聖書理解の難しさ

キリスト教の聖書(旧約聖書と新約聖書)は世界で最もよく知られている本なのに,その内容を理解できない人や誤解している人がとても多いのは何故でしょうか。 その理由などを私なりに考えてみました。

聖書を読もうとも思わない人の理由

  1. そもそも興味がない。(いわば「無関心論者」)

興味や関心がない理由として考えられるのは,「仕事で忙しい」「幸せだから必要性を感じない」「日々のお金(生活費)の方が大事」「2000年も前の話は自分には関係ない」「他の宗教を信じている」「進化論を信じている」「無神論者」「聖書に書かれている奇跡なんて信じられない」「現代のような科学的な時代に神の存在を信じるなんて馬鹿げている」「宗教は嫌い(特にキリスト教は独善的で排他的だから)」「罪人(つみびと)だと言われたくない」「自分が罪人だと認めたくない」「死んでも天国へ行けると信じている」「もし神が愛なら,地獄なんてあるわけがない」「神とか天使などは空想上の存在だと信じている」「悪魔なんて現実に存在しないと信じている」「聖書は矛盾だらけで信じる価値などない」「自分のやりたいように生きていれば良いと思っている」「たとえ神が存在していても,自分には関係のないことだと思っている」「聖書の教えに束縛されたくない」というような考えを持っておられるからだと思います。 このような考えを持っておられる方々は,聖書の福音(ふくいん)に対して,心を閉ざしている場合が多いように感じます。 どうか,彼らが聖書の福音に興味を持って下さいますように。 また,福音を宣(の)べ伝えるクリスチャンに,神様から愛と知恵が与えられますように。

聖書が理解できない理由

  1. 人間中心主義という間違った世界観の「刷り込み」のため。
  2. 自分自身に対する不必要な誇り(プライド)があるため。
  3. そもそも自分が,聖書が言うほど罪にまみれた人間だという自覚がないため。

(1)聖書の世界観は「神中心主義」なのに,「人間中心主義」(御利益(ごりやく)信仰もこの中に含まれると思います)という間違った世界観を学校や家庭などで刷り込まれているために,神中心主義という視点で世界を見ることができなくなっているのが一つの原因だと考えられます。 人間中心主義で生きている人は,「聖書の神は自分勝手だ!」と感情的に反発すると思います。 しかし,人間中心主義というのは,突き詰めれば自己中心主義に至るのではないでしょうか。 その人の心の中には世界の主権者としての神は存在しません。 自分が,どのような形であれ,神に愛され,神に望まれてこの世に生まれてきたことを知らないのです。 それは大変空しいことです。 そのことに気づけないまま,死んでしまう人が多いのが残念でなりません。 また,人間中心主義の世界観で生きている人は,自覚がなかったとしても,神を,自分の欲求を満たすための道具と見なしていると思います。 だから,自分や他者が苦難に遭った時に「神はなんて非情なんだ!」と憤るのです。 (苦難や忍耐についての聖書の教えは,ヤコブ5章10~11節参照。) 自分がどれほど神に愛され,支えられてきたかを考えようとはせずに,文句だけはいっちょまえに言うのです。 何と傲慢で不遜なことでしょうか! そのような世界観を持っていると,聖書を読んでも理解できなかったり,誤解したりしてしまいます。

(2)この世の社会では,「自分に誇りを持て」とか「自分を信じろ」と言われることがよくあります。 しかし,このような教育を受けて育った人は,本当の意味で謙虚になること(心が砕かれること)が難しいと思います。 例えば,「大卒の自分が理解できないわけがない」という勘違いをして,思い上がっている人がいます。 そのような勘違いをする人は,高い地位や権力などの肩書きを持っている人(あるいは持っていた人)に多く見られるかもしれません。 中には,少し聖書をかじっただけなのに,傲慢にも「自分は聖書を知っている」と勘違いしている人がいます。 しかし,実際に聖書のみことばを伝えると,全然聖書を読んでいない,あるいは理解していないことが明らかになります。 そのような人は,素直に現実を認めて下さい。 そして,いつでも自分の考えを正しい考え方に変更できる柔軟な心構えを持っていて欲しいと願っています。 そうすれば,今までの考えが間違っていても,すぐに謙虚になって正しい考えを受け入れることができるようになります。 このような柔軟な心構えを持っていることは,その人が幸せになるためにも大事なことだと思います。

