ほとんどのクリスチャンは「自殺は罪だ」と考えていると思いますが,「自殺は必ずしも罪ではない」と主張する牧師もいますので,自殺は罪なのか罪ではないのかを,私の証しを交えながら,聖書に基づいて考えたいと思います。
私は1992年5月から原理研究会(統一教会の大学生専用勧誘・教育組織)のビデオ・センターに通い始め,1994年8月までの約2年間を原理研究会のメンバーとして過ごしました。 原理研究会を脱会してからは生きる意味を無くし,何度も自殺願望に駆られて苦しみました。 実際に神に祈ったこともあります。 「私を殺して下さい」と。 2010年6月に,後に洗礼を受けることになるキリスト教会の日曜礼拝に初めて参加するまで,数え切れないぐらい本気で「死にたい」と思い,苦しみ,何度か自殺しようとしました。 しかし,自殺する勇気がなく,結果的にいつも「また自殺できなかった」と落ち込んで,非常に苦しみました。 うつ病になり,精神科の薬を飲み続けるようになってからは,薬の副作用にもずいぶん苦しみました。 特に便秘と,強い腹痛を伴う下痢には,嫌というほど苦しめられました。 もう生きる希望など何もないと思っていました。 しかし,聖書を学び始めるようになり,教会の礼拝に参加するようになってからは,自殺願望は減っていきました。 教会へ行くたびに歓迎してくれる先輩クリスチャンがいたおかげだと思っています。 そして,洗礼を受ける決心をして2011年7月31日に洗礼を受け,信仰生活をしていくうちに,以前とは比べものにならないほど,自殺願望は激減していきました。 しかしながら,聖書を読んでいて,どうしても疑問を感じる聖句があり,その神の約束は本当なのだろうかと,ずっと疑っていました。 その聖句とは第一コリント10章13節です。 以下に,当時使っていた聖書からそのまま引用しておきます。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。 神は真実な方ですから,あなたがたを,耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。 むしろ,耐えられるように,試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
(『聖書 新改訳』第3版,コリント人への手紙 第一 10章13節)
なぜ私がこの聖句を疑っていたかと言うと,試練に耐えられない人が自殺するのではないのかと考えていたからです。 実際,私が味わってきた多くの苦しみは耐えられないほどのものだと思っていました。 この聖句の「脱出の道」とは,自殺のことなのではないだろうかと考えたりしていました。 そうこうするうちに,長期間に渡って精神科の薬を飲み続けたのが原因だと言われているのですが,2013年3月に右手首が勝手に反り返るというジストニアの症状の一つが現れ(この時点では医師もジストニアだとは分かりませんでした),翌年の2014年3月には口が開く「開口ジストニア」を発症しました。 この年(2014年)は私にとって忘れられない一年になりました。 特に開口ジストニアの症状は,私を耐えられないほど苦しめました。 毎日,食事が終わってから口が閉じるまで,横になって寝ていることしかできませんでした。 というのも,起きていると口から唾液が垂れるからです。 さらに,口が全開になり,両腕を使って力ずくで口を閉じようとしても無理でした。 幸い,睡眠薬を飲んで眠気を催すと口が閉じることが分かり,夜眠る時だけは口を閉じて眠ることができました。 しかし,朝起きて10分もたつと口が開いたままになり,その姿があまりに惨めなので,横になりながら泣いたこともありました。 そして何より愚かだったのは,神を激しく呪ったことでした。 私は本当に苦しみ,悲しみ,そして怒りました。 そんな日々が5か月ほど続きました。
ようやく8月末になってから,ジストニアの治療を行っている京都医療センターの専門医に診察してもらうことになったのですが,そこで信じられない奇跡(常識では考えられない,超自然的な現象)が起こりました。 真夏の暑い中を(電車を乗り継いでですが)3時間もかけて,朝から飲まず食わずのまま汗をだらだら流しながら初めての病院を訪れ,しばらく待ってから診察室に呼ばれました。 この時診察していただいたのは,歯科口腔外科の𠮷田和也先生だったのですが,いつもなら口を開いたらそのまましばらくの間(最低でも10分間,長い時は3時間以上),口は開きっぱなしの状態になっていたのに,まだ何の治療も受けていないのに,この時は最初から,口を開けてもすぐに閉じることができたのです。 しかも,言葉も以前のように明瞭に発音できました。 