聖書が信頼できる理由

キリスト教の聖書(旧約聖書と新約聖書)が信頼できる理由を説明する方法はいくつかあると思いますが,ここでは主にクリスチャンでない方々を読者として想定しながら,できるだけ簡潔に,分かりやすく説明したいと思います。 (次のような論理展開を考えました。 「イエス・キリストは実在した歴史上の人物である」→「そのイエスと行動を共にした弟子たち(特に使徒たち)のほとんどは自ら殉教の死を遂げた」→「人は嘘のためには死ねないので,イエスは文字通りメシア(=キリスト=救い主)として信頼できる」→「そのイエスが,聖書には誤りはないと保証しておられる」→「聖書は信頼できる」。)

イエス・キリストの実在について

聖書が信頼できる理由を説明するためには,第一に新約聖書に登場するイエスというお方が,当時(紀元1世紀)からどのように評価されているかを理解する必要があります。 まず,イエスに敵対していた多くのユダヤ人(ユダヤ教徒)がいたことは,ユダヤ教のバビロニア・タルムード(以下,タルムードと表記)にはっきりと書かれていますので,これは事実だと考えるべきです。 そのタルムードによれば,イエスが実在の人物であったことは明白です。 もし,イエスが,弟子たちによって作り上げられた空想上の存在だったのなら,敵対していたユダヤ人たち(特にユダヤ教のラビたち)は「イエスは実在しておらず,ある人たちが勝手に作り上げた妄想上の人物だ」と言うはずですし,タルムードにもそのように書かれているはずです。 なぜなら,イエスの実在性を否定することこそが,クリスチャンの信頼するイエスがメシアでないことを証明するための最も強力な証拠になるからです。 実際,イエスを信じようとしない人たちの中には,イエスの実在性を否定する人たちがいますが,残念なことに彼らの理屈はあまりにも非論理的で,完全に破綻しています。 しかし,イエスに反感を抱いていたラビたちによって作られたタルムードには,イエスが実在していたことを前提として,イエスに関する内容がいくつも書かれているのです。 例えば,タルムードのトラクテイト・サンヘドリン43には,イェシュ(「イエス」のヘブル語「イェシュア」の蔑称)は魔術を使って,棄教するようにイスラエルを誘惑していたと書かれています。 しかし,イエスが実在していたことや,イエスが奇跡を行っていたことは否定していません。 つまり,聖書以外で,イエスの実在性を証明するのに最も強力な証拠は,イエスのメシア性を否定しているタルムードなのです。 また,一般の学校で使われるような世界史の資料にも,イエス・キリストが実在していた歴史上の人物として,当然のように書かれています(例:亀井高孝・三上次男・林健太郎・堀米庸三編『世界史年表・地図』第11版,吉川弘文館,2005年)。 さらに,新村出編『広辞苑』第七版(岩波書店,2018年)にも,イエスが実在していたことを前提に説明がなされています。 他にも証拠はたくさんあると思います。 したがって,間違いなくイエスは実在していたと言えます。

実在のイエスは本当にメシアなのか

では,このイエスは旧約聖書で約束されていたメシア(=キリスト=救い主)なのかどうかについて,イエスの弟子たちの行動から考えてみましょう。 伝承によると,イスカリオテのユダを除く11人の使徒たちのうち,10人は殉教の死を遂げたと言われています。 (福音書や手紙や黙示録を書いた使徒ヨハネだけは100歳近くまで生き,長寿を全うしたと伝えられていますが,彼も迫害を受け,パトモス島へ流刑になりました。 また,イスカリオテのユダの代わりに使徒となったマッティアも殉教したそうです。) ここで考えていただきたいのは,「人は嘘のために死ねるか?」という問題です。 殉教した11人の使徒たち(マッティアも含む)は,約3年半もの間,イエスと行動を共にしています。 つまり,彼らはイエスのみことばを直接聞き,イエスの行動や奇跡,特にメシアにしかできないと言われていた奇跡(ユダヤ人のツァラアト患者の癒やし,生まれつき目の見えない人の癒やし,口のきけない人からの悪霊の追い出し)を直接目撃し,身をもってイエスというお方のご人格を体験しているのです。 そして,彼らは旧約聖書のメシア預言を知っていましたし,ユダヤ人が守るべきモーセの律法も知っていました。 もしイエスが一度でもモーセの律法に違反したり,旧約聖書のメシア預言を一つでも成就できなかったのなら,使徒たちはイエスを嘘つきだとか誇大妄想狂だと知っているはずです。 そんな問題のある人物のために,喜んで命を捨てられる人間など,果たしているでしょうか。 常識的に考えて,そんな人はいないでしょう。