(3)聖書の神の聖や義というご性質が分からないと,本当の意味で「自分が罪人(つみびと)だ」とは分からないと思います。 神が人に求める聖(きよ)さ・義(ただ)しさの規準は,例えば旧約聖書のモーセの律法(出エジプト記,レビ記,民数記,申命記に書かれている613あると言われている命令)や,新約聖書のマタイの福音書5~7章の「山上(さんじょう)の垂訓(すいくん)」を読むとよく分かると思います。 神の求める規準がいかに高いのかを理解できたら,自分を含め,どんな人間でさえも,神から提示されている救いの福音を受け入れない限り,神の怒りから逃れることなど到底できないことが分かるはずです(ローマ1:16~2:16参照)。 ただし,神の存在を信じていなかったり,聖書の神の約束を信頼していないのなら,いくら神の求める聖さ・義しさの規準を知ったとしても,「自分には関係のないことだ」と思ってしまうと思います。 それは大変残念なことです。

聖書を理解していない人の中には,クリスチャンに対して議論を挑んでくる場合がありますが,充分注意すべきだと思います。 大抵,相手は聞く耳を持っていませんので,「これは何を言っても無駄だな」と思ったら,議論を切り上げるようにした方が良いでしょう。 そして,その人のために執り成しの祈りをするのが良いと思います。 神様は,そんなあなたの愛の祈りを必ず評価して下さいます。

聖書を読む時に気をつけること

  1. ヘブル的聖書解釈(ユダヤ的視点からの聖書解釈)をする。なぜなら,聖書はユダヤ的背景の下で書かれた古典なので,現代の日本人から見れば,時間的隔たり・文化的隔たり・地理的隔たりがあるから。特に前後の文脈や聖書全体の文脈に注意して読まないと,とんでもない解釈をしてしまうので気をつける必要がある。
  2. 幼子のような純真な心で聖書に向き合う。(自分の力で自分の人生におけるいろんな問題を解決しようとしてもどうにもならない無力さを実感した人は,神に拠り頼み,神に信頼して生きることを学ぶはずです。神に信頼を置く生き方は神様ご自身がとても喜ばれますし,神の恵みをより深く味わえるように変えられます。それは私たちに心からの平安と喜びを与えるものです。)
  3. 枝葉末節にこだわらずに,重要なポイントをまず押さえる。聖書の全てを理解することはできないので,聖書の論理構造を大まかに把握しておくと理解しやすい。
  4. 時間がかかっても,根気よく学ぶ。
  5. 分からないことは素直に牧師などの信頼できるクリスチャンに質問する。(注解書を使っても良いと思いますが,クリスチャン同士の交わりの中で教えられることも多いと思います。)それでも分からない時は,いったんその問題は保留にしておく。知ったかぶりは罪なので,絶対にしない。分からないことを質問されたら,素直に「私には分かりません」と言えば良い。もし調べることが可能なら,質問をしてくれた相手のために誠実さを持って調べるのが良い。
  6. みことばが理解できるように,自分の言葉で,具体的に祈る。真心から祈れるのなら,どこで祈っても良い。

