特定の人物を「聖人」と呼ぶのは神の教えに合っているか

カトリック教会や正教会では,ある特定の人物に対して「聖人」というタイトルを付けています。 例えば,カトリック教会では日本に最初にキリスト教を伝えたザビエルを「聖フランシスコ・ザビエル」と呼び,正教会では日本に最初に東方正教を伝えた司祭ニコライを「亜使徒聖ニコライ」と呼びます。 このように,カトリック教会でも正教会でも,ある特定の人物を「聖人」と呼んでいますが,神は本当にこのようなやり方を私たちに教えられたのでしょうか。

この問題を考えるときのポイントは,神が権威を認めたのは聖書だけか,あるいは聖書以外にもあるのかという点だと思います。 結論から言うと,神が権威を認められたのは,聖書のみです。 その理由を説明します。

まず,聖書観(聖書に対する見方)について。 正しい聖書観は,「聖書は原典(原本)において,誤りのない神のことばである」というものです。 この聖書観が正しいことは,イエス様が保証しておられます(聖書が信頼できる理由参照)。 そして,聖書をよく調べると,ある特定の人物だけを「聖人(Saint)」と呼ぶのは間違っていることが分かります。

旧約聖書では,イスラエルは「聖なる国民(くにたみ)」(出エジプト19:6),「の聖なる民」(申命記7:6,14:2,14:21,26:19),「聖徒たち」(ダニエル7:18,7:21,7:22)などと呼ばれています。 新約聖書では,イエス・キリストを信じて救われた全ての人(ユダヤ人も異邦人も)が「聖徒たち」と呼ばれています(使徒9:13,ローマ1:7など)。 この「聖」を表すことばは,ヘブル語では「コデシュ(קֹדֶשׁ)」,ギリシア語では「ハギオス(ἅγιος)」と言い,聖書での第一義的意味は「神の御用のために区別されている」です。 つまり,その人の本質がきよいという意味ではないのです。

聖書には,ある特定の人物だけを「聖人」と呼ぶ教えはありません。 もし,どうしても「聖人」という言葉を使いたいのなら,救われている全ての人に対して使うべきです。 しかし,カトリック教会も正教会も,そのような使い方はしていません。 つまり,カトリック教会も正教会も,神が教えてもいないことをやっているのです。 本当に悲しいことです。

実際に,ある特定の人物を「聖人」と呼ぶことには弊害が伴います。 最も危険なのは,イエス・キリスト以上にその「聖人」のほうに関心が向いてしまうことです。 私たち人間にはそのような弱さがあります。 事実,ペテロはそのことを感じ取り,奇跡を起こしたのは自分たちではなく,復活されたイエスであることを,イスラエルの民に語ったことがあります(使徒3:1~4:31,特に使徒3:12)。 私たちは人間に注目するのではなく,私たちの主イエス・キリストに顔を向け,祈りましょう。 そうすることを,神は喜んで下さるからです。

補足:日本正教会に対する忠告

日本正教会に対して,少しだけ言っておくことがあります。 それは,伝統を守ってきた(と思っている)ことを誇りに思ってはならないということです。 日本正教会のホームページには次のように書かれています。

正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを,唯一正しく受け継いできたと自負します。
(日本正教会「正教会とは」,2019年)

しかし,聖書は次のように教えています。

「『──はこう言われる──
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。
富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者は,ただ,これを誇れ。
悟りを得て,わたしを知っていることを。
わたしはであり,
地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。
まことに,わたしはこれらのことを喜ぶ。
──のことば。』」
(『聖書 新改訳2017』エレミヤ書 9章23~24節)

「誇る者は主を誇れ。」
(『聖書 新改訳2017』コリント人への手紙 第二 10章17節)

救われること(義認)もきよめられていくこと(聖化)も,全て神の恵みによるのです(ローマ1~8章)。 よって,救われた人は何も誇ることはできません。 このことを忘れないで欲しいと思います。 正教会の信徒たちに,神の恵みと平安が豊かにありますように。

2019年5月10日公開
Copyright © 2019 Yutaka Kato All rights reserved.