三位一体論

この教理は非常に難しいと思いますが,まずは正統的なクリスチャンが信仰告白する三位一体について簡潔に説明し,次に久保有政氏のおかしな論理とエホバの証人の嘘について説明します。

聖書の神が三位一体である証拠

聖書の神(まことの神)が三位一体である証拠は聖書の中に明確にありますが,そもそも「三位一体」とは何かを定義しておきたいと思います。

神は,実体において唯一の神でありつつ,父と子と聖霊という三つの位格において存在する。」

まず,聖書の神が唯一の神であることを示したいと思います。 (証拠はいくつもありますが,ここでは二つだけ聖句を引用しておきます。)

聞け,イスラエルよ。は私たちの神。は唯一である。
(『聖書 新改訳2017』申命記 6章4節)

はじめに神が天と地を創造された。
(『聖書 新改訳2017』創世記 1章1節)

創世記1章1節の主語である「神」はヘブル語で「エロヒーム(אֱלֹהִים)」で,複数形です。 (単数形は「エル(אֵל)」です。) しかし,動詞の「創造した」(ヘブル語で「バーラー(בָּרָא)」)は単数形になっています。 このことから,天地を創造された神は複数形で表されるが,唯一の神であることが分かります。

天地を創造された神が複数形で表されることは,創世記1章26節や創世記3章22節やイザヤ書6章8節からも分かります。 (1)創世記1章26節の「われわれ」は,文脈から,創世記1章1節の神のことだと分かります。 なぜなら,すべての生き物を支配する存在は神であるしかいないことが,申命記10章14節,詩篇24章1節などから分かります。 その神が,「われわれのように,すべての生き物を支配するように造ろう」と言って人を創造されたからです。 (創世記1章26節の「われわれ」には天使も含まれるという考えがありますが,上記の理由により,天使は含まれません。) (2)創世記3章22節の「われわれ」も,文脈から神のことだと分かります。 サタンは創世記3章5節で「あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを,神は知っている」と言いました。 そして,人は神のようになりたいと思い,神の命令に違反しました。 人は天使のようになりたいと思ったのではなく,神のようになりたいと考えたのが,ここでのポイントです。 そして,人は神の命令に背くことで,神のように自分で善悪の判断をするようになりました。 (創世記3章の文脈の中にも天使は含まれていないので,創世記3章22節の「われわれ」は神だけを指しています。) (3)イザヤ書6章8節の「われわれ」も,文脈から神のことだと分かります。 ヨハネの福音書12章41節には「イザヤがこう言った(40節のことば)のは,イエスの栄光を見たからであり,イエスについて語ったのである」とあります。 ヨハネはここでイザヤ書6章のことを言っています。 そして,イザヤ書6章3節を見ると,イザヤが見たイエスの栄光とは,聖なる万軍の(ヤハウェ)の栄光のことだと分かります。 つまり,イエス=万軍の(ヤハウェ)=神だということです。 そして,イザヤは6章5節で,万軍の(ヤハウェ)を見たと言っています。 イザヤが見た万軍の(ヤハウェ)とは,文脈から,6章1節の主(アドナイ)のことだと分かります。 そして6章8節の「主」という訳語をヘブル語聖書で確認すると,6章1節と同じ「アドナイ(אֲדֹנָי)」となっていることから,6章8節の主の声は「アドナイ」,すなわち万軍の(ヤハウェ)の声=神の声だということになります。 つまり,イザヤ書6章8節の「われわれ」も神だということです。 (この箇所の「われわれ」にも天使は含まれません。 なぜなら,神はご自身を指して「われわれのために」と言っておられるからです。)

ヘブル語聖書(旧約聖書)を詳細に調べると,三位一体の議論はもう少し複雑になります。 厳密に聖書の三位一体論を学びたい方は,ページ末の参考文献に挙げたフルクテンバウム博士の『メシア的キリスト論』を読まれることをお勧めします。

次に,天地を創造された聖書の神がどのように三つの位格に区別されているのかを,新約聖書から見てみましょう。 (もちろん旧約聖書にも神の三つの位格は登場しています。 旧約聖書における「の使い」とは参照。)

そのころ,イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。 彼からバプテスマを受けるためであった。
しかし,ヨハネはそうさせまいとして言った。 「私こそ,あなたからバプテスマを受ける必要があるのに,あなたが私のところにおいでになったのですか。」
しかし,イエスは答えられた。 「今はそうさせてほしい。 このようにして正しいことをすべて実現することが,わたしたちにはふさわしいのです。」 そこでヨハネは言われたとおりにした。
イエスはバプテスマを受けて,すぐに水から上がられた。 すると見よ,天が開け,神の御霊(みたま)が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして,見よ,天から声があり,こう告げた。 「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
(『聖書 新改訳2017』マタイの福音書 3章13~17節)

この箇所の「天からの声」が父なる神,イエスが子なる神,神の御霊が聖霊なる神です。 このように,聖書の神は唯一でありつつ,父と子と聖霊という三つの位格において存在しているのです。 この三位一体こそ,正統的なクリスチャンが信仰告白している神概念です。

