ある人たちは「イエス・キリスト以外にも救いの道があって良い」と考えます。 しかし,その考えには重大な問題点があります。 その問題点について簡潔に説明したいと思います。
時々,「救いに至るには,いろんな道があっても良いはずだ」と主張される人がいます。 そのような人は,救いへ至る道を「山登り」にたとえて考えていたりします。 つまり,「どの方向から登っても,最終的にはみんな山頂にたどり着くのだから,どの方向から登っても良いはずだ。 宗教もそれと同じで,どの宗教を信じても良いではないか」という考えです。
しかし,救いを山登りにたとえるのは正しくありません。 なぜなら,救われるとは天に上げられることだからです。 このことは,自分の罪深さが実感できるようになると,理解できるようになると思います。 (自分の罪については,仏教の開祖・釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)についてを参照して下さい。) 人はどんなに努力しても,どんなに修行しても,決して天に上ることはできません。 よって,人は誰かによって天に上げられるという方法でしか,救われないのです。 そして,「誰によって」救われるのか,「どのような方法で」救われるのかを教えてくれるのが聖書なのです。
聖書は,人が救われるためにはイエス・キリストに信頼を置くしか方法はないと教えています。 つまり,イエス・キリスト以外に救いの道はないと,聖書は断言しているのです。
では,「イエス・キリスト以外に救いの道はない」と主張するクリスチャンは了見が狭いのでしょうか。 この問題は,次のように考えると分かりやすいと思います。
小学校の算数で,「1+1=」という問題が出されたら,正解は「2」しかありません。 「2」以外の解答は正解とは認められません。 救いの道もそれと同じです。 つまり,「救いの道はイエス・キリスト以外にない」という主張は,了見が狭いとか視野が狭いとか心が狭いという問題ではないのです。 救いの道というのは,真理に関する事柄です。 そして,真理は排他的であるがゆえに,クリスチャンは他の救いの道を認めないのです。
最後に,聖書はどの程度信頼できるのかを示したいと思います。 以下に,聖書が信頼できる根拠を箇条書きにしてみました。 それぞれの詳細については,聖書を理解するための基礎問題集の問7の解答を参照して下さい。
これらの事実を総合的に判断すれば,聖書には比類なき信頼性があると結論づけられます。