死後の世界(あの世)について考えることは無意味か?

はじめに

世の中には,死後の世界,いわゆる「あの世」の存在について考えることを「無意味だ」と思っている人たちがいます。 なぜ,そう思うのでしょうか。 生きている私たちにとって,死後の世界は目に見えないからでしょうか。 あるいは,死後の世界に関する信頼できる情報源が存在しないからでしょうか。

しかし,聖書(旧約聖書と新約聖書)は,死後の世界は確実に存在すると教えています。 では,その聖書はどれほど信頼できるのでしょうか。 以下に,聖書が信頼できる根拠を科学的に説明したいと思います。

旧約聖書のメシア預言が全て成就する確率

聖書の信頼性の高さについては聖書が信頼できる理由でも説明しましたが,ここでは,聖書を信頼できる最も強力な根拠の一つである,旧約聖書に書かれているメシア預言の成就について説明したいと思います。 メシア預言とは,メシアが世に来ること,その時代,場所,方法などを告げた預言です。 ここでは,アーノルド・フルクテンバウム著/佐野剛史訳『メシア的キリスト論―旧約聖書のメシア預言で読み解くイエスの生涯―』(紙版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年)を用いて,旧約聖書のメシア預言が全て成就する確率を計算してみます。 (旧約聖書のメシア預言が本当に「予言」(未来のことをあらかじめ言ったもの)であることは,死海写本の発見によって疑う余地のないものと考えられています。 なぜなら,死海写本,中でもイザヤ書53章の写本が作られた年代は,イエス様が地上に誕生する前だと確定されているからです。 しかも死海写本は「写本」なので,最初に書かれた原典はもっと古い時代に書かれたことになります。)

聖書とフルクテンバウム博士の著書『メシア的キリスト論』を詳しく検討した結果,イエス様において成就したメシア預言は全部で約75個あることが分かりました。 この結論に至るまでの詳細は,旧約聖書のメシア預言とその成就する確率をご確認下さい。

では,75個の異なったメシア預言が全て成就する確率を計算してみます。 まず,1つの預言が成就する確率を2分の1とします。 例えば,ミカ書5章2節(『聖書 新共同訳』と『聖書 聖書協会共同訳』ではミカ書5章1節)のメシア預言,つまり,ベツレヘム・エフラテと呼ばれる,ユダ族の領地にあったベツレヘムという小さな町(ダビデが育った町なので「ダビデの町」とも呼ばれています。サムエル記第一17章12節,ルカの福音書2章4節,11節,ヨハネの福音書7章42節参照)でメシアが誕生するという預言を考えてみます。 (ちなみに,ヨシュア記19章15節によると,ゼブルン族の相続地にも同名の町があったことが分かります。 ミカ書で預言されていたベツレヘムは,ゼブルン族の相続地にあったベツレヘムではないことを示すために,ベツレヘム・エフラテと呼ばれています。) もし,この預言が成就する確率が2分の1なら,メシアはユダ族の領地にあったベツレヘムで生まれるか,生まれないかの2択しかありません。 旧約聖書に書かれているメシアの初臨の預言をこのように考えてみると,とても分かりやすくなると思います。 ただし,1つの預言が成就する確率を2分の1としたのは,あくまで計算を単純化するためであり,現実にはもっともっと,ずっと低い確率になることを覚えておいて下さい。 さて,以上のことを踏まえると,75個の異なったメシア預言が全て成就する確率は,2分の1の75乗です。 2分の1の75乗を計算すると,377垓(がい)7893京(けい)1862兆9571億6170万9568分の1となります。 この確率を%(パーセント)で表すと,0.0000000000000000000026469779601696885595885078146238811314105987548828125%となります。 数式は以下のとおりです。

1つの預言が成就する確率を2分の1とした時の,75個の異なったメシア預言が全て成就する確率

つまり,75個の異なったメシア預言が全て成就する確率は,1つの預言が成就する確率を2分の1とすると,377垓(がい)7893京(けい)1862兆9571億6170万9568分の1となるのです。 この確率は,377垓(がい)7893京(けい)1862兆9571億6170万9568個の全く同じボールの中から,「当たり」である唯一のボールを,目隠しをして一発で引き当てる確率と同じです。 また,そもそも1つのメシア預言が成就する確率が2分の1もあるわけがないので,旧約聖書に書いてある75個の異なったメシア預言が全て成就することなど,あり得ません。 (私よりも遙かに現実的にメシア預言が成就する確率を計算したPeter W. Stonerの著書『Science Speaks』のChapter 3: The Christ of Prophecyをお読みいただければ,旧約聖書のメシア預言が全て成就する確率は,事実上ゼロだと分かると思います。) しかし,新約聖書を読めば,該当者が一人だけ存在することが分かります。