例えば,オウム真理教の教祖だった麻原彰晃(本名:松本智津夫,2018年7月6日死刑執行)のために自ら喜んで殉教の死を望む元幹部は誰もいないようです。 (新実智光死刑囚は残念ながら,2015年2月18日に東京地裁で行った証人としての証言によると,いまだに麻原を信じていたようですが,彼は自分の神秘体験だけに基づいて信じていたようなので,仮に彼が殉教の死を選んだとしても,それは嘘のために死んだことにはなりません。 そして事実,彼は殉教などせず,麻原の死刑が執行された日に,彼の死刑も執行されました。 新実智光死刑囚の信仰には,客観的な証拠が何一つありませんでした。 このような信仰を「盲信」と言うのです。) 麻原と共に生活し,麻原の行動や言葉を直接目撃してきた元幹部たちは,自分たちの信仰が間違っていたことを理解しているのです。 つまり,彼らは,麻原が嘘つきであり,精神的に異常だったことを認めているのです。

また,私の原理研究会での体験談になりますが,文鮮明(本名:文龍明,2012年9月3日死亡)の信者となってから聞いた話では,統一教会(現在の略称:家庭連合)の初期の幹部のほとんどが統一教会を離れていると聞きました。 統一教会側の理屈によると,彼らはサタンの誘惑に負けてしまったことになっていましたが,実際には文鮮明の異常さを目撃し,文鮮明と共に警察に逮捕されたりするような反社会的な人間にはなりたくないと考えて,統一教会を去ったのだと思います。 実際,文鮮明は逮捕され連行されている時に,その姿を見た以前の仲間から「お前はまだそんなことをやっているのか」と言われたそうです。 この話は,私が原理研究会のメンバーだった時に何度も聞いているので,間違いなく事実だと思われます。 ただ,内部ではこの話は美談として語られていました。 (文鮮明は実際に違法行為を行っていたので,犯罪者として逮捕されたのです。 さらに,本当に脱税していたために,1984年7月20日にコネチカット州のダンベリー連邦刑務所に収監された経歴もあります。 統一教会側は,「これは脱税問題ではなく,アメリカ政府による宗教の内部活動への侵害だ」と主張していますが,これは真っ赤な嘘です。 もし文鮮明が国外へ逃げれば,刑務所へ入る代わりに全財産を没収されることになっていました。 しかし,文鮮明はよほどお金が大好きだったのでしょう。 彼は全財産を没収されるよりも,刑務所へ入って自分の財産を失わないで済む方を選んだのです。 これが真実です。)

以上のことから,「人は嘘のためには死ねない」と結論づけられます。

ここで考えられる反論は,「使徒たちはイエスに上手く騙されていたのだ」とか「使徒たちは頭がおかしかったのだ」というものでしょう。 しかし,これらの反論には何も根拠はありません。 イエスをメシアだと信じたユダヤ人は,使徒たちだけではありませんでした。 ヨハネの福音書3章,7章50節,19章39節に書かれているニコデモもイエスの弟子となりました。 (聖書を信じたくない人は,「聖書以外のもので証明してくれ」と言うでしょうが,ニコデモのことは聖書以外にも,伝承として伝えられているようです。) ニコデモは「イスラエルの教師」,つまり,今で言う「神学校の校長先生」に相当する立場の人でした。 ユダヤ人社会では,年上の者が年下の者に教えを請うことは,現代の日本人が考える以上に特別なことでした。 この聖書の記述を読むと,ニコデモは決してイエスに騙されていたとは考えられません。 ましてや,頭がおかしいわけでもありません。 それは,ヨハネの福音書7章51節のニコデモの発言を読めば分かります。 ニコデモは,理性を失って感情的になっているパリサイ人に対して,きちんとモーセの律法に従って判断すべきだ,と冷静に答えています。 (52節でパリサイ人はニコデモに対して「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう」と断言していますが,ガリラヤ出身の預言者はいるのです。 例えば,列王記第二14章25節によると,預言者ヨナはガリラヤのガテ・ヘフェル(ヨシュア記19章13節)出身であることが分かります。) そして,ヨハネの福音書19章39節を読むと,もはや周囲のユダヤ人の目など恐れない信仰を行動で表しています。 このことにより,伝承によると,ニコデモの一家は没落したそうです。 つまり,ユダヤ人たちから村八分にされたそうです。 その後,ニコデモが病床について何も仕事ができなくなった時,ニコデモの娘は食べ物を得るために,家々を回って物乞いをしたそうです。 ニコデモの信仰は,人間的に見れば愚かに見えますが,神から見れば,自らの高い社会的立場を捨ててまでメシアであるイエスに従い信頼し続けた素晴らしい信仰者として賞賛すべきこととなったでしょう。 他の多くのイエスの弟子たち(少なくとも500人以上)も,復活されたイエスを直接見てしまったので,イエスをメシアだと認めざるを得なかったのです。 そして,いずれ肉体的に死んでも,イエスのおられる所,つまり天国へ行ける希望を確信して,ローマに捕らえられ,人間のすることとは思えない残酷な拷問を受けても信仰を捨てることなく,喜んで自ら殉教する道を選んだのだと考えざるを得ません。 イエスが約束されたメシアであることの証人(目撃者)は,パウロがコリント教会へ最初の手紙を書いた紀元55年頃(イエスが十字架上で死なれてから約25年後)でさえ,約500人もいたのです(コリント人への手紙第一15章6節)。 したがって,上記の反論は成り立ちません。