そんなことは私の経験上,一度もありませんでした。 それまでは,食べ物を咀嚼(そしゃく)することさえもできなくなり,毎日流動食ばかり食べていましたし(そのために体重が15kg減りました),あまりに口が全開になりすぎて,顎(あご)の付け根の筋肉に,まるで太い針がグサリと突き刺さっているかのような,とても大きな痛みがありました。 この筋肉痛は今でも完治はしていないのですが,まだ何の治療もしてもらっていない最初の診察の時に,突然普通に口を閉じることができるようになって,あまりの信じられない出来事に,戸惑いながらも,ものすごく嬉しかったのを覚えています。 この時以来,口を開けてもすぐに口を閉じることができるようになりました。 ただし,開口ジストニアの症状がなくなったわけではなかったので,二回の麻酔の注射と,二回のボトックスの注射を受けに,京都医療センターへ通いました。 開口ジストニアの治療は,2014年12月15日に二度目のボトックスの注射を打っていただいてから,ずっと効果が続いているので,それ以降は特に治療はしていません。 (ボトックスの効果は最低でも3か月持続し,中には半年とか一年も効果が持続する人がいるそうですが,私は9年経った今でも効果が持続しています。 本当に神様に感謝しています。) 一方,右手首のジストニアは,同じ京都医療センターの神経内科医の村瀬永子先生に診察していただきました。 この右手の症状はアーテンという薬を服用することで少しずつ改善してきましたが,やはり完治は無理なようです。 私は利き手が右手なので,今でも右手で文字を書いたり食事をするのに不自由があります。 しかし,これらのジストニアの体験から,私は先に引用した聖句の「脱出の道」の中には自殺は含まれていないことを,はっきりと確信するようになりました。 しかも,神の恵みは他にも現れてきたのです。 ジストニアの治療のために,それまで飲み続けてきた精神科の薬をほとんど止めることで,便秘が完全に治ってしまったのです。 食事の取り方にも注意を払うことで,強い腹痛を伴う下痢もほぼなくなりました。 本当に,神は恵み深く,真実な方であることを体験として知ることができました。 今は,第一コリント10章13節のみことばを信頼できるようになりました。 ずいぶん荒療治だったとは思いますが,神のあわれみがいかに深いのかを知ることができて,本当に神様に感謝しています。
さて,ではなぜ人は自殺するのでしょうか。 それは,生きる苦しみに耐えられないと感じるからです。 この耐えがたい苦しみは私自身,死ぬほど味わってきましたので,自殺する人の気持ちもわかるつもりです。 では,自殺は罪ではないのでしょうか。 自殺するということは,少なくとも第一コリント10章13節のみことばを知っているクリスチャンにとっては,この聖句の神の約束を信じないということを意味します。 神を信頼しないというのは罪ですから,結論として,「自殺は罪だ」ということになります。 ある人たちは,「聖書には自殺に関する明確な教えはない」と主張していますが,第一コリント10章13節のみことばから,自殺は罪だと明確にわかります。
また,聖書には「自殺は必ずしも罪ではない」という教えはどこにもありません。 ある牧師は,「モーセの十戒の『殺してはならない』(出エジプト記20章13節)という戒めは殺人の全否定ではないので,これは自殺を罪とする根拠にはならない」と主張しています。 しかし,モーセの十戒はモーセの律法の一部なので,モーセの律法で命じられている殺人の規定と調和するように考える必要があります。 (1)簡単に言うと,モーセの律法では,神のみこころに反する非常に悪い事を行った人に対する殺人だけが命じられています(レビ記20章など参照)。 自殺を許可する戒めは,モーセの律法にはありません。 (2)それどころか,モーセの律法は「自殺は罪である」ことを明確に教えています。 それを最も明確に教えている聖書箇所は申命記30章19~20節で,モーセがイスラエルに対して「あなたはいのちを選びなさい」と言っていることから,はっきりとわかります。 もし,イスラエルが「いのちを選ぶ」のなら,それは「心を尽くし,いのちを尽くし,力を尽くして,あなたの神,主を愛しなさい」(申命記6章5節,ヨシュア記22章5節参照)というモーセの律法の中で「重要な第一の戒め」(マタイの福音書22章34~40節参照)を守ることになります。 またそれは,神を信頼することであり,そのゆえにイスラエルは神によって最も祝福されると約束されています(申命記7章9~14節参照)。 神はイスラエルに約束された祝福を必ず与えて下さるお方なのです(申命記4章29~31節参照)。 したがって,イスラエルにとって「いのちを選ぶこと」は神を信頼することであり,逆に,神を信頼しないのなら「死を選ぶこと」になります。 (3)つまりモーセの律法によると,自殺は,神を信頼しない結果,犯してしまう罪だと考えられます。 (4)このことは,新約時代の今の私たちにも適用できます。 自殺は,神を信頼しないという罪です。