この三位一体という神概念は人間には理解できません。 例えば,三位一体を理解するために,水(水蒸気,水,氷)とか光(光,熱線,化学線)とか卵(殻,白味,黄味)などが例として挙げられたりしますが,それらは三位一体の例にはなっていません。 三位一体を理解するため,頭の中に何かを想像したとたんに,それは三位一体ではなくなります。 つまり,三位一体という概念を頭の中に想像することはできないのです。 それは,例えば「美」という概念そのものを想像できないのと同じことです。 三位一体は人間には理解できませんが,聖書を誤りのない神のことば(神の自己啓示の書)として信じるなら,三位一体も信じるべきです。 聖書には「三位一体」という言葉自体はありませんが,三位一体の概念はきちんと啓示されています。 また,クリスチャンは,初代教会の頃から異端との戦いにさらされてきたので,後に「三位一体」という言葉とその定義が確立することになりました。 この歴史的経緯については,中川健一牧師が分かりやすく解説して下さっていますので,ページ末の参考文献に挙げた「キリスト教の異端」を参照して下さい。 (しばしば,「三位一体論はだいぶ後になってから作られたものだ。キリスト教の初期の頃は三位一体の概念などなかった」と主張する人がいますが,それは間違いです。)

久保有政氏の間違い

クリスチャン(?)である久保有政氏は,インターネット上でも自身の三位一体論について述べています。 彼の見解は大方正しいのですが,一つ重大な間違いを犯しています。 それは,「八 ヤハウェとイエスのご関係」で,「"イエスは旧約のヤハウェご自身である"という言い方をすることは正しくない」とか,「『イエスは主(キュリオス)である』は,しばしば誤解されているが,"イエスはヤハウェである"という意味ではないので注意しなければならない。これはイエスが主権者であり,私たちの従うべき主人だ,という意味以外のものではない」と述べているからです。 彼の見解は,前述したヨハネの福音書12章41節の説明によって間違いだと分かります。

久保有政氏が証拠として挙げている聖句(詩篇110篇1節,イザヤ書61章1節,53章6節)では,父なる神と子なる神は文脈上区別して書いてあるだけです。 ただそれだけのことです。 聖書の三位一体を本当に正しく理解しているなら,久保有政氏のような間違いを犯すことはありません。

久保有政氏の主張が絶対にあり得ない確実な証拠として,イザヤ書44章6節を挙げておきます。 もし久保氏の言うように「『ヤハウェ』は父なる神の御名(みな)であり,子なる神である御子イエスのことは含まれない」のなら,イザヤ書44章6節の「わたし」は父なる神のみを指していることになり,子なる神(=御子)は含まれていないことになります。 しかし,このように考えると,彼が主張してきたキリスト論も三位一体論も破綻してしまいます。 なぜなら,イザヤ書44章6節には,(ヤハウェ)は「わたしのほかに神はいない」と仰せられたと書いてあるからです。

もう一つの決定的な証拠は,創世記2章や3章に出てくる「神である(ヤハウェ)」(『聖書 新改訳2017』参照)という言葉です。 これらの章の「神」は,原語であるヘブル語では「エロヒーム(אֱלֹהִים)」で,複数形です。 つまり,複数形で表される神(エロヒーム)=ヤハウェということになります。 次に,新約聖書,特にマタイの福音書28章19節を見てみると,「父,子,聖霊の名において彼らにバプテスマを授け,」の「名」は,原語であるギリシア語では「オノマ(ὄνομα)」で,単数形です。 つまり,神(エロヒーム)である父・子・聖霊は,「ヤハウェ(יהוה)」という同一の御名を持っておられるのです。 これで,久保有政氏の主張が間違っていることが充分に証明されたと思います。

久保有政氏について少しだけ補足説明をしておこうと思います。 彼の主張には,全く聖書的根拠がないものや,やってはいけないと明確に命じられている自分勝手な解釈(ペテロの手紙第二1章20節参照)が多く存在します。 特に,死後にセカンド・チャンスがあるとか,終末における患難期の終わり頃に携挙が起こるといった荒唐無稽な説を,聖書的根拠のある正しい考えだと言い張っています。 しかし,彼の主張を一つ一つきちんと聖書の文脈を確認しながら検討してみると,彼の主張には聖書的根拠などどこにもないことが分かります。 久保有政氏のようなおかしな主張をしている人は他にもたくさんおられるようですので,何が正しい聖書の教えなのかを皆さんが自分の頭できちんと考え,正しい判断をしていただきたいと切に願っています。 それが,いかにも偉いように思える肩書きや権威を持っている人にだまされないための最善の予防策になると思います。

エホバの証人の嘘

参考文献に挙げたエホバの証人(ものみの塔)の文章を読んでみると,おかしな点があることに気がつきます。 それは,三位一体論の正しさの根拠と考えられるマタイの福音書28章19節の「名」という言葉が,原語のギリシア語では単数形になっているということに全く言及していないことです。 これは明らかに情報操作をしていると考えられます。 エホバの証人は,このように悪質な情報操作をして,人々をマインド・コントロールしているのです。 彼らの嘘に惑わされないように注意して下さい。 三位一体の概念は,はっきりと聖書に啓示されています。