そもそも新約聖書の記事自体を疑っている人がいると思いますが,当時はクリスチャンに対する迫害がとても激しかった(信仰を持つことは,殺されることを覚悟することでした)ので,新約聖書の記者たちはいい加減なことなど書けませんでした。 もしいい加減なことを書いたなら,その書は正典とは認められなかったでしょう。 また,そのようないい加減な書(聖霊に導かれて書かれたのではない書)は破棄された可能性も充分考えられます。 実際,1~2世紀に書かれた「福音書」と呼ばれるものは50ほどあると言われていますが,それらの「福音書」の中で現存している写本は,断片だけの写本も含めて20ほどしか見つかっていないそうです。 つまり,いい加減な「福音書」の多くは,正典としての価値がないので破棄されたか,そもそも作られた写本自体が少なすぎて失われてしまったと考えられます。 しかし,新約聖書のギリシア語写本は5300以上も現存していて,写本が少数だったり,断片しか現存しない,いい加減な「福音書」とは全く違うのです(参考文献:『新聖書辞典』いのちのことば社,1985年)。 例えば,303年には,ローマ皇帝ディオクレティアヌスがクリスチャンを非常に激しく迫害し,「聖書を焼き捨てろ」と命じましたが,そのような大迫害に遭ったにもかかわらず,新約聖書の写本は何千も現存しているのです。 迫害に遭いながらも多くの写本が作られてきたということは,新約聖書は非常に重要視されていたことを意味し,また,命がけで守る価値があったことを意味します。 歴史上の事実としても,聖書の福音を宣(の)べ伝えるために,数多くのクリスチャンが殉教の死を遂げました。 そして,既に述べたように,旧約聖書のメシア預言は,新約聖書に登場する一人の人物に,比喩的にでもなく,霊的にでもなく,文字通りに完全に当てはまっています。 以上のことから,新約聖書は古くから正典として認められていて,まさしく「神のことば」として信頼できるものだと考えるのが,最も妥当だと言えます。 つまり,聖書には信ずるに足る根拠が充分すぎるほどあるということです。 旧約聖書の時代に,生きた時代もその時代背景も職業も違う10人以上の人々が書いたメシアの初臨に関する預言が,イエスというお方だけに全て成就しているという事実は,実に不思議なものです。 数百年前から一千年以上前に書かれたメシアの初臨に関する預言が,文字通りに,たった一人の人物に全て成就したことは,決定論的カオスの長期予測不能性を知らなくても,本当に驚くべきことだとしか言えません。 つまり,科学的に考えても,聖書は人間の創作物などではなく,時間と空間を超越した唯一の真(まこと)の神のことばであると,確信を持って言えるのです!

旧約聖書のメシア預言の成就に対して,「偶然だ」とか「イエスが,預言が成就するように意図的に行動しただけだ」という反論があると思います。 しかし,それらの反論が成立しないことは,「メシアは神でもあり人でもある」という1つのメシア預言を考えるだけで,すぐに分かります。 人が偶然によって神でもあることなどあり得ませんし,人が努力によって神でもある存在になることもあり得ません。 (聖書の言う「神」とは,永遠の昔から存在する,世界の創造主であり主権者です。 現代の日本人が軽々しく口にする「神」とは全く異なる存在です。) したがって,上記の反論は成り立ちません。 以上のことから,旧約聖書のメシア預言が成就したのは,偶然でもなく,人間の意図的な行動によるのでもなく,ただ世界の創造主であり主権者である神のご計画によると結論づけられます。

