1変化女性名詞 主格単数 | 接続詞 (καί) | 女性定冠詞 主格単数 | 第3変化女性名詞 主格単数 |
逐語訳 | ~だから | あなたのもの | ~である | 国 王国 | ~と | 力 |
原文 | καὶ | ἡ | δόξα | εἰς | τοὺς | αἰῶνας | ἀμήν |
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文法事項 (辞書の見出し形) | 接続詞 (καί) | 女性定冠詞 主格単数 | 第1変化女性名詞 主格単数 | 前置詞 | 男性定冠詞 対格複数 (ὁ) | 第3変化男性名詞 対格複数 (αἰών) | 副詞 |
逐語訳 | ~と | 栄光は | ~(に至る)まで | 永遠 | アーメン |
直訳:国と力と栄光は,永遠に至るまであなたのものだからです。アーメン。
これは後代の写本に見られることばで,もともとは書かれていなかったと考えられています。 おそらく1歴代誌29:11~13を参考にして付け加えられたのではないかと思います。
この祈りは,「神の国と力と栄光はとこしえまで,天の父なる神様,あなたのものですから,どうか私たちを悪から救い出してください」という意味です。 私たちも不安を感じたり試練の中にいるときは,神こそ主権者であることを覚え,その神に信頼を置いて歩みましょう。
「主の祈り」は,イエス様が教えてくださった模範的な祈りです。 このことばどおりに祈っても良いし,自分への適用を考えながら,自分のことばで具体的に祈っても良いのです。 祈るときに自分の願いばかりを祈ってしまう人は,この「主の祈り」を思い出して,まず神のみこころが実現するように祈ってみましょう。 なぜなら,神を第一にした祈りをすることで,私たちに必要なものはすべて与えられると約束されているからです(マタイ6:25~34)。
真実な祈りをささげるすべての人に,神から豊かな祝福がありますように。