以上のことから,実在のイエスは本当にメシアであることが証明されました。 ただ,この証明は論理的な必然性を導くものではないと思います。 しかし,充分に納得できるという意味で,この証明は成り立つと言えるでしょう。 (これでもまだ納得できない人は,死後の世界(あの世)について考えることは無意味か?の「旧約聖書のメシア預言が全て成就する確率」を読んでみて下さい。 旧約聖書のメシア預言を全て成就している該当者は,イエスしかいないことが確実に分かります。)

では,なぜ多くのユダヤ人は今でもイエス(ヘブル語で「イェシュア(יֵשׁוּעַ)」)をメシアだと認めないのでしょうか。 彼らは,イエス時代のユダヤ人のように,今でも正統派ユダヤ教のラビたち(彼らは福音に対して門番の役割をしていて,彼らを介さないと新しい教えを聞くことはできない)の教えに従っていて,新約聖書を反ユダヤ的な忌むべき書物だと考えているからです。 その理由は,クリスチャンたちが「ユダヤ人はキリスト殺しだ」と考え,ユダヤ人を迫害し,キリスト教の教理からユダヤ的な要素をことごとく排除していったという歴史があるからです。 このような反ユダヤ主義(anti-Semitism)は,現在でも私たち異邦人クリスチャンに大きな影響を与え続けています。 さて,ユダヤ教のヘブル語聖書(キリスト教で言う旧約聖書)には,将来,神が人類の救い主(メシア)を遣わすことが約束されています。 しかし,現代のユダヤ人は,イエス時代のユダヤ人のように,メシアはユダヤ人を異国から解放してくれる強力な指導者(神ではなく,人間として誕生する政治的リーダー)として来られるはずだと考えていたり,メシアの来臨には初臨と再臨があることを知らないそうです。 ところが,ヘブル語聖書をきちんと読んで理解すれば,ラビたちの教えが間違っていることが分かります。 また,現在のイスラエル国の書店には新約聖書は置いてないと聞いています。 (理由は前述した通りですが,最近はインターネットを通して,正統派のラビたちを介さずに直接自ら新約聖書に触れる機会が増えて,イェシュアをメシアだと信じるユダヤ人(「メシアニック・ジュー(Messianic Jews)」)が増加しています。) また,ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)では,とても有名なメシア預言であるイザヤ書53章は朗読されずに,読み飛ばされるそうです。 (理由は,「意味が分からないから」だそうですが,「本当の理由は,メシア預言だから」と考えているメシアニック・ジューもいるそうです。) また,ラビの中には,イェシュアをメシアと信じるメシアニック・ジューに対して,殺害を勧める人もいるそうです。 ユダヤ人にとって,イェシュアをメシアと信じることは,家族や同胞のユダヤ人から迫害されることを意味しているのです。 このように,ユダヤ人にはユダヤ人独特の理由があって,今でもイェシュアをメシアだと認められない人が多いのですが,最近はイェシュアをメシアだと信じるメシアニック・ジューの数がどんどん増加しています。 今日では,ユダヤ人伝道に対する環境が大きく変わりつつあります。

イエス・キリストによる,聖書が「真理のことば」であることの保証

さて,これまでの説明で,イエス・キリストは実在した歴史上の人物であることと,本当にメシアであることがご理解いただけたと思います。 メシアであるイエスがどのようなお方なのかはキリスト論で説明してありますので,ここでは簡単に述べるだけにします。 イエス・キリストは神であると同時に人であるお方であり,肉体を持って復活して天に昇られたので,現在も文字通り生きておられます。 そして,このお方はメシアであるが故に決して嘘は言われませんので,イエス様のみことばは全面的に信頼できるのです。 では,イエス様は聖書(旧約聖書と新約聖書)について何と言われたかを,新約聖書から見てみましょう。

