聖書と科学の関係について

はじめに

キリスト教の聖書(特に創世記1章)を読むと,明らかに現代の科学理論とは全く異なる記述がなされています。 現代の科学理論によって導き出される結論を「科学的事実」とか「真理」だと信じ切っている人たちにとっては,聖書の記述はとても受け入れがたく感じると思います。 例えば,聖書入門.comの動画「3分でわかる聖書」#47の「今のような科学的な時代に,神が存在するとは到底信じられません。科学を信じていれば,おのずと神を信じなくなってきませんか。聖書と科学は矛盾していませんか。」という質問が,そのことを如実に表しています。 この質問の問題点は,そもそも「科学とは何か?」ということを完全に誤解してしまっていることにあります。 (ちなみに,「科学とは何か?」という問題を考える学問を「科学哲学」と呼びます。) この質問に正確に答えるには,少なくとも,論理学,哲学,哲学史,科学史,科学哲学,数学基礎論,非線形数理科学といった学問の基礎的な内容と,聖書信仰の正しさを論証できる知識が必要ではないかと思います。 そこで,この質問に正確に答えるために必要だと思われる予備知識を,以下に簡潔にまとめてみました。 (聖書の記述と現代の科学理論の食い違いについては,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~「天地創造の矛盾4:地上植物と水中動物の出現時期の間違い」も参照して下さい。)

世界観の違いは科学観の違い

聖書の神は,無から有の創造をされ(創世記1:1,ヘブル11:3),自然法則を創り(ヨブ38:33,エレミヤ33:25),被造物を保持しておられます(ヨブ38~42章など参照)。 聖書の神の御手の中に,(時間や空間や自然法則も含む)全ての被造物は存在します(出エジプト19:5,申命記10:14,ヨブ12:10,41:11,詩篇24:1,50:12,エゼキエル18:4,1コリント10:26など参照)。 つまり,聖書の神は,御心(みこころ)のままに,時間や空間や自然法則を保持することも超越することもできる,まさしく全能の神なのです(創世記17:1,18:14,ヨブ42:2,エレミヤ32:17,27,マタイ19:26,ルカ1:37など参照)。 このような聖書の神を受け入れている人と受け入れていない人では,世界観が異なるので,必然的に科学観(科学に対する見方)も異なります。

以下,説明のしやすさから,聖書の神を受け入れている人とそうでない人の二つの立場に分けて考えてみます。 聖書については,「原典において,全く誤りのない神のことば」という立場で述べました。 なぜなら,主イエスがそのことを保証しておられるからです(マタイ5:17~19,ヨハネ14:26,15:26,16:13)。 科学については,現代科学を念頭に置いて考えました。

聖書の神を受け入れていない人(相対主義者)の科学観と神観

科学とは,日常的な言葉で言うと,単に,人間が観察した自然界の現象を自分にとって都合の良いように解釈して記述するものです。 ここでの「自分にとって都合の良いように解釈する」とは,自分勝手な解釈をするという意味ではなく,必要に応じて他者の意見を取り入れ,結果として自分が正しいと考える解釈(自分が納得できる解釈)をするという意味です。

この科学観には二つの大きな特徴があります。 一つは,立てられた仮説のどのような前提にも「反証可能性」(Popper,1934)があることです。 反証可能性があるかないかで,科学とそうでないものが区別されます。

もう一つの特徴は,その理論の中にも背後にも,観測不可能な超自然的存在を考慮しないことです。 (近代科学が飛躍的に進歩した理由の一つに,それまでは哲学的思想や魔術的自然観が入り込んでいたことが挙げられます。 それらの怪しい考えを取り除き,自然を一つの機械のように見ることによって近代科学が発展しました。) 当然,その理論の中や背後に,聖書の神は存在しません。 そして,そのような科学を「真理(本当のこと,絶対不変のもの)を探究するもの」と信じてしまうと,必然的に,聖書に書かれているような被造物の創造や奇跡(自然法則を超越した現象)はあり得ないこととして片付けられます。 ゆえに,聖書は非科学的なことが書かれている本として見られ,聖書は信じる価値がないと見なされます。 その必然的帰結として,聖書の神を否定します。 しかし,最初から神の存在を否定して仮説を立て,その帰結として「神はいない」と言うのなら,その科学者は循環論法(論点先取の誤謬の一つ)に陥っていて,論理的に誤りを犯していることになります。