また,エホバの証人はこの文章の中で,申命記6章4節のみことばを根拠に三位一体を否定していますが,このみことばは三位一体を否定するものではありません。 申命記6章4節に書かれているとおり,神は唯一です。 また,ユダヤ教のラビの権威を持ち出していますが,そもそもラビたちは新約聖書をきちんと読んでいるのか,疑問です。 例えば,イザヤ書53章は彼らにとってよく分からない箇所だというので,会堂(シナゴーグ)で朗読する時はイザヤ書53章を読み飛ばすそうです。 このイザヤ書53章は,古くからユダヤ教のラビたちからもメシア預言だと考えられてきたのですが,現代のラビたちは,メシアのことではなくイスラエルの民を指していると,再解釈しているそうです。 しかし,旧約聖書を調べると,イスラエルの民はイザヤ書53章が言うような人物には到底当てはまりません。 にもかかわらず,イザヤ書53章はメシアではなく,イスラエルの民を指しているのだとラビたちは主張しているのです(参考文献:イザヤ53章:イスラエルの民か,イスラエルのメシアか)。 そんなラビたちの言うことに,どれほどの信憑性があるでしょうか。 クリスチャンになった元ユダヤ教徒の中には,「新約聖書にはユダヤ人を上手に殺す方法が書かれてあると思い込んでいた」と証言される人もいるのです。 ラビたちを含めユダヤ教徒は,新約聖書をきちんと読んでいないようです。 したがって,ユダヤ教のラビの主張は根拠に乏しいと言わざるを得ません。

イエスは,生まれながらのユダヤ人でしたから,その命令に従うよう教えられていました。バプテスマを受けた後,悪魔に誘惑された時,こう言いました。「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。(マタイ4:10。申命記6:13)その出来事から,少なくとも二つのことを学べます。一つは,サタンがイエスをそそのかしてエホバ以外の者を崇拝させようとしたことです。その試みは,もしイエスが同じ神の一部であったとしたら,ばかげたことだったでしょう。もう一つは,イエスが「この方だけに」と言って,崇拝すべき神はただひとりであることをはっきりさせたことです。もしイエスが三位一体の一部であったとしたら,「わたしたちに」と言ったはずではないでしょうか。
(ものみの塔 オンライン・ライブラリー,「三位一体は聖書の教えですか」,2012年)

このエホバの証人の説明にも,おかしな点がいくつもあります。 (1)エホバの証人はマタイ4:10だけを引用していますが,この箇所は4章1~11節までがひとまとまりの内容になっています。 そして9節を読むと,サタンは自分を拝むことを要求していることが明確に分かります。 なぜ「エホバ以外の者」と書いているのでしょうか。 (2)イエスが同じ神の一部とか,三位一体の一部という考えが間違っています。 エホバの証人は三位一体の意味を曲解しています。 (3)イエスはこの荒野(あらの)で,人として試みにあわれたのです。 イエスが人として試みにあわれたのは,モーセの律法を全うするためであり,最後のアダムとなるためであり,イエスを信じる全ての人を救うためでした。 (4)イエスが「わたしたちに」と言わなかった理由は,イエスはヘブル語聖書(旧約聖書)から聖句を引用しているからです。 「~と書いてある」というのが,旧約聖書からの引用を示しています。

エホバの証人の教えに惑わされないために,聖書全体の文脈をよく理解する必要があります。 異端やカルトの教えに救いはありません。 彼らが正しい三位一体論を受け入れて,救われることを願っています。

補足

以前,私は三位一体を数理的に理解することは可能ではないだろうかと考えていました。 そのように考えたのは,落合仁司著『<神>の証明 なぜ宗教は成り立つか』(講談社現代新書,1998年)という本と出会ったからでした。 しかし,この本の内容には間違いがあると考えるようになりました。 一つは,人が神に成るという,聖書から逸脱した考えをしていることです。 また,自然数や偶数が無限に存在するという考え(94~95頁),無限集合はその全体と部分が同一でありうるという考えを,私は受け入れることができません。 例えば,自然数や偶数は無限に存在するのではなく,無限に作り出せるだけです。 また,無限集合はその全体と部分が同一でありうることなどあり得ません。 あくまで1対1対応が作れるだけ,つまり「濃度が等しい」場合がありうるだけです。 濃度が等しいことと同一であることは,別です。 (このような無限に対する考えは,野矢茂樹著『無限論の教室』(講談社現代新書,1998年)から教えられました。) そして最も根本的な問題は,神を無限集合で説明しようとすることです。 このようなことは原理的に不可能だと思います。 なぜなら,神は,人間からはその始めも終わりも認識できず,さらに遍在であられるからです。 人間には,このような性質を持った無限集合を考えることはできないと思います。 したがって,神を無限集合で説明しようとする試み自体,間違っていると思います。 以上のことから,結局,三位一体を数理的に理解することは絶対に不可能だという結論に落ち着きました。

参考文献

2019年5月31日更新
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