(1)は特に補足説明が必要だと思われますので,以下に述べておきます。 ヘブル的聖書解釈(ユダヤ的視点からの聖書解釈)はとても重要なことです。 (「ヘブル的」という言葉は「ユダヤ的」と同じ意味です。) 聖書はユダヤ的背景の下で書かれてきましたので,書かれた当時のユダヤ的視点から聖書を読んでいかないと,著者の意図とは全然違う解釈をしてしまいます。 このような古典の読み方はごく当たり前のことです。 例えば,『源氏物語』を理解しようと思ったら,当時の日本の文化や時代背景を,他の歴史資料から理解しながら学んだと思います。 それと同じ原則を聖書にも当てはめて読むだけです。 全ての古典に当てはまる大原則を聖書にも適用するだけなのに,それを理解しようとしない人たちもいます。 聖書は,人間が使っていた言葉とは異なる神聖な言葉によって書かれたものではありません。 旧約聖書はユダヤ人が普通に使っていたヘブル語(一部アラム語)で書かれ,新約聖書は「コイネー・グリーク」とか「コイネー・ギリシア語」と呼ばれるギリシア語(当時,日常会話で使われていたギリシア語で,一般のユダヤ人でも分かる世俗的なギリシア語)で書かれているのです。 (「コイネー(κοινή)」とは「共通の」という意味のギリシア語です。) このことからも,神がいかに人間を愛しているのかが分かると思います。 (本物の愛とは,へりくだったものであり,相手に合わせた謙虚なものです。 その究極が,神であるイエス様の受肉から始まる地上生涯です。 ピリピ2章6~8節参照。) さて,本題に戻しますと,聖書を読む時には,文脈を無視せずに,どういう流れの中でのみことばなのかを考えて読まないと,本来の意味とはかけ離れた解釈をしてしまいます。 過去のキリスト教界は実際,そういう身勝手な解釈をして,数々の罪を犯してきました(十字軍や魔女狩りなど)。 聖書の話を主題にした絵画の中にも,ユダヤ的要素がほとんど見られないようなものがたくさんあります(レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」など)。 キリスト教神学の世界にも置換神学(神の祝福はユダヤ人から取り去られ,霊的イスラエルである教会へと移った,という考え)や自由主義神学(創世記の1~11章や奇跡やキリストの復活は神話とか創作であるという考え)と呼ばれる神学がありますが,このような反ユダヤ的な神学は,著者が意図したものではありませんので,聖書を正しく理解できません。 したがって,聖書を正しく理解するためには,ユダヤ的視点に立ち返って読んでいく必要があるのです(ユダヤ的視点から聖書を詳しく学びたい方は,ハーベスト・タイム・ミニストリーズを参照して下さい)。

また,(2)と(3)に大いに関係することですが,クリスチャンでない人が聖書を読む時に犯してしまう典型的な間違いがあります。 それは,一つには,聖書の内容は興味深いけれど,所詮は人間の創作物にすぎないという前提で聖書を読んでしまうことです。 聖書は神の自己啓示の書なのに,それを人間の創作物だという誤った前提で読めば,当然おかしな解釈をしてしまいます。 二つ目には,古典である聖書を,現代人の感覚や習慣に当てはめて読んでしまうことです。 他の古典に対してはその当時の時代背景や文化や習慣に当てはめながら理解しようとするのにもかかわらず,なぜか聖書に対しては他の古典に対する読み方とは全然違う読み方をして,「聖書には間違いがある」とか「聖書には矛盾がある」と言い張る人たちが大勢います。 三つ目には,「自分は聖書を客観的に見ています」と主張することです。 結論から言うと,聖書に対して「客観的に見ています」とか「中立の立場で見ています」とか言っている人たちは,「聖書は神のことばだ」とは信じていない立場(=イエス・キリストを信じていない立場)で主張しているのです。 つまり,正しくは「私はイエス・キリストを信じていない立場から聖書を見ています」と言わなければならないのです。 聖書に対して,また,イエス・キリストに対して,客観的な立場とか中立の立場というものは存在しません(マタイ12章30節,10章34~36節参照)。 (これは他の全ての宗教に対しても同じことが言えます。 宗教に対しては,信じるか信じないかの2択しかありません。) これらの間違いを犯してしまう原因は,そもそも聖書をしっかりと読んでいないことから来ています。 聖書に書かれた文字を追っているだけで内容を理解していないのなら,当然間違った読み方をしてしまいます。 全てのみことばは,どのような文脈の中で語られたみことばなのかをよく考えたり教えてもらう必要があります。 自分一人で聖書を読んでいても,意味が全然分からなかったり,誤解してしまうことがよくありますので,注意が必要です。