聖書が教える死後の世界

さて,聖書の預言が信頼に値することは,上記で説明したとおりです。 では,聖書は死後の世界について,どのように教えているのでしょうか。

聖書は,人間は,肉体と霊やたましいを持った存在として神によって創造されたと教えています(創世記2章7節,ヤコブの手紙2章26節など参照)。 そして,肉体的に死んだ後,生きている間にイエス様を救い主(すくいぬし。ヘブル語で「メシア(מָשִׁיחַ)」,ギリシア語で「キリスト(Χριστός)」)と信じた人(信者)と信じなかった人(不信者)では,死後の行き先が異なります。 (1)信者のたましいは死後,天にある「パラダイス」(ルカの福音書23章43節,コリント人への手紙第二12章4節)と呼ばれる場所へ行きます。 そして携挙(けいきょ)が起こると,信者のたましいは復活のからだと合体し,罪の性質が全くない,栄光に輝く姿に変えられます。 そして,神とともに永遠に生きるのです。 (詳細は聖書が教える救いと終末論を参照して下さい。) (2)不信者のたましいは死後,「ハデス(よみ)」の苦しみの場所へ行きます(ルカの福音書16章19~26節参照)。 彼らにとって,携挙やメシアの再臨や千年王国は無関係です。 そして地上の千年王国が終わると,不信者のたましいは復活のからだと合体し,「白い御座(みざ)のさばき」でそれぞれ自分の行いに応じてさばかれ,「火の池」に投げ込まれます(ヨハネの黙示録20章11~15節,21章8節参照)。 そして,永遠に神から切り離され,「火の池」で苦しみ続けるのです。 この「火の池」こそ,地獄と呼ばれる場所です。

また,聖書によると,死後の行き先が変更されることはありません(ルカの福音書16章19~26節参照)。 つまり,一度ハデス(よみ)の苦しみの場所へ行った人が罰を受け,全ての罪からきよめられてパラダイスへ行く,ということはないのです。 (カトリック教会が主張する「煉獄」については,「煉獄」は存在するかを参照して下さい。) 不信者として死んだ人には,二度と救いのチャンスは与えられません。 これが正しい聖書の教えです。

聖書の預言には信頼できる根拠が充分にある以上,死後の世界や自分自身の罪について真剣に考える必要があると思います。 そうすれば,「では今,私はどのように生きれば良いのか」ということを真剣に考えるようになるでしょう。 つまり,死後の世界の存在について考えることは決して無駄ではなく,生きることの本当の意味や価値や目的を見いだせることにつながるのです。 それは大変有意義なことです。

聖書が教える救い(永遠のいのちを得る方法)

今を一生懸命生きることは大切ですが,イエス様を「私の救い主」と信頼して永遠のいのちが得られることを知ったら,今の生き方は感謝と希望と平安と喜びに満ち溢れたものとなります。 永遠のいのちを得るための「福音(ふくいん)の三要素」は,次のとおりです。 (1)罪のないイエス様が,罪人(つみびと)である私の罪のために身代わりになって死なれ,(2)墓に葬られ,(3)三日目によみがえられたこと。 この福音の三要素を信じ,イエス様をそのとおりのお方だと信頼するなら,過去・現在・未来の罪は全て赦され,死後,必ず天国へ行くことができ,神のもとで永遠に祝された生活ができると,聖書は保証しています。 以下に,特に重要な聖句をいくつか引用しておきます。

兄弟たち。私があなたがたに宣(の)べ伝えた福音を,改めて知らせます。 あなたがたはその福音を受け入れ,その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか,あなたがたがしっかり覚えているなら,この福音によって救われます。 そうでなければ,あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは,私も受けたことであって,次のことです。 キリストは,聖書に書いてあるとおりに,私たちの罪のために死なれたこと,
また,葬られたこと,また,聖書に書いてあるとおりに,三日目によみがえられたこと
(『聖書 新改訳2017』コリント人への手紙 第一 15章1~4節)

上記の聖句にある福音の三要素を信じ,イエス様をそのとおりのお方だと信頼することで,人は神の怒りから救われます。 これ以外に救いの道はありません。

しかし,人は律法を行うことによってではなく,ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って,私たちもキリスト・イエスを信じました。 律法を行うことによってではなく,キリストを信じることによって義と認められるためです。 というのは,肉なる者はだれも,律法を行うことによっては義と認められないからです。
(『聖書 新改訳2017』ガラテヤ人への手紙 2章16節)

「イエス・キリストを信じる」とは,「イエス・キリストに信頼を置く」「イエス・キリストを信頼する」という意味です。

神は,罪を知らない方を私たちのために罪とされました。 それは,私たちがこの方にあって神の義となるためです。
(『聖書 新改訳2017』コリント人への手紙 第二 5章21節)

キリストは罪を犯したことがなく,
その口には欺きもなかった。
ののしられても,ののしり返さず,
苦しめられても,脅すことをせず,
正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で,
私たちの罪をその身に負われた。
それは,私たちが罪を離れ,
義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに,あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。
しかし今や,自分のたましいの牧者であり
監督者である方のもとに帰った。
(『聖書 新改訳2017』ペテロの手紙 第一 2章22~25節)

キリストも一度,罪のために苦しみを受けられました。 正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。 それは,肉においては死に渡され,霊においては生かされて,あなたがたを神に導くためでした。
(『聖書 新改訳2017』ペテロの手紙 第一 3章18節)