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た,と思ってはなりません。 廃棄するためではなく成就するために来たのです。
まことに,あなたがたに言います。 天地が消え去るまで,律法の一点一画も決して消え去ることはありません。 すべてが実現します。
ですから,これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り,また破るように人々に教える者は,天の御国(みくに)で最も小さい者と呼ばれます。 しかし,それを行い,また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 5章17~19節)

この聖句の「律法や預言者」とか「律法」とは,ヘブル語聖書(キリスト教で言う旧約聖書)のことです。 ヘブル語聖書には,まだ実現していない預言がたくさんあります。 それらも含めて,イエス様は「ヘブル語聖書の預言はすべて実現する」と断言しておられます。 また,「ヘブル語聖書の一点一画も決して消え去ることはない」と言われていますので,ヘブル語聖書には誤りなど全くないということになります。 つまり,「ヘブル語聖書には一片の誤りさえない」と保証して下さっているのです。 (誤解されないために補足説明しておくと,ここで言われているヘブル語聖書とは,最初に書かれた書(the original text),つまり「原典」とか「原本」と呼ばれているもののことです。)

次に,新約聖書について考えてみましょう。イエス様は11人の使徒たちに次のように言われました。

しかし,助け主(たすけぬし),すなわち,父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊(せいれい)は,あなたがたにすべてのことを教え,わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 14章26節)

この聖句は,第三位格の神である聖霊(詳細は三位一体論参照)が,イエス様が11人の使徒たちに語った内容を全て思い出させて下さることと,当時はまだ受けられなかった全ての真理を教えて下さることを保証しています。 この聖霊は,イエス様が復活され,40日後に昇天されてから10日後の五旬節の日に,12人の使徒たちを含むユダヤ人信者の心に内住(ないじゅう)されました(使徒の働き2章参照)。 (聖霊の内住とは,聖霊が心の中にいつまでも住まわれるという意味です。) その後,聖霊はサマリア人信者(使徒の働き8章参照)にも異邦人信者(使徒の働き10章参照)にも与えられ,イエスをメシアと信じるすべての人に与えられるようになりました。 特に使徒たちは,聖霊による特別な導きを受けて,福音書や新約聖書の書簡を誤りなく書くことができました。 (聖書の言う「神の霊感」については,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~の「FAQ」を参照して下さい。)

また,イエス様から与えられた使徒たちの権威は特別でした(テサロニケ人への手紙第二3章4~15節など参照)。 初代教会も,使徒たちの権威が特別だったことを認めています。 紀元4世紀になって,どの書が新約聖書の正典なのか,判断を下す時に,その規準となったのは,使徒によって書かれたものか,そうでなければ,使徒たちに指導された人々の中から出て使徒の権威によって認められたものか,ということでした。 例えば,マルコの福音書やルカが書いた福音書と使徒の働きは,使徒の権威によって正典と認められた書です。 よく誤解されることですが,教会が新約聖書の正典を決定したのではなく,教会は,既に新約聖書の正典が持っていた権威を認めただけでした。 したがって,新約聖書の正典は使徒たちの権威によって,誤りがないことが保証されているのです(参考文献:ジョン・R・W・ストット著/舟喜順一・岩井満訳『聖書理解のためのガイドブック』改訂12刷,聖書同盟,2010年,248~257頁)。

以上のことから,新約聖書にも全く誤りはないことが,イエス様によって保証されていることが分かります。 (これも誤解されないために補足説明しておくと,この新約聖書とは,最初に書かれた書(the original text),つまり「原典」とか「原本」と呼ばれているもののことです。) 他にも,保証となる聖句を二つ引用しておきます。 いずれもイエス様が語られたみことばです。

わたしが父のもとから遣わす助け主,すなわち,父から出る真理の御霊(みたま)が来るとき,その方がわたしについて証ししてくださいます。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 15章26節)

しかし,その方,すなわち真理の御霊が来ると,あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。 御霊は自分から語るのではなく,聞いたことをすべて語り,これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 16章13節)

以上のことから,メシアであるイエス様が,旧約聖書も新約聖書も「真理のことば」(ヨハネの福音書17章17節,8章25~32節など参照)であると保証して下さっていることがご理解いただけると思います。 したがって,キリスト教の聖書は「真理のことば」として信頼できる書物なので,安心して読めるのです。 (聖書の細かい事柄については,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~を参照して下さい。 世間一般に言われているような矛盾や間違いは,聖書にはないことが分かります。 また,太田朝久氏の聖書批判に対する回答も参考になると思います。) どうか,まだ聖書を知らない人々が,安心して聖書を開いて,イエス様の愛の招きに応答して下さいますように,心から願っています。

2019年12月28日更新
Copyright © 2016-2019 Yutaka Kato All rights reserved.