さらに,これは大変重要なことなのですが,聖書観(聖書に対する見方)が間違っています。 新約聖書(特に福音書)を読むと,イエス・キリストは「聖書には一片の誤りもない」と保証して下さっていることが分かります(聖書が信頼できる理由参照)。 ここでの「聖書」というのは39巻から成る旧約聖書と27巻から成る新約聖書,合わせて66巻のことを指しています。 そして,聖書を字義通りに解釈することによって,初めて著者が意図した正確な意味を理解することができるようになるのです。 聖書を字義通りに解釈するという意味は,比喩は比喩として解釈し,何かの象徴として解釈する必要がある場合のみ象徴的なことばとして解釈し,それ以外のことばは文字通りに解釈する,ということです。 つまり,聖書は誤りのない神のことばだからと言って特別な読み方をする必要はなく,ごく普通の古典と同じような読み方をすれば良いのです。 もし本当にイエス・キリストを信頼するのなら,その人はイエス様が言われたことをそのまま素直に信じて,「聖書に書いてあることは全て真実です」と信仰告白し,聖書を字義通りに解釈するはずです。 このような聖書観を土台として聖書を解釈することを「聖書信仰に立つ」と言います。 (誤解を生まないように説明しておきますが,「聖書信仰」というのは,聖書という本そのものを礼拝することでもなく,聖書の文字やことばそのものを礼拝することでもありません。 そういったものは全て偶像礼拝であり,やってはいけないことです。 クリスチャンが礼拝をささげる対象は,聖書に啓示されているまことの神のみです。) 聖書を間違って解釈しないために必要なことは,まず「聖書信仰に立つ」ことです。 聖書信仰に立脚しているクリスチャンは「聖書は原典において,誤りのない神のことばである」という聖書観に基づいて聖書を解釈します。 この聖書観を土台として聖書を読んでいる人は,よく分からない箇所や矛盾しているように思える箇所に出会った時,今はよく分からなくても,必ず何らかの解決法があり,いずれ理解できる時が来ると信じることができますので,そのような難しい箇所でつまずいて信仰を捨ててしまうことにはならないと思います。 以上のことをまとめると,聖書を読んでつまずかないようにするには,まず最初に,イエス様が保証して下さった「聖書は原典において,誤りのない神のことばである」という聖書観をしっかりと保つことです。 この聖書観をしっかり保ってさえいれば,聖書の中の枝葉末節に振り回されたり惑わされたりつまずいたりすることはなくなると思います。 もしつまずいてしまったとしても,神様に祈り求めれば,神様からすばらしい知恵が与えられると思います(ヤコブ1章5~8節参照)。 どうか,聖書を学ばれる方々が間違った聖書の読み方をしないように,心から願っています。

補足:信仰生活で気をつけること

最後に,補足として「信仰生活で気をつけること」を述べて終わりにしたいと思います。 神の契約に基づく愛(聖書ではこれを「恵み」と言います。ヘブル語で「ヘセド(חֶסֶד)」)を信じて,その通りに愛の実践(礼拝,奉仕)をすると,みことばが知的にだけでなく,体験的に理解できるようになっていきます。 すると,この上ない喜びを感じ,神への心からの感謝ができるようになります。 そして結果的に,より聖書を理解できるようになります。 すると,みことばを理解できる喜びから,みことばをもっと愛し,神への信頼が増します。 そして,みことばに忠実に生きるようになっていき,霊的に成長していきます。 つまり,霊的に成長するためには,聖書を正しく理解する必要があるということです。 正しい聖書の理解なしに,霊的に成長することはないと思います。 その点で,聖書を正しく理解することは,信仰生活にとって必要不可欠だと言えます。

2019年5月20日更新
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