すべての人は罪を犯して,神の栄光を受けることができず,
神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して,価(あたい)なしに義と認められるからです。
(『聖書 新改訳2017』ローマ人への手紙 3章23~24節)

聖書で言う「恵み」とは,受ける資格のない者に神が与えて下さる愛を言います(参考文献:高木慶太著『恵みによる信仰生活1』改訂新版,いのちのことば社,2002年)。 この聖句は,自力救済は不可能であることを教えています。 言い換えると,人間がいくら善行を積んでも,決して神から義と認められることはないということです。 なぜなら,人間がどれだけ努力しても,神が求める愛・聖・義の規準には決して到達しないからです。 それほど,人間の罪の根は深いのです。 (自分の罪を知るためには,仏教の開祖・釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)についてで列挙した罪のリストを参考にして下さい。) しかし,イエス・キリストの十字架上の死による罪の贖いと復活の意味を理解し,イエス様に信頼を置くなら,何の代価も支払うことなく,無条件に義と認められる,つまり救われるのです。 これだけが,人間が救われる唯一の方法なのです。

ですから,あなたがたに次のことを教えておきます。 神の御霊(みたま)によって語る者はだれも「イエスは,のろわれよ」と言うことはなく,また,聖霊(せいれい)によるのでなければ,だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
(『聖書 新改訳2017』コリント人への手紙 第一 12章3節)

この聖句も,自力救済は不可能であることを教えています。 神の御霊(みたま),すなわち聖霊(三位一体の第三位格の神)の助けがなければ,人は誰も救われません。 聖霊の助けを得るためには,考え方を変える(これを聖書では「悔い改める」と言います)ことです。 つまり,自分に対するプライドや見栄(みえ)を捨てて,神の前にへりくだり,自分が罪人(つみびと)であることを心の底から認めることによって,救いの道に至ることができるのです。

罪の報酬は死です。 しかし神の賜物(たまもの)は,私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(『聖書 新改訳2017』ローマ人への手紙 6章23節)

なぜなら,もしあなたの口でイエスを主と告白し,あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら,あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ,口で告白して救われるのです。
(『聖書 新改訳2017』ローマ人への手紙 10章9~10節)

この聖句での「信じる」と「告白する」は同じ意味です。 (これは聖書によく出て来る表現方法で,同じ意味のことを別のことばでもう一度表現しています。 ここでは,「口で告白する」をAとし「信じる」をBとすると,ABBAという構成になっています。 しゃべることができない人は救われないという意味ではありませんので,誤解のないように。) イエスを主と信じることは,聖霊の助けがあって,初めて可能になります。 聖霊の助けを求めるには,心を開いて父なる神に祈る必要があります。 人間にできるのは,ただそれだけです。 自分が持っているプライドや見栄は,自分自身を傲慢にしてしまいますので,素直に捨ててしまいましょう。 神は,私たちの砕かれた心を喜んで下さいます。

神は,実に,そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が,一人として滅びることなく,永遠のいのちを持つためである。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 3章16節)

神はそのひとり子を世に遣わし,
その方によって
私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって
神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく,
神が私たちを愛し,
私たちの罪のために,
宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの手紙 第一 4章9~10節)

以上のことを簡単にまとめると,人が神の怒りから救われ,天国へ入らせていただくためには,必ず聖霊の助けが必要であり,そのためには不必要なプライドや見栄を捨てて,神に対して素直に心を開く必要があります。 いかに自分が罪深い者であるかを理解し,その全ての罪から解放するためにイエスというお方が私の身代わりとなって死んで下さったことを知ったなら,その愛に応えたいと思うようになるでしょう。 そして,福音の三要素を心の中に受け入れ,イエス様をそのとおりのお方として信頼したとき,その瞬間にあなたは救われ,永遠のいのちを得ます。 その時,あなたの心の中には新しい性質が宿るようになります。 なぜなら,聖霊があなたの心の中に住まわれたからです。 (これを「聖霊の内住」と言います。ローマ人への手紙5章5節,コリント人への手紙第一6章19節,コリント人への手紙第二1章22節など参照。) こうして人は救われ,天国への片道切符を手にすることができるのです。 また,神のもとで永遠に生きられる世界には,悩みも痛みも苦しみも悲しみも絶望もありません(イザヤ書25章8節,65章19節,ヨハネの黙示録7章17節,21章3~4節参照)。 このような世界観を持ったなら,感謝と希望と平安と喜びに満ちた生き方ができるようになります。 まだイエス様を信頼していないという方は,是非,聖書を学んでみて下さい。 そして,恵みと信仰によって救われますように,心から願っています。

2019年6月14日更新
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