2001年にノーベル化学賞を受賞された野依良治氏も「科学は真理追求の営みだ」と言っておられます(2013年1月28日月曜日の中日新聞夕刊の「紙つぶて」というコラムより)が,その「真理」には変更される可能性があることを知っておく必要があります。 その「真理」という言葉は「科学的事実」という言葉で表現されることもありますが,やはり変更される可能性があります。 このことは,科学史を学ぶと理解できます。

また,論理的には後件肯定の誤りを犯しているので,ある時点で「これは全てを説明できる都合の良い理論だ」と考えても,それが絶対不変の真理であることは証明できません。 絶対不変の真理かどうかを証明できるのは,この世界の外にいる存在だけです。 このことは,ゲーデルの不完全性定理から導かれます(参考文献:高橋昌一郎著『ゲーデルの哲学』講談社現代新書,1999年)。 したがって,真理かどうかを証明できない以上,聖書の神を受け入れていない人が言う,「科学は真理を探究する営みだ」という科学観は間違っているのです。 (この場合,「真理」という言葉を「本当のこと」とか「絶対不変のもの」と理解してしまっている点で,間違いなのです。 「科学とは何か?」という問いに答えるために「真理」という言葉を使うと,多くの人が誤解してしまうので,「真理」という言葉を使って科学を説明するのは止めた方が良いと,私は思います。 誤解されないように,もっと分かりやすい言葉を使って説明するのが良いと思います。 そもそも,「科学は真理追究の営みだ」というような考えは,その人が勝手にそう信じているだけです。 実際には科学をすることで,絶対不変の真理から遠ざかってしまう場合もあります。 その典型例が,進化論の登場と発展です。 また,科学に対する人間の信念と科学自体が一致しているとは限りません。 この区別ができていない人が非常に多いように感じます。)

「科学は真理を探究する営みだ」と言われる場合に,その「科学」の考え方や「真理」の意味を正しく理解していないと,科学万能のような考え(「神抜きで,科学的に何でも説明できる」という考え)を持ち,「神など信じる必要がない」と勘違いしてしまいます。 この科学観では,ある理屈がせいぜい論理的に真であることを証明するだけに留まります。

また,科学をすることで,時代と共に,より正確な理論が作られていると,一般的には信じられています。 そのように信じている人は,神ではなく人間の力で成したと思っているので,間違いがあればその都度理論を修正し,より正確な理論を作り上げる人間をすばらしいと考えます。 まさに「人間礼讃思想」とでも言うべき考えです。 (実際に,理学博士で名古屋大学名誉教授の熊澤峰夫先生がそう考えておられました。 私が受けた放送大学の面接授業で,本人の口から直接聞きました。 先生は「人間は神より偉いんですよ」という言葉で表現されました。 これは,「神は間違いがあっても修正できないけれど,人間は間違いがあれば修正し,より良いものを作ることができる」という意味です。 先生は聖書の神のご性質を理解しておられなかったので,こんなことを言われたのだと思います。)

このような科学観を持っている人は,聖書の神のような超自然的存在を考慮しなくても,自然界の現象を(いずれ)全て説明できると信じているので,聖書の神を信じる者を,頭の悪い者と思い込んだり,理解できません。 前者の典型例は,無神論者であったイギリスの物理学者スティーブン・ホーキング博士(Stephen Hawking,1942~2018年)です。 後者の例は,先に挙げた熊澤峰夫先生で,先生は「クリスチャンの中にも科学者がいますが,なぜ彼らが科学をしているのか,分からない」と言っておられました。 また,「実際に,あるクリスチャンの科学者に質問したことがありましたが,何と答えてくれたか忘れてしまいました。その人の答えが理解できませんでした」とも言われました。

科学によって自然界の現象を全て説明できるという「信条」を持っている人を見て,ある人は「科学は宗教だ」と考えますが,それは,その人を見てそう感じただけです。 ある科学理論を「絶対間違いない」と信じているのは人間であり,科学ではありません。 彼らにとっての科学の本質は,「どのような前提にも反証可能性があること」です。 しかし,宗教は,その教えの大前提に反証可能性がありません。 もし宗教の教えの大前提に反証可能性があったら,何を信仰すれば良いのか分からなくなってしまいます。 これが科学と宗教の大きな違いです。 また,宗教は生き方の指針を与えるものですが,科学は生き方については何も言いません。 これも科学と宗教の根本的な違いです。 ある人は,科学の知識を根拠にして生き方を論じたりしますが,それ自体は哲学であり,科学ではありません。 科学と哲学は別物です。 また,「全て説明できる」ことと「知り尽くせる」ことは別の問題です。 例えば,カオス理論により,決定論的カオスの短期予測は可能であっても,長期予測は原理的に不可能であることが分かっています。 このように,非線形システムを科学的に説明できても,知り尽くすことはできないのです(参考文献:合原一幸著『カオスの数理と技術』放送大学教育振興会,1997年)。