また,日本語訳聖書で「自殺」という言葉が出て来る箇所が2箇所ありますので,それぞれの箇所をギリシア語の原文から確認してみます。 1箇所目はヨハネの福音書8章22節で,原文の「メーティ・アポクテネイ・ヘアウトン(μήτι ἀποκτενεῖ ἑαυτόν)」を直訳すると,「まさか自分自身を殺すつもりなのか(いや,そんなことはないだろう)」となります。 (「μήτι」は否定の小辞,「ἀποκτενεῖ」は「ἀποκτείνω」の未来・能動・直説法・3人称・単数,「ἑαυτόν」は再帰代名詞・対格・男性・3人称・単数。) 2箇所目は使徒の働き16章27節で,原文の「エーメレン・ヘアウトン・アナイレイン(ἤμελλεν ἑαυτὸν ἀναιρεῖν)」を直訳すると,「まさに自分自身を殺そうとしていた」となります。 (「ἤμελλεν」は「μέλλω」の未完了過去・能動・直説法・3人称・単数,「ἑαυτόν」は再帰代名詞・対格・男性・3人称・単数,「ἀναιρεῖν」は「ἀναιρῶ (-έω)」の不定詞・現在・能動。) これらの箇所から,自殺は自分自身を殺すこと,すなわち殺人だとわかります。 そして旧約聖書でも新約聖書でも,私的な殺人はいかなる場合でも許可されていません(モーセの十戒と新約時代の戒めの関係参照)ので,結論として,「私的な殺人である自殺は罪だ」ということになります。
ところが,「何事も置かれた状況によるのであって,一律に自殺を罪とする考え方は誤っている」という反論があります。 しかし,いかなる状況に置かれていても,自殺という「自分殺し」は神を信頼しない結果,やってしまうことですから,どう考えても罪です。 もし,置かれた状況によっては自殺しても良いのなら,同じ論法により,苦しみのあまりに「殺してくれ」と懇願する相手をかわいそうに思って殺すことも許されることになります。 さらに言うと,同じ論法により,苦しみのあまりにどうしても殺意が止められない場合(誰かを殺したくて殺したくてどうしようもない場合)に人を殺したとしても許されることになります。 しかし,このような論法は聖書的なものではなく人間的なもの(神の教えより人間中心主義者の感情を優先させたもの)であり,そのような意図的な殺人は聖書では許可されていません。 (モーセの律法の規定によると,意図的な殺人を犯した者は,あわれみを受けることなく死刑に処されます。 民数記35章16~18節,29~31節参照。) このような意図的な殺人は,出エジプト記21章13節,民数記35章11節,申命記19章1~10節,ヨシュア記20章のような意図しない殺人に関する規定には該当しません。 むしろ,モーセの律法からわかることは,苦しいときでも自殺しなくて済むように,神が「逃れの場所」を用意して下さるということです。 そして,どのような苦しい状況に置かれていても,自殺しか選択肢がないように思えても,神が必ず「逃れの場所」を用意して下さる,だから神を信頼して,忍耐して神の助けを待ち望みなさい,というのが,新約時代のクリスチャンに適用できる教えだと思います。 私たちの苦しみは神がすべてご存じです。 どうか,私たちが聖書に啓示されている神の約束を完全に信頼できますように。 そして,神の平安をいただくことができますように。
いつの時代でも,自殺は神を信頼しなかった結果なので,聖書的に考えれば罪です。 そして,「置かれた状況によっては自殺しても良い(神によって罪に定められない)」という主張には,何一つとして聖書的根拠はありません。 むしろ,そのような主張は非聖書的であり,間違っています。 人はどのような状況に置かれていても,自殺してはいけません。 なぜなら,神は真実な方なので,試練に耐えられるように「逃れの場所」「脱出の道」を必ず備えていて下さるからです。 これが正しい聖書の教えです。 牧師という肩書きを持っている人の言うことを鵜呑みにせず,何が聖書的に正しい教えなのかを自分の頭で考え判断することで,自立したクリスチャンになっていただきたいと心から願っています。
終わりに,自殺を真剣に考えている人のために,聖書入門.comの3分動画の自殺についてのシリーズ(参考文献の動画)を観て,生きるための励ましを受け取っていただければ幸いです。 どうか,常に神に愛されていることを体験的に知ることで,自殺願望から解放されますように。