聖書の神を受け入れている人の科学観と神観

科学の定義や方法(やり方)は,聖書の神を受け入れていない人と共通している点はありますが,自然界の現象を見る時に,聖書の記述を絶対的な真理だと信じながら見るので,聖書の記述と合致するような理論を考えます。 もし聖書の記述と一致したら,それは反証可能性のない絶対的な真理だと考えるでしょう。 あるいは,より正確な理論を考え続ける慎重な科学者もいると思います。 なぜなら,聖書は科学の教科書ではないので,細かいことは書いてないからです。 あるいは,間違った聖書解釈と作られた科学理論が一致してしまう可能性もあるので,その点は慎重な判断をすべきでしょう。

このように,聖書の記述をベースにし,科学的な方法を使って作られた理論が「創造論」と呼ばれ,そのような科学観を持つ科学者は「創造論者」と呼ばれます。

創造論者は,このように科学をすることで,神の栄光を現し(1コリント10:31),人知を超えた神の偉大さを知り,神をほめたたえます(詩篇19:1~6,ヨブ12:7~9,ローマ1:20参照)。

例えば,クリスチャンでもあったイギリスの科学者ロバート・ボイル(Robert Boyle,1627~1691年)は,機械論的自然観に基づく科学を「機械論哲学(mechanical philosophy)」と呼びました。 自然を機械と考えることは無神論に結びつきそうですが,彼は次のように答えたそうです。 「宇宙という完成された機械時計は,それ自身で動き続けることができる。 しかしそれを設計し製作したのは神である。 だから自然や宇宙の探求は,その設計者である神のすばらしい能力と栄光を確認する行為なのである。」(橋本毅彦著『物理・化学通史』放送大学教育振興会,1999年,78頁,80頁)

聖書の神を受け入れていない人から見たら,このような科学観はまともではないし,創造論は科学ではないと主張します。 なぜなら,彼らの考える科学(どのような前提にも反証可能性があるもの)とは別物だからです。 彼らにとって創造論はあくまで非科学的な考え方なので,科学を教育する学校においては創造論は教えたくないし,創造論という考え方が世の中に存在することすら教えたくないようです。 なぜなら,彼らにとって創造論は科学ではなく,宗教(のようなもの)だからです。 (ちなみに,熊澤先生は,科学史の中で創造論を教えるのが良いと考えています。 しかし,先生は,創造論は約二千年前の学説だと勘違いしておられます。 本当は,創造論はアダムまで遡ります。)

聖書の神を受け入れていない人の問題点は,第一に,聖書を理解していないことにあります。 その結果,相対主義者の視点から科学の営みをしてしまうのです。 第二に,不都合なデータを無視したり,無理のある解釈をする場合があります。 例えば,進化論(進化生物学)に大幅な変更を強いるデータが出てくると,それを無視するか,進化論を否定せずに済むような無理のある解釈をしてしまいます。 (進化については,生物学の授業で習う「進化」は事実か?を参照して下さい。)

結局の所,聖書の神を受け入れていない人が間違った科学の営みをしてしまう根本原因は,間違った世界観を持っていることにあります。 間違った世界観を持っているので,間違った科学観を持ち,間違った科学理論を作ってしまうのです。 正しい世界観(聖書の世界観)を持ち,科学をするなら,聖書と科学は矛盾しないようになります。

まとめ

私が科学について考えるきっかけを与えてくれたのは,放送大学での熊澤峰夫先生の面接授業でした。 当時の私はクリスチャンではありませんでしたが,この授業以降,私の科学観は大きく変わっていくこととなりました。 先生の文献は科学について理解するのに非常に参考になりますので,ページ末にその文献を挙げておきます。

これまで述べてきた内容が理解できれば,聖書と科学の関係について,充分な回答ができるようになると思います。 中には理解するのに難しい内容もあると思いますが,できれば,紹介した参考文献などを読んで,重要なポイントだけでも理解できるようにして下さい。 以上の私の考えを叩き台にしていただければ幸いです。

参考文献

2019年4月3日更新
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